――翌日。

 教室にハルがやって来ると、すでに俊樹は自分の机に座っていた。けれど小野俊樹はハルが姿を見せても、特に気にせず隣の友達としゃべり続けている。

 ハルは黙ったまま、自分の席に座った。

 しばらくするといつも通りの朝礼がはじまり、いつも通りに一時間目がはじまる。

 何も、変わったことは起きない。

「……?」

 アキはハルの様子を眺めながら、どうしたものかと迷っている。ハルは何だか、もう事件のことなんてどうでもよさそうな様子をしていた。

 それとも、この少年はもうすべてを解決してしまったのだろうか?

 アキは気になって、二時間目あとの長休みにハルに話しかけてみた。

「宮藤くん、もう事件のことは諦めちゃったの?」

 ハルは次の授業の準備をしていた。真面目な少年なのだ。

「ううん、違うよ」

「じゃあどうして、そんな普通にしてるの? 調べなきゃいけないこととか、あるでしょ」

「それは大丈夫だよ」

「?」

 アキは不思議そうな顔をした。大丈夫?

「もう大体のことはわかってるんだよ。あとは

「やってみるって、何を?」

 ハルはちょっとだけ、いたずらっぽく笑った。

「――魔法を」

「……?」

 アキにはもちろん、その言葉の意味はわからなかった。

 わかるはずがない。

 それが、言葉が生まれる前にこの世界にあった、とても古い力なのだということが。人が、言葉を覚えて忘れてしまった力なのだというが。

 そんなことが、わかるはずもなかった――


 アキはハルの言葉が気になって、授業中もうわのそらだった。

(魔法みたいに解決するってことかな……)

 アキにはやっぱり、その言葉の意味はわからなかった。

 時々、ハルの様子をうかがってみるが、この少年はいつもと変わらない様子をしていた。休み時間も同じで、アキにはどこも変わったところは見つけられない。

 そのまま、昼休みの時間がやって来ていた。

 生徒の大半は体育館かグラウンドに移動していて、教室の中にはほとんど誰も残っていない。

 そんな中、ハルは俊樹の机に向かっていた。

(あ……)

 アキは思わず立ちあがっている。何だかよくわからないが、ハルは何かしようとしているようだった。

 目立たないように、けれどそれにしては妙にせかせかと、アキはハルのところに歩いていく。教室に残った生徒は、二人に対しては何の注意もしていない。

「何してるの?」

 と、アキは声をかけてみた。ハルはごそごそと、俊樹の机から何かを探している。

「ちょっとね」

 アキはちょっと怪しげにその様子を眺めていた。まさか俊樹に仕返しでもするつもりで、そんなことをしているのだろうか?

 思っていると、ハルは引きだしから箱のようなものを取りだしている。それは例の、盗まれたカードが入っていた箱だった。

 アキにはハルが何をしようとしているのか、さっぱりわからない。

 ――それは、そうだ。

 まさか宮藤晴が使だなんて、誰にもわかるはずがない。

 ハルは箱を取りだして机の上に置くと、今度は自分のポケットから何かの輪っかを取りだした。それは手錠を一回り大きくしたくらいの大きさで、二重になった縁どりがからみあい、奇妙な模様が彫りこまれている。見ているだけで落ちつかなくなるような、不思議なデザインだった。

 ハルはその輪っかを、俊樹の箱を中心にするようにして置いた。

「少し集中するから、悪いけど声はかけないでね……」

 そう言うと、ハルは姿勢を正してイスに座った。

 そのまま目を閉じ、わずかに顔をうつむかせる。

「…………」

 何だろう?

 まわりの音がほんの少し小さくなって、そのかわりに別の何かがあたりを満たしていくような、そんな気配があった。それは世界のどこか裏側のような場所で、小さな揺らぎが生じはじめているような感覚だった。

 ハルの精神はどこか深いところで結ばれ、世界をほんの少しだけ変えようとしている。

 少年はごくわずかとはいえ、を変えようとしていた。それはすでに書かれてしまった物語を書きかえるような、そんな行為だった。世界を、改編してしまう。

 アキはぐるぐる目のまわるような気分になりながら、そこから目を離せなかった。今、確かに世界はほんの少しだけ、その姿を変えていた。目に見えず、手に触れられず、言葉にすることもできないけれど、確かに――世界は変化していた。

 何だかアキは、その感覚をどこかで感じたことがあるような気がした。確かつい最近、どこかで……

 けれどそのことを思い出す前に、その奇妙な感覚は消えてしまう。見ると、ハルは目を開けてさっきまでの集中を解いてしまっていた。

 アキはもう自分が何を思い出そうとしていたのかさえ、思い出せなくなっていた。

「わかったよ、カードがどこにあるか」

 不意に、ハルは言った。

「え、何?」

 まだぼんやりしていて、アキは思わず聞きかえしてしまう。わかった? 何が?

「…………」

 ハルはそれに答えず、笑顔を浮かべてみせた。


 彼女の名前は香月弥生かづきやよいといった。

 隣の一組の女子で、小さくウェーブした髪にぱっちりした黒い目をしている。柔らかな口元をしていて、優しいお姉さんという感じの少女だった。

 彼女はハルの質問に対して、

「うん、そうだよ」

 と、あっさり答えている。

「もう一度聞くけど」

 ハルは何でもなさそうな調子で訊いた。

?」

 香月弥生はそれに対して、はっきりとうなずいている。

 ハルとアキは一組の教室にいて、彼女の前に立っていた。窓際の席で、運動場からはくぐもった歓声のようなものが聞こえている。

「それって本当にそのカードだったの?」

 アキが疑わしげに訊くと、弥生は迷惑そうなそぶりも見せずにうなずいた。

「二十五のエルフィリア。四つ番でしょ。うん、間違いないよ」

 ハルにもアキにもよくわからなかったが、どうやらそれで間違いないらしい。

「カードはどこで見つけたの?」

 と、ハルは訊いてみた。

「ごみ箱の中」

 ハルの隣で、アキはよくわからないという顔をした。けれど香月弥生の様子は、特にやましいところがあるようにも、嘘をついているようにも見えない。

「見つけたのはいつ頃?」

 アキにはわけがわからなかったが、ハルは別に意外そうなそぶりもなく質問を続けている。

「昨日の掃除当番の時」

 弥生はうーん、とその時のことを思い出しながら言った。

「ごみ捨てに行ったとき、ごみ捨て場で気づいたんだ。何か見たことあるようなのが袋の中にあるなって。それで誰もいなかったから、袋を開けて調べてみたの。そしたらやっぱりスタッチのカードだったってわけ」

「それは一組のごみ袋だよね」

「うん、うちの。四つ番は珍しいから、誰か間違えて捨てたのかなって思ったけど、あとでクラスのみんなに聞いても知らなかったし。まあ捨ててあるんなら、もらっても構わないかなって」

「そのカードは、今どこに?」

「弟にあげちゃった」

 弥生はにこにこしている。

「今、ていうか、けっこう長いこと入院してて、学校にも来てないんだけどね。何かようやくコンプリートできたらしくって、とっても喜んでたの。あんなに嬉しそうにしてるの見たの久しぶりだったから、私も嬉しくって」

 彼女は本当に嬉しそうで、その笑顔にもやはり、どういう屈託もない。

「香月さんがカードを盗ったとかそういうことはないんだよね……」

 アキは訝しげに、そんなことを訊いてしまう。

「え?」

 けれど弥生は、その言葉の意味自体がわからないという表情をした。どう考えても、彼女がカードを盗んだようには見えない。

「ううん、大体のことはわかったよ」

 ハルが横から、話を切りあげるように言った。

「カードのことは気にしなくても大丈夫。弟さんが喜んだのなら、何よりだよ。大事に持っててくれればいいから」

「えと……そう?」

 香月はよくわからない顔のままうなずく。

「弟さん、早くよくなるといいね」

 最後に笑顔でそう言うと、ハルはそのまま行ってしまった。アキが慌てて、そのあとに続く。

 一組の教室を出たあたりで、

「何がどうなってるわけ?」

 とアキは質問した。

「終わったんだ」

「え?」

「だから、解決したんだ。もうこの事件はおしまいだよ」

「いや、でも、えっと……」

 カードを盗んだのは香月弥生ではなくて、カードはその弟が持っていて……それで解決?

「意味がわかんないんだけど……」

 するとハルは立ちどまって振り返り、

使

 と、いたずらっぽく言った。

「え――」

 アキは驚いて、思わず固まってしまう。だってそれは、あの時に自分が冗談で言ったセリフではないか――

 アキがその言葉の意味を聞きかえす前に、ハルはそのまま何事もなかったように行ってしまう。

 わけもわからずに、アキはその場に佇んでいた。

 けれどハルが言ったように、確かにこれは――

 魔法の事件だったのである。

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