6
――翌日。
教室にハルがやって来ると、すでに俊樹は自分の机に座っていた。けれど小野俊樹はハルが姿を見せても、特に気にせず隣の友達としゃべり続けている。
ハルは黙ったまま、自分の席に座った。
しばらくするといつも通りの朝礼がはじまり、いつも通りに一時間目がはじまる。
何も、変わったことは起きない。
「……?」
アキはハルの様子を眺めながら、どうしたものかと迷っている。ハルは何だか、もう事件のことなんてどうでもよさそうな様子をしていた。
それとも、この少年はもうすべてを解決してしまったのだろうか?
アキは気になって、二時間目あとの長休みにハルに話しかけてみた。
「宮藤くん、もう事件のことは諦めちゃったの?」
ハルは次の授業の準備をしていた。真面目な少年なのだ。
「ううん、違うよ」
「じゃあどうして、そんな普通にしてるの? 調べなきゃいけないこととか、あるでしょ」
「それは大丈夫だよ」
「?」
アキは不思議そうな顔をした。大丈夫?
「もう大体のことはわかってるんだよ。あとはやってみるだけだ」
「やってみるって、何を?」
ハルはちょっとだけ、いたずらっぽく笑った。
「――魔法を」
「……?」
アキにはもちろん、その言葉の意味はわからなかった。
わかるはずがない。
それが、言葉が生まれる前にこの世界にあった、とても古い力なのだということが。人が、言葉を覚えて忘れてしまった力なのだというが。
そんなことが、わかるはずもなかった――
アキはハルの言葉が気になって、授業中もうわのそらだった。
(魔法みたいに解決するってことかな……)
アキにはやっぱり、その言葉の意味はわからなかった。
時々、ハルの様子をうかがってみるが、この少年はいつもと変わらない様子をしていた。休み時間も同じで、アキにはどこも変わったところは見つけられない。
そのまま、昼休みの時間がやって来ていた。
生徒の大半は体育館かグラウンドに移動していて、教室の中にはほとんど誰も残っていない。
そんな中、ハルは俊樹の机に向かっていた。
(あ……)
アキは思わず立ちあがっている。何だかよくわからないが、ハルは何かしようとしているようだった。
目立たないように、けれどそれにしては妙にせかせかと、アキはハルのところに歩いていく。教室に残った生徒は、二人に対しては何の注意もしていない。
「何してるの?」
と、アキは声をかけてみた。ハルはごそごそと、俊樹の机から何かを探している。
「ちょっとね」
アキはちょっと怪しげにその様子を眺めていた。まさか俊樹に仕返しでもするつもりで、そんなことをしているのだろうか?
思っていると、ハルは引きだしから箱のようなものを取りだしている。それは例の、盗まれたカードが入っていた箱だった。
アキにはハルが何をしようとしているのか、さっぱりわからない。
――それは、そうだ。
まさか宮藤晴が本当に魔法を使おうとしているだなんて、誰にもわかるはずがない。
ハルは箱を取りだして机の上に置くと、今度は自分のポケットから何かの輪っかを取りだした。それは手錠を一回り大きくしたくらいの大きさで、二重になった縁どりがからみあい、奇妙な模様が彫りこまれている。見ているだけで落ちつかなくなるような、不思議なデザインだった。
ハルはその輪っかを、俊樹の箱を中心にするようにして置いた。
「少し集中するから、悪いけど声はかけないでね……」
そう言うと、ハルは姿勢を正してイスに座った。
そのまま目を閉じ、わずかに顔をうつむかせる。
「…………」
何だろう?
まわりの音がほんの少し小さくなって、そのかわりに別の何かがあたりを満たしていくような、そんな気配があった。それは世界のどこか裏側のような場所で、小さな揺らぎが生じはじめているような感覚だった。
ハルの精神はどこか深いところで結ばれ、世界をほんの少しだけ変えようとしている。
少年はごくわずかとはいえ、この世界の成り立ちそのものを変えようとしていた。それはすでに書かれてしまった物語を書きかえるような、そんな行為だった。世界を、改編してしまう。
アキはぐるぐる目のまわるような気分になりながら、そこから目を離せなかった。今、確かに世界はほんの少しだけ、その姿を変えていた。目に見えず、手に触れられず、言葉にすることもできないけれど、確かに――世界は変化していた。
何だかアキは、その感覚をどこかで感じたことがあるような気がした。確かつい最近、どこかで……
けれどそのことを思い出す前に、その奇妙な感覚は消えてしまう。見ると、ハルは目を開けてさっきまでの集中を解いてしまっていた。
アキはもう自分が何を思い出そうとしていたのかさえ、思い出せなくなっていた。
「わかったよ、カードがどこにあるか」
不意に、ハルは言った。
「え、何?」
まだぼんやりしていて、アキは思わず聞きかえしてしまう。わかった? 何が?
「…………」
ハルはそれに答えず、笑顔を浮かべてみせた。
彼女の名前は
隣の一組の女子で、小さくウェーブした髪にぱっちりした黒い目をしている。柔らかな口元をしていて、優しいお姉さんという感じの少女だった。
彼女はハルの質問に対して、
「うん、そうだよ」
と、あっさり答えている。
「もう一度聞くけど」
ハルは何でもなさそうな調子で訊いた。
「君がカードを見つけたんだね?」
香月弥生はそれに対して、はっきりとうなずいている。
ハルとアキは一組の教室にいて、彼女の前に立っていた。窓際の席で、運動場からはくぐもった歓声のようなものが聞こえている。
「それって本当にそのカードだったの?」
アキが疑わしげに訊くと、弥生は迷惑そうなそぶりも見せずにうなずいた。
「二十五のエルフィリア。四つ番でしょ。うん、間違いないよ」
ハルにもアキにもよくわからなかったが、どうやらそれで間違いないらしい。
「カードはどこで見つけたの?」
と、ハルは訊いてみた。
「ごみ箱の中」
ハルの隣で、アキはよくわからないという顔をした。けれど香月弥生の様子は、特にやましいところがあるようにも、嘘をついているようにも見えない。
「見つけたのはいつ頃?」
アキにはわけがわからなかったが、ハルは別に意外そうなそぶりもなく質問を続けている。
「昨日の掃除当番の時」
弥生はうーん、とその時のことを思い出しながら言った。
「ごみ捨てに行ったとき、ごみ捨て場で気づいたんだ。何か見たことあるようなのが袋の中にあるなって。それで誰もいなかったから、袋を開けて調べてみたの。そしたらやっぱりスタッチのカードだったってわけ」
「それは一組のごみ袋だよね」
「うん、うちの。四つ番は珍しいから、誰か間違えて捨てたのかなって思ったけど、あとでクラスのみんなに聞いても知らなかったし。まあ捨ててあるんなら、もらっても構わないかなって」
「そのカードは、今どこに?」
「弟にあげちゃった」
弥生はにこにこしている。
「今、ていうか、けっこう長いこと入院してて、学校にも来てないんだけどね。何かようやくコンプリートできたらしくって、とっても喜んでたの。あんなに嬉しそうにしてるの見たの久しぶりだったから、私も嬉しくって」
彼女は本当に嬉しそうで、その笑顔にもやはり、どういう屈託もない。
「香月さんがカードを盗ったとかそういうことはないんだよね……」
アキは訝しげに、そんなことを訊いてしまう。
「え?」
けれど弥生は、その言葉の意味自体がわからないという表情をした。どう考えても、彼女がカードを盗んだようには見えない。
「ううん、大体のことはわかったよ」
ハルが横から、話を切りあげるように言った。
「カードのことは気にしなくても大丈夫。弟さんが喜んだのなら、何よりだよ。大事に持っててくれればいいから」
「えと……そう?」
香月はよくわからない顔のままうなずく。
「弟さん、早くよくなるといいね」
最後に笑顔でそう言うと、ハルはそのまま行ってしまった。アキが慌てて、そのあとに続く。
一組の教室を出たあたりで、
「何がどうなってるわけ?」
とアキは質問した。
「終わったんだ」
「え?」
「だから、解決したんだ。もうこの事件はおしまいだよ」
「いや、でも、えっと……」
カードを盗んだのは香月弥生ではなくて、カードはその弟が持っていて……それで解決?
「意味がわかんないんだけど……」
するとハルは立ちどまって振り返り、
「犯人は魔法使いだったんだ」
と、いたずらっぽく言った。
「え――」
アキは驚いて、思わず固まってしまう。だってそれは、あの時に自分が冗談で言ったセリフではないか――
アキがその言葉の意味を聞きかえす前に、ハルはそのまま何事もなかったように行ってしまう。
わけもわからずに、アキはその場に佇んでいた。
けれどハルが言ったように、確かにこれは――
魔法の事件だったのである。
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