四月も終わり頃とはいえ、体育館は薄暗く、冷えびえとしていた。窓の外がぽかぽかと暖かな陽射しに包まれているだけに、冷蔵庫に入れられた野菜のような気分になる。

 生徒たちは冷たい床に座って、ひそひそとしゃべりあっていた。どこかで山羊がひっそりと紙を食んでいるような、不思議な雰囲気だった。

 水奈瀬陽みなせあきはこの時、ハルのすぐ横に並んでいた。同じマ行だから、偶然そうなったのである。けれど、もしそれが何かの都合で少しでもずれていたら、このあとの話はずいぶん変わっていたのかもしれない。

 少しして、壇上に丸い眼鏡をかけ、髭を生やした男がのぼった。校長である。体育館のざわめきがゆっくりと静まっていった――

 マイクのスイッチが入れられ、キーンというハウリング音が響く。咳払い。

 全校生徒、沈黙。

 校長は挨拶すると、今日の全校集会の説明に入った。それは生徒の一人である女の子が交通事故にあって、亡くなったことに関するものだった。三年一組の結城可奈ゆうきかなさん。

「大切な命が失われたのです。なくなったものは、もう二度と戻ってきてはくれません。みなさんはお父さん、お母さん、まわりのいろいろな人、そのすべてに深く愛されて育てられてきました――」

 かすかな泣き声が聞こえた。たぶん、友達が泣いているのだろう。

 校長の話はいつまでも続いた。

 そのあいだ、アキは口を閉じて、あくびをかみころしていた。どうもこういう話は苦手である。どれだけ厳粛でショックな話でも、結局は知らない人間の話だった。どうしても途中で眠くなってしまう。

(……あれ?)

 けれどふと、アキは何だかおかしなことに気づいた。何か、音のようなものが聞こえた気がしたのである。振動、とでもいうか。

 あらためて校長の話に注意してみるが、そうではない。校長は相変わらずの調子で話を続けていた。

 でも何かが、おかしいのだ。それが何なのか、アキにはわからなかった。頭をまわして、あたりの様子をうかがってみる。

(えと、宮藤、何だっけ……?)

 アキはすぐ隣の、その少年の様子がおかしいことに気づいた。けれどすぐには、何がおかしいのかわからない。ほかの誰も、そのことに気づいていなかった。

 はた目には、少年はうつむいて、まるで眠っているだけのようにも見える。けれどよく見ると、その手が小さく震えていた。目も、下を向いたまま虚ろに開いている。

 アキはその肩をつっついて、ねえ、と小さく声をかけてみた。

 返事がない。

「…………」

 三秒ほど考えてから、アキは目立たないように立ちあがり、担任のところまで相談に行ってみた。宮藤くんの具合が悪いみたいなんです、と言うと、葉山美守はいっしょにハルのところに行き、具合を尋ねた。けれどやはり、この少年は返事をすることもできないようだった。

 少し考えて、葉山はアキにハルを保健室まで連れていってもらうことにした。たぶん、軽い貧血か何かだろう。少し休めばよくなるに違いない。

 アキはうなずくと、ハルをゆっくり立たせて、保健室に向かった。少年は本当に具合が悪そうで、表情が青ざめている。肩を貸すと何とか自力で歩けるようだったが、その足どりはひどくおぼつかない。

 アキは黙ったまま、とにかく足を運んだ。あまりスピードは出せないし、慎重に歩かなければならない。

 体育館を出ると、途端に校長の声は小さくなって、しんとした空気が体を圧迫している。誰もいない校舎は、必要以上に静かな感じがした。

 アキは歩きながら、

「大丈夫?」

 と、一言だけ訊いてみた。

 答えないかと思ったが、ハルは無理やり顔をあげる感じで、

「ちょっと、まずいな……」

 と短く口にしている。弱々しさのわりには、それは冷静で、分析的な口調だった。少なくともこの少年は、自分の状態を正確に把握しているらしい。

「こんなにひどくなるなんて、はじめてだ……」

 顔をしかめながら、珍しい現象でも目にするようにして言った。

「――もうすぐ保健室だから、しっかりね」

 そのセリフの不自然さには気づかず、アキはハルを励ましている。保健室はすぐそこだった。

「失礼します」

 がらがらと保健室の扉を開けて、アキは言った。けれどそこには誰もいない。運悪く、保健医の先生は席をはずしているらしかった。

「む……」

 アキは立ちどまったが、とりあえずハルをベッドにまで運ぶのが先だった。二つ並んだベッドの、手前のほうに寝かせる。

「たぶん、先生がそのうち来るから……具合は、大丈夫?」

「大丈夫、だと思う。ありがとう、運んでもらって」

「体は大事にしなくちゃね」

 アキはさっきの校長を真似て、神妙そうに言ってみた。

「君はお父さん、お母さん、いろんな人に愛されているんだからね。決して軽々しく考えて、お父さんやお母さんを悲しませては」

「――母親はいないんだ」

「…………」

 アキは黙ってしまった。「えと……」とつぶやいたきり、あとが続かない。

 空気が重かった。

 こういうのは予想外で、アキは何と言っていいかわからなかった。両親の片方がいないというのは、ひどく不都合な感じがした。まるで、世界が故障してしまったように……

 そのままアキが固まったように黙っていると、いきなり音がして扉が開いた。アキはびくっとしたが、たんに保健の先生が帰って来ただけのことである。

 アキはほっとしたように先生のところに行って、手短に事情を説明した。もういいからあなたは戻りなさい、と言って養護教諭はベッドのほうに移動する。

「……失礼しました」

 言って、アキは保健室をあとにする。

 最後に扉を閉める前に、アキはハルの様子をうかがってみた。

 けれど白いカーテンの向こうに隠れていたせいで、その少年がどんな顔をしていたのかは、わからないままだった。


 ハルが教室に戻ってきたのは、結局一時間目の休み時間が終わった頃である。全校集会はとっくに終わってしまっていて、十五分ある休憩時間ももうほとんど残っていない。

 保健室のベッドに横になっていたおかげで、体調はすっかり元に戻っていた。顔色も普通である。少し眠ったので、朝からの薄い眠気もなくなっていた。

 ハルはごく普通に歩いてきて、教室の扉を開けた。休み時間も残り少ないせいで、廊下の外にクラスメートの姿はない。

 そのことに、ハルは特に何の予感も感じてはいなかった。

 けれど――

 その扉を開けた瞬間、確かにハルはこのに巻きこまれてしまっていたのである。

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