第六章 ヴィクティム

   一

 宇宙という広大すぎる空間に対し、地球の大海原で生まれた用語を転用した言葉は多い。

 暗礁―――海水面下に無数の岩石や珊瑚礁が存在すため船の座礁を招くとして、船乗りたちに危険視された領域を指す言葉である。

 真空という言葉から、宇宙を何も無い空間と認識している者は多い。だが実際には、空間が広大すぎて圧倒的に密度が不足しているだけのことで、空気もあれば水さえも存在する。

 それどころか、密度の濃い大気による遮蔽が無いため宇宙空間は強力な電磁波や放射線のみならず、岩石や氷塊が弾丸以上の速度で飛び交う危険極まりない空間なのだ。それも広大な宇宙の事ゆえに、艦船どころか小惑星サイズの石くれと出会うことも稀ではない。

 星々が互いの重力や引力によって一定の軌道を公転しているように、漂い流れる宇宙の塵にも特定の流れや淀みといったものがあり、吹き溜まって密集する領域が無数に点在する。

 過去の水夫たちに倣い、暗礁領域と呼ばれている巨大な岩塊群―――アステロイドと名づけられた小惑星たちが密集する領域の一つに、航宙巡洋艦ソードフィッシュは身を潜めていた。

 艦の十数倍にもなる小惑星へ錨を打ち込んで船体を固定し、そこから直線距離にして200kmほど離れた場所に存在する、全長30キロ程にもなる歪な卵型をした小惑星へ観測機器のアンテナを振り向けていたのだ。

 目標の小惑星は人為的に改造され、要塞化された木星軍の基地の一つだ。木星圏航路の監視と、中央側へ向かう艦船の中継を目的とした小規模の輸送基地である。

 そんな基地にグレイティガーが寄航してから、20時間あまりが経過していた。追っ手を警戒し、増援要請や基地周囲の索敵強化を懸念していたものの、拍子抜けするほど動きが無い。ここから先は完全に木星圏の領域となるため、補給や援護も無しに単艦でこれ以上追撃は難しい。状況によっては損耗度外視で決戦を仕掛けることも視野に入れる必要があるだろう。

 ソードフィッシュの名の通り太刀魚を思わせる細く長い艦体上部に突き出た楕円柱形の艦橋で、艦長シートに座すライトニングは、思案げに手の中の指揮杖を弄んでいた。

 一段低くなった前周囲には、六角形のタクティクス・モニターテーブルを取り囲む形で、ユニット式のコントロールシートが七つ設置されている。それぞれのシートには彼と同じく真っ白な軍服姿の部下が、操作パネルとディスプレイに埋もれるようにして座していた。

 緊張の雰囲気は薄い。監視している基地に動きはなく、ひそかに潜入させた者の情報から目標があと3日は動けないことが知らされていたからだ。ライトニング側としても先日の損耗に対する修理と整備に時間がかかることもあったため、最低限の索敵と基地監視の人員以外には交替で休息を取るよう指示していた。

「もうすぐ木星圏、か」

(地球を発ってから2年。思えば、遠くまで来たものだ)

 胸中でつぶやき、これまでのことを反芻する。

 中央からの密命により、彼が部下を連れて中央圏を出発してから2年が経過していた。

 司令官にライトニングが選ばれたのは、若きエリートとして上層部の信任が厚かったこともあったが、何より幻想機のパイロットとなる資格を持っていたからにほかならない。

(幻想機マイセルフ……あんなバケモノの器に関わったのが運のつき、か)

 幻想機のパイロットたる資格。

 その詳細はライトニングにさえ知らされてはいないが、彼にとってそれはどうでもよいことだった。

 上層部から与えられた幻想機による後方攪乱任務には、木星圏コロニーの軍事施設および政府要人の暗殺までもが含まれているが、彼にとってはそれもの用事にすぎない。

(ハレーが乗ってきたユニットは9号機のものだった。と、いうことはもう一機の方だったか。ヤツめ。どこまでもわずらわせてくれる)

 ライトニング個人が求める物もまた幻想機であり、その破壊であったのだ。

 ただレイジたちと違う点は、その破壊対象が特定の一機のみであり、残る機体を中央の戦力とすること自体には異論が無いこと。そして彼自身の主観としても、テレパシストの存在は人類の大多数である中央を揺るがす危険因子であり、排除殲滅するべき敵対勢力であると認識していることだった。

「ヒュエル少佐」

 思索へ没頭するライトニングの背に、ローレルの呼び声がかかった。細い肢体を宙で滑らせながらライトニングの傍らへと降り立ち、軍靴を鳴らして敬礼する。

「ご命令どおり、アンディ・ハレーを格納庫へ案内いたしました」

「ご苦労。それで、どうだ?」

「はっ。彼により9号機は起動に成功。現在、調整作業を行っております。整備長によれば、あと二日ほどで実戦も可能とのことです」

「ほう? さすがにバイオコンピューター無しだと早いな」

「ええ。1ヶ月近くを要する同調調整をはぶけますから」

 ブラッディ・ティアーズ操縦にはテレパシストであることが絶対条件である。

 ブラッディ・ティアーズが宇宙における空間戦闘において無敵を誇れるのは、ひとえに超感覚能力による敵機の察知能力と、常人の数倍にもなる空間把握能力のフィードバックからなる驚異的な反応速度に由来するからだ。また、SSTシールドにテレパシスト特有の脳波が不可欠なこともある。

 そう。真に脅威なのはテレパシストであって人型機動兵器そのものではない。テレパシストという特殊条件さえ絡まなければ、戦闘機にでも乗せた方が余程高い戦闘力を発揮できるだろう。

 だが、通常の戦闘機とブラッディ・ティアーズとでは結果として戦闘力に開きがありすぎた。

 そう。必要なのは、”ブラッディ・ティアーズ”なのだ。

 その強力なる機動兵器を手に入れるために、中央は恐ろしい手段で中央製ブラッディ・ティアーズ部隊を作り上げた。

(バイオコンピューター、か。笑えん冗談だ)

 中央製ブラッディ・ティアーズには特殊なシステムが組み込まれている。それは、FREとパイロットとの間にテレパシー機能を持ったバイオコンピューターを置き、それと精神を同調させることで擬似的にテレパシー能力を操らせるというものであった。

 数度に及ぶ脳手術と、脳内に放たれたナノマシンによって共振レベルにまで脳波を相似させたパイロットと同調し、機体との仲立ちをする疑似感応システム―――バイオコンピューター“ヴィクティム”だ。

 バイオコンピューターといえば聞こえはいいが、それはテレパシストの脳髄を加工したものである。材料には十年前、サンプルとして捕獲されたテレパシスト達が使われ、研究開発の犠牲となったテレパシストは二百人を越えたという。

 犠牲者ヴィクティムの名の通り、バイオコンピューターとは実験に供され、兵器の一部として組み込まれたテレパシストたちの成れの果てなのだ。

 そしてそんな彼らと同調し、ブラッディ・ティアーズに搭乗しうるパイロットの資格とは、言うまでもないだろう。彼らは、その遠き血縁たちなのである。

 その事実への皮肉を込めて、開発者たちは地球製の人型機動兵器にも”ブラッディ・ティアーズ”の名を冠した。血塗られた絆でつながれた兵器と、その事実を知らぬまま中央の尖兵として”異能の侵略者インベイダー”たちと戦っているパイロットたちへの痛烈な蔑みを込めて。

 これが、中央製ブラッディ・ティアーズの真実である。

 そしてさらにパイロットたちは神経の情報伝達能力を引き上げる薬物を投与され、常人の2倍近い反応速度をもって、テレパシストを乗せた木星圏製BTにさえ劣らぬ戦闘能力を発揮するのだ。

「ですが、よろしいのですか?」

 渡された報告書に目を通すライトニングへ、ためらいがちにローレルが口をひらく。

「何がだ?」

「幻想機に生粋のテレパシストを乗せることを、です。かつてのレイジ・トライエフと”テンザネス”のように、暴走する危険が高すぎます」

「……そのときは私が止めてやるさ。私の幻想機コールドアイで今度こそ、な」

 厳しい表情のローレルを鋭い眼差しで睨み上げ、ライトニングは苦々しく言い捨てた。



   二

 奇妙な懐かしさをアンディは感じていた。

 なぜだろう。と自問してみる。

 地球から来た人間と会えたからか? 地球の船に乗っているからか?


 それとも――


「―――地球のBTに乗っているから、か?」

 口の中だけで呟き、うつむく。

 まっくらなコクピット正面ディスプレイはブラックアウトしており、パネルや計器が放つ色とりどりの蛍光が、うっすらとシートに座すアンディを照らし上げていた。


 と―――。


 ヘッドアップディスプレイから電子音が上がった。

 メッセージパネルが伝える外部からの呼び出しに、正面ディスプレイの灯を入れると、ケーブルや配管がツタのように這う灰色の壁を背に宙を飛び交う整備兵達の姿が映しだされた。

 それとともに外部との通信回線が接続され、覇気に満ちた野太い声がコクピット内へ響く。

『外部モニター用のケーブルを接続したぞ。どうよ、ちゃんと映っているか?』

「あぁ。今、システムがセンサー関係の補器類と通信チェックをしている」

『よしよし。それが終わったら休憩にしよう。三時間もこもりっぱなしはキツイだろ』

「了解」

 硬い表情でのやりとりに息をついて、アンディは肩の力を抜いた。固定具はしていないが、左手がファンクショントリガーに固定され続けているためだろう。左肘の辺りに少し、強張りを覚えていた。

(”マイセルフ”……ねぇ)

 病室で目を覚ましてからすぐに、アンディはローレルに格納庫へと連れ出された。道すがら、大体の事情は説明されたが不可解なことも多い。たとえばこの、マイセルフという機体のことだ。

「作った奴は何を考えてたんだろうな。こんな、ふざけた仕様に意味あるのか?」

 パイロットの搭乗か至近距離での同席なしでは起動はおろか、点検用ハッチ一つ開けることも難しいのだという機体の、もはや見慣れた内装をゆっくりと見回して吐き捨てる。

「木星軍のスパイが奪取した数機の新型機動兵器と、そのコクピットユニットを奪還し、機密の漏洩を防ぐために派遣された、か」

 アンディにローレルから説明されたのはそれだけだった。あえて知ろうとも思わない。アンディにとって重要なのは、自分が地球へ帰れるのかどうかだけだからだ。

 マイセルフに搭乗することに同意したのも、彼らが地球へ帰還する際に切り捨てられないよう、必要とされる立場についておく為だった。たとえそれが、かつての親友と戦うことにつながっていたとしても。

「そして犯人は、レイジ・トライエフ」

 ゴーグルで目元を隠した少年を思い浮かべる。どこかで会ったような。見知った誰かに似ているような。そんな印象を覚えた少年とは数度、言葉をかわしただけだったが、とてもそんなことをしでかす人間には思えなかった。

 恐らくは、まだ隠されている真実があるのだ。だがしかし、当然のことではある。アンディはまだ、完全に信用されるだけの何をも似、彼らに示せてはいないのだから。

「真実なんかはどうだっていい。それで地球へ帰れるっていうのなら、なんだってやるだけだ。どれだけ、誰を裏切ることになったって俺は、必ず地球へ帰らなきゃならないんだからな」

 解放されたコクピットから、無重力の宙を泳いで整備場へと降り立つ。

 着地の寸前、靴底のマグネットが鉄の床板に引きついて硬い音をあげた。少しコツはいるものの、軽い磁力によって無重力下での艦内歩行を補助する仕掛けだ。

 艦内におけるこういった仕掛けは、木星軍では、あまりみられない。無重力に慣れた木星圏の人々と違い、常に地へ足を着けた生活をしている中央圏との生活習慣の差なのだろう。無重力環境であっても、どこか地に足を着けた立ち居振る舞いを求めてしまう意識が、その差を生み出しているのかもしれない。

「地球、か」

 なかば無意識に、右手がパイロットスーツのポケットからタロットカードのケースを取り出していた。

 半透明のケースを透かして見えるそこから一枚のカード―――”死神”がアンディをあざ笑うかのように見つめている。

「わりぃ。みんな」

 いまだ尾を引く裏切りの余韻を振り払うかのように、アンディはカードケースを歩み寄ったダストシュートへと放り捨てるのだった。




   三

「どうです? バリアスとザンサスのミキシングですから、さしずめ”バリサス”といったところでしょうか」

「同じシェイド社製じゃからな。パーツのすり合わせは簡単じゃったわい」

 得意げに振り返るキースの横でルークがフンと鼻を鳴らす。

 そこには急ピッチで組み上げられたブラッディ・ティアーズが一機、ハンガーに固定されて起動の時を待っていた。

 大破したザンサスのボディにバリアスのパーツを組み込んだそれは、さらに異様な風体を成している。

 スラスターだった両腕の先はノズルからレーザーキャノンの砲口となり、前部副腕は基部ごと、後部副腕は手先が取り払われて盾が固定されていた。腰部には腕分の推力をカバーするためにアタッチメント式のバーニアが即席のブラケットで無理やり固定してある。そんな機体のあちこちで、傷跡のように残る溶接・溶断痕が生々しい。

 空間戦闘どころか、スラスターの全開噴射一発で空中分解しそうにすら見えるソレを前に、優人とアルのこめかみを冷たい汗が伝い落ちた。

「なんだか……もはやBTではないってカンジだ―――いたッ」

「なにがバリサスだよ。ボロサスの間違いじゃ―――ってぇ~ッ」

 唖然とする優人。口を尖らせるアルの頭にルークの拳骨が落とされた。

 頭を抱えてしゃがみこむ二人を一瞥し、特大スパナを右肩にかついだルークが怒鳴る。

「みてくれで判断するんじゃないわい! 急ごしらえじゃが、こいつの性能はワシの折り紙つきじゃぞ!?」

「だから不安なんだっつーの」

 ボソリ呟いたアルがカエルのようなうめきを上げてつぶれた。背後からアルの背中を蹴り飛ばしたキースがファイルで顔を覆って天をあおぎ、後頭部を踏みつける。そしてグリグリと踏みにじりつつ、芝居がかったしぐさで目端をぬぐってみせた。

「僕は悲しいですよ、アル君。艦船ファンの君ともあろう者が、この機能美あふれる美しさを理解できないなんて」

 どこかで聞いたセリフとともに、うっとりとした表情でバリサスの脚部装甲をなでるキースの足をはねのけ、アルが怒鳴り返した。

「俺はファンであってフェチじゃねぇ! いっしょにすんな変態ッ!!」

「へ、変態? 私が?」

「ヘんッ。自覚がねぇなら教えたらぁ。こんの、変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態!!!!! ……ぜはぁ」

 一息に言ってのけ、苦しげに肩を上下させるアルの前でキースの顔が見る見る赤く染まっていく。

「……どうやら、君とは一度ゆっくりと話し合う必要があるようですね」

 どんよりと胡乱な眼差しを向け、声だけは冷静にキースが口を開いた。歩み寄ろうとした先で、危険を察知したアルが飛び上がる。

「おや? どこへ行くんです。同期同士、親睦を深めようじゃありませんか」

 一目散に後方へ駆け出してゆくアルを追い、キースも走り出す。落ち着いた科白と対照的に頬は紅潮し、こめかみに浮き出た血管はヒクついていた。

「く、来るな! 来るんじゃねぇ!!」

「悲しいこと言わないでくださいよ。マイフレンド」

「い、いや! やめて! 来ないでぇぇぇッ」

「げっへっへっへ。おぜうさん―――って、なにを言わすんですか!」

「やっぱ変態じゃねぇか。クソキース!」

「……怒ってない。怒っていませんよ。私は温厚ですから。クールな男ですから。そう……怒ってなんかいないんです。だから止まりなさい。怒ってなんかいませんから。全ッ然、怒っていませんから。ほら、止まりなさい。つか止まれ。止まれやゴラァ!!!!」

「ひえぇぇぇぇぇ!!!!」



   *   *   *   *   *



「……まったく。ようやるわい」

 騒々しくも子供じみた二人を横目に、げんなりとルークがもらす。

 周囲にはすっかり人だかりができており、中には勝敗を賭けて盛り上がっている者達もいる有様だった。

「まあ、あれは放っておくとして、バリサスじゃがの」

「はい」

「怪我しているトコ悪いが機体の実調整をするんでな。ちょっと乗ってみてくれんか?」

 言ってルークが人差し指ほどの金属棒を差し出す。コンピューター用のメモリースティックだ。

「シミュレーションでベースデータは作成してある。あとはおまえさんのセンスで微調整するだけじゃ」

「わかりました」

 メモリースティックを受け取りながら作業用リフトへ飛び乗ると、優人はバリサスの胸郭に向けて上昇させていった。




   四

 休息の時間は平穏のまま流れ、それぞれが、それぞれなりに気持ちの整理をつけかけていた。

 優人は親友の裏切りを忘れようとするかのようにバリサスの調整作業へ没頭し、ミユキはエルとともに艦へ新設された通信・管制設備の講習とテストで忙殺されていた。

 そんな中でアルはといえば、ドカトが残した訓練メニューを黙々とこなす日々を重ねている。

「は~ぁ」

 引き出されたシミュレーションシートに座したまま、アルはだらしなく両足を脇に投げ出すと、背をズリ落としてため息をついた。

 あと12時間後には再びグレイティガーは木星圏を目指して出港する。アル達士官には4時間後、艦のブリーフィングルームで行われる仕官ミーティングに出席することが伝えられていた。

「あ~ぁ」

 幾度目かの声を上げ、けだるそうに伸びをする。

 天井の蛍光灯を見上げ、ぼんやりと思う。

(俺って、こんなにビビリだったんだなぁ。まぁ、知っていたけどッ)

 まぶたの裏でチラつくドカトの死に、重なる自分の死のイメージが耐え難い恐怖となってアルの背筋を冷やしてやまなかった。

(うぅ……やべぇって、俺。もうちょっともすりゃあ、本チャンだってのに)

 調子のいい言葉で誤魔化していても、いざとなると尻込みして半分も実力を出せない自分を、これまで幾度罵ってきただろうか。

 そのたびに惨めな思いをして、だからもう矢面に立つことはすまいと整備兵を志願していたはずだったのに、気づけばまた足をすくませ立ち尽くしている。

(だいたいテレパシーなんてモン、誰が欲しがったっていうんだ)

 FRE不調により艦員たちの感情と同調してしまった瞬間の、形容しがたい恐怖感がアルの肌を粟立たせてやまない。

(あんな怖ぇ思い、シールギアが手に入った時には、もう二度とすることもねぇだろって思っていたのにな)


 と―――。


「アル君。いる?」

 出入り口の自動扉が開き、ファイルを片手にエルが入ってきた。反射的に、歩み寄る人の気配へ向けたアルの目が丸くなる。背中まであったエルの後ろ髪が肩の辺りまでバッサリと短くなっていたのだ。

「あれ? 先輩、髪切ったんスか?」

「ええ、ちょっと気分変えようと思って、ね」

 照れ笑いを浮かべて、「変?」と右手で前髪をかきあげる。

「いえいえいえ、全ッ然、オッケー。ビューチホーッス!」

 大げさに首を振って親指を上げるアルに微苦笑し、エルは右の人差し指でアルの額を軽くこづいた。

「調子いいわねぇ。それより、またサボリ? あんまりサボッていると―――」

「メニューなら、とっくに終わっちゃっていますよ」

 珍しくエルの言葉をさえぎったアルが、シート近くにある端末を指さした。

「やだ。これって……」

 やや疑いの眼差しを向けつつも、端末を操作してディスレイの表示をスクロールさせたエルが、驚きの声を上げて振り返る。

「凄いじゃない! ほとんどの項目が自己ベスト。作戦指揮レベルなんて優人君の記録を抜いているわよ」

 同期とはいえ、訓練成績では大きく他の二人に水を開けられていたアルの急速な向上に目を丸くするエルの前で、アルは複雑な表情で肩をすくめた。

「どうしちゃったのよ。まるで別人みたいじゃない」

「………」

 信じられないといった様子のエルに、アルはチラリと一瞥を投げかけ無言のまま視線を天井に向ける。いつもの明るさを無くし、どこか自嘲ぎみに薄く笑むアルにエルが眉をひそめた。

「やるしか、ないじゃないッスか」

「アル君?」

 らしくもない陰鬱な呟きは高ぶる感情により熱を帯び、口調は投げやりとも自棄ともとれる雰囲気をまといだす。

「だってそうでしょ? 教官、死んじまって。アンディは敵になっちまうし、優人なんかBTも自分もボロボロで、もう俺がやるっきゃないじゃないですか」

「ど、どうしちゃったの? 急に」

「……情けない自分がイヤなだけです」

 アルは驚くエルから視線をそらすと、ガチガチと歯の根を鳴らしてシートの上にうずくまった。

「あのとき俺、ホッとしていたんです。バリアスがダメになって、教官に待機してろって言われたとき、戦わなくてすむ。死ななくてすむ。そんなこと思ってホッとしていたんです」

 本心を吐露するアルの目には涙がにじみ、さらけ出した感情に声が震えだす。

「俺……最低だ。教官は、きっと死を覚悟してたってのに」

 くしゃりと歪んだ顔を膝にこすりつけ、そむけたまま続ける。

「優人が飛び出していった時だってそうだ。俺、足がすくんで追いかけることもできなかった」

 顔を膝にうずめて肩を震わせ、噛み締めた奥歯からくぐもった声で、アルは歯噛みした。

「自分が許せねぇ。ガタガタ震えていた自分が許せねぇ。ここで戦わなきゃ、強くならなきゃ、多分この先ずっと自分を許せない気がするんです。なのに俺は……なのに、まだ俺は、こんなにビビっていて――――怖ぇよ! 怖い。怖いんです。死にたくない。兵隊になったのだって、兵器メーカーへの就職に有利だからって、ただの成り行きみたいなモンだったんです。本気で戦争しようだなんて思ったこと一度だってない。、後方で適当に任期を過ごしたら、すぐに除隊申請するつもりだったのに。なんでだよ。なんで俺、こんなことになってんだよ。死にたくない。俺、まだ死にたく……ない……よ……」

「アル君……」

「幻滅したでしょう? 呆れ返って言葉もないでしょ? 自分だってそう思いますよ。どうして俺は、こんなに臆病なんだろう。どうして俺は、こんなに情けないんだろう」

 それは、エルが初めて目の当たりにするアルの痛々しい姿だった。劣等感にまみれた臆病で気弱な少年。それが陽気で調子のいい普段の彼が隠していた本当の素顔だったのだろう。不可解極まる命がけの状況の中で、彼もまた苦しんでいたのだ。

 だが、それは決して惨めなどではないとエルは思う。恐らくは今、彼は一つの階段を登り成長を迎えたのだ。そして彼を成長へと導いた“気づき”が、これまで目をそむけつづけていた戦争という壁に立ち向かう決意を彼にさせたのだろう。

(ドカト教官。きっと、あなたがアルを成長させてくれたのですね?)

 どれほど教練を重ねても、心のどこかで戦う事を拒否していたアルにとって、“戦争による死”とはリアルな出来事では無かった。自身とは切り離されたフィクションに近い出来事だった。だがしかし今、現実に直面した状況への決意が、おぼろげだった“戦争による死”というものを克明に浮き彫り、我が身に降りかかるリアルとして認識を塗り替えたのだろう。

 ドカトの死による体験がアルに死を体感させ、その意味を悟らせ、恐怖に震え上がりながらも立ち上がらせようとしている。

 これは、今は亡き上官がくれた成長なのだ。そんな思いがエルの胸裏をよぎる。教え子たちを生き残らせるために、ドカトが命がけで伝え残してくれた思いが、アルの中に埋もれていた種子を芽吹かさせてくれたのだと。

「なれるわよ。きっと……」

 後ろから、震えるアルの頭を優しく抱いてエルがささやく。

「いつかドカト大尉が言っていたもの。アル君は決してアンディや優人くんに劣っていないって。足りないのは、あと一歩をためらわずに踏み出す勇気だけだって」

「教官が?」

「ええ、だからきっとなれるわ。だって今、アル君は本気で強くなろうとしているんだから」

 自分は無責任な事をいっているだろうか、と。言葉をつむぐエルの胸中を自問がよぎった。口をつく言葉はまぎれもなくエルの本心からくる願いではあったけれど、彼にしかわからぬ苦しみに第三者の自分が口を出すのは傲慢なことなのではないか、と。

 だがしかし、今ばかりは許して欲しいとも思う。偽ることに慣れすぎて、本心を語ることに不器用な彼が見せた、自分の殻を破こうともがきあがく背の、あと押しをすることを。

 今、ばかりは。




   五

 闇の中で、アンディは巨影を見上げていた。

 完全な闇というわけでもない。天井で一等星程度の輝度を放つ夜間照明の灯が、白色の蛍光でわずかに周囲を浮かび上がらせている。

 格納庫に漂う機械油とイオンの臭い。並び立つブラッディ・ティアーズたちの薄ぼやけた輪郭と作業用機械の様々な影が、悪夢の中でさまよう森を連想させる。見るものによっては、空恐ろしさに震えそうな光景だ。

 そんな中でアンディが見上げるのは一機のブラッディ・ティアーズだった。名は、まだ無い。

 おぼろでありながら、まるで威嚇するかのように刺々しいシルエットは古代日本の鎧武者を連想させるもので、どこか無骨な印象があった。

 マイセルフ9号機。便宜上”ナイン”と、仮名でこれはそう呼ばれている。

 これがライトニングからアンディへと貸与された機体だ。

「おまえの名を見つけること。それが俺の、最初の仕事」

 数時間前、アンディの前にあらわれたライトニングは言った。「名を探せ」と。それが出来たなら、任務終了後に地球圏へ帰還する手続きを取ってくれるとも言った。

「俺がおまえに相応しくなったとき、おまえは俺に名を教えてくれる、か」

 同時にそれは、マイセルフという機体に秘された全ての真実に近づくことでもあるのだろう。

「俺は――」

 口を開こうとしたアンディの耳に懐かしい調べが届いた。

 格納庫に小さく響くのは、物悲しいハーモニカの音色だ。曲名は、アンディが良く知る『コンドルは飛んで行く』である。

 自然と足が向いた。警戒はない。アンディのテレパシストとしての感性が、この音の主が敵でないことを教えていたからだ。

 進んだ格納庫の最奥部、棺桶のようなクローズ型ブラッディ・ティアーズ格納設備のたもとに彼はいた。

「子供?」

 ハンガー基部の壁面へ背をあずけ、細く小さな身体に階級章のない白い軍服をまとった少年がそこにいた。十歳をいくらもでていない。そんな歳の少年だ。

 燃えるような赤毛と対照的に真っ白な肌、性別の分化が薄い中性的な顔立ちの中、口元に当てられた銀色のハーモニカが照明の灯かりを受けてきらめいている。瞳を閉じて一心に吹奏する姿は幻想的な雰囲気すら漂わせ、アンディをためらわせていた。

 曲の一巡とともに演奏が止まった。

 ハーモニカが下ろされて小さな唇があらわに、そしてゆっくりと開かれた瞼からのぞいた琥珀色の瞳がアンディを映してまたたく。

「あ、いや、その……」

 言葉をなくして動揺するアンディに、少年はニコリと微笑んだ。そのあまりに邪気のない笑顔に鼻白み、思わず後ずさる。

「ハレーさんでしょ? 少佐にききました」

 涼やかなボーイソプラノがアンディの耳朶を打った。

「僕はエドガー・ライエル。ハレーさんと同じ、マイセルフのパートナーです」

「おまえ―――いや、君が?」

 驚声を上げ、慌てて言いなおすアンディにエドガーは吹きだして、片手で階級章のない襟を指差してみせる。

「エドでいいです。僕もハレーさんと一緒で、正式な軍人じゃありませんから」

「軍人じゃないってことは民間人なのか?」

「はい。マイセルフに乗る資格が認められて民間から徴兵されたんです。でも中央では15歳以下は軍籍に入れない法律があるので階級はもらえていないし、公には内緒なのですけれど」

 ズボンのポケットから取り出した純白のハンカチでハーモニカの歌口を拭い、大事そうに包んで懐に収めると、エドガーはアンディに歩み寄った。

「よろしくです」

「あ、ああ。よろしくな。エド。俺のこともアンディでいい」

 差し出された小さな手を握り、アンディは口端を吊り上げた。




   六

「そんな……優人く―――南風はえ少尉を囮にするって言うんですか!?」

 唖然としたミユキの呟きがブリーフィングルームに響いた。

 奥側の壁面に設けられたスクリーンを見つめる仕官たち約20名の顔にも不満がありありと浮かんでいる。作戦説明用の大スクリーンを背に立つイクシスは、全員が向ける無言の非難に脂肪でふやけた顔を更に歪めてあとずさった。

「な、なんだおまえら。上官の作戦に意義を唱える気か!?」

 視線を泳がせながら上ずった声音を上げ、逃れるように背を向ける。

 眼前のスクリーンには、今しがた説明した内容が記され、木星に向かって伸びた赤い矢印にはグレイティガー、その横合いからグレイティガーへ伸びる矢印には敵艦と記されている。

「万が一だといっとろうが! 保険の話だバカどもがッ。本来、長距離航行用のブースターで加速する本艦を捕捉できるようなBTなどあるはずがないのだからな」

 増設したブースターによる加速で敵を振り切り、あくまで木星圏を目指す。それがイクシスの決断だった。当初、このまま基地にこもり援軍を待つ案も出されたが、この基地には戦力と呼べるものが無いこと、敵が基地攻略に十二分すぎる戦力を持つであろうことから却下せざるをえなかった。もっとも、これはイクシスが決断したというよりも、敵の存在を恐れる基地指令に急かされたからという方が正しいのだが。

(どいつもこいつも、軍人のクセに命など惜しみおって)

 一同の中では一番休息をとれた(というより、やることがなかった)はずだったが、恐怖から来る心労からか目の下に濃い隈を浮かべ青ざめたイクシスはチクチクとした痛みを胃に覚えていた。

「そもそも敵の目的はバリサスなのだ。あれが南風少尉にしか動かせない以上、仕方ないだろうが」

 最悪、バリサスを囮に脱出を計る。任務と矛盾するが、生き残る確率が最も高い方法であろう。

「い、言っとくがワシが助かりたいからじゃないぞ。ほ、ほら、なんだ、その……」

 脂汗をダラダラと流し、説得力のないことを力説するイクシスを見る視線が益々冷えていく。大汗をかきながら抗弁を続けるイクシスに、「嘘つけ」と誰かがボソリ呟いた。

「そ、そう。非戦闘員だ。二百名近い彼らのためなのだ」

 はがれきったメッキを尚も取り繕おうと抗弁するイクシスに明らかな軽蔑を浮かべ、一人、また一人と部屋を後にしてゆく。

「そのためにワシはあえて苦渋の選択を――」

 そんな動きにも気づかずに、あさっての方向へと目をそらしたままふんぞり返って言い訳をする中、チラリと周囲をうかがったイクシスの口が固まった。

「選択を……」

 途切れた言葉の先、水際に打ち上げられた魚のように口をパクつかせ、

「……ワシは艦長だぞ」

  閑散とした無人の部屋を見渡したイクシスは小さく呟いた。




   七

「目標、敵巡航艦。ソードフィッシュ、発進せよ!」

 指揮杖を振るうライトニングの号令とともに、ソードフィッシュの推進器が一斉に火を噴いた。

 光学迷彩が解除され、宇宙の暗黒に溶け込んでいた白い艦影が浮かび上がる。

 加速を重ねる遥か後方で花開く爆光は、木星軍108中継基地の断末魔だ。

 背にかかる閃光を振り返ることもなく、潜水艦を連想させる凹凸の少ない紡錘型の艦影は、その名のまま白き白刃となって宇宙を突き進む。その艦橋の艦長席に座し、正面に立てた指揮杖へ両手を重ねるライトニングに管制官が振り返った。

「少佐。12号機より通信。敵基地の殲滅完了。これより艦の追走に移るとのことです」

「うむ」

 歯切れ良い通信士からの声に重々しくうなずき、ライトニングは艦橋中央に据えられたタクティクスモニターに浮かぶグレイティガーの表示をにらむ。

「敵艦補足。距離8000。相対速度差+12.3%」

「わずかな間にずいぶんと推力を上げたものですね」

 かたわらに立つローレルが感心する。

「兎とて、ただ獅子に狩られはすまいよ。これぐらいの抵抗はしてもらわねばな」

「基地に潜入させていたスパイからの情報では、敵戦力はくだんのダミー機を改修したBT一機ということですが偽装工作の可能性もあります。やはり――」

 ためらいがちに切り出したローレルにライトニングの鋭い眼光が走る。

 殺気すらこもる視線に射抜かれ、背筋を凍りつかせるローレルから正面に視線を戻したライトニングは、激しく渦巻く感情を押し殺した無表情さで口を開く。

「いらんと言った。ポンコツの機体に埋められたパーツにすぎないとはいえど、幻想機は幻想機だ。それにフューリーが出てくる可能性も高い。そうなれば半端な援護はかえって邪魔だ」

「出過ぎたことを申しました」

「かまわん。ここだけの話、それは表向きでな。そろそろ試してみようと思っているのさ」

 舌なめずりして笑む姿にローレルの顔から血の気が引く。

「我が幻想機コールドアイの真価とやらを、な」

 牙を剥くサメの獰猛さを隠しもせず、ライトニングはかたわらのローレルに指揮杖を放った。

「あとを頼む」

 言い残して立ち上がり、背後のドアへと跳躍する。無重力の宙を流れ、艦橋を背に向かう先は格納庫だ。

「来るがいい。偽者め。今度こそ引導を渡してくれる」



   *   *   *   *   *



「試されているんだろうな。たぶん」

 正面パネルが投げかける映像光に照らされる中、アンディは呟く。

 白いパイロットスーツをまとい、固定具でシートに押さえつけられた身体で身じろぎながら息をついた。

 左腕を包むカバーの奥でファンクショントリガーにかけた指が震えている。左手だけではない。操縦桿を握る右手も、フットペダルの脇に落とした両足も、カチカチと音をたてる奥歯も、全てが軽い痺れをともなって震えていた。

「情けねぇ。覚悟したんだろう? 片道切符だってわかっていただろう? しっかりしろ。俺ッ」

 自分を叱咤し、ヘルメット顎部裏に震える右手を伸ばす。スライド式のカバーを親指でずらしてスイッチを押すと、薄い黄色のスモークシールドが下りて顔を覆った。


 と―――。


 ヘッドアップディスプレイで電子音が上がり、次いで正面ディスプレイ上隅にショートウィンドウが開かれてローレルの顔を映し出す。

『ハレー特尉』

 暫定的に与えられた階級に居心地悪さを覚えながらうなずく。

『最終確認です。作戦に変更なし。まず敵BTを貴官が押さえ、少佐が敵艦を落とします。敵BTを捕獲後は速やかに撤収して下さい。11号機が現れた場合も同様です。くれぐれも――』

「変な気は起こすなってんでしょ? わかっていますよ。俺は敵BTの捕獲だけやってりゃあいいんでしょ」

 軽い口調で「ヘイヘイ」と肩をすくめるアンディを見るローレルの柳眉が一瞬ピクリと逆立つ。

『確・実・に・です』

 強い語調で言葉を区切り、通信が切られた。次いで、コクピットが大きく一揺れし、直後にディスプレイの映像が真横へと移り始める。ハンガーごと機体が運ばれているのだ。

 やがて横倒しになったフラスコ状の空間の球部中心に運ばれ、ゆっくりと機体があおむけに傾いてゆく。

 完全に仰向けになったところでアンディは正面ディスプレイをカットした。同時にFREが起動する。マイセルフ型の機体操作にモニターは必要ない。特殊FRE“セシル”によって通常機の5倍近い増幅を掛けられたテレパシー能力の恩恵だ。

 強力な精神感応波を全周囲へ放出することにより、音響測定に似た知覚領域を形成しているのだ。いわば擬似的な透視知覚ともいえる超感覚の目を得たパイロットは視覚以上に周囲を知覚し、空間における自身の絶対座標を認識することができた。

『シューティングバレルセット完了。ゲートオープン』

 アナウンスが響き渡り、進路上に下りた8枚の隔壁が射出口に向かって順に開き、ハンガー走行レール基部のガイドラインがオレンジ色に発光して軌跡を描く。

『発進進路クリア』

 ハンガーの車輪が備えたリニアモーターが低く唸りだした。

「オーケイ。アンディ・ハレー。マイセルフ9号機、発進する」

 ファンクショントリガーの小指を引いてサインを送るのと同時に轟音が轟いた。

 瞬間的に二百キロ以上にまで加速された強烈な慣性重力にのしかかられ、食いしばった歯のスキマからうめきがもれる。

 ほんの数秒の加速後におとずれる重圧からの開放と同時に感覚が広がってゆく。広大な無限の野に解き放たれたという自覚が、無意識のうちにテレパシーの知覚野を大きく広げさせているのだ。まるで自身が霧散していくかのような知覚に背筋が凍りつく。鼓動が早い。FREの感情抑制レベルが跳ね上がり、昂揚で拡散しかけた理性が急速に手ごたえを取り戻してゆく。

 静まる感情と引き換えにアンディを支配するのは、冷静で機械的な任務遂行の意思だ。

「俺は……」

 残り火のように沈静しつつある感情が言葉となってこぼれる。

「後悔なんかしねぇ。絶対にしねぇ。地球へ帰るために必要だっていうのなら、誰であろうと俺は撃つ。たとえ―――」

 喉を鳴らし、かすれた声で呟く。

「たとえ、おまえでもだ。優人」

 師を撃ち、友を裏切った。仲間を見捨て、中央への寝返りさえしてみせた。心の底から渇望する報酬を求めて、これから先も血塗られた代価を払いつづけることになるのだろう。だが、それでもよいとアンディは思う。とうに覚悟は決まっているのだ。そして、もう後戻りなどできない。できるはずがない。自分はもう、引き金を引いてしまったのだから。

 罪にまみれてゆく道程の果てで待つ、あの場所へ辿り着くことができるのならば、どんな敵をも討ってみせよう。どんな裏切りをもしてみせよう。遥かな未来へ手を伸ばすように、アンディはスロットルペダルを踏み込むのだった。

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