けだものの国~奇国日本冒険記~

鶏の照焼

第1話

「起きな。もうそろそろで日本の領海に入るぜ」


 近くでそんなしわがれた声を聴いて、ベイル・H・ストーンズは目を覚ました。彼は覚醒と同時に、自分が硬い椅子の上でいつの間にか眠ってしまっていたことに気付き、大きく背伸びをして眠気を外に追いやった。


「他の仲間達にも言ってきなよ。そろそろ準備しとけってな」


 そんなベイルに、彼を起こした男が続けざまに言い放つ。彼の横に立って操舵輪を手に持っていたその男は、年相応に顔面に皺を刻んだ禿頭の老人だった。背骨は曲がり、見てくれはいかにも老いさらばえていたが、その声には覇気があり、目には活力が漲っていた。


「悪い。交代するつもりだったのに、寝てたみたいだ」

「いいってことよ。気持ちだけ受け取っておくからさ。それにあんたら、これから仕事があるんだろ? 今の内に休んどけって」


 いつの間にか眠ってしまっていたことを詫びるベイルに、老人がけらけら笑って答える。ベイルとしては十時間ぶっ通しで船を動かしていたこの老人の負担を軽くしてやろうと船の操舵の交代を買って出たのだが、結局はこのまま彼に頼みっぱなしで終わってしまいそうだった。ベイルはとても申し訳ない気持ちになりながら、持って生まれた短い金髪をかきむしった。


「それより、ほら。早くしな。あいつらも多分寝てると思うから、叩き起こしてくるんだな」


 老人に言われ、男が無意識のうちに右手首の腕時計に目をやる。午前三時。確かに普通なら寝ている時間だ。


「わかった。あんたも休んでおけよ」

「俺は軍人だぜ? あんたと一緒さ。このくらいでへばったりするかよ」

「あんたはとっくに退役済みだろ。俺と一緒にするな」


 まだまだ現役のつもりでいる七十八歳に釘を刺しつつ、ベイルは操舵室から外に出た。その退役軍人が所有している個人用ボートは操舵室と客室が離れた位置にあり、行き来するには一度外に出る必要があったのだった。

 外は静かだった。空は闇に包まれ、その闇の中に丸い月がぷっかり浮いていた。波は静かに揺れ、時折冷たい風が頬を凪ぐ。夜の世界は静謐に満ちており、足元から聞こえてくるエンジンの駆動音だけが虚しく響いていた。ベイルは外の空気を吸って眠気を完全に吹き飛ばし、しっかりした足取りで客室に繋がる階段を降りて行った。

 案の定、ベイルの仲間は全員寝息を立てていた。そんな幸せそうに寝息を立てている彼らを叩き起こすことに引け目を感じつつ、ベイルは彼らの使っている客室のドアを順々に叩いていった。


「みんな起きろ。そろそろ時間だ。起きるんだ」


 ドンドンと、わざとらしくドアを大きく叩きながら、ベイルが声を張り上げる。すぐには反応は返ってこなかったが、やがてあちこちのドアがゆっくりと開いていった。


「時間って? もうすぐ着くってこと?」


 最初に顔を出したのは、眼鏡をかけた女性だった。リン・シャオリン。台湾出身の学者である。

 シャオリンは黒髪を三つ編みにした、小柄な女性だった。顔だちはどこか幼げで、彼女が今年で三十歳になると言っても、誰も信じなかっただろう。むしろ十代後半と言った方が通じるかもしれない。彼女はそれほどに童顔で、体型も控え目であった。


「もう日本ってことかしら?」

「そうだ。上陸の準備をしておいてくれ」

「わかったわ。顕微鏡は持ってっていいかしら? ビーカーは? 遠心分離機は? 試験管一式くらいはいいわよね?」

「好きにしてくれ」

「やった! じゃあ準備するから、上で待っててね」


 研究マニアめ。目的地に着くと知るやいなや目の色を変えたその変人女を前に、ベイルは心の中でため息をついた。一方でリンは完全に眠気から解放されたらしく、鼻歌を歌いながらドアを自室の閉めた。閉め切られたドアの奥からは、リンの楽しげな鼻歌と物音が絶えず聞こえてきた。

 フィールドワークがそんなに楽しみなのか。ベイルはそんな自称台湾人の心境を、今一つ理解しきれずにいた。


「なに? もう着くの? 早いね? まだ寝てたいのに」


 二番目に顔を出してきたのは青年だった。ざっくばらんに切った茶色の短髪を持ったその男は、先の女とは違って本当に十代後半の青年であった。

 アントン・ハルトマン。ドイツ人。彼は表に出るのも面倒そうに、半開きにしたドアから顔だけを出し、寝ぼけ眼をベイルに向けた。そして青年はその態勢のまま、ベイルに問いかけた。


「そろそろ準備したほうがいいかな?」

「そうしてくれ。顔も洗っておけよ」

「はーい」


 やる気のない返事だった。アントンはそれからゆっくりとドアを閉め、後には静寂が訪れた。全く物音のしない客室を見て、ベイルはひょっとしたら二度寝したんじゃないかと危惧した。あり得る話だ。出発前のレクリエーションで把握していたことだが、あのドイツ人はとにかくマイペースなのだ。

 しかしそこまで考えて、すぐに開き直った。俺はあいつの保護者じゃない。どうしようとあいつの勝手だ。ベイルはそう割り切ることにした。


「おはようございます。ストーンズさん」


 三人目の声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。ベイルが声のする方に顔を向けると、そこにはまた別の女性が立っていた。灰色の髪をうなじで束ね、ビジネススーツをかっちりと着こなしていた。

 マイア・レプキン。お堅いロシア人。化粧や服装と言った身だしなみは完璧であり、既に「準備完了」であるのは明白であった。


「そろそろ到着らしいですね。あなたも今の内に準備を済ませておいてください。時間は待ってはくれませんよ」

「あ、ああ」


 鷹のように鋭い眼光を光らせながら、スーツ姿の女性が威圧的に告げる。ベイルはやや気圧されながら、反射的に頷き返した。

 彼はこの女が苦手だった。彼女は今回の調査団を結成した責任者であり、同時にキャリアウーマンが擬人化したかのような仕事の鬼だった。自他共に厳しく、妥協を知らない。軍にもここまでガチガチな奴はいなかった。ロシア出身だから、あんなに心も冷たくなったのだろうか?。

 ベイルは雇われの身でありながら、出来ることならこの女とは関わりたくないと本気で思っていた。


「おうおう、やっとご到着かよ。待たせやがって」


 四人目の声。マイアとベイルが同時にそちらに顔を向ける。そこには空の酒瓶を手に持ちながらドアを全開にし、そこにもたれかかってこちらを見つめてくる男がいた。手入れがされず荒れ放題の頭髪。酒が入って真っ赤になった顔。ろくに手入れもされていない、酒の臭いの染みついた皺だらけのシャツ。だらしなさを隠そうともしない、不潔な男だった。彼の姿を見たベイルとマイアは揃って顔をしかめた。

 しかしその男、ジョー・ダフネスはそんな彼らの反応などお構いなしに、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、二人に向かって言った。


「にしても、大した船だなここは。一通りのブツは何でも揃ってる。さすがは大企業様だ」

「お褒めに預かり恐縮です。それより、あなたも支度をお願いします。そのままの格好で出てくることのないようお願いします」

「そっちこそ、金を忘れんじゃねえぞ。俺は仕事で来てるんだ。そこらのヒマ人と違ってな」


 マイアの指示を無視して、ジョーが自分の要求を一方的に告げる。そして彼は相手の返答も待たずに、力任せにドアを閉めた。どこまでも他人を気遣うことを知らない、傍若無人なふるまいだった。

 そうしてジョーが姿を消した後、ベイルは苦い表情でマイアに言った。


「本当にあいつも連れていくのか?」

「腕が立つのは確かですから。不愉快なことは否定しませんが」

「あれに頼れって?」


 自らを登山家兼冒険家と名乗るその男の赤ら顔を思い出しながら、ベイルは冗談だろうと言わんばかりに肩を竦めた。ジョーのやった功績はベイルも知っているが、残念ながら偉大な業績と人間性は、必ずしも比例するとは限らないようだ。


「さすがのエベレストも、人を改心させる力は無いようですね」


 酔っぱらいの男が踏破した山の一つを脳裏に思い浮かべ、そして呆れたようにマイアが呟く。ベイルは何も言わなかったが、心の中ではそれに同意した。


「おいお前ら。霧が見えてきたぞ。全員上がって来い。そろそろ突入するぞ」


 拡声器越しに操舵主の老人の声が聞こえてきたのは、その時だった。女とベイルは顔を見合わせ、どちらからともなく頷いた。


「そろそろか」

「そのようですね」


 二人は同じくらいに緊張していた。それは相手の顔を見れば簡単にわかることだった。

 この軍人とキャリアウーマンは、共に感情を隠すのが下手だった。

 

 

 

 

 この度初めて結成された調査部隊は、太平洋側から日本に近づく手筈となっていた。かつて「神奈川」と呼ばれていた場所が、彼らの第一目的地である。

 今回のこれは日本国がその国土全てを黒い霧に覆われ、外部からのあらゆる干渉を一切遮断されてから、初めての直接的コンタクトとなった。日本との通信も出来ないため、当然アポイントメントの類も取っていなかった。領海侵犯と言われても仕方ない状況であったのだ。

 そのため、軍隊が大挙して日本に近づくようなことは躊躇われた。武装した軍人を秘密裏に送り込み、諜報活動を行わせることも躊躇われた。霧の奥で何が起きていて、それが外からの刺激によってどのような反応を示すのか、まったく見当がつかなかったからだ。

 よって出来るだけ相手の神経を逆なでしないよう、少数で接近することが決定された。船舶も小型で、武装も護身用程度のものに留めた。外部刺激で起きる反応を恐れるくらいなら、そもそも干渉しなければいいのではないか、とは計画策定の段階で何度も指摘されたことではあった。しかし、それの存在を除外して世界の歯車を問題なく回していける程、日本は小さな国ではなかったのだ。そして現在、世界各地で発生している「歯車不足」による不具合は、もはや無視できないレベルに到達しようとしていた。

 だから彼らは、日本との接触を渇望した。もう知らぬふりをするのも限界だった。今あの国がどうなっているのか、霧の向こうで何が起きているのか、是非とも知りたかった。だから今回の、民間企業主導で行われる小型船舶一艘でのコンタクトという無茶苦茶な提案も、特例的に認められたのである。

 軍より民の方が、相手の抵抗感も薄らぐだろう。それが民間企業に委託した理由であった。


「そこの船。止まれ。ここに何をしに来た」


 そんな事情から日本に近づいていたその船舶へ、遠くから一隻の船が近づいてきた。甲板に上がってその時を待っていた調査部隊のメンバーは、その接近してくる船を目を凝らして見つめた。そしてそんな彼らの耳に、その船から警告するような言葉が聞こえてきた。


「直ちに停止せよ。お前達は帝国の領地に侵入している。それ以上不用意に近づけば、攻撃を加える。死にたくなければ止まれ!」

「なに、あれ」


 それは恫喝にも似た言葉だった。しかし甲板にいた者達は、その言葉ではなく、そう告げながら近づいてくる船そのものに意識を傾けていた。


「木造船?」

「なんだありゃ、ガレオン船か?」


 シャオリンの疑問にジョーが答える。その言葉通り、ボートに接近してきたのは、一隻の木造船舶だった。サイズはボートの何倍も大きかったが、実際はそのサイズ以上の存在感を放っていた。それはまるで中世の世界から飛び出してきたかのような、場違いな存在感であった。

 ベイル達は呆然としていた。近代的な船が来るかと思ったら、ずっと古臭い船が来たからだ。それも日本とは全く関係のない、西洋の世界から来たような船がである。ベイル達は面食らい、そしてなぜこんな代物がここにあるのかを疑問に思った。


「よし、いいぞ。そのままでいろ」


 そうしてベイル達が呆然としている間に、件のガレオン船は彼らの乗るボートの真横についた。ガレオン船が警告を発した時には、既にボートは推力を切っていたのだ。操舵室に向かったマイアの指示によるものだった。

 ガレオン船の上から縄梯子が降ろされる。そしてその梯子を伝って、三人の男がボートに乗り移って来た。うち二人は貧相な服装で、最後の一人はあからさまに立派な身なりをしていた。体つきもがっしりとしており、大柄で筋肉質な体躯は圧倒的な威圧感を放っていた。 


「見ない顔だな。お前ら、ここは我が帝国の領海だ。そこに許可も無く入り込んで、いったい何が目的なんだ?」


 その立派な身なりをした男が、腕組みの上から胸を張って問いかける。どこまで自分を強く見せたいという願望がむき出しであった。そして実際のところ、その目論見は成功していた。修羅場に慣れていないシャオリンとアントンは、その男の仰々しい姿を見て、あからさまに怯えていたからだ。


「すまない。実はちょっと日本に用があって、ここまで来たんだ。別に侵略とかスパイとかしに来たわけじゃないんだよ」


 そんな二人の前に立ちながら、ベイルが男と向き合って言った。男とその連れの二人は、そんな堂々としたベイルの姿を見て目の色を変えた。それは興味と、ほんの少しの称賛が入り混じった眼差しであった。

 その時、そんな彼らのやり取りに気づいたのか、後ろからマイアがやってきた。


「今どんな状況ですか?」


 そしてマイアはベイルの真横につくなり、真剣な眼差しを見せながら彼に尋ねた。ベイルは自分達がここまで来たことを話すつもりだったと答え、それを聞いたマイアは再び彼を見ながら言った。


「わかりました。事情の説明は私がやります」

「いいのか?」

「この件の責任者は私ですから」


 マイアはそこまで答えて、ベイルと男の間に割って入った。アントンとシャオリンはこの場の雰囲気に慣れたのか、ベイルの後ろに隠れるのを止めて彼の横に立ち、相手の三人組を見つめていた。ジョーはその場から一歩引いた場所に陣取り、我関せずとばかりに酒瓶を呷っていた。


「私はマイア・レプキン。モンロー・インターナショナルの幹部役員です。この度は数年前に音信不通となった日本国の現状を探るべく、こうしてやってきました」


 マイアは物怖じせず、はきはきと自分達の目的を説明した。ついでとばかりに彼女はメンバーの紹介も済ませ、それを聞いた男たちは「なんだ、そういうことか」と素直に納得した。


「つまりお前達は、我々と接触したくてここまで来た、ということか」

「そうです。それからもしできれば、あなた方のことも紹介していただけると助かるのですが。あなた方が何者で、どこから来たのか。それを教えていただけないでしょうか」


 マイアは未知の者達に対し、ずけずけと問いかけた。怖いもの知らずである。背後にいたベイルは一瞬、背筋が凍り付く感覚を味わった。

 しかし幸運なことに、男たちは寛容であった。


「そうだな。確かにお前達の事を聞いておいて、我々のことを説明しないというのは不公平であるな」


 立派な身なりの男はそう言って、軽く一礼してから口を開いた。


「俺はグリディア帝国海軍第三連隊隊長、ジュネ・アンドロスである。お前達の船が我が帝国の領海を侵犯しているという報を受け、こうして馳せ参じた次第である」

「待ってくれ、なに帝国だって?」


 アントンが反射的に尋ねる。ジュネは彼を見ながら「グリディア帝国である」と言い返した。アントンは怪訝な表情を崩さず、続けて彼に言った。


「ここ日本だろ? 日本っていう名前の国だろ? グリディアなんて名前じゃねえはずだ。どういうことだよ?」

「どうも何も、今この地を治めているのは、我らグリディアである。厳密にいえば、彼の地の東半分を統治しているというべきか。ともかく、ここはニホンという名前の国ではない。グリディア帝国である」


 ジュネは大真面目に答えた。顔つきも口ぶりも雰囲気も、全て冗談を言っているようには見えなかった。ベイル達は意味が分からず唖然とした。


「もしかしたら日本は、そのグリディアってところに侵略されたんじゃないかしら」

「霧に覆われてる最中に?」

「ええ。だからもう日本は消滅してて、代わりにグリディア帝国が統治しているとか」


 ベイルの後ろでシャオリンとアントンが小声で話し始める。ベイルの耳にも届いていたが、彼は無視を決め込んだ。

一方でジュネもまた、向こうが今の状況について少なからぬ疑念を抱いていることに気づいていた。そしてそれは、今この場で解決するには複雑すぎることも把握していた。だから彼は落ち着きを保ったまま、マイアに向かって提案した。


「ではこうしよう。お前達は我々と共に帝国に向かう。そしてそこで全員、我ら帝国の評議会に出頭してもらう。そこにはお前達の言う、ニホンという国にいた識者も多く籍を置いている。そこで互いの置かれた状況を説明し、知識の溝を埋めるのだ。どうだ?」

「……」


 マイアは沈黙した。本当は、今ここで質問したいことが山ほどあった。しかしマイアはそれを我慢した。彼女の後ろにいたベイル達も、じっとマイアの返答を待っていた。ジョーは一人でいいように酔っぱらっていた。


「わかりました。行きましょう」


 やがてマイアは決断した。ベイル達三人はやや驚いて彼女を見た。ジョーは一人、何かに気付いたように甲板の隅に目を向けていた。

 そこには黒く蠢く影が、音も無く船の縁を掴んでいた。乗り込もうとしていたように見えた。ジョーは赤らんだ目でそれを凝視するだけだった。


「いいのか?」


 ジュネ達もベイル達もそれを知らなかった。ジュネはそれに気づく代わりにマイアの決定を再確認した。マイアは頷いてそれに答えた。


「むしろ好都合です。こちらとしても、あなた方の事情を知りたいがためにこうして来たのですから」

「そうか。話が早くて助かる。では一緒に向かうとしよう。俺達の船について来てくれ」


 ジュネの言葉にマイアが頷く。それからマイアは後ろの三人に振り返り、「それでいいか」と視線で促す。

 ベイル達は首肯した。三人揃って頷いた。

 直後、シャオリンの首筋に矢が突き刺さった。

 

 

 

 

「え」


 突然のことだった。誰もがそれに反応できなかった。

 シャオリンはいきなり来た衝撃に驚き、そして驚きの表情のまま、その場に崩れ落ちた。矢の刺さった場所から血が流れだし、甲板に赤い水溜りを作っていく。ベイル達の視線は自然と落ちていき、血だまりの中のシャオリンを呆然と見つめていた。

 さらに次の瞬間、ボートの両舷から一斉に何かが飛び出してきた。ボートの縁を掴み、そこを起点に高々とジャンプし、何かが甲板の上に次々着地した。

 ベイル達の視線が一斉に上がる。そしてそこにいるものを見て唖然とする。


「魚……?」


 そこにいたのは、魚だった。白い腹から人間の手足を生やし、顔を真上に向けたまま直立する魚達だった。手にはボウガンや剣と言った、あきらかに物騒な代物を持っていた。

 そして魚たちは、ベイル達に対して明確な殺意を持っていた。


「なんだこいつら!」

「フォーチュン共だ!」


 ベイルが驚愕し、同時にジュネが叫ぶ。彼の両脇を固めていた二人の部下もとっさに腰から剣を引き抜き、戦闘態勢を取る。彼らの目はベイルではなく、その魚共に向けられていた。


「お前ら、話は後だ! 俺の船に来い! 逃げるぞ!」


 ジュネがマイア達に叫ぶ。アントンとマイアはそれで我を取り戻し、素直にジュネの言葉に従った。生存本能が何よりも優先され、血まみれのシャオリンのことは脳裏から完全に消え去っていた。

 ベイルは違った。従軍経験のある彼は、非常事態を前にいくらか余裕を持てた。自分の外にまで視野を広げることが出来た。

 だからベイルは唐突に、ジョーがどうなったのか気になった。彼は他につられて逃げる足を止め、ジョーがいたと思しき場所に目を向けた。


「ジョー……!」


 ジョーの腹には深々と槍が刺さっていた。彼の目は虚ろで、口の端から血が漏れ出していた。肌は土気色に染まり、完全に生気を失っていた。

 手遅れだった。ベイルは目を見開き、完全に動きを止めた。


「ベイル! 危ない!」


 マイアの絶叫が耳に届く。遥か遠くから聞こえてくるようなその声が、ベイルの意識を叩き起こす。

 そして生気を取り戻したベイルは、直後、自分の腹に衝撃を感じた。重い一撃を食らったと思い、ベイルは咄嗟に視線を降ろす。


「え?」


 腹に剣が刺さっていた。意味が分からなかった。

 腹から熱と痛みが広がっていく。何が起きているのかわからなかった。


「ジョー!」


 マイアが叫ぶ。ベイルはそれを無視して後ろによろめく。


「ジョー! 急いで!」

「もう駄目だ! 逃げるぞ!」


 飛び出そうとするマイアをアントンが制止する。ベイルの目にその光景は映らない。目に血の溜まった彼の視界は真っ赤に染まっていた。方向感覚もわからず、ただ逃げるように後ろへ下がっていった。

 そして不幸なことに、後ずさる彼の脚は、船の縁を跨いでいった。


「あっ」


 気づいた時には、手遅れだった。

 足を踏み外したベイルの体は後ろへ傾き、そのまま真っ逆様に海へと落ちていった。


「この船は捨てる! こっちへ!」


 小さな水柱がボートの真横に起きる。絶望のあまり、アントンとマイアが息をのむ。脇目も振らずにジュネが叫ぶ。ガレオン船の上から矢の雨が降り注ぐ。ボートに乗り上げていた魚共はその一斉射をまともに受け、たちまちの内に全身に矢を刺されたまま絶命した。

 同時にガレオン船の側面の一部が開閉する。緊急時用の非常出入口だ。側面に人間一人が入り込める程度の大きさを持った穴が生まれ、ジュネと部下がマイア達をその奥へと押し込んでいく。操舵を担当していた老人も、巻き添えを食う形でガレオン船へと乗り込まされていく。ガレオン船からの攻撃はなおも続き、かろうじて矢の直撃を免れた魚達は一斉に海へと戻っていった。甲板には命を落とした者達の死骸が横たわり、狙いを外れた大量の矢が至る所に突き刺さっていた。





 ベイルがその一部始終を見ることは無かった。彼の体は力を無くし、ゆっくりと海の底へと沈んでいった。誰も彼に構うことはしなかった。ジュネ達も魚共も、ベイルに進んで関わろうとする者はいなかった。

 ただ深海の闇だけが、静かに彼を見つめていた。

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