無料コンテンツ撲滅委員会

羽根川牧人

1章 作家志望とぶっ壊れた日常

① 残酷描写は犯罪です


 マジ死ねよ、俺。

 ラブレターを送ったせいで公的機関から追われるなんて、間抜けにもほどがある。


「はぁっ、はぁっ……!」


 立ち並ぶビルの合間を、息を切らして駆け抜ける。

 ゴールデンウィーク明けの夜風も、全力疾走であがりきった俺の体温を冷ましてはくれない。


 国が定めた門限はとっくにオーバー。この時間に出歩く奴はいないし、いたって助けなんか期待できない。

 だって俺、鳥波田モゲルは犯罪者なんだから――


 パアンッ


 銃声と同時に、背中に衝撃が走った。

「ンぎゃああっ!」

 痛みは背骨を駆け上がり、すぐさま激しい頭痛となる。


 すっころんだ俺は、脳みそをミキサーにかけられたような感覚に抗しきれずのたうちまわった。

 オゲェエェ!

 な、んだよ、これ!

 銃で背中を撃たれたはずなのに、頭が痛くなるってワケわかんねェ!

 いや、いやいやいや、心のなかでツッコんでる場合か。

 今は逃げなきゃ、俺の創作人生は終わりだ――!


 カツ、カツ、カツ


 路地に響く、不気味な足音。

「く、来るなっ!」

 ビルの陰から真っ白な制服がのぞく。

 それは相手が『武装検閲官』だという証。

 軍服のような詰襟を、女は前を開いて着崩している。

 首に光るのはハートがぶらさがったチョーカー。

 スカートは膝上十五センチ。

 倒れてる俺からだと、パンツが見えそうなほど短い。


 続いて、彼女の顔が月明かりであばかれる。

 無駄に長いまつげ。

 グロスでテラテラ光る唇。

 頬にうっすら塗られたチーク。

 髪は鮮やかなピンクで、毛先は軽くウェーブがかかっている。

 要するに――その女はギャルだった。


「チョリーン☆」


 チャラさ全開で、大きな瞳を挟むようにピースサインを作ると、女は舌を出した。

 緊張感なんて欠片もない言葉にも、俺は息を飲んでしまう。


「逃走開始から三百メートルってトコかあ。ま、ネバったほうぢゃね? つっても、アタシがマジになればいつでも捕まえられたケドぉ」

「道明寺、シイナ……」

 彼女は――俺のクラスメイト。

 と言っても、目指す夢はそれぞれ創作者と検閲官。

 まるで真逆。絶対に相いれない人種。

 話したことも、これまで一度だってなかった。


 それでも名前を憶えているのは、こいつが目立つ存在だからだ。

 ギャルのくせに成績優秀。スポーツ万能。

 そして創作義塾高等部・三大美少女の一角。


 確かにカワイイことはカワイイだろうさ。

 けど、全然タイプじゃねえ。

 ニコニコ笑いながら、心の底は冷めきっている――こいつはそういう女なんだ。

「やっ、モゲルくん。元気?」

「そんな質問あるか。人のこと撃っておいて……」

 俺は湧き上がる怒りを抑えきれない。

「一体、なんの用だよ。言っとくけど俺はなにもしてねーぞ!」

「そうかなァー? この制服を見て逃げたってことはさァ、なんか心当たりあんぢゃね?」

「な、なんのことだよ」


 しどろもどろになった俺に、シイナはオートマチックの銃口を向ける。

 引鉄にかかった指のネイルには、スワロフスキーが散りばめられていた。

「しらばっくれてもムダだッつーの。発禁法違反にキマッてんぢゃん」


 元々、過剰な表現、描写に対する風当たりは強まりつつあったのだ。

 子供に悪影響を与えると騒ぐ大人たち。

 事あるごとに不謹慎だと炎上するSNS。

 モンスタークレーマーの批判で弱腰になる社会。


 そんななか起こった『ある事件』をきっかけに、世論は決定的に狂った方向へと進んでしまった。


 そして五年前、創作の幅を極端に狭めるが可決された。

 国家に対する疑問や不満を表現するのは禁止。

 人が病気以外で死ぬのは禁止。

 主人公の犯罪行為は禁止。

 バッドエンド禁止。

 暴力描写は禁止。

 グロテスク禁止。

 セックス禁止。

 乳首禁止。

 パンツ禁止。

 ホモ禁止。

 百合禁止。

 二次創作禁止。


 読者に『有害』な表現を含むコンテンツの発行、発信はあまねく禁止。


 表現の自由を完全に奪い去る法案――

 それが有害コンテンツ発行禁止法、略して発禁法。

 本当に、クソくらえな法律だ。

 俺たちの想像力を、創造力を、感性の鈍いやつらは安易かつ残酷に踏みつぶした。


 続いて『無料コンテンツ』の配信が始まった。

 国家が主導し、制作した電子エンタメコンテンツ。

 分野は多岐にわたった。

 小説・漫画などの電子書籍、音楽、映画、ドラマ、バラエティ、アニメ……。

 共通点は、どれも発禁法を遵守した、つまらない内容だったこと。

 それでも出版・娯楽業界は大打撃を受けた。

 自分たちもまた、発禁法を守らなければならなかったからだ。

 しかも有料となれば、競争力など維持できるはずもなかった。

 彼らは争うより、むしろ吸収されることを望み――

 無料コンテンツを管理する『検閲省』は、出版・エンタメ業界を一気に飲み込み、膨れあがった。

 そして法令施行から五年。

 この国は毒も牙もない、健全でつまらない『無料コンテンツ』に支配された。


「にしても、ズイブンと分厚いラブレターだね」

 シイナは小振りなショルダーバッグからタブレット端末を取り出し、画面を俺に向ける。

 映し出された文字列には見覚えがあった。

 ……俺が書いた文章なんだから当然だ。

「好きな相手に小説を送りつけるなんて、いつの時代だよって感じィ?」

 それは今朝、俺が片思いの相手、織原キリカ先輩に送った小説だった。

 発作的に、衝動的に、彼女なら俺のことを理解してくれるんじゃないかなんて、淡い期待を抱いて。


 俺からすれば、なぜキリカ先輩がこんなギャル女と同列に『三大美少女』として扱われなきゃならないのか理解に苦しむ。

 黒髪、おしとやか、清楚で上品。

 この女が持っていないものを、先輩はすべて持っているだろうが!?

 シイナは俺がにらんでいる理由を勘違いしたらしい。

「アタシたち検閲省は、メールチェックを抜き打ちでやってんの。それにアンタはチョー運悪く引っかかったってワケ。完全に自業自得。ご愁傷サマだよねっ☆」

「最初からキリカ先輩を疑ってなんかねーよ」

 俺に百パーセント非があったとしても、必死になってかばってくれる。

 先輩はそんな天使のような人だ。俺には分かる。

 あんまり喋ったことないけど。

 先輩のメールアドレスだって、友達に調べてもらっただけだけど。


「ところで……、違反だって文句つけるからには、ちゃんと読んだんだろうな?」

「ま、仕事だからね。とても理解はできなかったケド」

 タブレットを鞄に戻し、シイナは侮蔑のまなざしを向けてくる。


「好きな人に、ホラー小説を送るなんて、さ。それもキリカセンパイ似の女子が作中で切り刻まれてるぢゃん。こんなの送って、好かれると思ったワケ?」


「さーな。……で、どうだった?」

「どうって、暴力表現は入ってるわ、バッドエンドだわ、主人公は犯罪者だわ、発禁法にモロ抵触。つーか、発禁法以外の法律にひっかかっても不思議じゃないッての」

「違うって」

 俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。


?」


「…………………はァ?」

「俺の書いた小説は面白かったか、って聞いてるんだよ」

 くっ、と俺は笑った。自分の放った言葉があまりに愚問だったからだ。


「いや、絶対面白かったに決まってる! この残酷描写が規制された日本で、一番面白い血しぶきスプラッターを書けるのは俺なんだからなッ! ハッ! 武装検閲官だかなんだか知らないが、続きを読みたければ俺を見逃すしかないぞ!」


 恐怖・苦痛・絶望。

 この三つが、俺の作家性の根幹。

 読者は、全身の毛が逆立つような恐怖を感じながら、それでも先を知らずにはいられなくなる。

 彼らはいつしか登場人物と苦痛を共有し、泣いたり、安堵したりするだろう。

 そんな読者の心に、俺は煮詰めた絶望を流し入れ、決して消えない火傷を残すのだ。触れるたびに痺れて、脳髄がとろけるような――

 それを禁止する発禁法なんて知ったことじゃなかった。


「俺は俺の面白いと思うものを書く。笑いたきゃ笑え。それだけが、俺の唯一の望みだ!」


「……面白いか、面白くないか、ね」

 シイナは呆れたようにため息をつくと――敵意に満ちた目を見開いた!


「アンタら『創作者』の頭はそればッッッかりか! キモすぎッ! 秩序を乱すウジ虫がッ!」


 シイナの銃から続けざまに二発、弾丸が放たれる。

「ぐわぁあああああ!」

 着弾に合わせて、再び、激しい頭痛が襲ってくる。


「やれやれってカンジだけど、まぁいいや。アンタがそんなことを考えていられるのも今だけだしぃ」


 そう言うシイナの声も、ぐわんぐわんと反響して聞こえるほどだ。

 痛い、めまいがする、気持ち悪い。

「なんなんだ、その銃は……」

 俺は頭を抱えながら呻いた。

 いや、銃そのものじゃなく、おそらく銃弾が特殊なんだ。


「『創作者殺しクリエイターキラー』の弾丸」


 シイナは響きだけでぞっとする言葉を口にした。

「何発目かまではただ痛いだけだけど、ダメージが溜まってくと少しずつ壊れちゃうんだって」


「壊れるって、なにが……」

「作家性が」

「作家、性……?」

「んふ☆ つまり、この銃弾を食らい続けると、アンタは頭のなかでなんも創造できなくなるってワケ。小説のネタはもちろん、オナニーのおかずさえもね」


「ふ、ふざけるな!」

「ふざけてなんかないよん☆」

 シイナは嗜虐的に口角をあげる。


「まったく、どうしてアンタみたいな嗜好のクズがわくのかな。まだ子供の頃に触れた有料コンテンツの悪影響が続いてるワケ? 世の中には無料で健全で面白いコンテンツが溢れてるってのに」

「国家から支給されてる無料コンテンツが面白いだって!?」

 信じられない。なに言ってんだこいつ。


「あんなのどっかで見た内容のものばっかじゃねーか! 作家性のかけらもない!」

「作家性、ねえ……。あ、ちなみにこの『創作者殺しクリエイターキラー』だケド、逃亡者には一メートル逃げるごとに一発、ブチ込んでいいことになってるから。あはっ、三百発も食らったらぁ……、アンタの言う作家性なんて、かけらどころか消しズミすら残らないね?」

「なっ……!」


 この死ぬほどの痛みを、三百発も!?

 そんなの作家性どころか、人間性すら破壊されかねない!

「こ、このモブビッチギャル……!」

 この女は――俺を、俺の作家生命を完璧に終わらそうと、わざとここまで逃がしたんだ。


 信じられない。それがクラスメイトに対してすることか!

「お前なんて真夜中にひとりでビーチに泳ぎにいって、真っ先に殺されろぉ!」

「ハッ! ホラー好きの変態にお似合いな捨てゼリフね!」

 心底楽しそうに、銃口を俺の眉間に突きつけるシイナ。


 くそっ!

 これで終わりなのかよ、俺の創作人生。


 書けなくなることが悔しくて、そして目の前にいる女が憎くて仕方なかった。

 こうなったら創作力が残っているうちに、頭のなかで一番残酷な殺し方をしてやろう。それが創作者としての、最後の矜持だ。


 シイナがほくそ笑み、トリガーを引こうとした――


 その瞬間だった。


 ギィィィィィィン!


「えっ!?」

 突如、虹色に輝く円盤型の飛翔物が、シイナの手から拳銃を弾き飛ばした。

 狙いの外れた銃弾が頬の横を通り過ぎ、銃はカラカラと地面を転がった。

 そして――


「――デストロイ・フリー・コンテンツ!」


 呪文のような、掛け声のような――謎の言葉が路地に木霊した。

「なん、だ……?」


 フワッ


 颯爽と、軽やかに。

 着地を決めたのは、仮面で目と額を隠した少女だった。


 特殊検閲官の白基調とは真逆の、マントのようにも見えるコート。

 表は漆黒で、裏地は鮮やかな青。

 腰に巻かれたベルトには、日本刀が大小二振り提げられている。

 そして少女はひとりではなかった。


 続いて、背が高くひょろりとした男が路地に着地する。

「デストローイ! フリー! コンテンッ!」

 決めポーズをつけながら、妙に高いテンションで。


 遅れて、小学生くらいの背丈しかない金髪の女の子が降り立った。

「ですとろい・ふりー・こんてんつ」

 こちらは直立不動で、淡々と。


 全員ベネチアンマスクを思わせる仮面をつけていて、年齢はよくわからない。

 ていうか今、こいつらは隣の、三階建ての屋上から降りてきたのか?

 ロープアクション? でも身体にはなんにも括りつけてなさそうだぞ。


「チッ、DFCの連中……?」

 シイナは不快感をあらわに舌打ちした。

 DFC? DFCってなんだ……?

 通販で健康食品でも売ってそうな名前だけど……。


「フフフ、そのとおり。私たちこそDFC――無料コンテンツ撲滅委員会」

 先頭に立つ黒髪の少女が、すらりと太刀を抜く。なんか楽しそうだ。


「どうするの、検閲官さん。多勢に無勢だけど、やってみる?」

 太刀の切っ先をしばらくにらみつけると、シイナはふうと肩をすくめる。


「……カンベンしてよね。そんなこと、アタシになんのメリットもないぢゃん」


 え、マジで?

 そんなにあっさり引いてくれるの?

「命拾いしたね、モゲルくん。クラスメイトのよしみで、今夜だけは見逃してあげる。でも、次はないから」

 吐き捨てると、シイナは大きく跳躍する。

 建物の壁から突きだしたソーラーパネルを蹴り、屋上まで跳び上がると、あっというまに姿は見えなくなる。


 どんな身体能力してるんだよ……。そう思いつつも、俺は安堵した。

 検閲官自らが発禁法違反者を逮捕できるのは、違反の物的証拠が発見されたり、検閲官に直接違反している現場をおさえられたりした『当日』限り。


 つまり、明日シイナに教室で会っても、もう逮捕はできないし、あの銃で撃たれることもない。


 逮捕権自体は警察に移るんだけど、検閲省との仲は険悪だからな。

 発禁法がらみで警察が動くなんてまずありえないから、自首でもしない限りは捕まりはしない。


 なにはともあれ、助かった。

 いや……、助けられたと言ったほうがいいのか?

 この秘密結社を連想させる、変てこな集団に。


 日本刀を鞘におさめながら、仮面の少女が俺のほうを向く。


「間に合ってよかったわ、鳥波田モゲル先生♪」


「え……?」

 突然呼ばれて、たじろいだ。

 え? え?

 どうして、俺の名前を知っているんだ?

 それに、先生って……?


「ああ、これつけてたらわからないわよね」

 少女はウェアラブルデバイスと思われる腕時計を、ピピッと操作する。

 と、顔の上半分を覆っていた仮面が、溶けるように消失した。


「織原……キリカ先輩!?」


 俺は驚いた。

 なぜならそれは、今朝、ラブレターを送った相手だったから。


 透き通るように真っ白な肌。

 大人びた雰囲気を強調する、長くつやつやとした黒髪。

 ぱっちりとした左目の下には泣きぼくろがあって、それが妙に色っぽい。

 てかなぜ気づかなかった、俺。

 ホラー映画の監督なら迷わずヒロインに据え、逃げ惑わせてブルブル震わせたくなるような美乳の持ち主が、キリカ先輩以外にいるはずないだろうが!


「ど、どっどどっどど……」

「バイクのエンジン音みたいになってるわよ、モゲルセンセ? それとも、先生的に言うならチェーンソーのエンジン音かしら」

 先輩が屈託なく笑う。その笑顔は、学校で振りまいているそれとまるで変わりがなくて――逆に現実味が薄れていく。


「どうして、先輩がここにいるんですか?」

「フフ。私ね、あなたをスカウトしにきたの」

 俺を落ち着かせるように、先輩はゆっくりと答える。

「ス、スカウト?」

「そ、スカウト。だって、面白かったんだもの、先生の小説」


 思いがけない言葉が、電気椅子じみた痺れとなって全身を駆け巡る。

 …………面白かった?

 面白かったって言ったのか、今。

 今日まで誰にも読ませなかった自分の趣味丸出しの小説を、面白いと。

 先輩は鳥肌が湧きあがるのを抑えるように腕を抱き、恍惚とした表情で続ける。


「最後に私が絶叫しながら切り刻まれるところなんて――最高にキレイだったよ。ううん、サイコにキレイだった……」

「ああ……」


 先輩は理解しているんだ。

 あの小説のなかで殺されてるのが自分だと。

 そして、俺のイカれた作家性を。


 人喰いサメがビーチに現れるように。

 吸血鬼が人の血を吸いたがるように。

 ゾンビが噛みついて仲間を増やすように。


「お、俺は、先輩の醜くも美しい死に様が書きたかったんだ……」

 絞り出すように、俺は告白した。


 女の子と付き合ったことなんて俺には一度もないけれど……。

 彼氏なら好きな人にアクセサリーや服を買ってあげたいと思うはずだ。

 理由はいろいろあるだろう。

 喜ぶ顔が見たい。

 きっと似合うに違いない。

 もっときれいになってほしい。

 あるいは――自分色に染めたい。


 俺にとっては、それが先輩に小説を贈ることだった。

 先輩に初めて会ったとき、思ったんだ。

 この人は、最後まで死という理不尽に抗う強さを秘めている。

 彼女は、死と向き合う瞬間にこそ、最も美しく輝けるって。


 だから俺は、キリカ先輩を

 もちろん、現実で殺したいと思ったことは一度もない。

 だってそんなことをしたらもう先輩に会えないだけじゃなく、先輩の真の美しさを誰にも伝えられないじゃないか。


 死のドレスに包まれる瞬間の、最も輝いているキリカ先輩を。


 あとは、先輩自身がそれを喜んでくれるかどうか――

 心配はそれだけだった。

 だって俺は、先輩本人にこそ知ってほしかったから。

 貴女は、こんなにも美しいんですよ、って言いたかったから。


 でもこんなのは、呪われた情動であり、許されざる性欲だ。

『変態。キモい。汚らわしい』

 罵られるのも覚悟のうえだった。

 それでも、自分の想いを伝えたい。

 そんな粘着ストーカーも真っ青の、独りよがりの行動。

 それなのに――


「いいわよ」


 先輩は泣きぼくろも隠れそうなほど長いまつげを少し下ろし、聖母のように優しく俺に告げる。


「私のこと、めちゃくちゃにして」


 こんな俺を軽蔑せず、認めてくれるっていうのか――


「……ほらぁ、泣かないの、センセ♪」


 言われて気づいた。俺はいつの間にか涙を流していた。

 もちろん俺は、自分の小説は面白いって信じていた。

 けれど、自分で思っているのと、人から言われるのとじゃ全然違う。

 そしてこれまで、面白いって言われたことなんてなかったんだ。


 先輩は背伸びをして俺を抱きしめ、背中をポンポンと叩く。

 豊満な胸の柔らかな感触で、俺は完全なるダメ人間となる。


「私ね、有料コンテンツを配信するウェブサイトで、編集長をやってるの」


「へん、しゅうちょう……? 有料コンテンツ……?」

 もはや世の中で認められている娯楽は、政府の配信する無料コンテンツのみ。

 勝手に有料コンテンツなんて配信すれば、重大な法律違反だ。

 バレれば厳罰は免れない。


 けれど、そんな当たり前のことにさえ俺は頭が回らなくなっていた。

 先輩に想いが通じた。その喜びにただ震えていたのだ。


「あなたが私の作家モノになってくれるなら――」


 息がかかるほど、唇が触れそうなほどの耳元で、彼女はささやく。

 人間ファウストをそそのかす悪魔メフィストのように、甘ったるく美しい声で。


「――スティーヴン・キングだって、じゃないわ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る