やってみなはれ閻魔様1 (恋愛編)

時織拓未

1. 魔境の見えるバンジー

 鬼頭きとうたけるは高校3年生。そろそろ大学受験の勉強を本格化させるべき時期に差し掛かっており、進路指導の先生からも釘を刺されている。

 とは言え、今までフラフラして高校生活を送って来たので、或る日、突然「勉強だ!」と言って頭の切り替えが出来るものではない。

 だから、夏休み序盤の此のタイミングで気持ちを切り替えようと小さな決心を胸に、今日は茨城県の竜神バンジーまでって来た。

 竜神大吊橋がつなぐ険しい二つの山は、谷底に広がる竜の形をした湖を挟んでいる。

 湖上に架かる竜神大吊橋の上から飛び降りるバンジーは、常設施設としては日本最大級で、其の落下距離は100mもある。

 真っ青な夏空と同じブルーに塗装された鋼鉄製の吊り橋の橋桁は二重構造になっており、単に吊り橋を渡るだけの者は上段の橋桁を、バンジーに挑戦する者は下段の橋桁から飛び降りるのだ。

 吊橋の下段橋桁から眼下の湖面に向かって真っ逆様に飛び下りれば、頭の中は真っ白になるはずだ。風を切って落ちて行く風圧が、たけるの頭の中の雑念を吹き飛ばしてくれるだろう。

 そう考えて、たけると同じく、中々受験勉強に着手できないクラスメイト2人と一緒に、朝早くから電車を乗り継ぎ、地域路線バスを乗り継いで、竜神大吊橋まで遣って来たのだ。

 竜神バンジーを選んだ理由は、日本最大の落下距離だけではない。或る都市伝説が、まことしやかに高校生の間に流れていた。茨城県の事なので都市伝説と呼んで良いものやら、たけるには少々疑問だったが、首都圏の高校生の間で話題に挙がっているのだから、都市伝説と呼んでも構わないのだろう。

 都市伝説とは、飛び降りる際に橋桁を蹴って初速を付けるか、体重の重い巨漢が飛び降りて、兎に角、ロープが100mちょっとまで伸び切ると、落下カーブの底辺に頭が突入した際に異世界を垣間覗けると言う内容だった。

 何故、異世界だと分かるのか?

 落下の最中に目にしていた緑色の湖面の替りに、黒い闇の奥に赤く鈍い光が見えるらしいのだ。まるでマグマがたぎった火山の噴火口を覗いた様に。

 肝試しの為に連れ立って竜神バンジーに挑んだ高校生にとって、噴火口の光景を見る事が出来れば、粋がった行為を勇敢と言うか蛮行と言うかは別にして、肝が据わっていると言う証左になるのだ。

 実際には見えなかった奴も、臆病者だと後ろ指を差されたくないものだから、異口同音に「見えた! 見えた!」と大騒ぎする。どうせ「まさに噴火口の様だった」と嘘吹いていればバレないのだから、安心して虚勢を張っていられる。

 そう遣って、高校生の間では都市伝説が広がって行ったのである。

 3人中、クラスメイトの2人が、おっかなビックリの腰の引けた姿勢で橋桁をソロリソロリと進む。モタモタ遣っているものだから、痺れを切らせたバンジー施設のスタッフがワザとクラスメイトの腰に結った腰紐を長めに伸ばす。既に爪先立っており、自力では引き返す事が出来ない。

 スタッフが「腰紐を離しますよ」と声を掛けると、「止めます」とも言えず、もごもご口籠る。

 明確に否定しない事を良い事に、スタッフは腰紐から手を離し、クラスメイトは「ひぃや~」と言う情けない悲鳴と共に落下して行く。跳躍ではなく、引力に引かれるリンゴと同じ類の落下であった。2人共が同じ顛末を辿った。

 それでも、顔面蒼白になって引き揚げられた時には、「噴火口が見えた、ような気がする」と言い張った。たけるは「嘘付け!」と思ったが、傷に塩を塗る様な返事はしなかった。一応、仲の良いクラスメイトであったし、重要なのは自分の跳躍である。

 たけるだって人並みに高所恐怖症である。橋桁から湖面を見降ろして、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 だが、折角、跳ぶのである。思い切り良く後退あとずさると、ピョンピョンと助走を付けて宙に跳躍した。たけるも前の2人と同じだろうと思い込んでいたスタッフは意表を突かれ、「あっ!」と声を上げた。

 たけるは、高台から飛び降りるジャンプ・スイマーの選手の様に、或いはウルトラマンの様に、両手を前に伸ばすと綺麗な円弧を描いて落下して行った。弛んでいたロープが一直線に伸び、そして、先端のゴムがピーンと伸びた。

 ジャンプスペース近くの橋桁の欄干から身を乗り出して谷底を覗いていたスタッフは、バンジーロープがいつもと違う撓り方をしているのを怪訝に思った。眉間にしわを寄せて、谷底を凝視する。

 スタッフが「ああ~っ!」と大声を上げる。バンジーロープの先端には誰も居なかったのだ。

 水飛沫は上がっていない。湖面は静かなもので、誰かが落ちた形跡は無い。ジャンプスペースの周りは騒然となった。

 急ぎ、竜神湖に捜索ボートが出される。しかし、竜神湖で開催していたカヌー教室の指導員も生徒達も、落下物を何も目撃していなかった。

 一方、引き揚げられたバンジーロープを確認したが、何かに切断された形跡は無かった。体験者の身を守る為の装身具にも不具合は無く、たけるだけが忽然と消えていた。セーフティーベルトは締められたまま。如何どうやってセーフティーベルトの頸木くびきの中から離脱したのか?、全く訳が分からなかった。

 でも、居なくなりました――では済まされない。竜神大吊橋が開通して以来の大事件となった。


 失踪した猛の方は、大男にかかえられて宙を飛んでいた。

 辺りは虚無の闇。下の方にはマグマの如き赤い光が見えたが、薄暗くて地表の様子は判然としなかった。何せ、大男が猛の身体をつかんでクルリと一回転した時に、一瞬だけ足下の景色を視界の端で認めたに過ぎない。

 大男の身長は2mを超えるのではないかと思われた。猛の身長も180㎝近くと大柄な方だが、猛の比ではない。大男の硬く盛り上がった胸板に顔を埋めた猛は、まるで赤児の様だ。

 猛の身体に回した大男の左腕も丸太の様に太く、そして硬い筋肉が盛り上がっていた。

 大男の掌にはモミジの様な形をした白く大きな団扇が握られている。鳥の種類までは分からないが、兎に角、白い鳥の羽根を重ね合わせて団扇は作られていた。

 眼球だけを動かして上目遣いに大男の顔を見上げると、肌の色は白人男性の様。短く刈り上げた金髪剛毛をタワシの様に放射状に延ばし、此れまた金髪のあごひげと口髭を立派に伸ばしていた。

 最大の特徴はピノキオみたいに長い鼻。鼻柱は長くても鼻孔はそんなに長くない。「ただ単に鼻柱が長いだけなんだ」と緊張感の無い感想を猛は抱いた。

 大男の首の周りには、幾つもの黒光りした大きな数珠が首飾りの様にトグロを巻いている。固い数珠の一つが猛の胸と大男の胸の間に挟まっており、猛には少々痛かった。

 大男の肩越しには大白鳥の如き両翼がヒラリヒラリと羽搏はばたいている。確かに大きな翼ではあったが、悠長な羽搏はばたきの浮揚力で、果たして大男と猛の2人分の体重を支えられるものか?、と不安を感じる。だが、こうして現に宙を飛んでいる。しかも、不思議と翼の発する風圧は一切感じなかった。

 今更ジタバタしても始まらないので、猛は拉致されるが儘に任せた。

 しばらく飛んだ後、大男は右手に持った何かに口を付けると、タイタニック号の汽笛を思わせるボワーっと言う大音量の轟音ごうおんを鳴り響かせ、高度を下げ始めた。何処かに降りるようだ。

「何処に行くんですか?」

 猛が質問しても、大男は何も答えない。どうやら猛を荷物か何かとしか認識していないようだ。そう分かっても宙空の上では抗いようが無いので、猛は大人しく自分の身を大男に委ねていた。

 いよいよ地表が近付いたのであろう。大男は斜めに前傾していた姿勢を直立に戻した。

 両翼を何度か羽搏はばたかせ、そして遂に着地した。左腕の力を緩めると、抱いていた猛をズルリと下に降ろした。猛も自身の足で地面に立つ。

 数歩後退あとずさり、大男を改めて眺めると、山伏の如き出で立ちだった。右手に持っているのは法螺貝で、大音量の汽笛を鳴らした正体だった。そして、高さ20㎝程の1本歯の高下駄を器用に履いている。

 そう。大男は天狗だったのだ。

 天狗が猛に向かい、猛の背後の方に顎をしゃくった。指図された通りに回れ右をすると、其処には不気味な群集が揃い、猛の事を凝視していた。

 中央には、天狗以上の偉丈夫が大きな椅子に踏ん反り返って座っていた。

 偉丈夫の肌は白いが、髪の毛や顎髭、口髭は真っ黒だ。顎鬚あごひげと口髭はモジャモジャと絡み合い、境目が分からなかった。

 髭に負けずとも劣らないゲジゲジ眉毛。眉毛の下には眼光鋭い大きな目玉が二つ。遠目には分からないが、瞳の色は赤色で、チラチラと揺れている様な気がした。

 平安貴族が着用していた装束ソックリの服装をしている。正確には分からないが、シルクの様に軽く光沢を放つ赤い生地に、様々な動物や植物、複雑な幾何学模様を組み合わせた模様が刺繍で織り込まれていた。

 ゴワリとした筒袖から覗いた右手には軍配扇子を握っている。左手は腰元で結った袴の上に置いている。袴から覗いた両足には黒い木靴を履いていた。頭には黒い烏帽子を被っている。四角形をした烏帽子の各辺からは幾条もの短い房飾りが垂れている。

 何だか相撲の行司を平安貴族風にアレンジしたと言う感じがしないでもない。だが明らかに相撲の行司と違う点は、目の前の偉丈夫が人間とは思えない程に圧倒的な威厳のオーラを放っていた事だった。

 偉丈夫の鎮座する大きな椅子の高い背凭れの上には、背中の酷く曲がった小柄の老人がチョコリと座っていた。

 しわの寄った額からは白髪を振り乱し、おちょぼ口の乾いた唇からは欠けた出歯が覗いている。江戸時代の百姓風の粗末な着物を羽織り、首には麻布の手拭いを巻き、両足には足袋を履いている。

 中央に座った偉丈夫の両脇には、先程の天狗よりも少しだけ身長の高い赤鬼と黒鬼の2鬼が、腕組みをして直立の姿勢で控えていた。此の2人は一見して鬼だと分かる。パンチパーマ状の巻き毛の間から、巻貝の如き黄色い角が二つ生えている。下顎の犬歯が異様に大きく、閉じた唇の間から上向きの牙が2本、ニョッキとみ出している。髭は無い。

 赤鬼の方は、行司みたいな偉丈夫と同じ様に黒いゲジゲジ眉毛が逆八の字に釣り上がり、丸顔と謂えども、ギョロリとした双眸が周囲を威圧している。両眼の下には団子鼻。

 身に着けている物と言えば、約束通りの虎の皮で作った腰布だけ。靴も履かず、素足のままで立っている。野蛮と言う言葉を絵に描いた様な風貌だった。

 赤鬼は、全身の鍛え上げられた筋肉が凄まじく、剣闘士もかくやと言わんばかりの威丈夫だ。そして、無数の棘の付いた黒く大きな棍棒を右手でわしづかみにして、仁王立ちしていた。

 一方の黒鬼の方は、面長で端正な顔立ちをしている。細い切れ長の目玉の瞳の奥はキラリと光っており、赤鬼とは違った威圧感がある。

 襟の立った鮫肌の黒い衣服がピチリと身体に貼り付き、赤鬼と同様に全身の鍛え上げられた筋肉の形状が衣服の表面に浮き上がっている。

 黒い衣服の両脚の先端はブーツの様になっており、衣服とブーツのつなぎ目は見分けが付かない。黒い衣服が覆っていない部位は、首から上の部分と両の掌だけである。2本の角を生やしたバットマンと表現すれば良いだろうか。

 右手には長い剣を持ち、仁王立ちしている。いつも長剣をひけらかして周囲を威圧しているのだろう。長剣を収める鞘はマントに隠れているのか、目に付かない。マントの裏地も真っ黒だし、肌も黒いので、全身が黒ずくめだった。

 3人の周りには、何十体もの黒い人影が動き回っていた――ようだ。今は、全員が猛を凝視しているが、分かり易い役割分担らしく、如何いかにも小間使いと言う感じだ。100㎝程度しかない身長が、彼らの役回りを如実に物語っている。

 身長は低いが、姿形は獰猛だ。白目は無く、黒目だけの三角形をした目が不気味に釣り上がっている。鼻筋は殆どなく、チンパンジーの様に顔面に鼻孔がいきなり穿たれている感じだ。口元も両脇が釣り上がっており、赤鬼や黒鬼とは逆に、上顎から犬歯が吸血鬼の様に覗いている。

 黒鬼と同じ様に黒い鮫肌の衣服をまとっているが、マントは着用していない。替わりに頭には黒い頭巾を被っている。頭巾の一端は尖っており、ハリウッド映画に出てきそうな悪魔像そのものだった。

 恐らく、黒鬼の子分達なのだろう。黒鬼とは違ってブーツは履いていない。素足である。足の指先にはたかの如き鋭い爪が伸びている。

 そして、ハリウッド映画のエキストラさながら、何千何万と言う裸体の老若男女が列を作っていた。遠くに大河が見える。老若男女の行列は大河の向こう岸、遥か地平線の先まで伸びていて、霞んだ行列の最後尾が何処に有るのか判然としない。

 老若男女の顔色は青白く、唇は紫色に変色していた。皆一様に茫然自失とした表情を浮かべており、精気が全く感じられない。行儀良く1列に並び、ユラユラと身体を揺らしていた。

 猛が現れるまでは、ゆっくりと行列が進んでいたのだろう。今は鬼達が猛を凝視しているので、行列の先頭が停まっていた。

 其れを知らずに歩みを進める者は自然と列を乱す事になるが、そう言った者が現れると、小悪魔然とした小間使い達が目敏く見付け、槍の先端に半円形の金具を取り付けた刺股で列に戻るよう追い立てた。

 行司みたいな偉丈夫が、猛に向かって大声で吠えた。

『汝は、何故なにゆえ有って、ワシのべる地獄を覗こうとしたのか?』

 偉丈夫の話す唇の動きと台詞せりふが合致しない事は、読唇術を習った事の無い猛にも一目瞭然だったが、猛の頭には確かに日本語で響いて来た。声音こわねと音量は実物と同じであったので、猛は思わず両耳を抑えてうずくまった。蹲った間に一つの言葉を咀嚼する。

――地獄? 確かに地獄と言ったよな? そうすると、目の前に座っている奴は閻魔大王なのか?

 小悪魔が2人、刺股で猛を小突き、閻魔大王の前に直立し直すように急き立てた。

如何いかにも。ワシが閻魔大王だ』

――閻魔大王は俺の心を読めるの? 其れはマズイなあ。嘘が言えないって、本当の事だったんだ!

如何いかにも。ワシは、お前の心を見通す事が出来る。観念して、ちゃんと声に出して話せ。分かったか?』

 猛はビックリして頷いた。

『まずは、名を名乗れ』

鬼頭きとうたけるです」

『鬼頭猛よ。此の浄瑠璃鏡じょうるりかがみの前まで進め。鏡に汝の姿を写すのじゃ』

 小悪魔2人が猛を引っ立て、閻魔大王と老若男女の列の間に据え置かれた大きな鏡の前まで追い立てた。

 鏡と言っても、猛の知っている鏡ではない。歴史の教科書に載っていた古墳時代の銅鏡である。表面は磨かれていたが、だからと言って、自分の姿が写るとは思えなかった。

『つべこべ考えずともよい。汝は浄瑠璃鏡の前に立てば良いのだ!』

 閻魔大王が怒鳴った。遠くで雷の落ちた音が聞こえた気がした。あまりの大音量に猛はヒエッと縮み上がり、観念して浄瑠璃鏡の前に進み出た。案の定、何も写らない。・・・・・・と思っていたら、浄瑠璃鏡の中に、何やら緑色に淡く光る羊羹《ようかん)の様な棒っ切れが浮かび上がった。

 浄瑠璃鏡に浮かんだ映像を見た閻魔大王が、

『汝の性根しょうねは真っ直ぐのようじゃな。ナヨナヨしていて剛健とは言えんが、真っ直ぐのようじゃ』

 と、宣言した。そして、

『汝は、幾つになる?』

 と、御下問した。

 背中を向けたまま答えると叱られ兼ねないと警戒した猛は、閻魔大王の方に向き直ると、

「17歳になります」

 と、しおらしく答えた。

『17歳か。未だ未だ子供であるな。其れ故、性根が未だ曲がっておらぬ。ならば、汝の答えを信じよう。

 改めて問うぞ。汝は、何故なにゆえ有って、此の地獄を覗こうとしたのか?』

 地獄を覗く? ・・・・・・意味が分からなかった。

「済みません。閻魔様の質問の意味がサッパリ分からないんですけど・・・・・・」

 スゴスゴと猛が白状する。最後の方は消え入りそうな声である。

 実際には聞こえなかったが、「何だと!」と激高したように口を大きく開けると、閻魔大王は両眼をカっと見開いた。軍配扇子を椅子の肘凭れにバチンと叩き付ける。今度は猛の耳にもハッキリと聞こえる大音量で雷鳴が轟いた。

 あまりの迫力に猛はおののいたが、此れまた不思議な事に猛の頭には幾つもの思念映像が流れ込み、今回の顛末が理解できた。

 竜神バンジーの先端は地獄につながっていたようだ。地獄の中でも、血の池地獄の真上だったらしい。血の池地獄では、刑罰を受ける亡者達が灼熱の血の池に浸かり、地獄の責め苦に苦しんでいた。苦しみながら、阿鼻叫喚を上げつつ、天上を向いて自らの罪悪を後悔していた。当然、目を開けている。

 そうしていると、時々、上空にヒョッコリ人間の頭が見える。其れも一瞬だけ。

 一瞬だけ見えると余計に気になってしまう。一度、気に掛かる事を見付けると意識がそっちに行ってしまい、血の池地獄の責め苦を忘れてしまう。真面目に罪悪を後悔していた折角の懺悔行為も中弛みとなってしまう。

 人間とは、そんなものだ。

 だが、地獄を運営する閻魔大王達にとっては、不都合な現象であった。人間達が自分の世界に飽き足りず、地獄まで版図を広げようと攻め入る前兆ではないか?――と言う疑念も拭い切れない。

 だから、天狗の如き姿をした落鬼らっきに見張らせていた。都市伝説の通りに地獄を見れた者は少なかったので、落鬼らっきも随分と待ち惚けを食ったが、偵察を始めてから初めて顔を覗かせた者が猛だったらしい。

 運良くと言うか、運悪くと言うか、猛は落鬼らっきに拉致された――と言う顛末だった。

 顛末が分かったからと言っても、猛には何とも釈明のしようが無い。

「質問の意味は理解しましたが、閻魔様が疑っている事は全くの誤解です。

 私は、レジャーの一つとして、バンジージャンプを楽しんでいただけです。受験勉強を始めないといけませんし・・・・・・」

 と、正直に答えた。

 閻魔大王は、猛の回答の前半部分は理解したものの、後半部分の意味は全く不明であった。

『レジャーとは如何いかなるものか?』

 改めて問われると、猛も説明に窮する。頬杖を付いた右手の肘を左手で支えながら、少し考え込む。

「・・・・・・非日常的な事をして、楽しむ。って言う事かなあ?」

 末尾の音声を上げて答えても、閻魔大王からは「質問しているのはワシだ」と言う反応しか出ない。けれども、猛が誤魔化していない事は先刻お見通しである。閻魔大王は辛抱強く質問を重ねた。

『それでは、バンジージャンプと言うのは何だ?』

「ロープを足に括りつけて、高い所から飛び降りるスポーツです」

『そんな事をして楽しいのか?』

「俺も初めてでしたけど・・・・・・まあ、飛んでいる時は爽快だったかなあ」

『針山地獄でも、其処に落鬼らっきに上空まで抱え上げられた咎人とがにんが針のむしろに落とされておるが、咎人は皆、悲鳴を上げておる。ワシが見ても、咎人が楽しんでいるようには見えんが・・・・・・』

 其れはそうだろう。猛が答えに窮して黙っていると、

『汝が望むならば、地獄に連れて来た詫びとして、針山地獄を体験させて遣っても構わぬぞ。如何いかがする?』

 善意からの提案だとは理解するも、とんでもない提案である。

 猛は激しく首と右手を振って、閻魔大王の申し出を断った。閻魔大王は『遠慮深い子供じゃのう』と呟いたが、腕組みして考えている事は別の事のようだ。

『高い所から落としても、其れを楽しむ人間がると言う事は、針山地獄の運営方法も少し改善しなければならんかのう。

 何せ、咎人が責め苦と認識しなければ、性根を叩き直す足しにならんからのう。どうじゃ?』

 左に控えた赤鬼せっきの方を振り向く。赤鬼せっきは畏まって、『仰せの通りに』と野太い声で答える。

 閻魔大王は、また猛の方に向き直り、地獄を覗いた真意を問い直す。

『改めて確認するが、人間共は地獄に攻め入ろうとしているのでは、ないのだな?』

「とんでもない!」

 猛は胸の前で両手を大きく振って、閻魔大王の疑いを否定した。

「攻め入ろうなんて考えていません。ただ怖いもの見たさで、覗こうとしていただけです」

 また、閻魔大王は困惑した。

『地獄を覗こうとしたのだな? して、何故なにゆえに覗こうとしたのだ?』

「いえいえ、地獄とは知らなかったんです。

 ただ、頑張って下まで落ちれば、一瞬だけ暗闇の別世界を覗けると言う都市伝説が語られていて・・・・・・。だから、肝試しなんです!」

 狼狽した猛が必死に事情を説明しても、閻魔大王に真意は伝わらない。“都市伝説”と言う言葉も知らないし、“肝試し”の意味も理解できない。

――“肝”とは“性根”の事か? ならば、性根は試す物ではなく、判ずる物である。

『ああ、じれったい! 人間共は地獄に攻め入ろうと準備を進めているのではないのか?』

「滅相も無い。本当に地獄が有るなんて知らなかったし、知っていたとしても、行きたがる人間はいませんよ」

 いよいよ猛も必死である。閻魔大王は腕を組み直すと、目を閉じて考え込んだ。

 考えてみれば、現世で悪事を働いて死ねば地獄に来るのである。現に、閻魔大王の前には候補者が列を成している。ワザワザ生前に地獄に行こうと人間共が考え始めたと邪推する必要は無いかもしれなかった。

『汝の言う事を是としよう。

 恐らくは、神の奴が安普請やすぶしんに地獄を造りおって、時空に穴が開いたのであろう。

 面倒だが、極楽に赴いて営繕の申請をせねばなるまいな。まったくもって、迷惑な神だわい』

 閻魔大王は嘆息した。

 猛には閻魔大王の発言内容を全く理解できなかったが、人間界に対する誤解は解消したようである。自分の発言が人間界を混乱に陥れるかもしれないと言う緊張からは、ひとまず解放された。

『汝を現世に戻してやらねばならんが、生憎、今は手を離せん。しばらく待っておれ』

 そう言う沙汰が出れば、猛に選択の余地は無い。猛はコクコクと何度も頷いた。・・・・・・が、自分にとっては深刻な心配事を恐る恐る閻魔大王にぶつけた。

「閻魔様。あちらでは、俺が居なくなって心配していると思います。いつ頃、帰れますか?」

『心配するな。地獄には、汝らの世界で言う時間の概念が無い。つまり、汝が消えた直後の瞬間に戻してやる。だから、心配は無用じゃ』

 そして、思い付いたように優しい言葉を猛に掛けた。

『そうじゃな。其処に立ったまま待っているのも退屈じゃろうて・・・・・・。

 此の怠鬼たいきに汝に湧いた退屈虫を取らせても良いが・・・・・・。いっその事、怠鬼たいきに地獄を案内させよう。汝も地獄を見学してみたかったんだろう?』

 閻魔大王は相変わらずの怖い形相であるが、此れが自然体なのだろう。顔に似合わず、温厚な性格のようであった。

「お爺さんが案内してくれるのですか?」

 猛が他意も無く確認すると、閻魔大王の椅子の背凭れに腰掛けていた怠鬼たいきが、

『ワシは、女じゃ! 失礼な小童こわっぱじゃ』

 と、甚だしく憤慨した口調で叫ぶと、何かを猛に投げ付けた。

 蛆の如き白い虫がピタリと猛の額に貼り付く。猛はゲっと悲鳴を上げたが、すぐさま蛆の事はどうでも良くなって、気怠けだるい気持ちになった。立っているのも面倒臭い。

 怠鬼たいきは、猿の様にピョンピョンと椅子の背凭れから飛び降りると、猛の元に駆け寄った。老婆の姿からは想像できないほど俊敏な動きであった。

 そして、ヒョイとジャンプすると猛の額から白い虫を取り、プチリと指で潰した。虫の体液で濡れた両手を首に掛けていた手拭いで拭う。猛は急に元気を取り戻した。

 怠鬼たいきは、

『退屈蟲じゃ。ワシの役務は、閻魔様の頭に湧いた退屈蟲を取り去る事じゃ。

 閻魔様は不憫な方でのう。生まれてこの方、亡者共の性根を見極め続けておるのじゃ。浄瑠璃鏡を見続けるだけじゃて、退屈もしようぞ』

 と、猛に講釈を垂れた。

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