最終話 不射の射
エーリッヒは懐の小瓶から
彼の小さな体の隅々まで熱い血液が巡り、表皮は毛皮に変わり、口からは鋭い牙が伸びる。
人の身で獣に限りなく近づいたその姿は自らが草原の狼の末裔であると高らかに謳うようだった。
「行くぞアプロ」
「おうよ
アプロに跨ったエーリッヒ、そしてその背にが
エーリッヒ達を見つめ、大きく一つ鳴き声を上げる。それに刺激された家畜たちは柵を飛び越して次々と逃げ出し、既に待機していた筈の戦闘用の騎狼すら少しずつ後ずさり始める。
鍛え上げられた屈強な
そしてその横をすり抜けてエーリッヒ達だけが進む。
「ナライ! ちゃんと捕まっててね!」
「ええ、勿論!」
逃げ惑う人々、泣きわめく家畜達、それらをかき分けながら二人と一匹は進む。
「いかんな……」
「どうしたんですアプロさん?」
「
「アプロさんと一緒に居る間ならば声の影響を受けないのですか?」
「それに加えて俺の装備は音を吸収することに長けている。オーゼイユの奏でる声を極限まで減衰させながら戦える。だから俺達が前に出なくちゃいけない。戦わなくちゃいけないんだ」
「成る程……でも、私は足手まといになりませんか?」
「そこなんだがよ。ねーちゃん、あんた何かあの鳥について覚えていないか?」
「私が!?」
「どういうことだよアプロ?」
エーリッヒの問に答えずアプロは全速力で
すると離れていくエーリッヒ達を追いかけてオーゼイユがその翼を広げ、空へと飛び立つ。
「見ろ、エーリッヒ。また追いかけてきた。おいら達が何年も追いかけ続けてきた敵が、おいら達の追跡から逃げ続けた筈の敵が、こっちを追っている」
「……あっ! いやでも、ナライの時は手傷を負わされて興奮してただけじゃないの!?」
走る。風のように走る。
「いんや、そうじゃない。明らかにあの鳥はおいら達を追いかけているんだよ」
アプロの言葉にナライの表情が陰る。
その僅かな表情筋の変化をエーリッヒは獣化したことによる感覚の強化で感じ取る。
「ナライ?」
ナライはしばし沈黙する。
「エーリッヒ! そろそろ近づいてくるぞ! 霧を作れ!」
「う、うん!」
エーリッヒは後ろから追いかけてくるオーゼイユの目を誤魔化す為に
「あいつはおいら達を見失っている。近づき次第撃て、倒れるまで撃ち続けろ。良いな
「任せてよ、それなら得意だから! だけど……」
エーリッヒの父が作り上げたオーゼイユ対策の装備、そして戦術は練習どおりに効果を発揮し始める。
至近距離からオーゼイユに睨みつけられぬ為の霧、そしてあの奇っ怪な鳴き声を吸い込むことで無効化する
オーゼイユを霧の中で惑わしながら少しずつ手傷を追わせ、追い詰める。そうなる予定だった。
「ケエェ――――ッ!」
甲高い鳴き声が一度響くと共に突如として突風がエーリッヒ達を襲う。
「霧が吹き飛ばされる!?」
「んー、困ったぞこいつは……おいらとエーリッヒの親父さんで考えた戦術が台無しじゃねえか」
一瞬で吹き飛ばされた霧の向こう側から巨鳥の姿が突如として現れた。二人と一匹の後を追うように低く低く飛んでいる。
10mを超える巨体、羽毛の隙間から泡立つ漆黒の肉体、瞳ばかりが赤く爛々と輝き、憎いエーリッヒとアプロを見つめている。
エーリッヒは考えるよりも早く弓に矢を番えて巨鳥の両目に向けてそれぞれ二発ずつ放つ。
だが四本もの矢がオーゼイユの両目に直撃したにも関わらず、オーゼイユは全く動きを止めない。生き物の挙動ではない。
「矢も通じない!」
オーゼイユは両足の爪をエーリッヒに向けて幾度も幾度も振り下ろす。
その度に地面は削れ穴だらけになっていく。
あれが一撃でも掠ればミンチになって死ぬということはエーリッヒにも分かった。
「オーゼイユは学習します。龍泉に満ちる人々の記憶を通じて、この大草原に育った命を収穫して大地に還元する為に」
「ナライ、オーゼイユの事知っているの?」
「弱肉強食、それが自然の理であり、我々はそれによって繋がっていると学習していました。殺して奪うことこそが愛であり、殺されて喰らい尽くされることこそが慈しみであると、この草原に生きる命から我々は学んだつもりでした」
「待てよナライ、一体何を……」
「元よりこうする予定だったのです。エーリッヒ、私が居なくとも壮健で」
ナライは穏やか笑みを浮かべたままエーリッヒの背中から手を離し、アプロの背中から飛び降りた。
そして両目を潰された筈のオーゼイユは口を大きく開けて空中の彼女を飲み込む。
「ナライ!?」
「落ち着け
オーゼイユの両目から刺さっていた矢がボロボロと落ち、見る見るうちに傷が塞がっていく。
オーゼイユは突如としてナライと同じ声で一人と一匹に語りかける。
「ええ、そうです。そうですとも。龍泉は全ての命の源、全ての命を生み出した場所、ならばなんであれ作り出せる。人も、獣も、魔も。視線だけで人を殺し声だけで獣を追い散らす怪鳥のような何かも、異国から来た女性を真似た人間そっくりの何かも、騎狼に良く似た人語を解する何かさえも」
「オーゼイユが喋っただと?」
アプロが足を止める。
それに伴ってオーゼイユも飛翔をやめ、その場に降りる。
エーリッヒだけは弓に矢を番えてオーゼイユに向けたまま動かない。
「どういうことだアプロ? 急に止まるなんて!」
「待てエーリッヒ、このオーゼイユ何かがおかしいぞ?」
「ああ、我々はこの草原の民との間に命の循環を築き上げ共に生きてきたつもりだった。だがそれは我々の思い込みに過ぎなかった。人の暮らしが豊かになって、我々は初めてそれを理解した。そして我々は私を作った」
オーゼイユはナライの声で語る。
「私を作った……? じゃあなんなんだ? ナライがオーゼイユの子供だとでも言うのか?」
「私は端末に過ぎなかった。光を見る為に目が有り、音を聞く為に耳が有るように、人間の変化を知る為の感覚器官に過ぎなかった筈だった。だが私から得られた情報は我々にとって非常に貴重だった。人間が獣とも異なる存在に変わりつつあるのなら、私もそれを見守る存在として変わらねばならぬ。我々は私により変質した」
「ナライを通じて俺達人間を理解するつもりになったってことか?」
「そうだ。捕食という形以外にも命の連環をつなげる方法は有る。我々の中の私がそう言っている」
「じゃあ何か? 人や獣を襲うのをやめるとでも言うのか? 狂った龍の骸よ」
「そうだアプロ、お前との因縁も長かったがこれで終わりかもしれんな」
「へん、すぐに信じられるものかよ」
「待てよ! オーゼイユ! ナライはどうなるんだ! お前は父さんだけじゃなくてナライまで俺から奪うつもりなのか!」
「奪う? 命がどこか一つに有ると考える人間の思考が我々には理解できない」
「
「だったらどうすれば取り返せる!」
「今からおいらと一緒にあのオーゼイユをぶちのめして、中からナライ姉ちゃんを引きずり出すしか無いだろうなあ」
「それで良いのか?」
「そうしたらまたオーゼイユは逃げて、新しい龍泉がこの草原の何処かに生まれ、おいらと次の勇者が演じる終わりのない追いかけっこがこの草原で続くだけだ。何も問題は無い」
「我々を殺すつもりならばやめておくと良い。我々の中から私が居なくなっては、我々は再び人間との距離を見誤るかもしれん。我々は私による進化を望んでいる。我々は私を通じて人間や世界を学習する必要が有るのだ。人間にとっても、我々にとってもより良い結果を目指す対話がなされることだろう」
エーリッヒは考える。
ここでオーゼイユを殺してでもナライを取り返すことは不可能ではないかもしれない。
だが鍛え上げた筈の自らの矢を弾くような相手に勝てるのか? 意味もなく死ぬだけじゃないのか?
オーゼイユが人間と戦う度に学習をしているというならば、何時か人間はオーゼイユに勝てなくなるのではないか?
それならばいっそナライが内側からオーゼイユを変えることを祈るべきではないのか?
「……そうか」
エーリッヒは弓に番えていた矢をその場に落とす。
「
アプロは主の姿を見て牙をギリギリと噛み締める。
「仮に神が草原の民を生かすとしても、草原の民は神に祈らない。父さんから教えてもらった最後の技だ。拝んで死ね」
そう呟いてエーリッヒは構えた弓の弦を鳴らした。
次の瞬間、オーゼイユの内側から漆黒の液体が吹き出し、翼はあらぬ方向に折れ、嘴には大きな罅が入る。
「俺達は勝って奪い、負けて奪われ、戦いの中に生きて死ぬ!」
主の意思を汲み取ったアプロは単独でオーゼイユの中へと突っ込み、中からナライを救い出してエーリッヒに引き渡す。
気を失っているナライを自らの背後に寝かせ、再び弓を構える。
「
「最後まで付き合ってもらうぞアプロ!」
弓が再び鳴り響く。
オーゼイユの足元から黒い液体が吹き出し、巨体がグラリと揺れる。
そしてその揺らめいた頭部へとアプロは飛びかかり、過たず喉笛を噛みちぎってその巨体を地面へと引きずり倒した。
瞬く間の出来事であった。
オーゼイユの瞳からは輝きが失われ、その死体は今度こそ大地の中へと消えていく。
「アプロ、終わったのか?」
「いんや、これからまた始まるのさ」
「そうか……まあ良い。何度来てもぶちのめしてやるさ」
エーリッヒは背後で倒れる愛する人を抱き上げて、またあの脅威が訪れるであろう虚空を強く睨めつけた。
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