四章 ⑤『若君、剣道対決』

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 北岡師範は目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込んだ。それから何度か拳を握ったり開いたりした。


「お言葉ですがね……」

 次に目を開いたとき、その目はばっちりと怒っていた。口はへの字に曲がり、上背のある若君を見下ろすように胸を反らせた。


 やばい感じ。怒らせていけない人を怒らせてしまった感じ。


「うちの子供たちはここ数年、県大会で五連覇を果たしています。わたしはこれが誇れる数字だと思っていますよ。それに指導方針について、あなたによけいな口出しをされる覚えもありませんがね」


 そういって二人は無言で睨みあった。こうしてみると若君がかなり若く見えることに気付く。背は高いけど細身だし、口のききかたも知らないニイチャンという感じに見える。

 

 だがそれでも若君の方が偉そうに見えるのだから不思議なものだ。


「よかろう。ワシがおまえの腕を確かめてやる。棒きれをよこせ」

 若君はそういうと、グイと腰の剣をはずしてあたしに持たせた。


「いいでしょう。でもわたしを甘くみない方がいいですよ」


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 唐突に始まった決闘。生徒たちはわらわらと壁ぎわに避難した。そしてひそひそと話を始めた。


 そして若君と北岡師範は一定の距離を保ったまま、道場の真ん中へと歩いた。


「だれかこの人に防具を持ってこい」


 北岡師範はドンと床に座り、頭に手ぬぐいを巻いた。それから胴当てのひもを締めなおし、面をかぶり、籠手をはめた。


。だがおぬしは付けていてよいぞ」

「わたしはかまいませんが、怪我をしても責任はもちませんよ」

「かまわんよ。だがな、ひとつ覚えておくといい。戦場ではのんきに防具を整えている暇などないぞ」


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 北岡師範はそれには答えず、一度首を傾けてから、気合いを入れるように面を籠手でバシバシと叩いた。


「一応言っときますが、わたしは六段の腕前です」

「ワシの腕前は剣をあわせれば分かるはずじゃ。新兵衛、貴様の刀を貸せ」


 そして若君の手に、新兵衛から竹刀が渡された。

 若君は左手一本でそれを何度か振って感触を確かめた。


「では」

 師範が頭を下げた。


「こい」

 若君は悠然と肩に竹刀を乗せた。


 そして二人は真正面に向き合った。


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「ねぇ、あの人誰なのよ?」

 急に隣から声が聞こえた。


「あれ。サツコちゃん」とあたし。


 北岡サツコは同じクラスの女の子。ちょっとふっくらした体型の子だ。そして目の前にいる北岡師範の娘でもある。北岡師範はふだん警察官をやっていて、その娘だからサツの子でサツコというあだ名がついているのだ。本当の名前は佐都子と書いてサトコちゃん。


「ねぇ、すっごいかっこいい人だねぇ」

 反対側からもう一人。こちらはコハルちゃん。メガネをかけた、やたらグラマーな女の子だ。もっとも剣道着ではほとんど分からないんだけど。


「誰よ、あのイケメン?」

 最後に背後から現れたのはミナミちゃん。この三人組のリーダー格の女の子。そばかすが印象的で、バリバリのスポーツマンタイプで、いつもハイテンション。


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 サツコ、コハル、ミナミ。剣道三人娘は学校でもちょっとした有名人だった。


 やっぱり見つかったか……思わず頭を抱えてしまう。


「どこに隠してたのよ?」

 メガネをキラリと輝かせてコハルちゃん。

「あ、親戚の人なの。今家に来てるんだ」

 アハハハと笑ってごまかせればいいんだけど、もちろんごまかされない。

「俳優かなんかやってるの?」さらに食いつくコハルちゃん。

「絶対芸能界でしょ?でしょ、でしょ?」

 ミナミちゃんまでぐんぐん食いついてくる。


 うーん、困ったな。と、ここでサツコちゃんが割ってはいった。


「ねぇさつきちゃん、それよりさ、あの人を止めた方がいいよ。お父さんマジで強いから。去年も警察の全国大会で六位に入ってるんだよ」


 え……そんなに強いの。


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 北岡師範はスッと竹刀を抜き、その先をぴたりと若君に向けた。その全身から静かな闘志のようなものがビリビリと伝わってくる。


 一方の若君は少し体をハスにかまえ、左手だけで肩のあたりに竹刀をそっと乗せている。剣を構えているという感じはしない。戦おうという気迫も感じられない。自然体でのんびりと構えている。


「あんたの親戚、剣道やったことないんじゃないの?」

 リーダーのミナミちゃんがあきれたように言う。

「そんなことないと思うんだけど……」

 とフォローはしてみるが、あの構えではそう見られても仕方ない。それどころかあたしも心配になってきた。


「違うよ、あの人、かなり強いよ」


 サツコだけはまっすぐ二人を見つめている。サツコだけがあたしたちとは違う何かを見ているようだった。


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「そうだね、師範がまだ仕掛けないもんね」

「あれで結構スキがないもんね」

 ミナミとコハルも食い入るように見つめ出す。あたしの方はさっぱり分からない。


「イヤァァァ!」

 師範が吠えるように声を上げた。その大きな声。皮膚がビリビリとあわだった。


「エエイッ!」

 それに答えて若君も怒声を発した。北岡師範よりもさらに大きな声。空気がビリビリとふるえた。


 そして北岡師範が先に動いた!

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