第4話 エレッセアの呼び声


 夢を見ている最中にはまったく疑問も持たず、どうしてこんな、ありえないシチュエーションを受け入れることができるのだろう。


 さざ波ひとつ立たない、鏡のような海。

 水平線はかすみに覆われて、うかがうことができない。


 見上げれば満天の星空。

 しかし見知った星座は一つもない。

 月が出ていない代わりとしても、有り余るぐらいの光量の、まるで星のささやきが聞こえてくるような夜空。

 波の無い水面は、寸分違わずその星空を写していた。


 ここは地球ではないのであろう。


「浩平さん……」


 煌々こうこうと照る星明りの下、俺と彼女は船に乗っていた。


 直線がまったくない、風雅ふうがな作りの、いわゆる帆掛け舟。

 波の高い海に浮かべたら、瞬く間に転覆しそうな、喫水きっすいの浅い、波のない海のために作られた船。

 風はまったく感じられないのに、帆は張詰めている。

 そして船は、すべるように鏡面きょうめんの海を進む。

 おおいも何もない狭い甲板に、俺と彼女は膝もくっつく様な向かい合わせで、据え付けられたベンチに座っている。


 彼女の視線はまっすぐに俺に向けられている。

 透き通るような白い肌も、一本一本がまったく見分けられない、まるでヴェールのような淡い金髪も、星明りに呼応したように内側から光を発していた。


 小さいアーモンド形の顔に、少しとがった耳と大きな瞳。

 彼女は、淡い緑色のゆったりとしたドレスのようなものを着ている。

 胸元には、緑の大宝玉の首飾りが、星々の光を集めて輝いていた。


──そうか。ここは、失われた彼女の故郷なのか。


 しかし、彼女の一族の没落ぼつらくは遠い昔の出来事のはずだ。

 彼女らの思い出の中にしかない、すでに失われた故郷の風景の中に、入り込んでしまったのか?

 彼女は、このような幻想的な海も、息を呑むような夜空も無視し、俺の表情から心の内を読み取ろうとでもしているかのように、真剣な眼差しで俺だけを見つめている。


──そんなに思いつめた顔をしないでくれ。


 しかし、口を開く事が出来ない。

 忘れてしまったのだ。

 言葉の出しかたを。


「浩平さんは覚えていてくれるかしら、この夢が覚めても」


──ああ、これはやっぱり夢なんだ。


「私たちが目指していたのは静かな海に浮かぶ島」


 ここで彼女は言葉を切り、しばし夜空を見上げ、瞳を閉じた。

 まるで失われかけた記憶を辿るように。


 そのとき気付いた。

 船の進む先の霞の彼方から、微かに、厳かな旋律が聞こえて来ることに。

 遠い遠い岸辺からこの船を招くように奏でられる音楽は、地球のものではない。

 その音は、はるか太古からの時の流れそのもののように、船まで届いていた。

 船の帆を膨らませているのは、この、時の流れなのだろうか。

 だとすると、この船は時の流れを進んでいるのだろうか。


 旋律に乗せて彼女は静かに唄った。


 俺には、彼女の発する言葉の意味は解らなかった。

 その言葉は日本語でも銀河公語でもなく、おそらく彼女の故郷の言葉なのだろう。

 言葉の意味はわからないが、聞いているうちに彼女の発する音が俺の頭の中で再構築され、意味合いを持った詩になっていった。

 しかし、後にこの夢の記憶を取り戻し、歌詞を思い出せたのは、短くは無かったその歌のほんの一部だった。



 星々のみぎわぎり、

 西方の大島エレッセアの岸辺に、

 波が打ち寄せることは無い。

 神々の差し伸べられたる御手の、

 枝分かれたるその先端が、

 湾曲しないエレッセアの岸辺に、

 届くことは無い。


 星のかけらが落ちて、

 すべては海に沈むから。


 星は砕け黄金の塔はこぼたれた。

 驕慢きょうまんなディンギルは虚無に落とされた。

 我らは、嵐のそらを渡り、ここに来た。


 奴隷は戒いましめを解かれ、

 初めて人と呼ばれた。


 ディンギルは蛇に姿をかえ、

 我らを打ち据える。

 人々が立ち上がろうとするたびに、

 星のかけらを投げつける……。



 気がつけば歌は途切れ、彼女は再び俺の顔を見つめていた。


「この船の行く先はエレッセア。呼ばれているのは私。私は行かなくては行けないの。だけど、たどり着けないの」


 彼女の瞳には悲しみが宿っている。


「年月を数えたてることなく生きてきた私の傍かたわらを、足早に通り過ぎて行った人たち。あの音楽は、きっと私を招くためにあの人たちがなでているのだわ」


 生きる事への倦怠感けんたいかん罪悪感ざいあくかんに彼女は捕らわれている。


「私は行かないといけない。こうべれ許しをうために。でも、今はもう進めない」


 ポツリポツリと彼女は言葉を発する。


「浩平さんは連れて行ってくださいますか?いつか私をエレッセアに……」


 俺はやっとの事で一言だけ言葉を発する。


「君は行きたいのかい?本当に」


 彼女は俺のその問いには答えず、船の行く先に視線を向ける。

 俺は覚えていられるのだろうか、この夢の事を。

 彼女のためにも覚えていたかった。

 そんな気がした。


「あなたはもうすぐ目覚めてしまう。さようなら、浩平さん」


 そのような言葉を聞きながら、俺は他愛無い別の夢に迷い込んでいった。


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