彼女がついた嘘・解決編

 姫宮はテーブルの上にあったティッシュを続けざまにとると、鼻を噛んだ。

「どれが嘘だったのですか?」

 どの言葉が嘘だったとしても、鈴木の傷は癒えないだろう。いや、むしろ傷は更に深くなるのかもしれない。それでも私はワトソンだった。聞くべきことを聞かねばならない。

「彼女のついた嘘はなんだったのですか?」

「罠にはまってますね」

 姫宮はティッシュを丸めると、潤んだ瞳のまま晴れやかに笑った。

「鈴木さんは嘘をついているんですよ」

「嘘」

 一瞬、私の脳は空転した。

 意味が分からない。

「どういう意味です」

「だから言葉通りの意味ですよ。たぶん、鈴木さんは嫌がらせのために嘘をついたんじゃないかな」

 あり得ない。私は反射的に思った。

 ここのシステムは完全な紹介制だ。警察か、弁護士か、以前の顧客に教えてもらわないと、この事務所にはたどりつけない。およそ効率的とは言いがたい営業方針だったが、そうしなければ単なるファンが大勢やってきて仕事にならないというのが姫宮の判断だった。世間に流布した名探偵の幻想を壊したくないという私の判断も、それに加わっている。

 だから電話帳に広告は出しているが住所は書いてないし、隣みたいに看板も出してない。 

 ここが名探偵、姫宮圭太郎の自宅兼事務所であると知っているのは、ごく限られた人々であり、そのごく限られた人々は私と同じように姫宮を大切に、大事にしてくれている。  

 嫌がらせを企む人間などに、この場所を教えるはずがない。

「ふざけるな」

 鈴木が怒声を上げた。もちろん、鈴木はそうして当然なのだ。彼の免許証は本物だったし、彼はこの場所を知っていた。彼は救いを求めてやって来たのだ。恋人の死に苦しみながら、この部屋のドアをノックしたのだ。

 どう取り繕ったらいいのか分からなかった。だが、このままでは、まずい。姫宮がこともあろうに依頼人を嘘つき呼ばわりした噂は、あっという間に広まるだろう。広まって、事務所は潰れてしまうに違いない。

 胃がきりきりと痛くなった。

 現在、事務所はあまり裕福とは言えない状態だ。姫宮がいつも簡単に事件を解決するためだった。スピーディーな解決は、依頼人にとっては良くても、事務所の経済的には思わしくない。紹介制のためお客が来ること自体が珍しかったくらいだし、ここ数日は電話すら鳴らなかった。きっと隣の探偵社に客を取られているのだ。隣には看板がある。

「ふざけてなんていませんよ」

 姫宮が言った。事務所崩壊の危機など、まるで考えていない声だ。きっと姫宮はストレスなんてまるで感じていないのだろう。だけど私の胃のことも考えて欲しかった。きっとワトソンは医師というちゃんとした職を得ていたから、ホームズと関わっていられたのかもしれない。私は、ワトソンを職業とすべきではなかったのかもしれない。もしかしたら胃袋のためにも副業を持つべきなのかもしれないと、かすかに思った。

「いい加減にしろ」

 鈴木が物凄い力でテーブルを叩いた。その音に、空気が凍りつく。

「なんのつもりだ?」

「なんのつもりはあなたです、鈴木さん」

 意外に冷静な声で姫宮が言った。すっかり涙は乾いてしまっている。私はと言えば、鈴木の怒りに心底怯えてしまっていて、声も出なかった。胃の痛みは消えてしまったが、足が小刻みに震えていた。

「この、いい加減に――」

「あなたは助手席から彼女が飛び出したと言った。飛び出した彼女は一歩も動けず、トラックに轢かれたと」

「それがどうした?」

「あなたは怪我をしなかったとも言った。後続車はいなかった。そうも言いましたね」

「だからそれがどうしたんだって言ってるんだ」

「彼女は対抗車線を走っていたトラックに轢かれた?」

「新聞にそう書いてあるだろう、お前、字が読めないのか」

「読めますよ、あなたと同じに。あのね、国産車の助手席から飛び出したとしたら、香織さんが反対車線に転がるはずがないんです」

 そもそも、と言って姫宮は続けた。

「国産車の助手席は左側にあります。そして、日本の場合、車は左側を走る。香織さんが飛び出した勢いのまま転がって反対にある対抗車線に転がることはありえないんですよ」

「だけど」

 私は思わず大きな声を出していた。

「だけど新聞に」

 口に出して気がついた。違う。そうじゃなかったんだ。

 私の思考を追いかけるように、姫宮の言葉が耳に響いてきた。

「左ハンドルの車だったのでしょう」

 記事と記事の隙間を埋めるように書かれた文章には、そこまで詳しく書いてなかった。

「ただ、記事が間違っているという可能性もありました。だから、鈴木さんに聞いてみたんですよ。あなたに怪我はなかったのかと。だが鈴木さんは後続車はいなかったと断言しました」

 後続車がいないのならば、香織さんは死亡しないことになる。

「まあ、もしも記事が間違っていたとしたら、鈴木さんが訂正したはずです。よって、この鈴木さんは現実に起こった香織さんの事件とは何の縁もゆかりもない人物です。香織さんのことは新聞の記事を読んで知っているだけでしょう。嘘っぱちなんですよ、彼が言ったことは」

 鈴木を見た。俯いていて、顔色が青い。

「なぜ?」

 私は言った。

「なぜ、こんなことを」

「これは推測というより勘でしかないのですが」

 答えない鈴木の代わりに答えるように、姫宮が言った。

「あなた、隣の探偵社の人でしょう」

 びくりと鈴木が身体を震わせた。鈴木は否定しなかった。

「どうしてこんなことをしたんですか?」

 姫宮が落ち着いた口調で言った。


 ある社会心理学者が「彼という現象」という短い論文を雑誌に寄稿したことがある。

『・・・・・・彼に動機を聞かれた犯人は、絶対に白を切ったりしない。彼が動機を教えてくださいと口にすると、あっさりと自白する。これは彼が名探偵だからだ。名探偵である彼が「動機だけが分からなかったんです。教えていただけますか?」と口にするからこそ、犯人たちは自白するのだ。言い換えれば名探偵という彼が存在するからこそ、犯人はやっと犯人らしく振る舞えるのだ、とも言える。犯罪者は犯罪者として振る舞うことで、心の闇などという言葉でマスコミに事件を弄ばせたりはしないし、自分を見失ったりもしない。つまり、彼という現象が実在するのは、民意の具現なのだ。心の闇という言葉で犯罪を片付けるなと言う、民意の具現が彼なのだ。彼が名探偵となったのは、もちろん彼が名探偵に値する人物であり、実績を積んだからであったが、しかし多くの人が『彼』という存在を欲していたからこそ、社会に名探偵という荒唐無稽な職業が認知されたのではないだろうか』


 姫宮が民意の具現だからかどうかは定かではなかったけれど、隣の探偵社を経営している鈴木稔は自白した。

 刑事を尾行していた鈴木は、ここが姫宮圭太郎の事務所であることを知り、隣に引っ越すことにしたのだと言う。本物の名探偵の事務所はきっと繁盛しているに違いないと鈴木は考え、おこぼれに預かろうとした。あふれた依頼人を回収しようとしたのだ。

 だが、依頼人が全く来なかった。

 電話も鳴らない。

 きっと、と鈴木は思ったそうだ。きっとこれは、隣の名探偵が全部客を取ってしまっているからだ、と。

 それで嫌がらせに来たのだと鈴木は言った。名探偵にも解けない謎を出して、溜飲を下げようとしたのだ。

「自営業というのは、大変ですからね」

 鈴木を送り出すと、姫宮がしみじみとした口調で言った。

「自宅で古新聞を整理しなかったら、こんなことにならなかったかもしれませんね」

「いつから彼の言葉が変だと思っていたんですか?」

 私は入れなおしたコーヒーを姫宮の前に置いた。姫宮はコーヒーを一口啜ると言った。

「彼がこの新聞を出してきたときに、ですよ。これ、恋人の死亡記事を保管していた割には、変な扱いでしょう? スクラップブックに貼ったわけでもないし、持ち運びするにはちょっと大きい。畳まないといけないからね」

 鈴木が残していった新聞は見開きのページを半分に切ったものだ。記事を赤いマーカーで囲っているだけで、よくよく見れば切り口も手で千切ったかのようにぎざぎざだった。

「自営業で暇な日が続くと、本当にノイローゼになったりしますからね。つい魔が差したんでしょう」

 あんたんとこは客でいっぱいだと思ったんだ。鈴木の声が脳裏に蘇った。鈴木を笑うことは、私にはできなかった。不安に押しつぶされそうになると、自分以外の人間もそれなりに苦労しているはずだということを忘れてしまう。つい、こんなに不安なのは自分だけなのだと思ってしまう。

「先生も」

 しばらく考えて私は言った。

「先生も不安に押し潰されそうになったことがあるんですか?」

「もちろんですよ」

 姫宮は苦笑した。

「僕だって自営業者ですからね。鈴木さんの気持ちは痛いほど分かる」

「どうやってそれを乗り越えたんです? 鈴木さんに何かアドバイスしていたでしょう?」

 姫宮は、鈴木を送り出す際に、何かを耳打ちしていた。私には聞こえなかった言葉で、鈴木の顔はぱっと明るくなった。

「何て言ったんですか?」

「僕が不安を感じなくなったのはね」

 姫宮はちょっと笑って言った。

「あなたを雇ったからですよ、立花裕子さん。あなたというワトソンを雇ったからこそ、僕は不安を感じなくなった。僕はね裕子さん、鈴木さんに信頼できる人間を一人側に置くことですとアドバイスしたんです。信頼できる人間関係がひとつあれば、心が安らぐものですからね」

 断っておくが、姫宮は断じて私のタイプなどではない。私は一般の女性と比べて捻くれた感性をしていると自認しているが、姫宮に愛玩動物のような愛しさを覚えることはあっても、男性としての魅力を感じたことなど一度もない。

 だから私が姫宮の言葉を聞いて頬が赤くなったり、意味なくスカートの裾を弄びたくなったのは、単に照れてしまったからだ。

 というか、そう思いたい。

 私の職業は、ワトソンなのだから。



 おしまい

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