彼女がついた嘘・問題編

 依頼人は、椅子に深く腰かけている姫宮を見てすっぱいものでも食べたように唇をすぼめた。

 その気持ちは、私にも良く分かった。


 名探偵、姫宮圭太郎。その名前は警察関係者だけではなく、一般人にも知れ渡っている。テレビの脚本家はネタに困ると姫宮が解決した事件をドラマに仕立てて放送するし、ワイドショーはネタに困ると姫宮が解決した事件関係者にインタビューを行う。推理作家は姫宮が解決した事件を元に小説を書くし、なんとロックミュージシャンまで姫宮に捧げる歌をヒットさせてしまった。

 もちろん姫宮は探偵という職業上の理由から、素顔がメディアに露出するのを避けている。写真誌の記者を出し抜くことなど姫宮には朝飯前の芸当で、だから事件に携わった人間以外、彼の素顔を知っているものはほとんどいない。

 そのため名探偵などという馬鹿げた職種をその実績により世間に認めさせてしまった姫宮圭太郎は、すでに生きながらにして伝説と化し、人々の中で神格化されてしまっている。人々が実際の姫宮を知らずに、長身で痩せた、神経質で眼光の鋭い、近寄りがたい天才というイメージを抱いてしまったのは止むを得なかったかもしれない。

 人は、名探偵という言葉に夢を見るものなのだから。

 だが、そのどこまでも果てしなく暴走してしまったイメージと、実際の姫宮はまるで違う。ことごとく違う。

 姫宮は小太りで、背が低く、ストレスなど生まれてこのかた味わったこともないような愛嬌のあるつぶらな瞳をしている。私見を述べるなら、椅子にちょこんと座っている姫宮はとても可愛いと思うし、彼のワトソンとして働くことにその外見の印象など何の痛痒にも感じなかったが、しかし、だからと言ってイメージが土砂崩れになってしまった依頼人を責めるのも酷というものだ。

 私は途方に暮れたように姫宮を見つめている依頼人と、新しいオモチャを発見した五歳児のように瞳を輝かせている姫宮を置いて、窓際に向った。時が全てを解決してくれるはずだった。

 目の前の道路は緩い坂になっていて、古い雑居ビルやアパートなどが立ち並んでいる。石畳の歩道は通り雨で濡れ、黄色い落ち葉が張りついていた。近所の中学校からランニングに来ているのだろう、ジャージ姿の女の子が三人、苦しそうな息遣いで駆けてゆく。車はほとんど通らなくて、静かだった。

 ここは中央の通りから一本入っただけの場所なのに、どこか隠れ家のような趣があって、名探偵の構える事務所としては完璧だと言ってもいい。三日前までは。

 視線を動かし、隣の看板を見つめた。忌々しい。忌々しいと思うのに、日に何度も見つめてしまう。私は真新しい探偵社の看板を、視線で削るようにして眺め回した。名探偵の事務所の隣にこともあろうに商売敵がやってきたのだ。

 腹立たしいにもほどがあった。いっそ、火でも点けてやりたかった。


「教えていただきたいのは彼女の嘘が何だったかなんです」

 火を点ける代わりにコーヒーを淹れて姫宮の隣に座ると、ようやくショックから立ち直ったのか依頼人が口を開いた。私は時計を見た。十八分。立ち直りは早いほうだ、この依頼人。

「これを見てください」

 依頼人は半分に折った新聞を差し出した。一ページだけ切り取ってある。二ヶ月前の、四月二日の新聞だった。姫宮と私はその新聞を覗きこんだ。小さな穴埋め記事を囲むようにして、赤いマーカーで囲ってある。助手席から飛び出した根元香織という二十三歳の女性が、対抗車線を走ってきたトラックに轢かれ、死亡したという記事だ。人の死は名探偵に解決され、脚光を浴びることもあれば、記事と記事の隙間を埋めるために使われることもある。

「これは」

 私は尋ねた。こういう単純な質問をするのはワトソンとしての私の役目だ。

「この記事の女性、根元香織は僕の彼女でした。彼女は僕の車の助手席に座っていました」  

 言って、依頼人は目を伏せた。

「四月一日、彼女は僕に嘘をつきました。嘘をついて、助手席を開け、道路に飛び出して死んだんです」

 依頼人は鈴木稔という名前だった。

「前の晩は、香織は僕の部屋に泊まっていました。その時、急に香織が言い出したんです。白樺の木が見たいって」

 鈴木は大げさに鼻をすすると、しばらくハンカチを目に当てた。それから目を真っ赤に充血させて、言葉を続けた。

「翌日、僕たちは車で出かけました。香織は僕の国産の軽自動車を、かぼちゃの馬車でも見るように目を輝かせてました。白樺の木がとても好きなんだと彼女は言ってました。あなたと一緒に白樺の林を散歩したかったんだと。信号が赤になるたびに、彼女は僕がギアに乗せた左手に自分の右手を重ねてくれました。ちょっとでも触れ合っていたいんだっていう風に。とても幸せそうで、とても楽しかった。長距離の運転がまるで苦じゃなかった。それから、彼女が言ったんです。今日はエイプリルフールだね、と」

 ごくりと鈴木は喉を鳴らした。つられるように姫宮も唾を飲みこんだ。姫宮はすっかり鈴木の話にのめりこんでいるように見えた。彼はいつでもそうだ。映画でも、ドラマでも、何にでもすぐにのめりこむ。その感情移入のスピードは驚異的で、姫宮は映画の宣伝だけで涙を流すのだ。姫宮の瞳は早くも潤んでいた。

「彼女は『だから今から一つだけ嘘をつくよ』と言ったんです。『あなたが好きよ。だけど、あなたの他に好きな人ができたの。だからもう会えないわ。今でもあなたが好きだけど、どうしようもないの。バイバイ』そう言って」

 顔を悲痛に歪め、鈴木は恐ろしく掠れた声を出した。

「彼女は手を振って、助手席のドアを大きく開けて、車から飛び降りたんです」

 まるで想いが直接喉をこすり、音になったかのような声だった。聞き苦しい、胸が苦しくなるような声だ。

「彼女が助手席のドアを開けた瞬間、僕はブレーキを踏んだ。だけど間に合わなかった。彼女は飛び出た勢いのまま道路に転がりました。落ちたとき、彼女はまだ生きてました。だけど動けないみたいでした。――結局、車から落ちたまま、一歩も動けないで彼女は死んでしまった」

「つまり」

 姫宮が顔をくしゃくしゃに歪めて涙を流すのを横目で見つめながら、私は言った。ワトソンは感傷にひたってはならないのだ。特にホームズが極端に感傷的な人物である場合には。

「どうして彼女が自殺したのか、その理由を知りたいということですか」

「そうではないんです。僕が知りたいのは、彼女の嘘です」

「嘘?」

「ええ。彼女はひとつだけ嘘をつくと言った。お願いです、姫宮さん。彼女の嘘がなんだったのか教えてください。僕は、どうしてもそれを知りたいんです」

 私は内心うめいた。

 依頼人の言葉を思い返す。

『あなたが好きよ』

『だけど、あなたの他に好きな人ができたの』

『だからもう会えないわ』

『今でもあなたが好きだけど、どうしようもないの』

『バイバイ』

 どれが嘘だったかなど、死者に聞かなければ分からないだろう。

 いや、私は首を傾げた。そうでもないのだろうか。

 もう会えないという言葉、それにバイバイという別れの挨拶は、彼女が直後に車から飛び降りていることから考えると、嘘ではないということになる。

 そうすれば、残りは、三つ。

『あなたが好きよ』

『だけど、あなたの他に好きな人ができたの』

『今でもあなたが好きだけど、どうしようもないの』

 この三つに絞られる。

 このうち、『あなたが好きよ』という言葉が嘘になれば、『今でもあなたが好きだけど、どうしようもないの』という言葉が成立しなくなる。逆もしかりだ。だとすると、残ったひとつ、『だけど、あなたの他に好きな人ができたの』という言葉が嘘だったのだろうか。  

 そこまで考えて気づいた。最初に言ったという言葉、『今からひとつだけ嘘をつくよ』という言葉、あれは本当だったのだろうか。その言葉自体が嘘だったということはないだろうか。もしもそうならば、嘘はひとつではなくなる。

 『あなたが好きよ』という言葉が嘘だったとすると、自動的に『今でもあなたが好きだけど、どうしようもないの』という言葉も嘘だということになる。しかし好きでもなんでもない男と、ドライブに出かけるだろうか。

 よくよく考えてみると、『だけど、あなたのほかに好きな人ができたの』という言葉が嘘なのだとすると、香織という女性はなぜ自殺するような真似をしたのだろうか。

 頭が混乱してきた。何がなんだか分からない。分かっているのは、確かに根元香織という女性が助手席のドアを開け、トラックに轢かれて死んだということだけだ。だけどそんなことなら、新聞記事を読めば誰でも分かる。依頼人だって知っている。

「あなたに怪我はなかったのですか」

 鼻水をすすりながら姫宮が言った。姫宮はこういうところが優しいと思う。私からは到底でてこない言葉だ。鈴木は力なく首を振った。

「後続車はいなかったんです。僕も車も無傷だった。それが・・・・・・」

 鈴木は口ごもり、唇を震わせた。それから涙を流した。声を殺しすすり泣く鈴木を見ながら私は思った。もしも怪我を負っていたら、もしかしたら鈴木の心は、少しは軽くなったのかもしれない。痛みが不幸を忘れさせてくれたのかもしれない。そう思うと辛かった。胸のあたりを誰かに思い切り殴られているような気がした。

「なるほど、分かりました」

 姫宮が涙声で言った。

「では何が嘘なのか、お教えしましょう」




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 問題編はこれでおわりです。

 何が嘘だったのかは、たぶん簡単に分かるはず。

 ぜひぜひ、推理してから解答編にお進みください。


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