百尺の竿頭に一歩を進む


     1


 一時間ほど彫り続け、注意深く開眼を行ってから、龍平は小刀を脇に置いた。

 ずり落ちた眼鏡を押し上げ、完成した練習用の仏頭を指先でつまんだ。角度を変えると、地蔵の顔は笑っているようにも泣いているようにも見えた。悪くない出来だ。もっとも、終えたときには満足しても、一晩すると酷い状態に変わってしまう。もちろん錯覚で、駄肉や痩せている部分が見えるようになっただけだ。

 どうしてか、前日には見えなかったものが、翌日には目に留まる。

 時計は午後三時を指している。フローリングの床に座ったまま、白い壁紙のさっぱりとした部屋を見まわした。

 細長い部屋は十人が一度に食事できる木製のテーブルが占め、間仕切りの壁を隔てた先はオープンキッチンになっている。南側の大きな窓から住宅地を馬蹄形に覆っている黒い松林が見えた。少し風があるのか木々は互いに枝を打ちつけていた。耳をすますと、離れの鋳造工房から職人たちの声がかすかに聞こえてくる。

 立ち上がって伸びをし、天井を眺めた。かなり高い。二メートル近い身長の龍平が飛びあがっても、指先は届かない。

 ポケットに仏頭を入れ、キッチンに向かった。昼食に使った皿がシンクにつけてあり、レンジに置いたフライパンには、朝のフレンチトーストが、手をつけられないまま冷えている。温め直そうと思った時に、テーブルに置いていた携帯電話が鳴った。

 すみれだ。反射的に思った。携帯電話に飛びついて、通話ボタンを押す。

「はいはい」

 龍平は弾んだ声で言った。返事はなかった。不自然なほど長い沈黙に嫌な予感がして、ディスプレイを確認する。津島正一郎と表示されている。

「つ、津島さんですか」

 一拍置いて声がした。

「おいおい、こっちが間違えたのかと思ったよ」

「申し訳ないです。てっきり、すみれからの電話だと思って」声が上ずった。「それで確認もせずに出てしまって。すみません」

「そんなに謝らなくても」

「すみません」

 頬が熱くなるのを感じた。電話を持ち替え、掌の汗をジーンズで拭う。

「電話したのはね、例の、六寸の観音さまはどこまで進んだかなと思ったからなんだ」

「はい」

 今日中には荒彫りを終え、明日には顔の細かい造作である「小作り」まで進む予定だと伝える。

「それなら順調だね。調子はどうだい」

「悪くないとは思うんですが」

「期待してるよ」

 どう答えていいかわからず口ごもった。

『未来堂』の主人、津島正一郎は、すみれの作品も手掛けている美術商だ。いつも銀髪を後ろに撫でつけ、高価なスーツに身を包んでいる。すみれが学生のころから目をつけ、作品を世に出すために奔走してきた。

「美人彫刻家」として成功した妻のすみれと違い、龍平の石彫は何年続けても実を結ばなかった。だが、津島は折に触れ、龍平にも声をかけてくれた。三年前、四十歳になって木彫に手を伸ばしたとき、仏像を彫るように勧めたのも津島だった。

「それにしても」津島は軽く笑った。「龍さんのところはいつまでも仲睦まじくて、うらやましいね。こっちはたまの休日に、何の予定もないときてるのに」

「津島さんが休むのは珍しいですね」

「なんだか今日と明日はぽっかり空いちゃってね。そのうち埋まるかと思ってたんだが空いたままだったよ」

「ゆっくり休んでください。いつも働きすぎですから」

「そうさせてもらうよ」

 最後に津島は、あんな甘い声はすみれにしか聞かせちゃいけないよ、とからかってから電話を切った。しばらく通話の切れた電話を眺めた。

 どうしてあんな声が出たのか、自分でもおかしかった。電話がかかってくるとは思ってなかったせいか。それとも単純に嬉しかったのか。いずれにしても津島の言葉は正しい。あんな声を聞いていいのは、この世ですみれだけだ。

 冷たいままのフレンチトーストをコーヒーで流しこみ、少し早いが夕食の買出しに行くことにした。

 外は少し肌寒かった。

 龍平は玄関脇で足を止め、彫刻を眺めた。ブロンズの男性像で、少年めいた顔は空を見上げ、手を伸ばしている。見事な筋肉の隆起だった。横から眺めると、肩の筋肉は栗の実を逆さにしたようだ。台座には、「イカロス」という文字が刻まれている。目こそ二重で大きいが、顔も身体も龍平がモデルだ。つきあって一年目の記念日にすみれがプレゼントしてくれた。

 鏡のように光る「イカロス」の肩を叩いて門を出た。木漏れ日がアスファルトに落ちて斑になっている坂を下る。

 自宅兼工房は、高度成長期に小高い丘を造成した住宅地の頂上に位置している。家と家との間は細い道で繋がっていて、視界を遮られた迷路のようだ。五十戸あまりの家に住んでいるのは老人ばかりで、最近では家を手放すものも多く、空き家が目立っている。

 住宅地の道と直角に交わる二車線の細い道路に出ると景色が開けた。眼下には国道と古びた外観のスーパーが見える。建物の背後に五月の海が、揺れながら鈍く光っていた。

 スーパーで小鰯とビール、ステーキ用の肉を十枚、他につまみになるような食材をいくつか買って来た道を戻った。

 鋳こみは練った土を焼いて雄型と雌型を作り、二つの型の隙間に溶けた金属を流しこむ作業だ。溶けた金属は冷えるまで一日かかるため、万が一、型が壊れた場合に備えて職人は一晩中待機しなければならない。つらい工程だ。せめて、食事くらいはいつもより豪華にしてやりたかった。

 家に戻って洗い物をすませると、四時半になっていた。階段下にある物置スペースの扉を開け、制作中の聖観音菩薩立像を取りだした。

 リビングの床に座って道具箱に入れておいた写真を出す。インターネットでダウンロードし、実物大に調整したものだ。それを観音菩薩の脇に並べ、参考にしながら、彫刻刀で材をこなしてゆく。木彫は荒彫りまでが一番難しい。削りすぎれば像は痩せ、貧相になる。かといって彫りが足りなければ、いわゆる「こなし」ができてないと見なされる。

 顔全体の輪郭がはっきり浮かび上がってきたところで手を止めた。しばらく全体を眺める。次からは二段になった髷や宝冠、衣紋の皺や天衣の紐などの細かい作業になる。木肌に手の脂がつかないよう軍手をはめなければならないだろう。

 仏像を布でくるみ、身体を左右に捻った。背中が強張っていた。

 部屋にはみずみずしい木の香りが立ち込めている。

 しっかり身体をほぐしてから、鑿と彫刻刀を砥いだ。荒砥、中砥と根気よく続け、最後に仕上げ用の砥石を取りだした。高価なマルカの天然砥石で、本来なら龍平が持てるような石ではない。師である源三から遺贈されたものだ。

 砥石だけでなく黒刃の彫刻刀も一緒に譲り受けた。使いこまれた彫刻刀は柄が短かすぎたため、刃を取り出して新しいものに付け替えている。新しい柄は龍平の好みで六寸ぴったりにしてあった。一寸ごとに滑り止めの刻み目をつけてある。

 石の表面に水を打つと、肌色に近かったものが、ぱっと黄色に変わった。砥石と刃物には相性があり、どれだけよい石であっても刃物と合わなければ使えない。源三が五十年以上使ってきた刃と砥石は、互いが引き合うようにぴたりと吸いつく。

 刃の表裏を砥ぎ終えると、水気をよく拭い、龍平は髪の毛を一本抜いた。研いだばかりの刃を当て、ささがきにする。調子がよければ四本にできるが、今日は三分割が精いっぱいだった。源三はいつも四本にできた。一度、どうやるのかたずねたことがある。生き物扱いしてやるんだな、と源三は答えた。道具も心あるものとして扱えば、応じてくれるという意味だが、いまだその境地は見えてこない。

「龍さん、飯は?」

 顔をあげると、鋳造職人の森崎が戸口に立っていた。駒犬のような顔つきで、白い髭をたくわえている。壁の時計は、いつの間にか午後六時を指していた。

「悪い、すぐつくる」

「もう腹が減っちまってさ」

「わかった、わかった」

 立ち上がって手を洗い、牛肉とニンニクの芽を取り出し、フライパンで炒める。香りが立ったところで、みそ汁の鍋に火を入れ、冷蔵庫から小鰯を出した。

 広島ではカタクチイワシのことを小鰯と呼び、ピーラーで三枚におろし、刺身にする。ピーラーは、ポリプロピレン製の荷物結束用バンドを短く切って、端を止めたものだ。指でおろすものもいるが、圧倒的にピーラーを使う人が多いと知ったのも、こちらに越してからだ。実際に使ってみると、簡単におろせて便利だった。二十匹の小鰯をさばいて皿に並べ、生姜をすって醤油を回しがけした。料理をテーブルに運ぶと、自分用にもおろして、立ったまま指でつまんだ。新鮮な甘さと生姜の辛みが舌に広がる。

「こりゃいいな」刺身を口にして森崎が言った。「お前さんはでかいのに、料理が上手い」

「でかいは余計ですよ」

 焼き上がったステーキと味噌汁、ビールを盆に乗せて運び、テーブルについた。森崎は床を見ていた。木屑の散らばる新聞紙と彫刻刀に目を向けている。

「あんた、本当に木彫で根を張っちまったんだな」

「だめですか」

「そうじゃないがね」森崎はビールをあおった。「お前さん、昔はきれいなものを作りたいって言ってただろう。とにかく無性にきれいなものを作りたいんだって」

「二十年前ですよ」龍平は首をふった。「よく覚えてますね」

「昔のことだけが大事だよ。なあ、仏像ってのはそんなにきれいかい?」

「そうですね、今のおれにとっては」

「そうか」ひとつうなずいた。「いい師匠だったんだな。道具を見ればわかる」

「ええ」

 去年他界した源三は奈良で働いていた仏師で、引退してからこちらに越してきた。長く近所づきあいを続けていたが、龍平が仏像彫刻に手を出すと、指導してくれるようになった。

「見てられなかったんでしょうね。最初に徹底してやっつけられたのは割り寸でした」

「割り寸」

「仏像は釈迦の身長だといわれている一丈六尺の整数倍か、整数分の一のサイズに彫らなきゃならないんです」

「一丈六尺だと、だいたい四・八五メートルか」

「しかも、正確には、髪の生え際から足裏までの長さなんです」

「ずいぶんと巨人なんだな、お釈迦さんは。しかし決まりが多くて面倒なんじゃないか」

「仏像は木彫のうちでも、ずいぶん特殊ですね。でも便利なこともあるんです。例えば、運慶の作だとされている興福寺の木造仏頭、あれ、文献に当たらなくても、頭だけを見れば元の仏像がどれくらいの大きさだったか正確に推測できるんです」

「どうやって」

「髪の生え際から唇までの長さを測るんですよ」ウィンドブレーカーのポケットから地蔵菩薩の仏頭を取りだした。「この仏頭、今度二科展に出品する菩薩と同じサイズなんですが、生え際から唇までは六分(約一センチ八ミリ)です。これを『ひとつ』と呼ぶんですが、十倍すれば生え際から足裏までの長さになります。つまり六寸」

「十倍というのは決まってんのか」

「ええ。奈良の大仏もそうですよ」

「ほう」

「大仏さまは座ってますから、生え際から座面までは五つです。立つと十倍、座ると五倍が基本になります。他にも生え際から目までと、目から唇までは同じ長さにしなきゃならないとか、正面から見た顔幅はひとつ半だとか」

「なるほど。面白いもんだな。大仏は何度か見に行ったもんだが気づかなかったよ」

「あれを作るのは大変だったでしょうね」

「そうだな」

 森崎は、奈良の大仏鋳造についてひとしきり語った。土地の開墾から始まり、型を盛りげた土で押さえこみ、溶かした青銅を流しこむ。下から徐々に積み上げながら、それを八度繰り返し、最後に盛り土は小山のようになったという。大仏がすっぽり土に埋まっている格好だ。

「なにしろ鋳造だけで三年だからな」森崎は言った。「たまらないね、まったく」

「すごいですね」

「聞かなきゃわからない話だろう。ところでよ」すっと顔を上げた。「すみれちゃんとは、どうして喧嘩してるんだ」

 驚いて見返すと、森崎は笑みを浮かべた。

「聞かなくてもわかる。もうずっと、すみれちゃんは朝飯食いに来ないんだからよ」

 すみれは制作に入ると極端に食欲が落ちる。それでも、これまではずっと、朝だけは食べに来ていたのだ。

「あいつ、作業場で何か食べてますか?」

「山のような菓子パンを詰め込んでるよ。おれの同級生がな、旦那が他界しちまってから菓子パンしか食べなくなったんだ。子どものときの好物だったらしい」顔をあげると、ふっと笑った。「そういえば、フレンチトーストの残りはどうした」

「すみません、おれが食べちゃいました」

「なんだ、残ってるなら、ついでに食ってやろうかと思ったのに」

「心配かけてすみません」慎重に言葉を選んだ。「ちょっとした意見の食い違いで」

 白峰の大きな目が脳裏に浮かんだ。ホテル『アンダルシア』のネオンも。

「どうした」ゆっくりと森崎が言う。「やっぱり何かあるのか」

「いえ、ちょっと考えていたんです。おれ、昔は好きじゃなかったんですよ、フレンチトースト。すみれが好きで、いつのまにかおれも好物になってた」

「似てくるもんだよな、夫婦ってのは」

「そういうもんですかね」

「そういうもんだ。夫がいい天気だなと言えば、妻はいい天気ねと答え、妻がこれ美味しいと言えば、夫もこれは美味しいなとうなずく」森崎はビールを傾けた。「一人があくびしたらもう一人もあくびして、そのうち寝言で会話するようになる」

 二人で笑ったときだった。

「何がそんなに面白いんだか」

 ドアのところに黒のジャージを着た女性が立って、こっちを見ていた。すみれだ。十日ぶりに見る妻の姿に龍平は見惚れた。今のすみれに華やかだったころの面影はほとんど残ってない。控え目に見積もっても、「美人彫刻家」と呼ばれた時代から二十キロは太っていた。頬や顎に存在感たっぷりの肉が垂れさがり、目鼻は顔の真ん中に押しやられている。首は肉に埋もれて見えなかった。それでも、すみれを目にすると、昔と同じ幸せが胸を満たす。

「食事はどうする?」すぐに立ち上がって近づいた。「食べるなら用意するよ」

「作らなくていい」

 険悪な雰囲気を感じ取ったのか、森崎がビールを手にやってきた。たまには一緒に飯でも食おうと誘い、いい旦那じゃないかととりなすように言う。

「ほら、最近じゃ、イケダンとか言うらしいじゃないか」

 森崎が言うと、すみれは鼻で笑った。

「なにがイケダンよ。馬鹿馬鹿しい」

「すみれ」

「だって本当のことじゃない」すみれは挑発するように龍平を見上げる。「ちゃんと話したの、あたしたちの結婚生活はもう終わってるんだって」

「そんなことないよ。おれは今も――」

「やめて。終わってるのよ。あたしね」森崎を見て唇を歪めた。「浮気してるの。相手は」

「なあ、すみれ」

 すみれは龍平を見なかった。ごくりと喉を鳴らし、口を開いた。

「浮気相手は津島さんよ。『未来堂』の」

 吐き捨てるように言うと、ドアを開けて出て行った。足音が遠ざかり、玄関から出て行く音がした。

 急に部屋が狭くなったように感じ、息が苦しかった。森崎の問いかけるような視線を感じる。まるで内面に土足で踏みこまれているようで、身動きできない。じっとしていると皮膚の内側がむずがゆくなった。今すぐここを逃げ出したいという弱音が、それに混じる。

 それでものろのろと顔を動かし、森崎の目を見て、口を動かした。

「嘘ですよ、あんなの」

「嘘?」

「すみれは嘘をついたんです」

 それ以上頭をあげていられなくて、龍平はうつむいた。暮れかけた陽が窓から差して、足もとに影が伸びている。遠くでカラスの鳴く声がした。森崎がそっと目を逸らす気配がした。その気遣いが、針のように肌を刺した。


     2


 午前零時を過ぎてもすみれは寝室に上がってこなかった。

 龍平は階下に耳をすました。リビングの奥、一階の大部分を占めるすみれのアトリエから物音はしない。ベッドの上で寝返りをうった。

 あのあと、森崎の助手である二人に食事を用意してから、玄関脇にある車庫を見に行った。そのときは黒のライトバンが車庫にあったため、すみれは裏の作業所にいるのだと思っていた。家の脇にあるジャリ敷きの小道を通れば作業場に向かえる。しかし寝る前にもう一度見に行くとバンは消えていた。メールを送り、電話をかけたが、すみれは応じてこない。

 もう一度、隣室に耳をすます。やはり、物音は聞こえなかった。

 寝室を別にしたのは二年前だ。それからは同じ家にいるのにメールや電話で連絡をとるようになり、朝食の席で顔を見るのがせいぜいで、ほとんど顔をあわせなくなった。それでもこれは結婚生活の避難措置だと思っていた。そう信じたかったのかもしれない。

 まんじりともしないうちに夜が明けた。

 一階におりて顔を洗い、鏡を見る。馬のように長い大きな顔が、戸惑ったようにこちらを見返していた。狭い額と小さな目が類人猿のようだ。小さすぎる目が昔からコンプレックスだった。それがたまらなく嫌で、小学生のころ図書館で図鑑を調べた。本には眼球の構造や、眼輪筋、視神経などの絵が描かれていた。人間の眼球は誰でもピンポン玉くらいの大きさで、瞼の切れ方によって違って見えると知ったときには、気持ちがわずかに軽くなった。あのころは大人になったらコンプレックスなど感じなくなるのだろうと考えていたものだ。

 洗面所を出る。ライトバンは戻っておらず、すみれは朝食の席に現れなかった。

 森崎にはすみれからメールで指示があったという。食事のときに森崎が口にしたのはそれだけで、あとはいつものような軽口を叩かず、黙々と箸を動かした。誰かの通夜に出席しているかのようだった。昨夜の話を口にする気配はなく、しばらくそっとしておくことにしたのだろうと察せられた。誤解だと説明すべきだろうが、気力が湧いてこなかった。

 職人たちの食事が終わっても、すみれから連絡はなかった。

 食器を洗い、道具一式と観音菩薩を倉庫から出して、リビングに持ちこんだ。床の上に夫婦共有のノートパソコンを置き、USB顕微鏡をセットする。

 刃物は鏡のようになめらかな状態より、わずかに曇っているほうがよく切れる。画像で確認すると砥石の細かい粒子によって、刃先に細い筋がついているのがよくわかった。刃を撮影し、昨日の感覚を思い出しながら日記を書くと、それでやるべき作業は終った。かといって、今日の作業を進める気になれず、ぼんやりと彫りかけの仏を眺めた。

 どうしてすみれは嘘をついたのだろう。浮気相手は、津島ではなく、白峰なのに。

 そう思ったとき、メールの着信音が響いた。すみれからだった。

「二人で話し合いましょう。スーパーの喫茶店で待ってて」

 短い文面を二度読みなおし、壁の時計が十一時半であるのを確認した。

 冷凍庫でストックしておいたカレーを電子レンジで解凍し、鍋に移して更に温めた。火を止め、レタスとトマト、水菜でサラダを作って、職人たちにカレーを食べるようにとメモを書き、ウィンドブレーカーをひっつかんで家を飛び出る。

 五分も経たずに、スーパーの二階にある喫茶店についた。海沿いの席に座って店内を見渡す。低い天井だった。カウンター席の他にボックスが六つあるだけで、ほとんど客の姿はない。水を持ってきたウェイトレスにすみれの容姿を伝えてみたが、そんな客は来てないという。コーヒーを注文し、窓の外を眺める。堤防に沿って細いコンクリートの歩道が伸びている。空には低い雲が出ていた。

 また入口に目をやった。すみれの姿はない。もしかして自分が来るのを待てずにどこかへ行ってしまったのだろうか。メールを確認し「待ってて」とあるのを見て、わずかに安堵した。喫茶店についたとすみれにメールし、火傷しそうな熱さのコーヒーを口に運んだ。外に目をやると、カーフェリーがゆっくりとやってきて、白い波を残して去って行った。堤防の上では柔らかそうな毛並みの三毛猫が丸くなっている。

 十分経っても、携帯は鳴らなかった。十五分過ぎても、沈黙を守っている。立ちあがって腰を伸ばした。龍平に椅子は小さすぎ、テーブルは低すぎた。片足を通路側に出して座るのがやっとだ。

 もう一度腰かけると、昔の思い出が蘇ってきた。まだ学生のころ、美術科に通うメンバーでディズニーランドへ行ったことがある。

 最初に話しかけてきたのは、すみれだった。


「どうして写真にうつらないの」

 すみれが言った。

 シンデレラ城をバックにした記念撮影が始まっていた。すみれと龍平だけが、集団から離れていた。

「あまり写真が好きじゃないからな」龍平は答えた。「ええと、君は……」

「すみれって呼んで。あたしも写真嫌い。それにシンデレラはクソだし」

「そうかな」

「この世のどこかにぴったりの男がいるなんて物語、教育に悪いもの。それにあたしは義理の姉のほうが好きなの」

「性格が悪いのに?」

「性格が素直なのよ、あの義姉ちゃんは。幸せになりたくて、足を切っちゃうんだから。知ってるでしょう、原作では義姉が足を切ったこと?」

「そういう血なまぐさい話だと聞いたことはあるよ。でも、珍しい解釈だね」

「そうかな。でも誰だってそうでしょう。幸せになりたくない人なんていない」

 そういう作品を制作したらいいと言ったのは単なる思いつきだった。すみれは初めて龍平に気づいたようにじろじろと眺め、それから形のよい唇を開き、低い声で言った。

「そういう作品って?」

「だから、シンデレラの義姉を塑像にしたらどうかなって」

「すごく背が高いのね」

 すみれはまぶしそうに目を細めた。なんと答えていいかわからず口ごもっていると、彼女はまっすぐな目をして言った。

「そのアイディア、あたしが使っていいの」

「もともと君のアイディアだ」

「すみれよ」

 そう言うと急に早足で歩き出した。出口に向かっているようだ。龍平が立ったままであることに気づくと、足を止めて振り返り「早く」と言った。手招きもなく続く言葉もなかった。ただ、早く、と。省略された言葉に吸い寄せられるまま、龍平はすみれの背中を追った。

 歩きながらすみれは作品制作について喋り続けた。どうしてもブロンズで仕上げると言い、安く扱いやすいFRPでは駄目だと言った。授業で簡単なブロンズ鋳造を経験してはいたが、すみれの構想はかなり複雑だった。石膏型取りと鋳造は、職人に頼まなければならない。

「たぶん、安く見積もっても百二十万くらい必要だと思うけど」

 駅の近くにある喫茶店に入ってから龍平が言うと、すみれは身を乗り出した。八十万なら貯金があるという。

「スナックでアルバイトして貯めたの」

「残りの四十万は」

「作業を手伝って値引いてもらうのよ。森崎さんに頼めば大丈夫だと思う。バーナーは使える?」

「一応、資格は取ったよ」

「よかった。あたしは取ってないからお願いするね。それで」

「待った。おれは助手なのか」

「もちろん」

「どうして」

「あら」すみれは目を見開いた。「だって焚きつけたじゃん」

「おれが?」

「そうよ。せっかく課題が終わってのんびりしようと思ってたのに。だから、あなたには責任があるんだよ、岩谷龍平くん」

 名前を言われて驚くと、あなた有名よとすみれはこともなげに言った。なんとなく落ち着かない気分のまま、他に何をしたらいいのか聞くと、お金、と答えた。

「お金貸して欲しいの。貯金使ったら生活費なくなっちゃうし」

「バイトして稼げばいい」

「制作に入ったらバイトなんて辞めるに決まってるでしょう。だからお金貸して」

 すみれが口にした額は、拍子抜けするほどつましいものだった。それくらいなら少しバイトを増やせばなんとかなりそうだった。交換条件として、すみれは龍平が制作するときに資金を融通するとも言った。悪い条件ではない。

 アートの王様は絵画だ。絵なら安い絵具とスケッチブックがあれば、誰でも気軽に描ける。彫刻だとそうはいかない。アトリエは広くなければならず、良い道具や材料は自分で手に入れるしかない。塑像なら、石膏型取りには職人の手が必要だ。鋳こんだり、ブロンズに色をつけるにも職人の技術がいる。彫刻はチームプレイのため、コストがかさむ。作品制作で最初に考えるべきは、どれだけ資金を用意できるかだ。パートナーがいれば、資金計画はずいぶんと楽になりそうだった。

 共に過ごす時間が長くなるにつれ、距離が近づき、龍平は助手から恋人に昇格した。話してみると共通点が多かった。二人とも親しい友人はいなかった。故郷に戻るつもりがなく、いずれ彫刻家として身を立てて行くのを夢見ていた。

「子どものころの龍平ってどんな感じだった?」

「あだ名はヒバゴンで、柔道の帯を引き千切ってたよ」

「腕伸ばしたままで平気?」

「問題ないよ」

「それでヒバゴンって何。パソコンの仲間?」

 ヒバゴンは中国地方の比婆山連峰に伝わる類人猿の名称だ。日本版のビッグフットだと言われている。童謡のメロディーを使った替え歌もあり、夏休みの林間学校でそれを歌ってから龍平のあだ名はヒバゴンになった。新学期が始まっても替え歌はクラスメートたちのお気に入りで、ブームは長く続いた。

「そのころ、ロシアの柔道選手には帯を引き千切る選手がいるって聞いたんだ」龍平は上を見たまま言った。「で、自分でも試してみた。神社の大木に帯を回して力をこめたら、二つに切れた。人前でそれを実演してみせると、替え歌を歌うやつはほとんどいなくなった。それでもからかってくる相手にはかるく手足を動かすと、もう誰も話しかけてこなくなったよ。それからも帯は引き千切った。誰にも見られないように、こっそりと」

「どうしてそんなこと」

「誰も歌ってないのに、替え歌が耳の奥で聞こえて、うるさかった。どんなものであれ、歌は心に残るもんだ。でも本当のところは自分でもよくわからない。単に、おれにできるのがそれだけだったからかもしれない」

 大学に入るまでに、二十四本の帯を引きちぎった。他にどうしたら自分の気持ちをコントロールできるのかわからなかった。

「はい、おしまい。休んでいいよ」

 すみれはスケッチブックを閉じて龍平のそばに来ると、やさしいキスをした。それからかすれた声でつぶやいた。いつも窮屈だったのね、と。

「あたしが成功したらね」すみれは明るく笑った。「真っ先に、天井の高い家をあんたにプレゼントしてあげる」

 卒業してすぐに籍を入れた。互いの実家から離れた広島にアトリエを構えたのは、地方ならば家賃が安かったからだ。最初はアパート暮らしで、アトリエは町の外れにある倉庫を借り、一緒に自転車で通った。粘土をこねあげる作業は二人で行い、どちらが先に終わるか競争した。龍平が勝つとすみれは悔しがったが、勝ちをゆずると本気で怒り、しばらく口をきいてくれなかった。


     3


 龍平は冷めてしまったコーヒーを飲み干した。

 二時近くになっていた。すみれはまだ来ない。落ち着かない気分でポケットを探ると、小さな丸いものが触れた。昨日の仏頭だった。取り出して、何気なく指先に力をこめると、鳴いて二つに割れた。ひび割れでも生じていたのか、顔面が半分ほど剥がれていた。

 すみれに電話したが、やはり出なかった。祈るような気持ちで入口に目をやり、龍平は腰を浮かせた。

 白峰が喫茶店に入って来るところだった。青、赤、白のトリコロールカラーのセーターに、綿のパンツという格好で、龍平に気づいたのか軽く頭を下げた。

 考えるより先に、身体が動いた。立ち上がって、白峰のテーブルに向かう。

 白峰は歓迎するように笑みを浮かべた。

「久しぶりだな」

「すみれが来るのか」

「すみれ? どういうことだ」

 思わず言葉に詰まり、白峰を見つめる。どんよりとした、生気のない目をした男だ。同じ大学に通っていたころは、鋸を引けば板に引っかかり、鑿を手にすれば材に食いこませ、鋳こみでは危うく火傷しそうになるような落ちこぼれだったが、美術史には詳しかった。今は県立の美術館で学芸員をしている。

「とにかく座ったらどうだ」白峰が言った。「久しぶりなんだし」

 龍平は黙ったまま白峰の向かいに腰を下ろした。白峰はウエイトレスにコーヒーを注文している。その顔をじっと見つめた。

「会うのは二年ぶりくらいかな。確か、おれがこっちに来てすぐだったから」運ばれてきたコーヒーを手に、白峰が言った。「それで、どうしてすみれが来るんだ。今日は鋳込みで忙しいはずだろう?」

「お前こそ、どうしてこんな場所にいる」

「この近くに住んでいる画家と会ってきてね、まだ時間が早かったからここに来たんだ。あとでアトリエによるつもりだよ」上目遣いに龍平を見た。「久しぶりに会ったのに変なこと聞くようなんだが」

「なんだ」

「ちょっと小耳に挟んだんだ」

「だから何を」

「噂だよ。本当かどうか、確かめたわけじゃないんだが」

 怒らないでくれよと前置きして続けた。

「どうもな、『未来堂』がすみれに手をつけたらしい」

「誰から聞いた」

「誰でもいいだろう」白峰はため息をついた。「嘘であって欲しいと思ってたんだがね、どうやら本当だったみたいだな、その顔を見ると……どうした龍平」

「どうしてそんな嘘をつく」

「どういう意味だ」

「すみれの浮気相手は、津島さんじゃなくて、お前だ」

「何を馬鹿なことを」

 龍平は白峰をまじまじと見つめた。白峰は目を逸らさない。

「正直に言えよ。白峰、お前は昔から、すみれを狙っていた」

「そんなことはない」

「お前は、すみれとおれの間に割りこんで、おれを会話から閉め出したじゃないか」

「いつの話だ」

「だから学生のときだよ」

 あのころ、白峰は龍平とすみれが一緒にいるときを好んで話しかけてきた。最初に声をかけるのは、いつも龍平に対してだった。大抵は課題について質問するという形を取っていたが、そのうち、すみれに挨拶すると、学内の噂話や、講義の内容、歴史と音楽と本について話し始めた。やがて龍平が知らない話題になり、すみれと白峰の会話が弾んだ。言葉のラリーが続き、しばらくしてすみれが申し訳なさそうに龍平を見たり、白峰が気をつかったように別の話題に移ったりするが、すぐに龍平は置いてきぼりにされる。

「偶然だよ」

 説明すると、白峰は馬鹿にしたように目を細めた。それが龍平の頭を熱くした。

「そんなわけあるか。同じパターンが何度あったと思ってる。お前は会話を誘導し、おれを話から閉め出したんだ」

「そんな昔のことにこだわって、おれとすみれの仲を疑うのか」

「すみれが寝室を別にしたのは、お前がこっちに赴任してからだ」

「それも偶然だよ。まったく、お前の話には根拠ってものがないな」

「ここのところずっと、すみれはお前の話ばかりしているんだぞ」

「それは仕事の関係で、よく会ってるからだよ。それだけの話じゃないか」

「ホテル『アンダルシア』はどうだ」

「なんだって」

「ホテル『アンダルシア』だよ」龍平は笑った。「川沿いにあるホテルだ。『ン』の短い棒のネオンが切れてて『アノダルシア』に見える」

 白峰の喉ぼとけが大きく上下した。

「……そのホテルが、どうかしたのか」

「すみれのジャケットの内ポケットに、ブックマッチが入っていた」身を乗り出して白峰の目をのぞきこむ。「ホテルに行ってみたよ」

「それで」

「フロントに尋ねてみた。写真を持って行って、お前とすみれが泊まったかどうか」

「そんなものにホテルが答えるわけない」

「どうかな」

「そのフロント係を連れてきたらどうだ。それともおれと一緒に、今からホテルに行くか」

 しばらくにらみ合った。

「ああ、そうだ」龍平はうなずいた。「確かに証拠はない。ホテル側は答えなかったよ」

「だったらおれを間男扱いするのはよしてくれ」

「だがな、津島さんがすみれに手を出すわけがないんだ。だから、お前が聞いたという噂なんて流れているはずが――」

「すみれだよ」白峰は唇を舐めた。「おれはお前を気遣って、噂だと嘘をついた。それは認めよう。すみれ本人から聞いたんだ。津島と浮気してるとね。知っているのはおれだけじゃない。かなりの数の美術関係者がそれを知っている。当事者であるお前だけが知らないのは可哀想だと思ったんだが、とんだおせっかいだったようだな」

「おれはな、白峰」腹に力をこめた。「何があっても、すみれと別れたりしない。それだけは覚えてろ」

「好きにしろよ」どこか喜色をにじませた声で言うと、意外な言葉を口にした。「じゃあ、この話は終わりだ。飯でも食わないか」

「……飯?」

「お前、木彫始めたんだろう。飯でも食いながら話を聞かせてくれ」

 白峰はメニューを広げ、勝手に龍平の食事も注文した。龍平がしゃべらないのを見て取ると、運ばれてきたハンバーグ定食を食べながら、これまで自分が手掛けてきた展覧会について話し始めた。

 龍平は呆然としたまま、白峰のよく動く口を眺めていた。白峰が浮気相手だというのは勘に過ぎない。それでも、これまでは自分の判断を疑おうとは思わなかった。だが、浮気している男が夫と対面して、ここまで平然としていられるものだろうか。

 トイレに行ってくると言って白峰が席を立った。いつの間にか、三時半を過ぎていた。窓の外を見ると雨になっている。すみれに電話したが話し中だった。白峰が戻ってきて五分後にすみれから電話がかかってきた。

「ごめんね、待たせちゃって」すみれは陽気な声で言った。「ちょっと手違いがあって、今はうちの鋳造のほうにいるの。すぐ来られる?」

「ああ、もちろん」

 白峰ばかりか、すみれまで愛想がいい。狐につままれたような気分だった。レシートを取ろうとすると、白峰は自分が金を払うと言い張り、仕方なく三千円を押しつけて喫茶店を出た。雨に濡れながら坂道を駆け上る。玄関で靴を脱ぎ、出しっぱなしだった仏像を片付けようと、リビングに一歩足を踏み入れる。

 次の瞬間、龍平は凍りついた。

 目の前にある光景を受け入れられず、突っ立ったまま床を眺める。

 明かりの消えたリビングの床は濡れていた。外からのわずかな光で反射し、鈍く光っている。つんと鼻をつく匂いがした。細長いものや、丸いものが赤く濡れている。近寄って床に膝をついた。心臓が嫌な音を立てた。丸いものを拾い上げる。赤いペンキにまみれていたが、見間違えようがなかった。観音菩薩の手首から先の部分だ。

 細長いものは彫刻刀だった。ハンマーで叩かれたのか、刃が潰れている。砕けた石が転がっていた。指でこすってペンキを落とす。

 マルカの天然砥石だった。


     4


 砥いだ彫刻刀は、必ずUSB顕微鏡で撮影するように、と源三は初日に言った。

「木彫に王道なんてないが、蛇の道は蛇とも言うからな」と話し、「暗闇で石を投げるようなものだ」と説明した。

 石が飛んだ距離は目で見えないが、地面に接すると音がする。投じるタイミングを変えながら、音が遠くなったか近くなったかをよく聞く。それを繰り返すことで、最後にはどう投げれば遠くまで届くのかがわかるようになる。

 砥ぎも同じだ。顕微鏡を使い、砥いだ刃先を二百倍に拡大すれば「刃の曇り」が、どんな状態か見える。画像は保存し、切れ味を言葉で書いておく。初めのうちこそ、似たような言葉でしか表現できなかったが、木彫の技術が向上するにつれメモの分量は長くなり、それが翌日の作業に生きた。手の仕事を言語化することで、刃物と砥ぎの関係が明確になるのだ。

「なるほど」

 警官の声で龍平は我に返った。警官は手帳にメモしながら津島に話しかけている。

「すると六寸の観音菩薩というのは、『未来堂』からの注文だったわけですね」

「そうです」

 龍平の隣で津島が頷きながら、レイバンのサングラスを外した。

 壁の時計は午後五時を指していた。工房にいたすみれたちに事件を伝え、警察に電話して、一時間以上が過ぎたことになる。

 現場検証のため、龍平たちはすみれのアトリエに移動していた。

 広々とした部屋は、あらゆるものが石膏の白い粉塵で覆われている。塑像用の粘土が入ったポリバケツや、中央に置かれた頑丈な作業台、数脚の椅子などは、どこもかしこも粉っぽかった。床だけは掃除してあったが、生乾きの粘土もあちこちにこびりついているため、部屋そのものが白っぽく感じられる。左側は数字鍵つきの倉庫になっていて、右側の壁にはよく磨かれた道具類が種類ごとにかかっていた。すみれの作品はほとんどがブロンズ鋳造だったが、ごくたまに木彫や石彫の小品を扱うこともあり、道具類は多岐に渡っている。やすりや金属製のヘラ、槌、コンパス、木彫ののみ、石を割るたがね、石の表面をざらざらに加工するビシャンなどが光っている。それらは几帳面なほど、きちんと長さが揃えてあった。

 部屋にいるのは、全部で七人で、龍平とすみれ、派出所勤務の若い警察官、職人たち三人、それに津島だ。津島は電話すると、十五分もしないうちに駆けつけてくれた。

 龍平と津島、すみれは入口近くに並んでいて、正面に警官が、倉庫の扉近くに森崎ら職人たちが立っている。

「さてと」警官は言い、龍平たちを見まわした。「それで玄関の鍵はどうなっていましたか」

「かけてません」

 すみれが答えた。作品制作時にはそうしていたと添える。ブロンズ制作には職人の手が必要で、作業も長期に渡るため、二階を宿泊場所としていた。それぞれの作業はアトリエや工房で行っていたが、食事やトイレなどは住居部分に戻らなければならない。リビングへは家の脇にある小道を通って玄関から入るか、アトリエを突っ切って行くかの二つの方法があり、職人たちは急ぐときにはアトリエの裏口から、そうでない場合は小道を通っていた。

「制作中は人の出入りが多くなるので、夜間はともかく、日中は開けっぱなしでした」

「作品が盗まれる危険は」

「鍵がかかってますし、無理に破壊すれば警備会社に通報される仕組みになってます。大きさの関係で、作品は裏口からしか運び出せないので、必然的に工房の前を通ることになりますから」

「そんな心配はなかったと。重量もかなりのものでしょうしね。なるほど、よくわかりました。では、次に、龍平さんにお聞きしたいんですが、最後に仏像を確認したのは何時くらいでしょうか」

「十一時半くらいです」龍平は答えた。「急いで出たので、道具や彫刻はリビングに置きっぱなしでした。それで、四時過ぎに戻ったら」

 それ以上、どうやっても言葉が続かなかった。

 仏像彫刻は誰にでもできるというのが源三の口癖だった。初めから立派なものを作ろうと思っちゃいけねえよ。こつこつと続け、基本を守って自己流に走らないのがコツといえばコツだ。刃物はよく切れるものを使え。無理な所作は怪我をするから、慌てないように。源三の言葉はすべてメモし、何度も読み返した。

 もっと教えて欲しかった。今でもそう思う。

 龍平が胸を押さえると、警官はそっと目を伏せた。咳払いをして言った。

「すると、十一時半から四時までの間に破壊されたわけですね。他に、十一時以降リビングに行ったかたはいらっしゃいませんか」

 職人たち三人が、正午から午後一時までの間に、それぞれ交代で昼食を取ったと話し、異常はなかったと明言した。一時以降、リビングに行ったのは、すみれだった。

「外出していて、家に戻ったのが二時くらいでした。荷物があったので、青山くんに運ぶのを手伝ってもらって」

 すみれが職人の一人に目を向けた。若い職人の一人で、眉の濃い、髪の短い二十代の学生だ。アルバイトだと聞いている。皆の注目を浴びたからか、青山はわずかに緊張したような表情で口を開いた。

「そうですね、すみれ先生が戻られたのは、二時五分くらいだったと思います。ぼくは鋳造工房にいました。森崎さんたちと話していたら、先生が歩いて来て、声をかけられて。それで車から荷物をおろして、アトリエまで運びました。かなり重かったです」

「その荷物はどこに?」

「塑像用の粘土です」すみれが答えた。「そこに置いてあります」

 すみれが指したのは右側、道具がかかっている壁の隅にある手洗い場だった。タイル張りの流しの横に、商品のロゴが入った段ボール箱が置いてあった。その後、二人はリビングに寄ったのだという。

「青山くんに、運んでもらったお礼にコーラをあげたんです」 

「リビングの状態はどうでした」

「普段通りでした。何かあれば気づいてます、そうよね」

「はい」青山も言った。「カレーを食べた時と変わりなかったです。新聞紙が床に敷いてあって、黒いごみ袋と、彫刻刀や仏像の拡大写真も並べられていて。いつものように仏像は白い布にくるんでありました」

「布で?」

「汚れが木肌につくのを防ぐためです」津島が警官に言った。「余分な湿気を防ぐ役目も果たしてくれます。湿気は乾燥するとひび割れの原因になりますから」

「なるほど。それでコーラを飲んでどうしました」

 警官がすみれに向かって言った。

「仏像を見ました」すみれが苦笑する。「ちょっと好奇心が湧いて布をめくってみたんです。青山くんも見たよね」

「見ました。あの……」青山は逡巡するようにしばらく間を開けてから、ゆっくりと言った。「あの、そのとき、すみれ先生にもお話したんですが、ぼく、仏像が好きなんです。実家が奈良なもので、よくお寺に行ったりしてて。仏様の顔を眺めていると、心が安らぐんですよね。それで、興味があって仏像を見たんですけど、なんだか変だったんです」

「どういうことかな?」警官が言った。「なんでもいい、話してくれると助かるよ」

「うまく言えないんですが、なんだか仏様が怒ってるみたいで」

「怒ってる?」

「怒っているというのはもしかしたら正確じゃないかもしれません。ただ、いくら眺めてても、心が穏やかにならなくて。あと、彫刻刀が散らばっていて――」

「そんなの事件に関係ないでしょう」

 すみれが怒ったように言うと、青山はすみませんと謝り、小さくなった。

「まあ、とにかく」とりなすように警官が言った。「今の話からすると、二時過ぎまでは仏像は無事だったわけですね。お二人がリビングにいたのはどのくらいの時間でしょうか?」

「長くて十分くらいですね。あたしは着替えてから鋳造工房に行ったけど、青山くんは直接戻ったのよね」

「はい」青山は小声で答えた。「すみれ先生は五分後には作業場に来られました」

「そうね、そのくらいだったわ。それからブロンズを型から取り出す作業に入りました」

 森崎たちも二人の発言を認め、それからはずっと誰も家屋に近づいてないと答えた。

 アトリエのドアがノックされ、スーツ姿の男が入って来ると、若い警察官が緊張したように敬礼した。スーツの男は敬礼した肩を軽く叩き、龍平に目を向けた。男は地元警察所属の刑事で、結城と名乗った。

「ちょっと確認を願えますか」

 結城に促され、龍平はリビングに向かった。床にビニールシートが敷いてあり、その上に、ペンキを拭った彫刻刀や、仏像などが並べられていた。結城はまずのみたがね、空になった塗料の缶を見せた。

「これに見覚えはありますか」

 龍平はうなずいた。のみたがねはアトリエの壁にかかっていたものだ。赤の油性塗料は、スーパーで買ったもので、二階の奥にある物置にしまっていた。

 次に結城は仏像を龍平に見せた。観音菩薩像は、首、肩、肘、手首、腹、腰、膝、足首と切断されていた。

「頭が見当たらないようですが」

「ええ。頭部はどれほど探しても見つからなかった。犯人が現場から持ち去ったと考えてます。それで、これは確かに龍平さんの作品でしょうか」

「触っても?」

「手袋をつけてください」

 渡された薄いビニールの手袋をつけて確認する。切断面はなめらかで、鋸で引いたような跡はない。鉈や鑿などの刃物ですっぱり切断したようだ。自分の作品だった。どうやっても見間違えようがない。確認を終えると、結城は彫刻刀と砥石を龍平にチェックさせた。

 彫刻刀は全部で十九本だった。七分・六分・三分の平鑿、四分と二分の丸鑿、四本の切り出し小刀、三本の地透き刀、五本の丸刀、それに二分と一分五厘の三角刀だ。一分や五厘などの細い彫刻刀の刃は、何度もハンマーで叩かれたのか根元から折れていた。幅の広い彫刻刀は刃がくの字に曲がり、のみは刃先が折れていた。砥石は側面にたがねを打ちこまれたようで、積層に沿って二つに割られ、さらに打撃を加えられていた。全部で七つに分割されている。どれも底面ががたがたになっていて、小さすぎ、刃物を研ぐのはできそうになかった。

 柄についている一寸ごとの溝の状態や、砥石側面を補強するため塗っていた漆などから、確かに自分のものだと確認できた。そう告げると、結城は鑑識員だと思われる数人に声をかけ、彼らの手によって仏像や彫刻刀がビニールの小袋に納められていく。結城は作業に加わらず、床を見つめていた。

「どうしたんです」

「ちょっと引っかかるんですよね」結城は言った。「見てください」

 結城が指し示した個所を見る。フローリングの床には、彫刻刀を刺したような跡や、へこみが五、六ヶ所あった。

「あれだけの破壊を行ったにしては、傷が少なすぎるんですよ。そう思いませんか」

「別の場所に運んで壊したんじゃないですか」

「だとすると、犯人は別の場所で壊してから、ここに運んだ。それから二階にのぼってペンキを持って降りると、道具や仏像にまんべんなくかけたことになります。そこがどうも引っかかって」

 確かにおかしな話だった。

「ところで」口調を変えて言った。「器物損壊が親告罪だというのはご存知ですか」

 いいえと首を振ると、そうですかとため息をついた。

「損壊された物の持ち主、つまり龍平さんには告訴権があります。告訴がなければ公訴できない、つまり犯人を罰することはできません」

「被害届は受け取ってもらえないんですか」

「いえ、もちろん被害届は受理します。捜査も行います。ですが、たとえばいくつか採取した指紋によって犯人がわかったとしても、改めて告訴状を書いていただかなければなりません。ここまではよろしいですか」

「はい」

「で、ですね、ここからが問題でして。あくまで仮にですが、犯人が身内だったり職場関係者の場合、告訴を取り下げることが多々あるんですよ」

 後頭部を掻いて続けた。

「この間もね、別れた彼女に車を傷つけられたと言って、訴えてきた男がいるんです。裏付けも取れた。告訴状を受理しました。ところがね、ある日取り下げると言ってきたんです。どうやら刑事と同時に民事も並行してやってたようで、口約束で示談を成立させたんですね。告訴を取り下げるなら、示談に応じるとでも言われたんでしょうね。だけど取り下げたら、相手の女性はのらりくらりと話をはぐらかすようになった。男はまた訴えると言ってきたんですが、取り下げた告訴は、もう一度受理することができないんです」

「よく考えて告訴するように、ということでしょうか」

「難しいんです、この手の事件は」結城は言った。「告訴すれば、前科がつきます。ですから親族が犯人であった場合、取り下げるのはよくわかるんですよ。逆に取り下げなかったために、もつれたケースも知ってます。民事で争って、思うような額で賠償してもらえなかったケースも。人の一生が狂ってしまうのを、何もできずに見ることが多い仕事です。できれば熟慮して欲しいというのは、こちらの勝手な希望ですが」

「わかりました」

「それと」結城は小声で言った。「誰かに怨まれている覚えはありますか。身近な人に」

「おれが?」

「ここまでやるのは、怨恨によるものだとしか思えないんですよ」言葉を切ると、慰めるような視線を向ける。「今すぐでなくとも構いません。話したくなったときに、ご連絡ください」

 結城が差しだした名刺を受取り、龍平はアトリエに向かった。暗い廊下を歩きながら、結城の示した、犯人が身内や職場関係者の場合という仮定について考えた。

 残念ながら、白峰は犯人ではない。

 青山の証言に嘘はないと思えた。彼は実際に二時過ぎに仏像を見たのだ。喫茶店に白峰がやって来たのも二時過ぎだった。どう考えても仏像や道具を破壊するためには、五分や十分の時間では無理だ。少なくとも、一時間は必要になるだろう。

 赤いペンキの問題も気になった。犯人は、のみたがねなどをアトリエから持ちだしただけでなく、二階から赤いペンキを持って降りた。そこまで怨みが強かったのかもしれないが、だったらペンキを買ってくればいい。鑿や鏨はスーパーに売ってないが、ペンキは売っているのだから。事前に買っておけば、危険を冒して二階にのぼる必要もなくなる。どうして犯人はそんなことをしたのだろう。

 アトリエに近づくと、若い警官による事情聴取は終わったのか、すみれと津島が廊下に立っていた。すみれはちらっとこちらを見てから目を戻すと、今日は何してたのと津島に聞いた。昨日の電話で話したように、久しぶりのオフで一日中寝てたよと津島は答えた。

「それを証明するひとはいますか」

 ふざけた口調ですみれが言い、津島は笑った。

「いません。一人身の寂しい男なので」

 龍平がそばによると、津島が心配そうに眼を向けた。

「大丈夫かい、龍さん」

「ええ。ご迷惑をかけて、すみません」

「龍さん、今もすみれと話してたんだが、私も心当たりにいくつか声をかけて道具を探すからさ」津島が言った。「もう一度、観音菩薩に挑戦したらどうだろう。二科展までにまだ時間がある。すみれだって、龍さんが六寸の仏像を彫るって話したら喜んでいたんだし」

「ありがとうございます」龍平は頷いた。「考えてみます」


 警察の一行が退去して、津島も帰宅したのを潮に、残った全員でリビングを掃除した。

 ペンキはまだ生乾きの部分もあったが、すでに乾燥している個所もあり、ヘラを使って剥がすしかなかった。

 単調な作業を続けていると、頭が勝手に働き始めた。

 これまで見逃してきた重要な点に思い当たる。犯人は、どうしても龍平をリビングから追い出す必要があった。龍平が喫茶店にあれだけ長時間いたからこそ、犯行は可能になったのだ。もちろん、買い物に行った隙を突くこともできるだろうが、スーパーに行く時間はいつも不規則だった。また、夜間はドアに鍵をかけるため、容疑者が限定されすぎてしまう。

 そして、メールで龍平を呼び出したのはすみれだ。

 おそらく、すみれは浮気相手に騙されているのだろう。そうとしか思えない。だから問題は、その相手が誰かだ。

 アリバイの有無でいえば、津島が浮気相手だと思える。しかし、そうなると、すみれは犯行前に、共犯者の名前を告げたことになる。あまり賢い方法だとは思えない。もちろん、津島の名前を告げたのちに犯行を計画したとも考えられるが、たった一日であれだけの破壊を衝動的に思いつくというのは無理がある。

 では、津島でないなら、白峰なのか。浮気相手が白峰である可能性は高いと思う。しかし、白峰は喫茶店にいた。

 他に考えられるのは、犯人と浮気相手が別だというケースだろう。つまり、浮気相手は白峰だが、犯行は津島が行ったというものだ。津島は何らかの理由によって犯行を決意し、すみれに協力を頼んだ。しかし、ここでも「浮気相手は津島だ」とすみれが口にした件が引っかかる。あの場には森崎もいた。噂を広めて欲しいと宣言したに等しい。まるで、津島を疑って欲しいと言わんばかりだ。

 あるいは、そうやってわざと疑わせることによって、できすぎた印象を与え、容疑を遠ざけようと計算したのか。

 しかし、人はそんな馬鹿げた計算を、本当にするものだろうか。

 思考の糸はからまるばかりだった。その一方で、何かが気になって仕方なかった。アトリエでのやりとりだ。たぶん、青山の話したこと。それが気になっていた。

 自分の手が止まっていたのに気づき、顔を上げた。すぐ横に青山がいた。小声で話しかけた。

「二時に仏像を見たときだけど、君、何か他に言いたいことがあったんじゃないかな」

 青山は離れた場所にいるすみれに目を向けた。

「彫刻刀について話していただろう」

 重ねて問いかけると、青山は顔をよせ、声をひそめた。

「あの、ぼく、失礼なことをしてしまったんです」

「失礼な?」

「あのとき、彫刻刀が散らばっていたんで、ぼく、仏とそろえるように並べてたんです。拡大写真の横に仏像を置いて、その横に彫刻刀を並べるって感じで。そしたら、すみれ先生に手を叩かれたんです。勝手に触っちゃだめだと怒られて。せっかく並べた彫刻刀をすみれ先生がまたばらばらにして。アトリエの道具は長さがそろっていたので、そういうものだと思っていたんです。でもよく考えたら道具は作家にとって大事ですものね。勝手に触って、すみませんでした」

「いいんだよ」龍平は言った。「なあ、もしかしたら、仏像の足裏と、彫刻刀の尻を揃えて並べていたのかな?」

「はい。それがどうかしたんですか」

「仏像の一番上は、彫刻刀のどのあたりにあったか思い出せる?」

「それなら」青山は笑った。「彫刻刀の柄と、仏像のサイズは同じでした。柄の長さは六寸なんですか」

「六寸ぴったりだよ。ちなみに、君は今まで仏像が好きだって話したことあったの?」

「いえ」青山は照れたように笑った。「ありません。ぼくの年齢だと渋すぎる趣味なので」

「なるほど」

 龍平はうなずいた。視線を動かすと、すみれが赤く汚れた雑巾を手にしたまま、床に膝立ちになって、こっちを眺めていた。


     5


 リビングの掃除が終わると、職人たちには外で食事するように頼んだ。

「いいのか」森崎が声をひそめて言った。「津島のこと、警察に話さなくて」

「いいんだ。ありがとう」

「本当に大丈夫なのか、あんた」

「おれは頑丈が取り柄なんだ」

 森崎は尚も気がかりそうな目をしていたが、若い二人を引き連れて、坂を下って行った。三人を見送り、それからすみれに話があるからと声をかけた。邪魔が入らないよう工房に誘うとすみれは黙ってついてきた。もうすっかり雨はあがっていた。濡れた砂利道を通りながら、奥へと向かう。まだすみれは一言も発していなかった。砂利を踏む音だけが聞こえてくる。すぐに暗い工房が見えた。

 中に入って、明かりをつけた。内部はプレハブのような作りで、窓ガラスはどれも汚れている。天井が高く、チェーンと滑車が垂れさがっていた。足もとの土間にはさまざまなものが転がっている。壊された型のかけらや一メートルほどの結束バンドの切れ端、チェーンソー。部屋のほぼ中央に、溶接されたブロンズ像が立っていた。

 両手をあげた女の子の像だった。高さは百二十センチほどで、フォルムは柔らかい。ワンピースから伸びた小さな腕に筋肉の盛り上がりはなく、なだらかだ。足は両方ともつま先立ちになりかけていた。みずみずしい印象を、ブロンズの質感が裏切り、引き締めている。少女だが甘さは微塵もない。

 像に近づく。

 見晴らしのいい場所にいくと胸いっぱいに呼吸したくなる。そんな気分だった。好きな歌を繰り返し聞くような気分。目がブロンズから離せない。

「それで」背後ですみれが言った。「話って何?」

「仏像の世界で『六寸の観音菩薩』と言うとき、『六寸』は全長のことではないんだ」龍平は苦労して少女像から目をもぎはなし、振り返ってすみれを見た。「六寸というのは髪の生え際から足裏までの長さを指すんだよ」

「不便極まりない計測方法ね」

「そうでもない。同じ人間が髪型を変えたと考えれば、わかると思うよ」

 ウィンドブレーカーのポケットに手を入れ、割れてしまった仏頭をもてあそぶ。森崎にこの地蔵菩薩が聖観音菩薩と同じサイズなのだと説明したのが、ずいぶんと昔に思えた。

「髪型だけが違うんだから、大事なのはそこから下のサイズになる。例えば地蔵菩薩と聖観音菩薩が並んでも、顔の大きさが変わらないのはそのおかげなんだ」

「ふうん。それで?」

「聖観音は、頭上に二段の髷がつく。全長は七寸三分だ。君が青山を叱ったのは、彼が仏像を彫刻刀の横に並べたからだろう?」

 すみれは答えなかった。よく光る目で龍平を見ている。

「引っかかったのは、青山の口にした『仏像の拡大写真』という言葉だった。実際におれが使っていた写真は原寸大だった。では、どうして原寸大の写真が拡大写真に見えたのか。それは青山の見た仏像が、写真よりも小さかったからだ」

 七寸三分の観音菩薩像を六寸に縮めれば、各パーツの比率は必然的に狂う。おそらく、仏像が怒っているように見えたのはそのためだろう。

「要点を言ってくれない? あたし、この後、用事があるんだけど」

「要するに、二時の時点でリビングにあったのは、おれの仏像ではなかった。彫刻刀や砥石もそうだ。全て偽物だった」

 落ち着かない気分で足を動かした。

「これは想像でしかないけど、おそらく犯人はリビングが無人になるまで、空き家の前で待機していたんだ。おれが外に出て、職人たちが食事をすませると、家に忍びこんで道具と仏像を運び出し、別の場所で破壊した。あるいは、おれが外に出て、職人が食事にくる正午までの三十分の間だったのかもしれない。どちらにしても、偽物をつかってカモフラージュし、ゆっくりと仕事をした。それから、本物と偽物を入れ替えた。交換するだけなら、それほど時間は必要ない。全ての作業を終えたら、しっかりとアリバイを作っておく。それは簡単なことだったはずだ――ところが、予想してなかったトラブルが起こった」

「サイズが違ってたんでしょう」

「もちろん、それだけなら誤魔化すのは簡単だったはずだ。おれはいつも仏像を布で覆っていたし、仏像に興味がありそうな人物はいなかったから。ところが、証人として選んだ青山は仏像に詳しかった。犯人は、青山が仏像のすり替えに気づく可能性を恐れたんだ。だから赤いペンキを使った。異様な状況を演出することで、サイズの違いを覆い隠したんだ。神は細部に宿るというが、ペンキは細部も塗りつぶしてくれる。犯人にとっては二重に都合がよかった。仏像の頭部を盗んだのも、同じ理由だ」

「犯人は誰だって言うつもり?」

「結城さんは、身内が犯人だと言っていた。おれもそう思う。犯人は内部事情にあまりに詳しすぎる。三人の職人たちはそれぞれが互いのアリバイを補強しているから除外できる。津島さんも違う。津島さんなら、六寸の仏像のサイズを間違うはずがないからね」

「はっきり言ったら」

「君がこの事件に関与しているのは確実だ。メールでおれを喫茶店に釘づけにできたのは君だけだし、二時に青山を使って偽の仏像を目撃させ、取り替えることができたのは君だけだ。おそらく荒彫りまで進んだと津島さんから聞き出したんだろう。パソコンの履歴を見れば、おれがどの観音菩薩の写真をダウンロードしたかもわかる。ただ、君は手伝っただけだ。白峰は二時から喫茶店にいたが、そのアリバイはすでに役立たずだ」

 喫茶店で白峰が食事をしようと誘ったのは、アリバイの確保とともに、龍平を足止めするためでもあったのだろう。二時半に龍平が戻れば、すべてが台無しになる。

「仏像や道具を破壊した犯人は、白峰だ」

「馬鹿ね」すみれはため息をついた。「不器用な白峰にできるわけないでしょ。あたしがやったってわかってるくせに、どうしてそんな回りくどい話をするの」

 どこか遠くで犬が吠えていた。何度も何度も、力の限り、叫んでいる。

「龍平、あたしが犯人だって言ってるんだよ。聞いてる?」

「聞いてるよ」

 足もとが急にぐらぐらして、自分の声がひどく遠く聞こえた。

「ちゃんと聞いてるよ。でも、どうしてだ、すみれ。どうしてあんなこと」

「それは白峰が好きだから」

 単純な口調で言った。束ねていた髪をほどき、軽く首を振った。

「だけど、離婚しちゃ駄目だって白峰が言うのよ。離婚したら、あんたが財産の半分を持って行っちゃうからって。だから、白峰はこう言ったの。こちらから離婚を切り出すことはしないで、あんたの心を潰そうって。ちょうど龍平は仏像に打ちこんでいたから、それを壊してしまえばいいだろう、道具も壊そう。何度も、何度もってね」

「何度もってどういう意味だ?」

「文字通りの意味よ。今回が最初で最後ってわけじゃなかったのよ。津島はきっとまた龍平に彫らせるだろうから、そのたびに、仏像を破壊する計画だったの。それでノイローゼとかになったら入院させちゃえばいいでしょう」

 ――いつも窮屈だったのね。

「あと津島が浮気相手だと思わせておけば、もしかしたら龍平は津島を殺すかもしれないとも思ったの。あんたは柔道の帯を引き千切っちゃう人間だし、頭に血がのぼったら、やっちゃうかもしれないでしょう?」

 ――あたしが成功したら、真っ先に、天井の高い家をあんたにプレゼントしてあげる。

「もし仮に見つかったとしても、器物損壊の罪は軽いし、破損した物の賠償だって、二、三年経ってたらただ同然になるからね。リスクとリターンを秤にかければ、やってみる価値はあった」

「白峰がそう言ったんだな」かろうじて言った。「君は騙されてるんだ」

「白峰が言ったのはその通りだけど、騙されてないよ。あたしも面白いと思ったから話に乗ったの。やっぱり、あたしのこと何にもわかってないのね」

「おれは」

「ねえ」すみれはゆっくり言った。「ねえ龍平。あたしが太ったの、どうしてだと思う?」

「なぜそんなことを」

「いいから答えて」

「それは」息を吸った。「たぶん、作品ではなく外見を評価されたのがストレスで――」

「残念でした」すみれは短く笑った。「誰もわかってくれないけど、あたしは好きで太ったの。美しいとか言われてたから、それを汚したくて太ったのよ。ほら、降り積もったばかりの雪って踏みたくなるでしょう。あんな感じ。美しいものを穢すのって、すごく気持ちいい。そんな顔しないでよ。あたし、太っていくのが楽しかった。ざまあみろって感じがした。でも、そういうの、龍平は全然わからないでしょう」

「おれは――」

「あたしはね、汚いものとか、醜いものが、好きでしょうがないし、真っ白なものは、黒く染め上げてやりたくなる。そういう人間なのよ。でもね、あたし、前より彫刻とうまくつき合えるようになったと思う。今はいかにもきれいな、人の喜びそうなものを作ってると、それが汚く思えてくる。何かが逆転したのね、きっと。うまく言えないけど」すみれは長い髪をすいた。「それで、龍平はどうするの?」

「どうする?」

 頭が働かなくて聞き返すと、すみれはじれったそうに舌打ちした。

「だからね、こうなったらあたしを警察に突き出すとか、離婚するとか色々あるでしょう。それとも、腹いせに、あたしの作品を壊す?」

 目で促されて振り返る。少女像がこっちを見返していた。膝から下に力が入らない。視界が歪んでいて、息が苦しい。立っていられず、土間に膝をついた。

「こんな」やっとの思いですみれを見て言った。「こんなきれいなものを壊すなんて、おれには無理だ」

 すみれは束の間、腰に手を当てて龍平を見ていた。

「あのね、余計な忠告かもしれないけど、美しいものに憧れてちゃ駄目。単なる職人になっちゃうから。あなた、職人になりたかったわけじゃないでしょう?」腕時計に目をやった。「いけない、もうこんな時間。これから白峰と会うの。作品が出来たら見せる約束だったから。あ、もちろん、警察では『計画』の話なんてしないけどね。ついかっとなって壊しただけだって言うつもりよ」

 地面を見つめた。すみれの足音が遠ざかっていく。息をつめたまま考えた。

 ずっと、仏像は美しいと思っていた。

 どうにもならないことが世の中にはあるものだ。例えば近しい人の死がそうだ。

 源三はどうして抗癌治療で苦しんだ挙句、死なねばならなかったのか。人はいつか死ぬにしても、なぜ去年の二月だったのか。もっと後でも良かったのではないか。自分はもっと源三に対して、何かできたのではないか。

 長いあいだ自分に問い続けても、どこに行っても、誰に聞いても、答えは見つからない。そういうとき、人は仏に祈る。仏像は、仏師のものでも、ましてや僧侶のものでもない。それは救いを求めて祈ってきた、何百人、何千人、何万人もの人々のものだ。そして、だからこそ、仏像は美しいのだと、ずっと思っていた。

 しかし、そう考えている自分は、間違っていたのかもしれない。

 あれほど美しい作品を作るすみれが、間違っているはずがない。

 百尺の竿頭かんとうに一歩を進むという、禅の言葉がある。もうこの先はない、これ以上進めば落ちてしまうという絶体絶命の境地から、なお一歩を模索する、という意味だ。美しいものは汚く、汚いものは美しいというすみれの言葉は、先にある一歩ではないのか。

 気がつくと膝だけでなく両手をついていた。眼鏡のレンズに水滴が落ち、自分が泣いていたのを知った。顔をあげると、一瞬、高い場所にいるように眩暈がした。強く目を閉じて、深呼吸し、目を開けた。眩暈は去り、すみれが引き戸に手をかけているところだった。

 すみれが行ってしまう。

 あの日のやさしいキスや、自転車で通った倉庫への道、磨かれた作品、半分眠ったような顔をして朝食のテーブルにつくすみれの嬉しそうな顔が、次々に思い出され、その全てがもう手の届かない場所に遠ざかっていこうとしている。

「待ってくれ」

 涙で汚れた眼鏡を外し、龍平が言うと、すみれは足を止めた。

「イカロスを初めて見たとき、こんな幸せな気持ちになることなんて、もうないと思ったよ。こんなに嬉しいプレゼントはないって。君が目を大きくしてくれたのが嬉しくて」

 コンプレックスを持っている自分を、さりげなく慰めてくれたようで。

「あのね」すみれは龍平に顔を向け、ちょっと困ったように続けた。「今まで言ったことなかったんだけど、最初にイカロスを作ったとき、あれって龍平の目そっくりにしてたのよ。でもバランス悪かったから、目のところだけえぐりとって修正したの。白峰の目に。そのときはね、単に作品の完成度を高めただけだって思ってた。だけど再会して気づいたの。あたしは、白峰の目が好きだったんだって」

「あんな」頭が痛かった。「あんな卑劣なやつのどこがいいんだ」

「卑劣だからよ。そこが好きなの。それにあの目で見られると駄目なのよ」

 挑発ではなかった。すみれの声は甘かった。

「どんより濁って、生気がなくて、まるで死んだ魚の目みたい。あたしは、自分をそういう目で見つめて欲しかったの」

 入口で物音がし、白峰が立っていた。驚いたように龍平を見て、すみれに目を向けた。すみれはもう、龍平など見向きもせずに、白峰だけを見つめている。

 すぐそばにチェーンソーが見えた。図鑑の記憶が不思議なほど鮮明に蘇った。チェーンソーを手にとって立ち上がり、二人に向かって走った。驚いたように振り向くすみれを突き飛ばして外に出し、白峰の手を取り、中に引っ張りこんだ。すぐさま引き戸を閉め、チェーンソーを使ってつっかい棒にする。

 すみれが戸を叩く音を聞きながら、倒れている白峰を見下ろした。

「すみれは、お前に騙されたと言っている。本当か」

 白峰は地べたに座ったまま、弾かれたように顔をあげた。

「違う」

「どう違うんだ」

「龍平。悪かった。でも、おれじゃないんだ。何もかも、すみれが言い出したことで。それに誘惑してきたのもあいつが」

「そうか」

 龍平は結束用バンドを拾い上げた。

 お前の目玉をくれと言うと、白峰はぽかんと口を開けた。その顔を三度殴って押し倒す。眼球の大きさはピンポン玉と同じだ。その大きさになるよう結束バンドをループ状にし、目に突っこもうとする。白峰が暴れた。続けて六回殴ると動かなくなった。結束バンドが白峰の目の裏側に入りこむよう、ゆっくりと押しこんだ。重梱包用バンドは、鉄帯に匹敵する強度で、引き千切ることはできない。龍平にも不可能だ。思い切り引くと、バンドは、神経線維と筋肉を難なく切ってくれた。慎重に眼球を掻きだして右手に持つ。

 腰を上げると、白峰が芋虫のように転がった。目のあたりを押さえた指の間から血が流れていた。じき止まるだろう。眼球に繋がっている血管は神経の内部にある。とても細い。圧迫止血で出血は治まる。

 白峰の声を聞きながら、自分の右目をぶん殴った。衝撃で麻痺しているうちにバンドを押しこもうとした。痛かった。バンドを取り落してしまった。どうやら白峰と同じ方法は使えそうにない。

 龍平は壁に向かって歩いた。左の人差指と中指で眼球に触れる。左ひじを立てて壁に向け、上体をわずかに逸らせる。指に力を入れたまま、一気に身体を戻し、左肘を壁に打ち付けると、指が目の中に潜りこんだ。痛みで気が遠くなりながら、人差し指と中指をカギ状に曲げ、力をこめて引っ張る。ぶちんという大音量が世界に響き、気がつくと床に倒れていた。目の奥から流れた血が、鼻と喉を塞ぐ。咳が止まらなかった。息ができない。目の前が暗くなる。

 闇の奥に朧な光が見え、目をこらすと誰かが踵を切っていた。血だらけの足で靴をはこうともがいている。それは、すみれで、龍平で、他の誰かであり、誰でもなかった。

 次の瞬間、視界が戻り、また痛みを感じたが、意識はどこか遠い場所にあった。痛みと自分が切り離されていて、他人事のように眺めている。右手には、まだ白峰の目が乗っていた。粘つく左手を振って自分の目玉を投げ捨て、立ち上がり、よろめく足で戸口に向かう。ずいぶんと遠く感じた。血が頬を伝い、顎先から滴り落ちる。心臓の鼓動が速い。最初のデートのときのようだと、ふと思った。あの時は部屋まで迎えに来るよう言われたっけ。また目の前が暗くなりそうになったが、なんとか堪え、引き戸の前に立った。深呼吸して心を静める。

 源三が最後に教えてくれたのは、死者と言葉を交わすのは不可能だという、当たり前のことだった。死んでしまったら、何をどう悔やんでも、取り返しがつかない。だからこそ、相手が生きているうちに、できることをやるべきなのだ。

 もしかしたら、と龍平は思った。シンデレラの義姉は、母親という、愛する人の望みをかなえるために、足を切ってガラスの靴をはこうとしたのかもしれない。

 白峰の眼球を、自分の空っぽになった眼窩に押しこむ。チェーンソーを外し、引き戸を開けた。

 すみれはいなかった。

「すみれ」

 せっかく手に入れた白峰の目を落とさないよう、瞼を押さえながら、外に出た。すっかり日が沈み、松林の端が残照に輝いている。暗くて明るい空を眺めていると、遠くからサイレンが聞こえてきた。砂利道を踏んで、玄関に向かった。

「すみれ」

 玄関先にもすみれはいなかった。龍平はぴかぴか光る「イカロス」の肩に左手を乗せた。身体中が重くて、もう一歩も動けそうにない。サイレンはこっちに向かっているようだ。

 また空を見上げた。透明度を増した空は、暗い青から黒までのグラデーションになっていて、東の一角に黄色い月が出ていた。そのすぐそばで、小さな星が弱々しくまたたいている。

 すみれはどこにいるんだろう。

 近づいてくるサイレンを聞きながら、龍平は、すみれの名を呼び続けた。

                                       了

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