ターコイズブルーの漆
1
「彫刻刀を離さなかった理由、先輩は聞きました?」
しゃがみこんでキャビネットに色漆を入れながら、坂口理子は背後に声をかけた。
塗り部屋に置かれたファイルキャビネットは、漆置き場として使われている。内部の棚は三段で、刷毛からこそいだ漆をラップにくるんだものが大量に保管されていた。それぞれに名前を書いた付箋やハート形のシールが貼ってある。隙間を縫うようにして、ラップの端を紐で縛った色漆も置いてあった。赤や緑の漆は、卓球の球くらいの大きさだ。
「理由?」
「脚本家が理由らしいですよ」
「なんだそりゃ」
三人分の色漆を入れ終わると、ノートに時刻と数、色を記入した。七月二十六日、午後十二時二十六分。合計で九個。色は、森谷由紀奈がターコイズブルー・白・本朱で、理子が白藤・藤・紫藤、尾野鏡花が白・黄・緑だ。
漆は絵具と違い色つきの製品がなく、使うたびに顔料を混ぜねばならない。練る作業は一時間以上かかる。
午前中ずっと酷使した腕をさすりながら立ち上がった。振り返ると、鏡花は眉をひそめてこっちを見ていた。五つ年上の三年生は、ワークパンツのポケットに両手を突っこんでいる。すらりとした身体に、白い長袖のシャツをはおり、腕には作業用のシャツをかけていた。狭い塗り部屋にいるのは理子と鏡花だけだ。
「誰に聞いたんだ、理子」
「一年生が教えてくれたんです」
「脚本家?」
「正確には脚本家の書いた本を読んだらしいですけど」
なんだそりゃ、ともう一度つぶやき、鏡花は引き戸を開けて暑い部屋を出た。あとに続いて塗り部屋を出ると、靴脱ぎを抜け、クーラーの効いた実習室に戻る。
広々とした部屋はがらんとしていた。漆の甘い香りがする。
中央に作業机が六つ、向かい合わせに並んで島をつくり、講師の机と、研究員の机が両脇を固めている。研究員とは三年間修業した研究生の、上級生だ。さらに一年の漆芸研究を許されている。どの机も、製作中のヘラや、正倉院に保管されている漆器の資料、おびただしい枚数の図案などで雑然としていて、何かが起こりそうな気配に満ちている。文化祭直前の教室みたいだといつも思う。
窓からは薄墨色の雲が見えた。今にも雨が落ちてきそうだ。
「それで」鏡花がトートバックに畳んだシャツを入れながら言った。「続きは?」
話はこうだった。
午前中、一年生は木彫の授業だった。一階の木工実習室で、地紋という伝統的なパターンを彫っていた。八時四十分からの授業が九時半に終わり、休憩になったところで騒ぎが起こった。
「脚本家の本にはこう書いてあったらしいです」理子は言った。「よい脚本を書くためには適度な休憩が必要だ。しかし休んでいるときもペンだけは離すな」
「ほう」
「本が机の下に落ちていて、一年生が拾ってみると、しおりが挟んであって」
「ほう」
「アンダーラインが引いてあったらしくて」
二十二歳の一年生、宮本順一郎は休憩時間になっても彫刻刀を離さなかった。そのままトイレに行こうとして、講師に羽交い絞めにされた。怯えた研究生の一人が警察に通報し、パトカー四台が急行、実習室に警察官が飛びこんだ。
「逮捕されたのか?」
「残念ですが」笑いながら理子は首を振った。「実害はなかったので注意だけで終わったそうです。午前中の授業はほとんどつぶれちゃって、仕方ないから変わり塗りをやることになったらしくて」
「なんて迷惑な話だ」
「変わり塗りと言えば、木綿豆腐だよね」
戸口で澄んだ声がした。廊下に出ていた、同じ二年生の由紀奈だ。
三十代半ばで小学生の子供がいるが、ふわりとしたシャツワンピースを着て、茶色の長い髪をお団子にまとめている姿は二十代にしか見えない。一緒に買い物に行くと、たまに二十二歳の理子より若いのだと勘違いする店員もいて、世の中は理不尽だと思う。
「なんだか懐かしい」由紀奈は理子に向かってほほ笑んだ。「理子ちゃんとは、あのとき初めて話したんだよね」
「そういえば、あれからでしたね」
変わり塗りは、漆に豆腐や卵白などを混ぜる技法だ。タンパク質をわざと混ぜて、独特の風合いに仕上げる。江戸時代、武士の鞘を塗ることで発展したといわれている。去年、由紀奈と一緒に変わり塗りの実験をしたとき、理子たちの担当は木綿豆腐だった。親指の先ほどのかけらを混ぜるだけで漆が強く粘ったのを覚えている。
「でも」由紀奈は小首をかしげた。「誰がお豆腐とか買いに行ったんだろう?」
「気になるのそこですか、由紀奈さん」
鏡花が苦笑する。
「それで、幾太くんはなんて?」
「お昼が足りないって言うの。ざるうどん、かなり用意したのに」
「育ちざかりだね」
「もう十歳なんだから、電話してこないで、ラーメンでもなんでも自分で作ってくれてもいいのに。夏休みってほんと面倒なのよね」
ぶつぶつ言いながらも笑顔を浮かべる。由紀奈は息子の話をするときが、一番優しい顔になる。
昼食はうどんを食べることにして、七階の彫漆実習室を出た。廊下に出るとむっとする暑さに包まれる。二日前の雨で泥だらけになった廊下は、掃除してもどこか埃っぽい。
定期点検中の札がかかったエレベーターの前を通過し、薄暗い階段を下りながら、当然のように宮本の話になった。
香川県漆芸研究所は、伝統的な漆芸技法を保存し、後継を育成するため、一九五四年十一月に設立された。以来、修了者は漆芸作家や漆工芸技術者として活躍している。
現在、研究所で修行する二年生八人と三年生七人、それに研究員一人は、すべて女性だ。一年生も九人のうち八人までが女性で、宮本はただ一人の男性だった。研究所の指導講師には男性もいるが、そのほとんどは年配から初老にかけてで、若い男はいない。
「やな予感はしてたんだよね」鏡花が言った。「あいつ、銅像の掃除もさぼったし」
「おっと。四月の恨みを七月に果たすのね」
毎年四月に一年生は中央公園にある香川漆芸の祖、
「由紀奈さんはそういいますけど」
「はいはい、わかってるよ、鏡花ちゃん。でも宮本くんはさぼったんじゃなくて抗議したつもりだと思うけどな」
「自由だと言いつつ参加しないと非難がましい目を向けるなら、強制と同じだ」
「それ、あのとき宮本くんが言ったことだ。よく覚えてるね」
「あたし、昔からめちゃくちゃ腹が立つと記憶力がよくなるんです」
「便利ね」
研究所の入っている香川文化会館の建物を出ると、肌に湿気がまとわりついた。今日の湿度は七十パーセントだと朝の天気予報で言っていた。理子はタンクトップとショートパンツ姿で、水の中を進んでいるような気分になった。にじんでいた汗が、ゆっくりと腕を伝い落ちる。
蝉しぐれを聞きながら社会福祉センターの脇をすぎ、角を曲がって菊池寛通りを歩いた。しばらくすると横断歩道の先に黒い森のような中央公園が見えた。野球場の跡地とその周辺を緑化した、高松市の中心部に位置する公園で、市役所やビジネス街の並ぶ通りと、長く伸びた商店街とに接している。硬い広葉樹の葉が曇天の光を反射して、古い宝石のように暗く光っていた。
園内に足を踏み入れると、頭上を木々の枝が覆い、蝉の声が大きくなる。
「脚本家の前はなんだっけ」由紀奈は言った。「なにか、別の本に影響されてたよね」
「演技術です」鏡花が答えた。「偉大な人間を演じるには、偉大な人間にならなければいけない、とかなんとか」
「それ覚えてる。同じ苦悩でも、ハムレットのものと、レストランで注文に迷うのとは違う」
「あいつ、アホなんですかね」
「勉強熱心とは言えるかも」
「他人の受け売りを、自分の意見みたいに言ってるだけだと思いますけど」
「厳しいなあ。宮本くんかわいそう」
「かわいそうなのは琴音ちゃんですよ」理子は後ろから口をはさんだ。「まったくあんな男のどこがいいんだか」
一年生の水村琴音は、入所時から宮本とつきあっていると噂されている。実際、二人はいつも一緒にいる。銅像事件のときも琴音は困ったような顔をして、宮本の隣にいた。
「理子ちゃんも厳しい」
「だって」
「琴音ちゃんって、二十歳でしょう。あれくらいの年だと、宮本くんでも頭がよく見えるのかも。そんなものよ」
「恋は盲目か」鏡花はため息をついた。「早く目が覚めるといいのに。冷たい」
「何がです」
鏡花が振り返った。
「雨だ」
その言葉が終わらないうちに、大粒の雨が叩きつけてきた。
またたくまに雨脚は強まり、慌てて傘をさす。急に木々の影が濃くなり、地面で跳ね返った雨が足を濡らした。風にあおられた傘がひっくり返るのを手で戻しながら石畳を走る。スカートを押さえた由紀奈が悲鳴を上げるのが聞こえた。
やっと公園を抜け、目当てのうどん屋についたころには靴下までずぶ濡れになっていた。
坊主頭の店主にタオルを貸してもらい、濡れた腕や髪をふく。店内には同じように駆けこんできた客が多かった。傘を持ってなかったのだろう、カップルの男女が濡れたガイドブックを眺め、苦笑している。
窓際の席に陣取り、温かいうどんをすすると、ようやくひと心地ついた。
雨音を聞きながら
「また見てるのかよ、理子。もしかして、さっきの話も漆黒情報?」
「それだとまるで黒い情報みたいに聞こえます」
画面を見ながら答える。
背後には白木で作った茶箪笥のようなものが映り込んでいる。作品を乾燥させるための漆室だ。
一年のうちで、漆が最も早く乾くのは梅雨どきだ。これは漆液に含まれるウルシオールという酵素が高温多湿のとき活性化するからだ。漆室は人為的にその状態を作り出すため、内部を霧吹きで湿して使う。夏場は気温が高いため温度管理は必要ないが、冬には電熱器を使って温度を上げなければならない。
理子は最初のころ、湿っているのに乾燥するというのが感覚的によくわからなかったものだ。
記事は明日香が練習用の板を漆室に入れたところ、琴音が入室してきたので写真を撮ったと書かれている。
「この二人って仲良かったの」
由紀奈が向かいの席から身を乗り出すようにして画面をのぞきこむ。
「どうでしょう」
「アイドルは友達が多いほうがいいから、写真撮ったんじゃないか」
鏡花が辛辣な評価を下す。
漆芸界のアイドルを目指す明日香は、入所した日からブログを書いている。研究熱心で、自宅でも漆を塗って練習していたが、「中国産の漆だから乾かない」という記事をアップして物議を起こした。
漆は産地によって成分が違うものだが、それによって乾きが遅くなるという事実はない。
乾燥が失敗するには様々な理由があるものだ。
まず漆室を高温多湿の状態、具体的には、温度が二十五度から三十度、湿度は七十パーセントから八十パーセントにしなければ、早く乾いてくれない。また色漆なら使用する顔料によって時間が違ってくる。塗りも均一でなければうまくいかず、皮脂や汚れ、つばなどが乾きを妨げる場合もある。
はっきりしているのは、自然は間違えないということだ。乾かないときに疑うべきは、自分の腕であって、漆ではない。
明日香の場合も、漆室の湿度管理ができていなかったことが後日になって判明した。
「そういう下らないブログを読むなと何度言ったら」
「でもでも、先輩、勉強になるんですよ。彼女、下絵はうまいし」
「デザイン学校を出たんだから当然だろう」
「それはまあ、そうですけどね」理子は一つうなずいて続けた。「だけど、復習にもなるんですよ。明日香さん、毎日教わった話を細かく書いてて。なんていうか、まとめるのが上手な人のノートを見せてもらう感じというか」
「理子ちゃんって、もしかして、明日香ちゃんに憧れてるところもあるんじゃない?」
由紀奈はテーブルに頬杖をつき、ほんわかとした優しい笑みを浮かべている。そのくせ、こうやって鋭いところを突いてくるから油断できない。憧れている人は他にいますとも言えず、困っていると、鏡花が食いついてきた。
「そうなのか」
「憧れているというか、偉いじゃないですか。色々と先のことまで考えてて」
明日香は漆芸家であっても、ファンを獲得しなければ食べていけないという。彼女は通っていたデザイン学校の卒業生にインタビューを行い、その結論を得た。ブログはファンを獲得するための手段らしい。
「それも必要だけど」鏡花は腕を組んだ。「先々のことばっか考えて、今がおろそかになってたら意味ないよ。それじゃ宮本と一緒だ」
「そうかなあ。宮本くんは、確かに迷惑な騒ぎばっかり起こすけど、ちゃんと足元見てると思うけど」
「由紀奈さん、宮本には甘いですね。どうしてです?」
鏡花が聞くと、由紀奈は少し迷ったように口元に手を当てていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
「実はね、宮本くん、わたしのターコイズブルーが好きだっていってくれたの」
青い漆を作るために何度も質問に来て、メモもしっかり取り、うまくいかなかったときには再度聞きにくる。受け答えも丁寧で、きちんとしているので、印象が変わったという。
「それって本当にあの宮本のことですか」
「うん。意外でしょう」
「確かにちょっと見直しました。一年生が色漆にこだわるのはどうかと思いますが」
黒は漆の精製時に鉄を混ぜ、酸化作用によって黒変させる。漆黒は人によって色の違いがない。他の色は違う。顔料の種類や量、混ぜ方などによって、色の質が変わるからだ。そのため一年生は手分けをして、一人一色の色漆を作り、皆で分け合って使う。同じ色漆でも乾燥条件によって発色がどう違ってくるか学ぶためだ。
「宮本の青は成功したんですか」
「まだなんだよね。どうしても成功しないみたいで」
「不器用なんですかね。少し寒くないですか」
鏡花は掌をこすりあわせ、顔をしかめた。雨はまだ降り続いていた。
「これ、いつになったらやむのかな」
由紀奈が横殴りの雨が叩きつける窓に目を向け、つぶやくように言った。
そのとたん、答えるように天空が光り、直後に雷鳴が轟いた。
ゲリラ豪雨が止んだのは午後一時近くになってからだった。
理子はうどんを二杯おかわりし、ぱんぱんに膨らんだ腹部を押さえた。鏡花と由紀奈の背を追って、ぐしょぐしょに濡れた公園を走る。二人に追いつけたのは、赤信号が足止めしてくれたからだ。授業開始が一時十五分だとはいえ、時々、この二人は自分を無視しすぎではないかと思う。もっとも口に出す勇気はなかったが。
エレベーターはまだ点検中だった。階段を使って七階に向かうと、先に誰かが戻っているようで足跡がぺたぺた残っていた。濡れた土がこびりついている。足跡は七階の実習室まで続いていた。
「誰だと思う」
由紀奈の言葉に鏡花が目を光らせた。
「賭けますか。あたしは恵子さんにうどん一杯」
「じゃあわたしはさゆり先生に。理子ちゃんは」
「わ、わたしも賭けに参加してたんですか」
「当然よ。誰」
「ええとじゃあ、人間国宝の如雲先生」
「あのおじいちゃんがいると思うか?」
「いたら面白いかなと」
研究所の講師には重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝の先生もいる。山形如雲はその一人だ。一年生のとき、如雲は理子の練習板を見て、もっと背筋を伸ばしなさいとアドバイスした。抽象的というか、精神的過ぎて、どういう意味かはわからなかった。それでも思い出すたびに背筋を伸ばすようにはしている。
「ふうん。まあ、理子はおごり決定だな」鏡花が言って足跡を指した。「人間国宝はたぶん、スニーカーなんてはかないよ」
「結果は見るまでわからないものです」
廊下に続く湿った足跡をたどり、実習室の戸を開けた。靴脱ぎに泥だらけのスニーカーが揃えられていて、教室には誰の姿もなかった。塗り部屋を開けてみると、大柄な人物が狭い室内を熊のようにうろうろしていた。研究員の小早川恵子だ。
「お疲れさまです」
賭けに勝った鏡花が嬉しそうに声をかける。恵子が足を止めてほほ笑んだ。
「すごかったね」
「雷ってあんなに連続で落ちるとは思いませんでした。恵子さんも外に?」
「コンビニまでお弁当買いに行ったんだけど、途中で降りだして、もうさんざん」
最寄りのコンビニエンスストアまでは歩いて十分かかる。
「大変でしたね」
理子は言って足元に目を向け、固まった。
スチール製のキャビネットは同じものを二つ重ねている。引き違いのガラス戸越しに中を見つめた。視線が逸らせない。
下のキャビネットに、九個の色漆を置いたはずだ。
まばたきした。
目に映る情報が確かならば、色漆は消え失せていた。
2
慌ててひざまずいた。
キャビネットのガラス戸を開けたが、やはり見当たらない。反対側の戸も開けて中を確認する。下にはなかった。上を開けたところで鏡花の声がした。
「まじか」
振り返ると、目がキャビネットに釘付けになっている。二人で確認したが下にも上にも、理子たちの色漆は見当たらなかった。
そのころには由紀奈も近づき、キャビネットと壁の隙間や、書類入れ、薬品棚などを当たってくれた。そちらにも収穫はない。
「どうしたの」
恵子が不審そうに言う。
「色漆がないんです」
鏡花が答え、ノートを見せて説明する。恵子もキャビネットのすみずみまで確認したが、やはり見つけられなかった。
「恵子さんが戻ったときはありましたか」鏡花が質問した。「キャビネットは見ました?」
「たぶん、なかったと思うけど、どうだろう」頬に手を当てた。「雨に濡れて寒かったから談話室でタオル貸してもらって、ちょっと話してここに来たのね。でも、ううん、特にキャビネットに注目してたわけじゃないし」
「何時くらいでした、ここに来たのって」
「十二時五十分くらいだったかな。どうして」
「いや、誰かのいたずらかなと思って」
「そういえば」
「どうしたんですか」
「うん、あのね」
恵子が口を開いたとき、どやどやと集団の足音が近づき、塗り部屋の戸が開いた。見ると二年生と三年生が戸口から顔をのぞかせていた。色漆がなくなったと話すと、五人いた研究生たちは部屋を探してくれた。
もっとも部屋は探すほど広くない。壁際に塗り机が二つあり、それをキャビネットや棚、漆室が側面から圧迫している。八人が入る余裕はなく、理子たちが追い出される形になった。恵子も一緒に実習室へ移動し、鏡花との会話を続けた。
「談話室にいたとき足音がしたの」恵子は自分の机につくと言った。「すごく急いでるみたいな足音で、しかも派手に転んだっぽかったのね。それで、みんなで何だろうって階段まで行ってみたんだけど誰もいなくて。なんだったんだろうねって話してたの」
談話室は四階にある。畳敷きの広い部屋で、自宅から弁当を持参している研究生たちが食事に使用していた。もともとは文化会館の談話室だったものが、いつの間にか研究生たちの食堂になったと聞いている。
文化会館は七階建てで市民に開放されている。そのため誰でも自由に出入りできるが、五、六、七階は漆芸研究所の実習室になっていた。その他、一階の奥にある木工実習室などで作業することもあるが、基本的に研究生たちが修行するのは五階より上だ。
四階より上から足音が聞こえたのならば、それは漆芸研究所関係者のものだろうと思えた。
「それって何時ごろでした」
「十二時三十六分くらいだった。そうよね」
最後の言葉は、塗り部屋から出てきた二年生にかけたものだった。二年生は恵子の話を確認して、その時間だったと請け負った。塗り部屋を探してくれた他のものも、談話室にいたという。みなで時刻を確認したというから、確かだろう。
「やっぱり色漆なかったよ」赤いバンダナを巻いた三年生が鏡花に報告する。「ひょっとして盗まれたんじゃ」
鏡花は腕組みをして考え込むように眉をひそめていたが、急に理子に目をやると近づいてきた。ポケットから作業用の使い捨てゴム手袋を出してつけると、理子の肘に触れる。肘の外側に小さな何かがついていた。鏡花がとったそれを一緒に眺めた。
赤い、歪に歪んだピラミッドのような形をしている。一辺は三ミリほどだろう。じっと見つめているうちに、何かわかった。固まりかけている朱漆だ。が、どこか変だった。
「これ、変わり塗りだな」
鏡花が言った。
「たぶん、豆腐を混ぜたものだ。表面に刷毛の跡が残ってる」
指摘されて気づいた。肘の跡がついているほかは全体になめらかだったが、一部に刷毛目が残り、それがぷっくりと浮き上がっている。
「これ、いつついたかわかるか」
鏡花に質問され、首をひねった。変わり塗りに触れるような場所に近寄った覚えはない。うどん屋でタオルを使ったのを思い出して、それを話した。あのとき腕もこすったのだから、漆が付着したのはそれ以降だ。
「だとしたら、やっぱりキャビネットかな」
鏡花が言った。
「中を探したときについたんじゃないか」
「かもしれないですね」
誰かが色漆を盗んだとして、変わり塗りはその人物にくっついていたのかもしれない。気づかないうちに、漆が服に付着するのはよくあることだ。変わり塗りは粘度が高い。服についていたものが、キャビネットの内側へくっつくというのは考えられない話ではなかった。
「ねえ鏡花」おずおずとした様子で、目の大きな三年生が声をあげた。「今日、急に授業内容が変更になって、一年生が変わり塗りをしたのって聞いてる?」
「うん、それが?」
「卵白と木綿豆腐と絹ごしの三班に分かれたんだけど、絹は黒漆を使ったんだって。それで木綿は朱漆で」言いにくそうに三年生が続けた。「木綿の班には、宮本がいたって、談話室にいた一年生に聞いたの」
部屋の物音が消えたようだった。顔を見合わせるものもいれば、気まずそうに目を足元に落とすもの、耳打ちしあっているものもいる。宮本の名を出した三年生は少し慌てたように、だからってあいつが犯人だっていってるわけじゃないんだけどと消えそうな声で言った。それが一層、宮本の名をみなの頭に刻んでしまったようだった。「やっぱり警察かな」と誰かがつぶやき、別の誰かが「でも漆ってあたしたちの持ち物じゃないからどうなるんだろう」とささやいた。
漆芸研究所は後継育成が目的であるため、研究生から入学金や授業料を取らない。無料なのだ。工具類だけは別だが、漆や木材などの材料費、顔料の費用などは研究所持ちだ。それらは研究生に貸与されている。出来上がった作品をほぼ材料費の値段で一般に向けて販売し、研究所はそれらの費用を補填している。
ただ、作品はまだ形にもなってない。
この場合、被害者となるのは、研究所なのか、それとも自分たちなのか理子には判断がつかなかった。困っていると、恵子が言った。
「警察に届けるかどうかは、講師の先生に相談しましょう。それで、念のために、みんなの持ち物でなくなったものがないか確認してみて。貴重品とかは特に注意して」
「確認ですが」高橋巡査は言った。「他に盗まれたものはなかったんですね」
「はい」
講師の近藤さゆりがうなずいた。二階の倉庫には、人間国宝の先生から寄贈された貴重な作品が収められている。
「盗まれたのは、この子たちの色漆だけです」
一日に二度も警察がやってくるという事態に、三十代初めのさゆりは恐縮しているようだった。質問に答えながら、何度も頭を下げている。
「なるほど」
高橋はしばらく手帳に目を落として沈黙した。最寄りの交番からやってきたのはこの高橋一人だけだった。年齢は二十代半ばくらいだろう。顎の細い男で、目が突き放すように冷たい光を放っている。
授業が始まったため、理子たちは談話室に移動していた。十五畳の部屋は、隅に座布団が重ねてあるだけで、がらんとしている。東側に窓があり、雑居ビルの汚れた壁と晴れた空が見え、濡れた葉が一枚ガラスの向こう側に張りついている。蛍光灯が一本だけ切れかかっているようで、時折、咳こむようにちらちらと瞬く。
「ぼく、生まれは愛媛でしてね」目をあげて言った。「高校生のころ、こっちに引っ越してきたので、香川と言えばうどんかと思ってました。漆の色も、黒や朱だけかと」
「そういうかたは多いですね」さゆりが言った。「昔はそうだったんです。顔料を混ぜても漆が勝ってしまって、色が出なくて。今は顔料が発達して、様々な色が表現できるようになったんです」
「そうですか」
高橋は帽子を脱ぐと膝に乗せ、ボールペンの尻で頭をかいた。丁寧にかぶり直してから、理子たち三人に目を向ける。
「盗まれたのはあなたたちですね。みんな、同級生?」
「わたしは三年生で」低く鏡花が答える。「残りの二人は二年生です」
「二年生と三年生が一緒に作業してるの?」
「そうです」
木で鼻をくくったような鏡花の返事に、さゆりが慌てたように補足した。
職人は三人必要だといわれている。新人と中堅とベテランの三人だ。なぜか。ベテランには新人の悩みが理解できないからだ。またベテランの指導は高度すぎて新人には理解できない。溝を埋めるのは新人の頃の失敗や悩みを覚えていて、かつ、ベテランの指導が何を意味するか理解できる中堅だ。中堅が両者を繋ぐ通訳として機能するからこそ、世代を越えて技術が受け継がれるのだ。
「研究所では一年生が新人、二年が中堅、三年がベテランの役割ですね。それに一緒に作業することで、先輩の大変さを見ておくのも、後々役に立ちますから」
「すると、それぞれの学年は三グループにわけられるんですか」
「ええ。香川の三技法を習得するのが研究生の課題なんです。それで、
「三技法ってなんです」
ゆかりが三技法について説明をした。
彫漆と存清は中国の技法だ。彫漆は何度も塗り重ねて厚みを出した漆を彫刻刀で切り下げ、滑らかに磨き上げる。一方、存清は室町時代から「稀なるもの」として重宝され、千利休も生涯に三点しか目にしなかったといわれている。漆面に色漆で文様を描き、剣で輪郭や細部の彫りを加える。
三技法は江戸後期、玉楮象谷の手によって完成され、讃岐の地に根づいた。漆に最適な気候でもなく、下地用の土があったわけでもない讃岐地方に漆器文化が栄えたのは、ひとえに象谷の天才ゆえだ。
技法の違いは、目で見るよりも、手で触れたほうがはっきりとわかる。蒟醤は平らで、彫漆はへこんでいて、逆に存清は盛り上がっている。
「なるほど」高橋はうなずいた。「それでようやくわかってきました。三人は彫漆の教室で一緒に作業していたと。それで、そのターコイズブルーとか紫の漆っていくらくらいするんです?」
「色漆は売ってません」鏡花が言った。「漆に顔料を混ぜて練るんです」
一色につき一時間以上かかると説明すると、高橋は同情するように目を細めた。
「そうすると女の子がかぶれるのもいとわず作業したのに、九時間の苦労が消えたわけですか。それは気の毒でしたね。仮にですが盗まれた漆が見つかったとして、自分たちのものだと完全に特定できるようなものなんでしょうか」
「それは難しいでしょうね」さゆりが答えた。「漆も顔料も、学校のものですし、乾かないと色味がはっきり出ませんから、漆を見ただけでは区別がつきにくいです」
「なるほど」
蛍光灯が二度、暗くなった。
誰かが急いで階段を下りる足音が聞こえる。
「それで先ほど説明しましたが」
鏡花が言った。じれたように早口になっていた。
「漆は研究生に貸与されていたものです。被害届はわたしたちが出すんでしょうか。それとも研究所ですか」
「貸与されている場合でも、使用していた人が被害者となります。ですが、そうだな」ボールペンを畳に置いて腕を組んだ。「気を悪くしていただきたくないんですが、これから被害届を受け取って調査するとしますよね。しかし、色漆を置いたというキャビネットは探すときに色んなかたが触ってます。指紋が出るのは期待できません。それに通常の盗難ですと、故買屋から犯人にたどり着くケースもありますが、漆だとそういう線も薄い。現行犯なら別ですが、もともと盗難の場合は犯人逮捕が難しいんですよ」
「でも」理子は思わず言った。「変わり塗りがあります」
変わり塗りの説明をして、木綿の班は、宮本と琴音、それに新田洋子という研究生だったのがわかっていると告げた。ビニール袋に保存した変わり塗りを渡すと、高橋は渋い顔になった。
「これも決定的なものとは言えないです」
「でも確かにキャビネットでついたんです」
「そうかもしれませんが、漆に豆腐を混ぜるなら誰でもできちゃうわけですよ。そうでしょう」
「それはそうですが」
高橋は小さくため息をつくと、急に優しい口調になって、入所した理由を聞いてきた。
研究生の入所理由で最も多いのは、自分の近親者が漆芸関係者だったというケースだ。次いで多いのが、明日香や由紀奈のように、美術系の大学や専門学で漆に触れ、魅せられたケースで、研究生の間では、それぞれ職人系、アート系と呼ばれている。コナン・ドイルの「漆の小箱」という短編を読んだ際に、漆を意味する英語が「japan」だと知って興味を持った鏡花や、通っていた習字教室で、硯や墨に漆が使われていると教えられたのが契機となった理子のようなケースは稀で、その他系と呼ばれている。
「修行は大変?」
理子に目を向けて言う。
「まあそうですね。でも修行ですから」
「だけど色漆を練るのだって大変でしょう」
「結構楽しいんですよ。顔料が均一になってくると、急に漆がなめらかになって、練るのが楽になるんです。その変化が面白くて」
「その色漆は、急いで練らないといけなかった?」
「急いでってことはないですけど、早めに練ったほうが楽ではあります。あの、これって、どういう意味の質問なんですか」
「いや、形式的な質問なんです。お気になさらず」
高橋はボールペンを持って、開いた手帳を叩いた。
「本当にね、お気の毒だとは思うんですよ。ただねえ、現時点でぼくらが下手にかかわるのは控えたほうがいい気がしますね。もしかすると二、三日したら出てくるかもしれませんし、しばらく様子を見てはどうでしょうか。もちろん、またこういうことがあるようでしたら、そのときには告訴も考えたほうがいいかもしれません」
誰も、何も答えなかった。高橋が続けた。
「あとは、そうですね、キャビネットには鍵をかけたほうがいいでしょうね。ところで、これは個人的な疑問なんですが」
「なんでしょう」
さゆりが言った。
「漆塗りというと職人さんというイメージなんですが、どうしてみなさん、女の子ばかりなんですか。漆ってかぶれるんでしょう? ぼくなんか、ちょっと抵抗ありますけどね」
「それはきっと」ほほ笑んで由紀奈が言った。「今の若い男性は修行に耐える根性がないからでしょうね」
「あと、わたしたちを、女の子と呼ぶの、やめてもら――ちょっと先輩、わたしまだ言いたいことが」
鏡花が理子の腕をつかんで引っ張ったまま、ずんずんと外に出てゆく。すごい力だった。急いで靴をつっかける。そのまま階段の前まで引きずられた。
「はい、深呼吸して、理子ちゃん」
いつの間にか、鏡花だけではなく由紀奈まで理子の手を取っていた。再度促され、仕方なく深呼吸する。どこかで研究生の笑い声がした。心から楽しそうな声が、階段の踊り場に木霊する。
足元に目を向ける。ピンクのスニーカーは泥だらけで、じめじめしていた。
談話室には戻らなかった。そのまま三人で研究所を出ると、公園の外周沿いに歩き、ファミリーレストランに向かった。
クーラーの効いた店内に入ると、さゆりからメールが届いていた。職員で見回るなどの対応を取るという文面だった。それでも気持ちは曇ったままだった。あの警官にもっと言ってやればよかったという後悔がいつまでも胸を去らない。
漆かぶれはアレルギー性の皮膚炎だ。人によって症状は違い、発疹が出るだけの人もいれば、腫れを伴う人もいる。同じ人間でも体調が悪かったり、疲れていたりするとかぶれてしまう。昔は我慢するしかなかったというが、今は皮膚科に行けば一週間くらいできれいに完治する。
理子は強い体質なのか、発疹が出るだけで終わるため、肌を露出しても平気だ。由紀奈は時々、皮膚科に通っている。
鏡花はどれほど暑くても、長袖を着ている。
ドリンクバーを注文し、それぞれが飲み物を持って席についた。店内は六割ほどが客で埋まっている。黙ったままクリームソーダを飲むと、鏡花が言った。
「不景気なツラすんなよ理子」
「だって」
「今どき、女の子呼ばわりするような頭の古い警官もどうかとは思うけど、警察が証拠もなく動いたら怖いぞ」
「でも、感じ悪かったと思いません? まるで、こっちを疑ってるみたいで」
「まあな」鏡花はため息をつく。「警察は自作自演を疑うものだから、しょうがない」
「そうなんですか」
「うん」
「詳しいのね、鏡花ちゃん」
「実は、二十代の初めくらいに、警官とつきあってたことがあって」
驚いて理子は顔を上げた。
「その話、すっごく聞きたい」由紀奈が言った。「でも、次の機会かな。なるほど、自作自演か。宮本くんの名前も出たしね」
「どういう意味です?」
「高橋から見たらね、理子、あたしたちが宮本を罠にはめようとしている可能性があるってこと」
「じゃあ、修行が厳しいかとか、色漆を急いで練らなきゃいけなかったか聞いたのは」
「おそらくだけど」鏡花が言った。「動機を探ってたんじゃないか。修行が厳しくて逃げ出したかったとか、そういう解釈ができるかどうか確認してたんだろう」
「だって、事実、色漆がなくなってるのに」
「でも」由紀奈が言う。「確かにあの警官、『色漆を置いたというキャビネット』って言ってたね」
「だって本当に、置いたんだから」
「それを見ているのはあたしと理子だけだろう」諭すように言う。「他の誰かが見ていたわけじゃない」
「ノートが」
「ノートなんて、嘘でもなんでも書ける。……そんなにしょげるなよ、警察はそう考えるだろうって話なんだから」
「打たれ弱いんです、わたし」
「強くなれ」
「でも鏡花ちゃんの話でやっとすっきりした」由紀奈はオレンジジュースを飲んだ。「前にね、近所の人がドアに落書きをして困っている中年の男性がニュースに出ていたの。もう何年も続いているのに、警察は捕まえてくれないんだと言ってて、もやもやしたのね。どうしてなんだろうって。でも警察を使って復讐する可能性があったから、逮捕できなかったのね」
「そういうことですね。特に証拠がなくて犯人を名指しすると、自作自演を疑われやすいんだと思います」
「じゃあ宮本の名前なんて、わたしが出したから」
「本当なんだからしかたないだろう。お前のせいじゃない」鏡花が言った。「それに、あの警官も、ひとつだけいいこと教えてくれたよ」
「なんです、いいことって」
「わたしも知りたいな。何?」
鏡花は凄みのある笑みを浮かべた。
「高橋はこう言ったんです。現行犯なら別って」笑みが深くなる。「だったら、現行犯で捕まえちゃえば文句ないよねと思って」
3
コーヒーを飲み干すと、鏡花は研究所に行ってくると言い、ファミリーレストランを飛び出て行った。
待っている間に、研究生のSNSをチェックして欲しい、特にゲリラ豪雨の時間帯をとの注文を残していた。理由を聞いたが答えてくれなかった。
壁の時計は午後三時をさしている。
「考えがあるんだと思うよ」携帯端末を操作しながら由紀奈は言った。「鏡花ちゃんって頭いいし」
「でも説明不足だと思います、いつも」
「それはそうね」
電話番号で繋がるタイプや実名で登録するもの、百四十字で投稿するSNSなどを二人で手分けした。誰がどのSNSを使っているかについて、由紀奈はほとんど把握していたため、作業はそれほど困難ではなかった。コメントの数は驚くほど多かった。普段ほとんど発言しないものまでゲリラ豪雨には言及している。
「雨が降ったら、みんな『雨が降ってる』って言っちゃうものだね」
由紀奈がメモをしながら言う。理子はうなずいた。
「結構、このファミレスに集まってたみたいですね」
「研究所から歩いて五分だもんね」
由紀奈は南の島の大王をハミングしている。
最初に雨の報告があったのは十二時三十三分だ。コメントは三十四分に集中している。その後どこにいるのか確認しあったり、ファミリーレストランに到着したと告げたりと、オンラインの伝言は活発に行われ、十二時三十五分を過ぎるとぷっつり途切れた。例外は明日香一人で、彼女はさかんに心細いと訴え、みんなどこにいるのと文字で叫び、合流できてからもコメントを細々と出していた。六人で撮影した写真もアップしている。
全ての会話を地道に追っていくと、ファミレスには一年生六人と二年生三人、三年生は四人集まっていたのが確認できた。それぞれ、学年ごとにグループを作っていたようだ。
明日香のブログもチェックした。休憩時間に更新したらしく、新しい記事があがっている。雨の昼食というタイトルで、同じ写真が使われている。ネット上の発言からすると、十二時三十五分に撮影された写真だ。
明日香は豪雨で昼食が盛り上がったと書いていて、つけ足すように練習板が乾かないと愚痴っていた。思わず漏れてしまった本音のようで、ほほ笑んでしまう。
「これって宮本くんじゃない」
由紀奈が言った。顔を寄せ合っている六人の背後に、丸顔の若い男が立っていた。チェック柄のシャツを着て、驚いたような目でカメラを見ている。
「宮本ですね」
「今日は琴音ちゃんと別行動だったのかな。三十五分だと彼女、まだ塗り部屋にいたはずだし」
確かにそうだった。前の記事は、更新時刻が十二時二十七分になっている。明日香の後にすぐ塗ったとして、後片づけまで含めれば四十分を過ぎるだろう。理子は嘆息した。
「せめて琴音ちゃんを待ってあげればいいのに。つきあってるんだから」
「それなんだけど」由紀奈は首をかしげた。「宮本くん、琴音ちゃんとつきあってないっていうのよ」
「由紀奈さんにそう言ったんですか」
「うん。真っ赤な顔で否定してて、笑っちゃった。でも、なんであんな嘘つくんだろう」
「ばればれですよね、そんなの」
「だよねえ」
複数のSNSに散らばる発言をひとつのタイムラインにまとめ終えたころ、鏡花が戻ってきた。二つ折りにした紙を持っている。席につくと鏡花が言った。
「先にオンラインの結果を教えてもらってもいいですか」
「もちろん」
労作のタイムラインを見せると、鏡花は最初のうちは嬉しそうに眺めていたが、急にすっぱいものでも食べたみたいに顔をしかめ、眉間に縦皺を刻んだ。
「この」
鏡花は指さした。
「宮本って確かなんですか。あいつ、積極的にSNSで発言するタイプには見えないんだけど」
「写真に映り込んでたんですよ」
理子が端末を操作し、明日香のブログを呼び出す。鏡花はそれを見ると腕を組んだ。
「どうしたんですか、先輩」
「いや」ゆっくりと鏡花は言った。「ちょっと思いもかけなかったから」
「なんのこと?」
鏡花は由紀奈に目を向けた。
「ええと、あたしはこう考えていたんです。現行犯で捕まえるためにはいくつか押さえておくポイントがあると思うんです。まず効率よく相手を誘きよせなければいけない」
「そうね」
「そのためには誰が味方か見極めなきゃいけない。真っ白な味方を探して、グレーのグループに噂を流せばいいと思って。で、雨が降ったときに外にいたなら、それは味方だから」
「ちょっと待ってください、先輩」理子は言った。「どうしてそうなるんです」
「廊下の足跡を覚えてないか」
「覚えてますけど」口にして気づいた。「そういえば恵子さんのしかなかった」
「一度外に出て雨に濡れたら、必ず足跡がつく。だから犯人は建物内にいた人物だろうと思っていたんだ」
「なるほど。そういえば、十二時三十六分の足音の話もありましたよね」
「うん。宮本は建物内にいたんだろうと見当をつけてたんだけど」
「それは木綿班の一人だから?」
由紀奈の言葉に、鏡花は首をふった。
「これを見てください」
持っていた紙を広げ、指でさし示した。
それは漆室の使用ノートをコピーしたものだった。五階にある蒟醤のもので、鏡花が指した箇所には、明日香と琴音の名前が記されている。
明日香は十二時二十六分に上段の漆室を利用していた。次が琴音で十二時三十七分に下段を使用と記されている。漆室の上段は湿度八十パーセントに保たれていて、下段は外気と同じ湿度だ。
「このノートが正しいとすれば、木綿班の二人目、琴音は三十六分に塗り部屋にいたことになります。あと一人、新田洋子はさゆり先生と一緒に外で買い物してから雨にあったみたいです」
「先生に聞いたの」
「はい。雨が降ってきたのでさゆり先生は帰ったんですが、新田洋子は店に残ったそうです。雨宿りをすると言っていたようですが、十二時四十分に談話室に行ったのがわかってます」
「でも、そうすると」
急に由紀奈がタイムラインに目を向けたかと思うと、ペンを持って正の字をつけはじめた。
「どうしたんです、由紀奈さん」
「数え直してるの」目を上げずに言う。「間違ってないかと思って」
由紀奈が数えなおした人数は、やはり同じだった。一年生六人に宮本を加えた七人。二年生は三人で、三年生は四人だ。
「やっぱり間違えてませんね」
「わからない、理子ちゃん」
「へ?」
「一年生は全員で九人でしょう。タイムラインの七人に、琴音ちゃんと洋子さんを加えて九人」
「二年生は」鏡花が後を引き継いだ。「ファミレスの三人に、談話室にいた三人、それに理子と由紀奈さんで八人。つまりこれも二年生全員だ」
そこまで言われてようやく理解できた。
三年生は全員で七人だ。談話室にいた三年生は二人、それにファミレスの四人を加え、鏡花を足せば、合計は七人になる。
「つまり全員が味方ってことですか」
呆然として言った。
「豪雨の奇跡だな」鏡花が言った。「聞いてもないのに、全員のアリバイがわかった」
「そんなの変ですよ。例えば、足音は犯人じゃなくて、別の誰かの……」
「別の誰かはどこから来たんだ?」
言葉に詰まった。
四階よりも上に、一般の人が行くとは考えにくかった。足音の主は研究生のはずだ。
沈黙したまま考える。
SNS上のさえずりは、十二時三十五分を境に途切れていた。それはみながファミレスで合流したからだ。もしも合流していなければ、会話はもっと続いていたはずだ。
これが独り言のようなものであれば、アリバイとしては使えない。だが雨が降ってからの会話、特に三十三分以降は、ファミレスで合流するために発されている。三十五分に合流して、そこから抜け出しても三十六分には間に合わない。研究所までは、徒歩で五分かかる。自転車やバイク、車を使ったとしても、建物内では階段を使わねばならないため、時間が足りない。
やはり、雨が降る前に色漆を盗んだと考えるべきなのか。
犯人は十二時三十分に色漆を盗み、建物の外に飛び出す。三十五分、ファミレスに到着する。
しかし、それだとやはり三十六分の足音がネックになる。
談話室にいた六人は全員が足音を聞いている。
「靴を脱いだら?」
思いついて言った。鏡花の顔を見る。
「雨が降る前に盗まれたと考えると、どうしても時間の幅は狭くなります。無理がある。でも雨が降ったあと犯人が靴を脱いで廊下を歩いたとすれば」
「それだと足音の問題が解消されない」
「だからそれは、たぶん、その」
「なんだ」
「エレベーターの点検をしていた人の足音とか」
「点検なんだから、エレベーターに乗っているんじゃないか」
「階段を使うことだってあるかもしれないじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ、それを認めたとしても別の不具合が出てくるだろう」
「不具合ってなんです」
「理子、お前の足も靴下まで濡れただろう。あの雨の中を移動すれば誰だってそうなる。靴を脱いでも濡れた足跡が残るんだよ」
廊下が埃っぽかったのを思い出した。濡れればきっと気づいただろう。犯人が足跡を拭いたとしても、その跡が残ってしまうのだ。
「ちょっと整理してみようか」
由紀奈が言った。
「まず理子ちゃんが色漆を入れたのは十二時二十六分ね」
「はい」
「で、わたしが電話を切ったのが確か二十八分くらいだったから実習室を出たのは、早くて二十九分かな」
「それくらいでしょうね」
「そこまでは盗まれてないよね」
「ですね」
実習室と塗り部屋は靴脱ぎで繋がっていて、出入り口はそこだけだ。誰かが入ってくれば気づいただろう。
「七階から一階までは誰ともすれ違わなかった。一階までは一分くらい?」
「もうちょっとかかるかも。一階につき十五秒としたら、一分四十五秒」
「じゃあ、十二時三十分四十五秒までは、外部から色漆を盗みに来た人はいなかった。ここまでは確かな事実として考えてもいい?」
「そうですね」
「わかった」閃きに、理子は興奮して言った。「わかりました先輩。犯人は明日香さんです。彼女、きっと、わたしたちの後ろにいたんです。盗んだ色漆を持って」
明日香の発言は、ほとんど切れ目がないものだったが、その大半は独り言のようなものだった。
「そしてわたしたちの隙をついて、十二時三十分四十五秒からファミレスに向かって走ったんですよ」
「なんのために」
「それは、みんながファミレスにいるからアリバイ確保のために」
そこで思考が引っかかった。自説が派手に転んでしまったのを覚る。
「……そうか、その時間にはまだ雨が」
「降ってないよね」由紀奈が優しい口調で言った。「みんながファミレスに集合したのは、三十三分に雨が降ってきたせいだから」
鏡花が携帯端末で研究所の事務室に電話し、エレベーターの作業員が正午から午後一時まで休憩していたのを確認した。
それが明日香犯人説を否定する、だめ押しになった。
「足音は犯人のものか。だとすると」由紀奈が言った。「講師の先生とかも含めるべきかな」
「交代で食事をとってたみたいなんです」鏡花が残念そうに言う。「さゆり先生と話したとき、それとなく確認してみたんです。そっちの線は薄いですね」
「じゃあ残るは、琴音ちゃんと――」
「その線も薄いです」鏡花はコピーを指した。「これ、中塗りだったそうです。五時間目には乾いてたんですけど、きれいな塗りだったみたいなんですよ。合格だって蒟醤の先生が褒めてました」
漆器は元となる木地に何層にも下地を重ねて補強し、漆を塗る。この最初の塗りが中塗りだ。一年生の蒟醤は、中塗りから上塗りまで黒漆を使う。
「じゃあ、刷毛はどうだったのかな?」
「あの先生、道具にはうるさいですからね。刷毛もきちんと洗ってあったそうです」
使用した刷毛は薬品を使って洗う。漆をこそぎ、丁寧に洗わなければ固まってしまうためだ。三十七分に塗り終え、漆室に入れてから刷毛を洗えば少なくとも五分はかかる。すると十二時四十二分だ。
「ノートなんて、嘘でもなんでも書ける。――ノートの時刻が真っ赤な嘘だとすると」
確認するように由紀奈が言う。
「琴音ちゃんは三十六分に四階で足音を聞かれ、そのまま走り下りて、色漆をどこかに隠す。そして人がいないのを確かめてから五階に上がって、練習板を塗る。塗りに十分。午後の授業が一時十五分か」
「三十六分に十分足して、四十六分。十二時四十六分に漆室に入れて、一時十五分だとぎりぎり」
夏場は湿度が高い。早ければ三十分で乾くこともある。だが。
「時間が足りないね」由紀奈は言った。「漆を隠してから五階に戻ってくる時間がなくなっちゃう。やっぱり三十六分の足音は難しいね」
「そうすると、残るは」
「待ってください」理子は慌てて言った。「恵子さんのはずないですよ」
これまでずっと恵子は理子に親切だった。一年生のとき、塗りが上手くいかず悩んでいた理子に、恵子は漆を厚く塗りすぎていると指摘した。一度に塗る漆の厚みは0・3ミリがベストで、それ以上厚いと、多すぎる漆が一か所に集まって、乾燥を阻んでしまうのだと教えてくれた。
あの恵子が他人の色漆を盗むとは、どうしても思えない。
「理子ちゃん、わたしも同じ意見だよ」安心させるような口調で由紀奈が言った。「だって恵子さんは五人と一緒に足音を聞いてるんだから」
「それに変わり塗りもある」鏡花がこちらは淡々とした口調で言う。「恵子さんは往復二十分かかるコンビニに買い物に行っている。授業が終わるのが十二時十五分だからすぐコンビニに行ったんだと思う。途中で雨が降ってきた。走って戻ったんだろう。だから三十六分の足音を聞けたんだ。そこからずっと五人と一緒にいて、塗り部屋に行ったのが十二時五十分だ」
言葉を切って続けた。
「そうすると、仮に恵子さんがコンビニで木綿豆腐を買っていたとしても、漆に足して練る時間がない。あの漆はしっかり練ってあったうえに、もう乾きかけていた」
「変わり塗りは彫刻刀事件で突発的にやったことだから、事前に準備できなかったもんね」
由紀奈がため息をつき、それきり二人は無言になった。
理子も口を閉じて、頭を働かせた。
動機から考えれば、やはり宮本が怪しいと思えた。きっとターコイズブルーがうまく作れなくて、盗んでしまったのではないか。足音の問題を考えると、十二時三十六分に建物内にいた共犯者がいるはずで、真っ先に思い浮かぶのは琴音だった。
かといって、時間的に考えると琴音が漆を盗めるとは思えない。琴音がやったのは足音を立てることだけだ。そう考えれば五階から七階まで行って色漆を盗んだり、その後に隠したりする時間は必要ない。
三十六分に足音を立てて四階を駆け抜け、様子をうかがい五階に戻る。三分もみておけばいいだろう。塗り始めたのは三十九分。四十九分には塗り終わる。急いで漆室に板を入れる。そこから三十分だと一時十九分になってしまうが、授業開始直後に講師が板を見たとは限らない。足音を立てるだけなら不可能ではない。
おそらく宮本は明日香の写真にわざと映りこんでから、研究所に向かった。小さなビニール袋を両足に履いて廊下を歩けば濡れた足跡は残らない。
ただ、そのためには宮本は前もってビニール袋を用意してなければならず、また、豪雨と雷鳴のなか、研究所に戻らねばならない。アリバイを確保するために。そこまで考えて馬鹿らしくなる。雨があの時刻に降ると予測できるものではない。アリバイを用意するなら、もっと確実さを期するだろう。
これでは単に、不可能ではないと言ってるだけだ。宮本がビニール袋を使用したという根拠も、証拠もない。
途方に暮れた。端末を操作して明日香のブログを呼び出すと、四時すぎに更新されていた。
やっと練習板が乾いたと報告している。休憩時間中に急いで先生に見せたところ、合格だと褒めてもらえたらしい。漆黒に塗られた板の写真も添えられている。確かに見事な塗りだった。刷毛目が揃っていて、撮影技術も見事だった。塗りものの写真は対象が光りすぎているため難しいものだが、うまく反射を抑えていた。毎日のようにブログを更新している成果なのだろう。
ため息を押し殺して、画面からブログを消した。
「きっとわたしが犯人なんだよ」疲れたような声で由紀奈がつぶやいた。「わたしは廊下で電話なんかしてなかったんだと思う。そして隙を見て、色漆を盗んだ」
「そんなわけ――」
言いかけた理子を遮るように、由紀奈は言った。
「そう考える人もいるかもしれないってこと」
「それを言えば、あたしと理子が疑わしいですよ」鏡花が言った。「あたしたちが最後に漆を見てるんだから、それが嘘だと糾弾されたら手も足も出ない」
「先輩まで」
「もっと簡単だと思ってたんだ。白と灰色をよりわけるだけで、黒を探す必要はないんだからって」目頭をもんだ。「まさか白一色とは思わなかった」
「だって、もう少しなのに」
身内に焦りがこみ上げて、思わずそう言った。グレーを探せばいいのなら、宮本と琴音の共犯説を口にすべきだろうか。だけど、どう考えても無理がある。それとも、エレベーターの点検作業員が嘘をついているのか。
唇を噛んで、ふと顔をあげると、由紀奈と鏡花がこっちを凝視していた。
「理子」
「理子ちゃん」
二人が同時に言った。声の調子がこれまで聞いたこともないほど真剣みを帯びていた。
「どうしたんですか?」
「あと少しってどういうことだ」鏡花が言った。「どうしてあと少しって思ったんだ。何か気づいたのか」
せっつくような口調だった。理子は自問した。どうしてあと少しだと思ったのだろう。わからなかった。それでも、あと少しで犯人がわかるはずだという思いがこみ上げてくる。何かが脳裏に引っかかっていた。それがあと少しだと執拗に囁く。
それなのに、どうしてもわからない。
「
不意にすぐそばで声がして、見ると老人が立っていた。高価そうな青のスーツに身を包み、ループタイをしている。骨ばった顔つきで、白いひげがよく似合っている。頭にはハンチング帽をかぶっていた。
人間国宝の山形如雲だ。
「ずっと後ろの席に座っていたのだが、つい聞き入ってしまってな」
如雲は朗らかな口調で言うと、理子の端末を指さす。
「その二人が考え込んでおったときに、こちらの乙女はそれで何かを見ていた。差があるとしたら、そこではないかな」
「わたしが見ていたもの?」
「もうこんな時間か」
腕時計を確認すると、それではごきげんようと陽気に言って、如雲が出ていく。人間国宝は、頑丈そうなウォーキングシューズをはいていた。
慌てて立ち上がり、その背にありがとうございますと声をかけると、如雲は振り向かずに手を振った。
「犯人がわかった」
鏡花の声がした。見ると、鏡花は理子の端末を勝手に操作し、明日香のブログを呼び出している。由紀奈が興奮したように、漆黒の板を指さした。
「そうか、そうだったのね」
由紀奈と目を合わせて、鏡花がうなずく。
「あのう」
盛り上がっている二人に、理子はおずおずと切り出した。
「それで、犯人は誰だったんですか?」
4
実習が終わるのを待って、犯人にメールした。
待ち合わせ場所は、中央公園の玉楮象谷像前にした。
丁髷に着物姿で正座する銅像の前に立っていると、すぐそばにある喫煙所から煙が流れてきた。風下を避けながら移動を繰り返した。場所を変えるたびに煙が追いかけてきて閉口した。五時十五分に、宮本と琴音が姿を現した。
「なんなんですか、これは」
顔を合わせると、宮本がいきり立ったようにわめいた。
「聞いてますよ、先輩たちの漆が盗まれたのは。いいですか、先輩の圧力を利用して犯人に仕立てようなんて、とてつもなく卑怯ですよ」
「宮本くん」由紀奈が言った。「少しだけ静かにしてくれると」
「いいえ。僕は黙りませんよ。不当な圧力には抗議します」
「いいよ。勝手に抗議すれば」
そう言うと、鏡花はタイムラインを琴音に手渡した。雨が降ったときに外にいる人間は三十六分の足音を立てられない点や、足跡の問題などを整理して話す。
「つまり、何が言いたいんです」
宮本がタイムラインをのぞきこむ。ワンピース姿の琴音は、形の良い唇を閉じたままだ。
「つまりね、誰かが嘘をついてるんだ」
「そこまで言うなら、先輩は嘘を証明しなければならない。そうでしょう」
「うん。次にこれを見て欲しいんだ」
鏡花は明日香のブログを呼び出した。練習板の写真を二人に示しつつ、続けた。
「雨が降ったとき、明日香は外にいた。証拠の写真もある。明日香が嘘をついてないのは確実だ」
漆室の使用ノートのコピーを出す。
「明日香は十二時二十六分に上段の漆室を利用している。上段の湿度は八十パーセントだ。下段は外気と同じだから、上段のほうが湿度は高い」
「そんなこと知ってますよ」
「そして、漆は気温が二十五度から三十度、湿度は七十パーセントから八十パーセントでなければ早く乾いてくれない」
「そんなこと知ってますってば。なんなんですか、さっきから」
「明日香みたいに、基本を知らない一年生もいるからな」鏡花はそう言って、続けた。「よく写真を見てくれ。塗りにおかしなところはないだろう?」
「ええ」
「塗りが変だと乾きは遅くなるし、一部に漆が溜まったり、ゆがんだりしてしまう。でも明日香の板はそうじゃない。それなのに、この板が乾いたのは午後四時だった。乾くまでにほぼ三時間半かかってる」
「だけど」宮本が不服そうに声をあげた。「普段なら三十分くらいで乾くのに」
「そうだね。でも今日は違った」
鏡花は足元を見た。大きな水たまりができていて、青空を映している。木の陰になっている部分は、湿った泥が透けて見えた。
「ゲリラ豪雨が、気温を下げてしまったから」
うどん屋で鏡花が寒がっていたのを思い出す。理子も身体を温めたくて、うどんをお代わりした。研究所に戻るとき、二人を追って走っても汗をかかなかった。
すべて気温が下がっていたからだ。
「気温が二十五度以下だと、漆に含まれる酵素の働きが鈍くなる」鏡花が言った。「だから湿度が高くても、明日香の板は乾かなかった。さて、では琴音はどうだったか。琴音は十二時三十七分に漆室の下段に入れ、一時十五分には乾いている。二人の板は同じようにきれいで、同じ黒漆だった。後から下に入れた板が、上を追い抜くはずがないんだ」
「そんなこと言ったって、事実、乾いていたんだから……」
「だとしたら、最初から濡れてなかったんだ」鏡花が言った。「前もって黒漆を塗った練習板を用意していたんだろう」
明日香のように自費で漆を購入し、自宅で修行するものは多い。
「おそらく琴音は明日香が退室すると、前もって用意していた板を漆室に入れ、七階にあがった。たぶん、トイレにでも隠れていたんじゃないかな。あたしらが昼食に行くと、色漆を盗んだ。三十六分に足音を立てたのは、わざとだ」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「ノートに嘘の記述をしたからだよ。三十六分の足音が琴音のアリバイとなっている。それで計画的なものだろうと思ったんだ」
宮本はいつの間にか口をつぐんでいた。琴音は青ざめた顔で由紀奈を凝視していた。
「ねえ、琴音さん」由紀奈が穏やかに言った。「どうしてこんなことを? もしかして、宮本くんに頼まれたの?」
宮本があっけにとられたように由紀奈を見つめた。琴音は怪訝そうに由紀奈を見ていたが、やがて嘲笑するように唇をゆっくりと捻じ曲げた。
「わたし、そんなこと頼まれてません」熱のこもった声だった。「わたしは鏡花先輩のおっしゃる通り、漆を盗みました。それは認めます。明日香が置いてたから、仕方なく下段に入れたんだけど、あれは失敗でした。いつもみたいに上段に置きたかったんだけど、いくらなんでも同じ段に入れたらばれちゃいそうで、こわかったんです。だけど、わたしが盗んだのは」すっと息を吸って続けた。「由紀奈先輩が、わたしに嘘をついたからです」
「嘘?」
「そうです」理子と鏡花に目を向けた。「お二人には申し訳なかったと思います。でも由紀奈先輩は後輩に嘘を教えていたんです。そのせいでターコイズブルーが出なかった」
頬に赤みが差していた。本気で腹を立てているようだ。口調は真剣で、罪をごまかすためにわざと怒っているような不自然さはない。
「もしかして青い漆を作りたかったのは、宮本じゃなくて、琴音ちゃんだったの」理子は言った。「宮本は、琴音ちゃんに頼まれただけ?」
「頼まれたんじゃなくて」宮本が低い、押し殺したような声で言った。「琴音さんが聞けないようだったので、代わりに聞きに行ったんです」
「四月に銅像の掃除をさぼったのは?」鏡花が質問した。「あれも琴音の発案か?」
宮本は黙っている。
黙っていることが答えだった。
琴音は、いつも、宮本にくっついていたわけではない。だしぬけに理解が訪れた。主導権を握っていたのは宮本ではなく琴音だった。だから、今日の昼間、二人は一緒にいなかった。琴音は宮本が犯行の邪魔になるから追い払った。
恋に目をつぶっていたのは、琴音ではない。
宮本だ。
「琴音ちゃん、それで、盗んだ漆はどうするつもりなの」
指先を顎先に当てて、由紀奈が言った。
「青い漆だけ塗って、返すつもりでした。ちゃんと成功すれば、あなたが嘘をついてたと証明できるので」
「わたしがわけてあげたのも失敗したんだよね。宮本くんに渡したんだけど」
「ええ。全然きれいじゃなかったです。あれ、違う色だったんでしょう」
「あのね、琴音ちゃん」由紀奈は吐息をついた。「盗んだ漆を使っても、あなたは失敗する」
「どういう意味です」
「漆室はどうして上段と下段にわけてあるんだと思う? 彩度の高い色はね、ゆっくり乾かさないと良い色が出ないからなのよ」
漆自体が飴色であるため、白や青などは急速に乾かすと色が濁ってしまう。そのため、下段でゆっくり乾かさなければならない。
「あなた、さっき、いつも上段に置くって言ってたでしょう? 湿度八十パーセントで乾かしてたら、一生、きれいなターコイズブルーなんて出ないよ」
琴音は顎を突き出すようにして、手を握り締め、前に出ようとした。一歩踏み出したところで、宮本が壊れ物を扱うような手つきで、琴音の腕にそっと触れた。問いかけるように振り向いた琴音に宮本がゆっくりと言った。
「湿度が八十パーセントだったって、本当?」
琴音は口を開いた。そのまま浅い呼吸を繰り返す。声がでないようだ。顔が紙のように白くなっていた。
園内を流れる小川のそばにある東屋に場所を移して、話を続けた。その結果、いくつかの事実が明らかになった。
まず由紀奈はゆっくり乾かすよう、宮本にアドバイスしていた。ところが宮本は当然それは把握しているだろうと考え、琴音に伝えなかった。琴音は失敗を繰り返した挙句、由紀奈は嘘を教えているのだと思いこみ、いつしか怒りは恨みへと変わっていった。
「それにしても」理子は言った。「由紀奈さんは偉いですね」
「理子だったらどうする」
試すように鏡花に問われ、ベンチに座ったまましばし考えこむ。隣に目をやった。さっきまで隣にいた三人はいない。
由紀奈は、琴音や宮本と共に研究所に行った。講師に事情を説明し、一緒に謝るために。
もし自分が由紀奈の立場だったら。
「……わかりません」
「そうか」鏡花が伸びをした。「まあでも、報告はするだろう? 見回りしてくれるって言ってたんだから」
「そうですね。でも許すかどうかは別っていうか」
「そりゃそうだ」
「許すくらいなら最初から調べたりもしてないと思うし」
「それはどうかな。琴音は謝っただろう」
勘違いに気づいてから、琴音はひたすらに身体を小さくし、頭を下げていた。何度も謝罪の言葉を口にして、ずっと足元を見つめていた。
「ええ」
「自分が悪かったと思ってもない人間を許したりはできない。そういうのは無視するか、切り捨てるかだ。でも相手が謝ったら、許すかどうかが決められるようになる」
謝罪を受け入れるかどうか。そう考えれば納得できるような気もした。かといって、自分が由紀奈のようにふるまえるか自信はなかった。罵倒しそうな気もするし、切り捨ててしまいそうな気もする。
そして、その事実を、いつまでも引きずってしまいそうだ。
以前、由紀奈から聞いた話がよみがえる。
「子どもってね、当たり前だけど自分と違う人間でしょう」由紀奈はそう言ってほほ笑んだ。「自分だったら絶対しないことでも、子どもは平気でやるわけ。そういうのを、ひとつひとつ、受け入れていくしかないんだよね。たぶん、許すことで、自分が広がるの」
背筋を伸ばした。
土の道が球場跡の芝生までまっすぐ伸びている。道の両側には黒い幹の桜が何本も植えられ、葉が陽光に透けて薄緑にきらめいていた。根元にいくつか水たまりが残っていて、豪雨の足跡のようだ。葉や枝に残っていたしずくが落ちて、波紋が広がり、複雑な模様を描いている。
すぐそばの林からカラスが飛び立った。力強く羽根を動かし、あっという間に見えなくなる。青空を大きな白い雲が流れ、小川の瀬音が耳に心地よかった。
「お前、よく宮本が代わりに聞いてたってわかったな。青漆のことだけど」
「こんなのもわからないのかと思われるのってしんどいんですよ」
「知らないことは聞かなきゃわからないだろう」
「それはそうなんですけどね」
質問しなければ、犯人が誰かもわからなかった。
「それでも、尊敬している相手には、つい見栄を張りたくなるんです。ちゃんとわかってるって思われたい。がっかりさせたくないんです。宮本はそういうの、見ててわかったんじゃないですか。だから代わりに聞いてあげた、のかなって」
「やっぱり宮本は人に影響されないと動かないんだな」
「それはさすがに、ひどいと思います」
「じゃあ、きっと、由紀奈さんも宮本のために行ったのかもな」
由紀奈から色漆を受け取ったとメールが入ると、鏡花が立ち上がった。コーヒーでも飲みに行こうという。一緒に歩き出した。
「ありがとな」
先を歩く鏡花が振り向かずにつぶやいた。
「なんのことです」
「怒ってくれたろう」
鏡花は長袖につつまれた腕を撫でた。
桜並木を抜けると、視界が開けた。風で波のように光っている芝生のほうで子どもの笑う、明るい声がした。二人の子供が追いかけっこでもしているのか、走り回っている。表情は遠くて見えない。長く続く笑い声だけが聞こえる。
「先輩」理子は言った。「今、なんて言ったんです」
鏡花は早足になった。
「もう言わないからな」
「何を言わないんですか」
「うるさい」
前を歩く鏡花の耳が真っ赤だった。遠ざかる背を追って、理子は足を速めた。
了
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