基本的に、僕にはラブが足りないらしい

吉美駿一郎

なりすましのヘイト


     1


 ドアノブを握ったところで、声をかけられた。

「どこに行くの、こんな時間に」

「すぐに戻るよ」私は振り返って、廊下に立っている母に答えた。「先に寝てて」

「外に出るなら気をつけてね。最近、公園のあたりに不審者がいるって話だから」

「若い女の子ならともかく、おれは大丈夫だよ」

「それはそうだけど」

 まだ何かいいたそうな顔の母を見つめた。小柄でふくよかで、陽気な性格だが、父が他界して白髪が増えたような気がする。本当に増えたのか、それまで私が気にしてなかったから増えたように思うのか。ただ、病院で婦長だった母が、昔より猫背になったのは確かだ。

 外出の理由をいうのははばかられ、すぐに戻るよといってドアを閉めた。共有廊下に出た途端、むっとする夜気に包まれた。ペンキのはげかけている手すりの向こうには、流川通りのネオンが見える。夜に鳴くアブラゼミの声を聞きながらエレベーターホールに向かった。腕時計を見ると、もうすぐ午前零時だった。

 これで三日連続だ。四十男がやるようなことではない。母が心配するのも、もっともだ。

 一階でエレベーターを降りると、センサーが反応し、廊下の灯りが点灯した。オレンジ色のスポット照明はついているものの、大きな照明は人を感知してスイッチが入る。無人になって三分すると消える仕組みだ。

 一階は蒸していた。非常口のドアは開いていたが風はまったく通ってない。またたくまに汗が噴き出てきた。ランドリー室の前を足早に通り過ぎ、集合ポストに向かう。ポストには夕刊がいくつか残っていた。まだ帰宅してないのか、取り忘れているのだろう。隣の郵便受けからも新聞が突き出ていた。他の新聞はほとんどがボックス内に入っていたが、隣は乱雑に突っこんだのか、水平に近い角度になっていて、妙にだらしなく見えた。

 七○三の郵便ボックス前に立った。

 夕方に確認したのだから配達されているはずはない。そもそも、夕方以降に郵便の配達などないし、マンションの玄関は夜十一時にオートロックが作動する。翌朝の六時まで鍵がかかっていて扉は閉まったままだ。郵便など届いているはずがない。

 けれど、見落としたのかもしれないと思うと眠れなかった。本の入った封筒を見落とすなどあり得ないことだったけれど。こんな夜中にのこのこ確認にくるなんて、自分でもどうかしてると思いながら、ダイヤルに手を伸ばした。右回しで七に二度合わせ、左回しで二に合わせて、扉を開ける。中を凝視した。

 細長い箱型の内部は一センチほどの縁があり、新聞を引っ張り出しても他の郵便物が滑り落ちることはない。三か月前に新しくなったばかりだ。もとは中身の見える粗雑なつくりだったが、郵便物の紛失を訴える住民がいて、新しく買い替えた。幅は四十センチ、奥行きは二十センチで、高さは三十五センチ。A4の封筒でもすっぽり収まるサイズだ。だから、内部が空っぽなのは本が届いてないからで、誰かに盗まれたとは考えられなかった。

 ぴかぴかの四角い空洞を眺めたまま、ため息をついた。

 ミステリの短編賞を受賞した《彼》の第一作。そのサイン本を予約していた。

 《彼》は受賞の前からツイッターをやっていた。私自身も作家を目指していることもあり、二年ほど前からネット上で言葉を交わすようになった。どんな本を読むか、どこに応募したか、はたまたどんな食べ物が好きで、どんな女性が好みか。私たちは互いに驚くほど、ことごとく好みが違っていた。それでも不思議と気が合った。一度、実際に会って話したこともある。

 八ヶ月前に《彼》は受賞し、先月になって処女作の発売が発表された。私はお祝いのつもりで、出版社のサイトでサイン本を予約した。本当なら真っ先に感想を伝えたかったのだが、私には誤解があった。

 サイン本の発送は、書店の店頭に並んだ後に行われるものらしい。

 よくよく考えれば当たり前なのかもしれない。著者がサインし、出版社が発送する手間がかかっているのだから、当然そうなるのだろう。しかし、私はなんとなく書店よりも先に自分の手に届くものだと思っていた。サイン本を注文したことは秘密にしていた。

 短編集が発売されると、《彼》のネット上の友人たちが、次々に感想のコメントを送っていた。私だって心の底から応援しているのに、いまだにそこに参加できないのは心苦しかった。まだ届いてないだけなんだと弁明したかった。

 しかし、作家となった《彼》に、個人的な事情を打ち明けるのは難しい。作家と親しくしてはしゃいでいる作家志望者ワナビと誰かから揶揄されるのが怖かった。以前に一度、そういうことがあったからだ。憧れの作家と言葉を交わせるのがネットだが、それで有頂天になっていると水を差してくる者がいるのもネットだ。ネガティブになっているときは、過去の嫌な記憶が勝手に再生されるもので、私はここ何日か、パソコンを、というよりネット上の《彼》を避けていた。

 それでも、サイン本さえ到着すれば万事が解決する。写真を撮影してネット上にアップできる。

 出版社からのメールでは二、三日中に発送するとあった。待つべきなのか、それとも、こうなったら書店で購入して感想を書くべきか。単純に《彼》にリプライを送るべきなのかもしれない。ただ、どんな言葉を伝えればいいのかわからなかった。

 このところ、ずっと自分の中でも疑問だったのは、もしかしたら本当は、私は《彼》の成功を祝ってないのではないかということだった。

 ホールに戻ると、エレベーターは上昇していた。回数表示のランプが七階で止まると、下降してきた。

 エレベーターから降りてきたのは、黒のタンクトップにハーフパンツ姿の手ぶらの男だった。隣に住む五反田ごたんだ護だ。私より六歳上の四十八歳だが、細身ながら筋肉質の身体で、かなり若く見える。バブル景気のころに輸入家具の会社を立ち上げ、バブルがはじけるやいなや、素早く身を引いてダメージを最小限に抑えたというやり手だ。端的にいって、いまだに親と同居してアルバイトにあけくれている私とは正反対の人物だ。

「今夜も暑いですね」左手をハーフパンツのポケットに入れ、五反田がいった。「小岩井さん、煙草ですか」

 いえ、と答えたものの、まさか神経症的に郵便ボックスを見てきたのだとはいえなかった。『走れメロス』のような気分なんですともいえなかった。五反田は、立ち話をしたい気分なのか、十二歳年下の恋人について惚気とも苦労ともつかない話を始めた。夜は大変だの、わがままだの、という話をひとしきりした。相槌を打ちつつ、ころ合いを見計らって去ろうとすると、

「あの、まだ起きてらっしゃいますかね」五反田がすがるような目をした。「ちょっとお願いがあるんですが」

「何でしょう」

「先日、お貸しした本のことなんですが、ちょっとどうしても確認したいところがあってですね、その今すぐ返してもらえないかと」

「今すぐ、ですか」

「できれば」

 一瞬、むっとしたものの、わかりましたと答えた。もともと私が貸してくれと頼んだ本ではない。私が小説家を目指していると聞きつけ、自分が感銘を受けたという小説を、母に押しつけたのだ。まだ目も通していないから、返す口実ができてよかったかもしれない。

 五分ほどしたら戻るという五反田と別れ、エレベーターに乗り、自室に戻った。もう母は眠ったのか、物音ひとつ聞こえなかった。足音を忍ばせて自分の部屋に向かい、そっとドアを閉めるとパソコンを眺めた。スイッチを入れることもできず、ただ暗いディスプレイを見つめた。今頃、《彼》はどうしているだろうか。執筆に集中しているのだろうか。一分ほどそうしていた。それからベッドの脇に置いていた本を手に立ち上がって、玄関に向かい、ドアを開けて外に出た。五反田は言葉通り、きっかり五分で戻ってきた。

「助かりましたよ」

 本を受け取ると、夕刊を小脇に抱えたまま五反田がいった。

「どうしても読み返したくなって。すぐまたお貸ししますから」

 遠慮しますともいえず、曖昧に笑った。

 再び部屋に戻り、ベッドに横になった。目を閉じても眠りは訪れなかった。代わりのように、五反田の部屋から声が聞こえた。女が叫んでいるようで、物を投げるような音も聞こえてくる。若い恋人との喧嘩は、五反田の場合、いつものことだった。コース料理のように手順が決まっていて、まず馬鹿でかい音量で映画を見て、そのあと派手な喧嘩をして、仲直りの儀式を行う。聞きたくなくても聞こえてくる。今夜もそのパターンを踏襲したようで、二時間ほどすると睦み合う声が切れ切れに聞こえてきた。

 暑さと、迷惑な物音、それに自分の厄介な思考が蛇のように絡み合い、眠れなかった。ようやく眠気が訪れてきたのは四時過ぎで、三時間ほど眠った。起きてすぐに私がしたのは、顔を洗うことでも、食事をすることでも、コーヒーを飲むことでもなく、一階に向かうことだった。短い睡眠の間に、夢を見た。郵便物が間違って別のポストに入っていた夢だ。夢の住人である親切な女性は、もちろん本の入った大判の封筒を、私のポストに返してくれた。

「おはようございます」

 ホールの前で若い男に挨拶された。天然パーマの長い髪、馬のように長い顔、そして一メートル八十五センチの身長。全体に痩せていて、どこか薄汚れて見えるのに、目だけが驚くほど澄んでいる。705号室の皆実みなみ正太郎だ。賃貸利用の大学生で、大学では「偶然」という劇団に所属している。資源ごみの日に演劇系の雑誌を捨てていたのを見て以来、時折、言葉を交わすようになった。

 劇団「偶然」は、演出された偶然性を追求しているのだと皆実は説明した。

「例えば一幕一場の終りに来るとサイコロを振るんです。それによって次のシナリオが決まる」

「それでも用意しているシナリオがあるわけだろう」

「ところがですね、シナリオの作り方もサイコロを振って決めることになっていて」

「それって完成するの」

「実は、まだ一度も。でも、だからこそ、芝居は生きているともいえます」

 聞けば劇団に所属しているのは皆実だけなのだという。一人芝居でも芝居ですよと皆実は威張って答えた。結局、三ヶ月の苦闘の末にサイコロ演劇は挫折し、今は夢によってシナリオを書く、「明晰夢」芝居に取り組んでいるらしい。

「おはよう、皆実くん」私は挨拶した。「珍しいね、こんな早い時間に」

「昨日、洗濯物をランドリー室に置きっぱなしにしちゃって」

「それで手ぶらなのか」

 二人でエレベーターに乗った。最近シナリオはどうと聞くと、役者は足りてますと丁寧に断られた。

「そんな冷たいこというなよ」

「小岩井さんは観客でいてください」

「わかったよ。それで明晰夢はどう?」

「それがちょっと妙なんです」

 一階に降りると、集合ポストの前で、何人かの女性が集まっていた。大半は主婦のようで、眉をひそめて固まっている。何かを非難しているようだった。なんとなく気圧されて立ちすくんでいると、玄関から五反田が入ってきた。女性たちの脇を素通りし、私に気がつくと、挨拶をしながら近づいてきた。

「昨日は、というか、今日はですか、突然変なお願いをしてすみませんでしたね」

「いいえ」

「ちょっとそこまで女を送ってきたんですよ」

 聞いてもないのにそういうと、五反田は女たちに目を向けながら集合ポストに向かった。それで自分が何をしに来たのか思い出した。五反田の背中を追って女たちの脇を通ると、手紙という言葉が聞こえた。頭がどうかしているという声もした。何のことだろうと思いつつ、ポストのダイヤルに手を伸ばす。誰かが後ろを通る気配がした。私たちにつられたのか皆実が自分のポストに向かっていた。隣では、五反田が投函口から短く突き出た新聞を押しこみ、ダイヤルを捻っている。五反田が新聞と、その上に重なった薄茶色の封筒を取り出すのを横目に見ながら、なるほど、ああすれば郵便物の取り残しがないなとつまらないことに感心した。

 私はダイヤルを回し、鍵を外した。本はなかった。代わりのように茶色の封筒が入っている。妙に平べったかった。重しで長時間プレスされていたような封筒で、表には「小学生のあなたに、とっておきのプレゼントです」と印刷されたシールが貼ってある。裏書きはなく、ノリづけもされてない。中身はA4の用紙を三つ折りにしてある、手書き文字のコピーだった。

 軽く目を通した。言葉で頬を張られたようなショックを受けた。周囲のざわめきが遠くなる。


「日本は、日本人のものだ。

 それなのに、今の大人たちは自虐史観という毒を注がれ続け、日本は悪いことをしたのだと洗脳されてしまった。

 日本は悪だという危険思想を、心に埋め込まれてしまった。

 だが、生活保護を受けているのは朝鮮人が圧倒的に多く、刑務所収容外国人となるとそのほとんどが朝鮮人だ。朝鮮学校は反日組織であり、無償化反対は差別ではない。

『良い朝鮮人も、悪い朝鮮人も、殺せ』は正論だ。『日本は、日本人のものだ』は正しい。

 普通の日本人ならそれがわかる。そのことを、あなたがた未来の日本を担う子どもたちに、知っていて欲しい。

 日本の未来を憂う、普通の日本人より」


 臭い泥の中で溺れたような気分だった。口の中や喉に泥がこびりついて、いつまでも匂う。全ての漢字にルビが振ってあるのが悪い冗談のように思えた。筆跡を隠すためか、どの文字も定規を当てたような几帳面な直線で構成されている。生きている死人を文字で表現したような不気味な印象は、時間が経つにつれ、怖いという感情に変化した。単純に、こんな手紙を書く人間がいることが怖かった。

「みんなに配ったみたいですね」

 皆実が手紙をひらひらさせていった。目は足もとに向けている。視線を追ってポストの下を見た。いつもならチラシやダイレクトメールしか入ってない段ボール製のゴミ箱は、封筒と手紙で埋め尽くされていた。嗚咽を漏らす声がして振り向いた。ピンクのスカートをはいた幼い女の子連れの母親が、口元に手をあてむせび泣いていた。まだ若い女性だった。泣き顔に歪んでいなければ、端正な顔立ちだろうと思わせる。娘は母を不思議そうに眺め、どうしたのかと問うように、何度も繋いだ手を引いていた。集団の中央にいた年配の女性が母親の背を撫で、落ち着いてと低い声で囁いた。

「これって変ですよね、小岩井さん」

 皆実は手紙を手にしたまま、首をひねっていた。

「きっと、書いた奴は、頭がいかれてるんだ」

「もちろんそうなんですが」まだ手紙を見ていた。「どうして犯人は、わざわざ手紙を封筒に入れたのに、郵送にしなかったんでしょうね? 名前なら郵便受けに書いてあるのに」

 言われて私は封筒に目を向けた。皆実の言葉通り、封筒には切手が貼られてなかった。

 どうして犯人は、手紙を封筒に入れたのに、郵送しなかったのか。

 皆実の疑問を反芻するうち、気がつくと私は、《彼》ならこの手紙にどう対処するだろうと考えていた。


     2


「旅行会社からの案内と一緒に入ってました」

 私の隣で、マイクを持った琴宮あかりが答えた。あかりは702号室に住んでいて、時折挨拶することはあったが、こうして間近に見るのは初めてだった。二十代後半で、黒のぴったりしたTシャツに、黒のショートパンツ。栗色に染めた肩までの髪と、優美なカーブを描く鼻が魅力的だった。横顔美人というのはいるんだなと思っていると、住民と向き合うように座った役員の一人がマイクを手にした。五反田だ。

「その案内はいつごろ届いたのかわかりますか」

「わかりません。あたし新聞とってないし」あかりはいった。「昨日は帰りも遅くて、チェックしてなかったんです。後でいいかなと思って。面倒臭いんですよね、あの鍵」

 あかりの答えに笑いがさざ波のように広がった。理事が咳払いして、何時くらいに帰ったのか問い、あかりは十時くらいですと答えた。

「それより、こういうのって警察がやってくれることなんじゃないんですか?」

 そうよ、という声が聞こえた。私も内心うなずいていた。

 今回、理事会と自治会の対応は早かった。今年度の理事である五反田の主導が大きかったと母から聞いた。五反田は手紙を発見したあと、すぐに役員の部屋を回り、午後三時の時点でマンションの住民集会開催を決定した。なんらかの対応策が発表されるだろうと期待し、母と共に私も参加することにした。

 待望の《彼》の本は午後二時に届いたが、すでに読む気分ではなかった。

 集会所はマンションの向かいにある公園と隣接した、四角いコンクリート造りの建物で、一階の会場にはパイプ椅子が並べられていた。マンションは各階七部屋の八階建てだが、椅子は横が十二列、縦が二十列並んでいた。それでも開始時刻の午後八時にはそのほとんどが埋まっていた。

 だが、集会が始まっても、委員の口から警察の捜査について説明はなかった。代わりに、手紙を見つけたときの状況を話すように言われ、八階の住民からスタートした。どうして警察について説明がないのか理解できなかった。他にもそう思っている人は多かったのか、あちこちで不服そうな囁きが聞こえた。あかりの質問は、その場の空気を代弁したものだった。

 五反田が落ち着いた声で説明した。

「警察に相談したところ、こういうケースには対応できないと言われましてね」

「だって」あかりが食い下がった。「こんなの明らかに脅迫じゃないですか。おかしいですよ」

「それが脅迫や名誉棄損は個人や法人に対してのもので、民族全般に対しての法律はないんだそうです。いや、私もね、かなり粘ったんですが、どうにもなりませんで。では、あかりさんが手紙を発見したのはいつですか」

 あかりが夕方の五時くらいですと答えた。マイクが母に手渡され、私がマイクを持った。午前零時に封筒はなかったこと、五反田と会ったこと、七時に降りて行って手紙を発見したことなどを話した。五反田が補足説明し、私は次の住民にマイクを渡した。マイクのリレーが十五分も繰り返されると、ある程度の事情が見えてきた。

 昨夜、零時より後に帰宅したのは二人だった。502号室の高橋英吾という二十代の男と、604号室の金原玲子という女性だった。金原玲子は、集合ポストの前で見かけた、あの母親だった。彼女は一人だった。かちっとした印象の紺のパンツスーツを着ていて、毅然とした口調で五反田の質問に答えた。

 対して、高橋英吾の態度はあまり褒められたものではなかった。高橋は、十分ほど遅れて、五階の住民が話しているときにやってきた。大きな音を立ててドアを開け、乱暴な動作で椅子に座り、マイクが回ってくるといかにも面倒くさそうに舌打ちし、もったいぶった間を取ってから答えた。

 英会話教室を経営している玲子が帰宅したのは午前一時すぎだった。高橋も一時前後で詳しい時間は覚えてないといった。二人は共に集合ポストは見なかったと答えた。玲子は友人と電話していたからといい、高橋は早く寝たかったからだといった。

 住民の中で、最後に集合ポストを確認したのは五反田だった。

 一番最初に手紙を見つけたのは五十がらみの女性で、時刻は五時半だった。もっとも女性はダイレクトメールの類だと考え、中身は見ずに捨てたといった。

 問題の手紙は、午前零時から午前五時半の間に投函されたのだろうということで、意見は一致した。

「だからわしは危ないと日頃からいっておったんだ」役員の一人がいった。「エレベーター脇の非常口を開けておいては危険だと」

 共有のゴミ捨て場は、小さな小屋のようになっている。小屋は一メートル五十センチほどの高さで、通りから平らな屋根を伝って、乗りこえることが可能だった。屋根をこえると裏庭に出る。裏庭にあるのは掃除道具が置かれている倉庫で、その倉庫を過ぎ、裏庭を突っ切ると非常口に出られた。オートロックの番号を忘れたり、間違えたりしたときには便利な通路だ。マンションの住民なら誰でも知っていることで、私も酔ったとき、何度か使ったことがある。クレジットカードの暗証番号に誕生日を使うのと同じで、物騒ではあるが利便性の高さから黙認されていた。非常口は閉めておくべきだという意見が通っても、いつの間にか誰かが鍵を開けていて、そのまま放置され続け、物騒だと唱えた人物がそこを使ってマンションに入るところを目撃されたこともある。

 犯人はこのルートを通って手紙を投函したのだろうと結論がくだされ、非常口は閉ざすべきだとさきほどと同じ役員が口にした。別の役員はこうした手紙が投函され続けると資産価値が低くなると断言した。

 聞き取りが終わると、証言から割り出された時刻をもとに、管理会社に監視を要請するか、防犯カメラを設置するかの採択を、理事・自治会で早急に行うことが決まった。理事の一人が、以前から防犯カメラを設置すべきだと主張していたと吹聴するのを待ってから、「他に何かありませんか」と五反田が呼びかけたときだった。

「これは差別です。ヘイトスピーチです」

 という声があがった。銀縁の眼鏡をかけ、髪をきちんとセットした、六十代半ばの女性で、志田民子と名乗り、以前は小学校の教員だったと自己紹介した。

「ヘイトスピーチ、ですか」

 五反田は戸惑ったような顔で、民子に目を向けた。

「ヘイトスピーチというのは」リレーされてきたマイクを手にすると、民子はゆっくりと周囲に目を向けた。「特定の人種、民族や宗教、性的少数者などを――」

「なんじゃそりゃ」

 罵声に、空気が凍った。誰の言葉だったのか探る必要はなかった。遮ったのは高橋だった。ゆっくりと立ち上がって、入口近くの席から、二列前にいる民子に目を向ける。

「スピーチって、あれは文字で書いてあったんじゃないすかね」

「ヘイトスピーチというのは、差別煽動目的で行われた言葉や文章などを指します」

「差別っていうけど、あれって、差別なんすかね」憮然とした口調でいうと、高橋は腕を組んだ。「あれってニッポン人なら当然でしょう。違うんですかね」

「あんなもののどこが当然なんです。殺せなんて言語道断じゃ――」

「だから、ちょっと表現は右寄りかもしれませんけどね、広告なんて派手な表現してるじゃないですか。問題を広めようと思ったら、多少強めの表現になるもんでしょ。それを差別、差別と言いたてるのは、表現の自由の侵害でしょう」

「――問題を周知するためといいましたね」

「言いましたけど、何か」

「だったら、何か根拠があるって信じてるんですね、あなたは。あんな汚い言葉に」

「だって事実でしょうが、あれは。生活保護とか犯罪者とか」

「『「在日特権」の虚構』という本をお読みなさい。在日コリアンの一世や二世は高齢化していますし、生活保護受給者の九十七パーセントは日本人です。犯罪についてはまったくのでたらめですよ。そもそも人種や民族よりも貧困こそが問題であって――」

「だったら、あなたのいってる『ヘイトスピーチ』だって貧困が原因かもしれないじゃないすか。というかね、あなたはニッポンを差別していると思うよ」

 五反田がマイクを手に取った。

「ええと、政治的な話は抜きにしませんか。お互い熱くなりすぎても、ねえ」

「わたしは差別について話してるだけです。こんなことを許す社会には問題があるといってるんです」

 民子がいうと、五反田は口だけで笑みを浮かべた。

「もちろんね、私もね、差別というのは問題だと思うんです。ただ、それを今話すべきかどうかについては、多少、議論の余地があるんじゃないかと。そもそも、差別というからには、差別された当事者がいなければですね、議論のための議論になってしまうと思うんですよ」

 五反田に反発を感じた。けれど、私の中では、ほっとしている部分もあった。差別の話というのは、あまりに重すぎて、自分ではどう考えたらいいのかわからず、できれば避けて通りたかった。そういう意味では、五反田のあからさまな回避に救われたような気もした。《彼》の言葉が頭をよぎり、自分がどうしようもなく駄目な人間に思えた。

 五反田の発言によって張り詰めていた会場の雰囲気が、緩んだものに変わっていた。高橋は五反田が話しだすと同時に腰をおろし、民子だけが取り残されたように、ぽつんと立ちすくんでいる。

 五反田が、それでは他に意見がないようでしたら、といった時だった。

「待って下さい」

 声に振り向くと、さっと白い手があがり、金原玲子が立ちあがった。

「私は在日朝鮮人の三世です」

 深い、落ち着いた声だった。顔の横、目の高さに手紙をかかげて続けた。

「志田民子さんのいうように、これはヘイトスピーチです」玲子は五反田を真っ直ぐ見ていた。「私は、自分の子どもにこんな手紙を見せたくないんです。こんなことから子どもを守りたいんです。だから――」

 玲子の声をかき消すように、朝鮮人という暗い声がした。

「やっぱ、いるんじゃん、朝鮮人の工作員が」

 立ち上がった高橋は、玲子を指差し、顔面を紅潮させ、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「ニッポンを差別するな、朝鮮人」

「あなたはたぶん、朝鮮人という言葉を侮辱だと思ってるんですね」玲子が高橋を見た。「私は学校の先生に、朝鮮というのは朝が鮮やかと書くのだと教えてもらいました」

「それがどうした」

「最近はあなたみたいな人ってたくさんいますね」玲子は目を伏せた。「実際、ネットで在日だとわかると、ストーカーみたいな嫌がらせがありますから」

「おれがストーカーだと、ゴキブリ――」

「やめなさい」

 民子が細い声を張り上げた。民子の全身が、ぴんと張った糸のような緊張に満ちていた。

「高橋さんでしたね。もうやめなさい。私は正直、あなたの話を聞いていられません」

「だって朝鮮学校は、朝鮮の言葉を教えてるんだろ。日本語が嫌なら日本から出て行けばいい。本当のことをいって何が悪い。言論弾圧じゃんよ、そんなの」

「どんな民族にも、自分たちの言語を学ぶ自由があります。あなただって、明日から英語しかしゃべってはいけないと命令されれば反発を感じるでしょう。誰にだって言葉は大事なんです。それを阻害しようとすることが弾圧で――」

「ようするに、北朝鮮の味方をするってことだ」

「あなたには対話しようという気がないんですか。せめて人の話を最後まで――」

「お前ら教師は、国旗や国歌も否定してんだろ。いいから反日組織は黙ってろ」

「歴史をきちんと学ばない、あなたのような人がいるからヘイトスピーチが――」

「愛国心があれば、あんたみたいにはならないよ」

「愛国心なんて必要ありません」

「そうですか」玲子が遠慮がちに口を挟んだ。「でも、私は愛国心は必要だと思います。日本の国旗や国歌も、韓国のものと同じように好きですし」

 民子が絶句したのを見て、高橋が部屋中に響くような笑い声をあげた。

「ほらみろ、愛国心は反日にだってある。誰にだってあるのに、教師にはないんだな」

「別にあなたの味方をしたわけじゃないんですけど」

 とまどったように玲子がいい、高橋がさらに耳障りな声で笑い続けた。玲子は喉に何か詰まったかのように顔をしかめ、それでも無理やり言葉を吐きだすようにして、声を震わせた。

「私には、韓国にも、共和国にも、愛国心があるというだけです。あなたの味方なんてしてない。やめなさいよ」

 私は自分の膝を見つめ、そうしているのが息苦しくて顔をあげた。何をいっていいのかわからないまま、三人のやりとりを聞いていた。この情けないような、腹立たしいような気持ちは初めてのことではなかった。慣れ親しんだ、馴染み深いものだ。立ち上がるべきなのに、立ち上がれない空気。大勢の人がいるのに、一部の人間だけが話し、それ以外は私語を交わさない状況。これまでにも何度も経験した。小学校で、中学校で、高校で。

 同じようなことが何度も、何度も繰り返されてきた。

 玲子が共和国といったのを高橋が追及していた。北朝鮮を共和国などと呼ばないと高橋がいい、私にとってはルーツのひとつだと玲子が答えた。北朝鮮は誘拐国家だと高橋がいうと、玲子は悲鳴を押さえるように、目を見開き、口に手を当てた。それから、黙って目を閉じた。急に玲子の身体から空気が抜けてしまって、一周りも縮んだように思えた。

「正しいことをいわれたから黙るんだな。だったら、それが答えだ」

 誰も高橋の言葉に答えない。それでも高橋は万雷の拍手を浴びているような顔で続けた。

「自分らは好き放題にいって、こっちが正しいことをいったら、差別だと弾圧する。ダブルスタンダートだ。こういうのを許すのは、表現の自由に対する侵害なんですよ。普通の日本人ならわかるはずだ」

 玲子の肩が震えるのが見え、気がつくと立ち上がっていた。

「もうやめろ」

 高橋がゆっくりと私に目を向け、口笛を吹いた。

「おお、スパイ二号を発見、いや三号か。教師が二号だから」

「いいから黙れよ。今すぐ口を閉じろ」

「小岩井くん」五反田が割りこんだ。「君は作家志望だから正義感が強いんだろうけど、ここまでにしませんかね。すでに住民集会でどうこうなる話じゃなくなってますし」

 頬がかっと燃えるように熱くなった。

「なんだ、お前、ワナビなんだな」高橋が嬉しそうに目を輝かせた。「どうせ自分も虐げられてるとか思って共感しちゃったわけか。それで正義の味方を気取ってるってこと?」

「そうじゃない」

 きっと、《彼》ならこんなみっともないことにはならないだろう。周囲の視線が痛かった。どう見ても、私は若くない。若くないのに、作家志望だ。それでも、口を開かずにはいられなかった。

「おれがいいたいのは、こんなのおかしいってことです。玲子さんは子どもに、こんな手紙を見せたくないといった。それだけが大事で、他のことなんてどうでもいい。高橋がいってるのは、差別に理由があるみたいなことじゃないですか。理由があろうとなかろうと――」

「だからね、小岩井君、そうだとしても、今話すことではないと私は――」

「五反田さん、だって、今ここで、おれらの目の前で、高橋がヘイトスピーチ垂れ流してるじゃないですか。それをどうでもいいことみたいにいうのは、間違ってると思います」

「と、ワナビは偉そうにおっしゃった」高橋がいった。「次は、ワナビだって差別されてるっていうのか。必死だな、自己肯定に」

「おれがワナビなのは、実力も才能がないからだ。それでも作家になりたいと思うから――」

「なれるわけねえだろ」

「……そうだとしても、やりたいからやってるだけだ。でも、おれには作家になるのをあきらめることもできる。自分の実力に見切りをつけて、別の人生を選ぶことだってできる」

 いってから、すぐに否定したくなった。作家になるのをあきらめるなんて冗談じゃない。《彼》ならきっと、こんなこといわないだろう。

「でも、玲子さんはそうじゃない。単に子どもに守りたいだけなのに、そういったら非難される。そんなの、どう考えてもおかしいですよ」

 どうしたらもっと上手くいえるのか、さっぱりわからなかった。きっと周りからは、いまだに作家を夢見る、頭の中身がお花畑のおっさんだと思われているだろう。

 でも、そう思われているなら、いっそのこと、そう振舞ってしまえばいい。

 逃げ道なんて、なくしてしまえばいい。

「おれには差別がどういうものかは、正直よくわからない。でも、似たようなことは、これまでも見てきました。いじめです。学生のとき、こういうことはよくあった」

 高橋がこいつもスパイだ、日本人になりすましてるんだと怒鳴った。

「おれは意気地がないので、誰かがいじめられても、見て見ぬふりをしてました。黙ってた。こんなの変だと思いながら、いじめてるやつを注意したら、こっちがいじめられるかもしれないと怯えてた。そのくせ自分が怯えてるんだと思いたくなくて、心の中で、いじめられてる生徒が逆らったりするから余計ややこしくなるんだと思ったこともある」

 幼少時、《彼》はアメリカにいた。

 レイシストはね、と二人で会ったときに《彼》はいった。必ず自分たちの言葉は差別ではなくて、正しいことだというんだ。自分たちには表現の自由があるんだから、それを遮ったり、弾圧しようとするのは間違っていると。それでも反論すると、マイノリティはすぐヒステリックになるとさげすんだり、冗談だと誤魔化したりする。思い出すたびに、自分でもびっくりするくらい、その怒りが残っているのに気づくんだよ。そう《彼》はいった。

 私は《彼》のことを話した。高橋が邪魔しようとするたびに、黙れ馬鹿と叫び、うるさいボケと怒鳴り、最後には自分でも何を言いたいのか混乱して、困ったあげく、いつまでも学生時代に沁みついた、卑怯な保身に縛られたくないと自己中心的なことをいって、口を閉じた。

 反応は皆無に等しかった。失笑と困惑の入り混じった微妙な空気が漂っていた。あの高橋ですら罵声をやめ、気の毒そうに私を見ていた。

 スコップがあれば、穴を掘って潜りたかった。

 お前は『坊っちゃん』か、と思った。

「まあね」五反田が両手を叩いた。「もちろん差別は絶対に許してはならないとは思うんですが、結局のところ、小岩井君もずいぶん過激なことを話してて、どっちもどっちという感じですね、個人的な感想としては」

「どっちもどっちってどういうことですか」

「そういうふうに見えてしまうということだよ」五反田は私を見ずにいった。「とにかくね――」

 裁判官か、という声が上がった。あかりだった。

「さっきから聞いてると、苛々してしょうがないんですけど、それって、嫁姑の問題を聞いて、どっちもどっちとしかいわない、駄目な夫と同じですよ」

 五反田が何かいう前に、部屋のあちこちから拍手が起こった。初めは小さかった拍手が、徐々に大きくなり、五反田の頬が強張った。

「いや、私はそういうつもりではなくて、ただ、物事は相対的だから中立に立たないと――」

「そういうのも駄目夫がいうのと同じですよね」五反田の言葉を制して、あかりがいった。「自分はまるで関係ないみたいに、嫁と母親の悪いとこ偉そうに探してみたりして。家庭の問題なのに、自分も当事者だって意識がまるでない」

「そうはいっても、事情がわからないんだから――」

 別の男性理事が口を開くと、あかりがぴしゃりといった。

「事情がわからないなら、簡単に善悪の判断下すなっつうの。それから、そこのストーカー」

 あかりに指差されて、高橋は目を泳がせた。

「高橋、あんたのこといってるんだよ」

 高橋が観念したように、あかりを見た。

「……なんで無視してたのに、いきなり」

「あんたの関係者だって見られたくなかったから。こういう場所で、ああいう変な話をするのはやめなよ。みっともないから」

「じゃあ」高橋はしばらく黙ってからいった。「タヒチ旅行に誰と行くのか教えてくれたら、やめてもいい」

「なんであんたが、そのこと知ってるの」

「いや」一瞬言葉に詰まったが、すぐにいった。「だって郵便物の話してただろう、みんな。だからそれ聞いて」

「どうせ、犯人はあんたなんでしょう。この手紙も」

「それはさすがにいいすぎだ」五反田が低くいった。「犯人は外部から来た可能性だってあるんですから」

「あのう」間延びした声で、皆実がいった。「それなんですけども」

「なんです」

 苛立ったようにいった五反田を、皆実は正面から見つめた。

「犯人は、外部犯じゃないんです」

 部屋が静まり返った。息詰まるような沈黙の中、皆実の言葉が響き渡った。

「犯人は、このマンションに住んでる人です」


     3


 自室からパソコンを持ってくると皆実は、USBメモリを差した。

「僕は劇団をやっていて、最近は明晰夢を使ってシナリオを書いていました」折りたたみテーブルの上に乗せたパソコンを操作しながら続けた。「と、こうでいいのかな。あんまり動画って再生したことなくて。で、明晰夢というのは簡単にいうと、夢の中でアイディアを得ることで――」

「それはどうでもいいから」皆実の横にいた五反田がいった。「きちんと説明してもらいたいね、このマンションに犯人がいるってことを」

 テーブルは役員席の前に置かれていた。住民はもう、一人も座っていなかった。椅子をどかし、パソコンを操作する皆実の後ろに立って、分厚い人垣を作っていた。私は最前列に近い場所にいた。

「ええとですね」皆実がいった。「夢のコントロールが上手く行かなくて、僕はマンションから外に出る夢ばかり見ていたんです。で、心配になって」

「何が」

「つまりですね」皆実は五反田を見た。「もしかして、自分は夢を見ているのではなくて、夢遊病なんじゃないかって」

 パソコンの画面に、映像が現れた。薄暗い映像だったが、すぐにマンションの玄関近くを撮影したものだとわかった。画面の上部に、時刻が出ていた。午後十一時四十分。

「ちょっと早送りしますね。で、話の続きですが馬鹿げてるとは思ったんですけど、本当に夢を見てるだけなのかどうか、探偵を雇って撮影してもらったんです」

 まだ皆実は何かいっていたが、もう私はそれを聞いてなかった。早送りされ、動画上部の数字が目まぐるしい速さで時を刻む。あっという間に午前零時を過ぎ、玄関のガラス扉が明るくなった。共有廊下の灯りが点ったからだ。そこで、映像の流れる速度が遅くなった。

「この時刻が小岩井さんのときの点灯ですね。このあと五反田さんがやってきて、また灯りは消えます」

 皆実の言葉通り、零時十二分になって明かりが消えた。映像がまた早送りになった。午前一時二分のところで通常の速度に戻った。人影が玄関に近づき、内部に灯りがついた。二分後に、次の人影が玄関に向かって画面を横切り、マンションに入った。灯りは一時十五分まで消えなかった。

「これ以降は、灯りはついてません」

 早送りにして、皆実がいった。

「もしこれ以降に、ゴミ捨て場から裏庭に回るルートを使って、誰かが外部から侵入したのなら、灯りが点くはずなんですよ。しかし、そうはなってない」

 頭の中で、今の情報を整理した。一階のセンサーが作動したのは、計二回。午前零時から零時十二分。次が午前一時二分から一時十五分。一度目は私と五反田で、二度目が玲子と高橋だ。もちろん、私は私が犯人でないことを知っている。私はやり残した仕事など行わなかった。

 五反田も除外できるだろう。あのとき、五反田は手ぶらだった。タンクトップにショートパンツ姿で、大量の封筒を隠し持つのは不可能だ。

 容疑者はかなり限定される。

「そういうことか」静かだった部屋に、高橋の声が響いた。「犯人がわかった」

「誰です」

 皆実がいうと、高橋は目を剥いた。

「そんなもん、犯人は反日に決まってるだろう」

「どうしてそうなるんです?」

「そんなの簡単だろうが」

 両手をズボンのポケットに入れた。

「まず、おれは、おれが犯人じゃないと知っている」

「それは、あなたが犯人だとしても、そういうでしょうね」

「皆実とかいったよな。だったら、さっきのことを思い出せよ。教師と反日は、おれを差別した。あれが目的だったんだよ。だから日本人になりすまして、手紙をポストに入れた。簡単なことだろ」

「それはどうですかね」皆実は頭をかいた。「その推論にはまるで根拠がない」

「可能性は否定できないじゃねえか」

「あなたが犯人である可能性と、玲子さんが犯人だという可能性を同等に扱うことはできません。そんなのはあまりに馬鹿げてる」

「どうしてだ?」五反田がいった。「推論するときに、あるかもしれないという可能性を切り捨てるのは公平とはいえない。高橋くんの肩を持つわけではないけれど、なりすましは謀略の基本だ」

「普通はですね」皆実がいった。「可能性が一パーセントのことと、可能性が九十九パーセントのことを、一対一で並べて論じたりはしません」

「その比率は人によって違うんじゃないかね」

「ええ」五反田の言葉に皆実はうなずいた。「ですから主観によるばらつきを押さえるために、きちんとした根拠が必要になるんです」

「そう思うのはお前が自虐史観に洗脳されてるからだ」高橋がいった。「そうじゃないなら、お前も朝鮮人なんだ」

「それって、翻訳すると、お前はおれの敵だ、そうじゃなかったらおれの敵だってことですよね。そういういい加減な言葉遣いだと、役者は混乱するんですよ」

「なんだって?」

 あっけに取られたように高橋がいった。皆実は生真面目にひとつ頷いた。

「僕は一人で演劇をやってますから、演出家であり、役者なんです。だから、どちらの気持ちもよくわかる。自分のプランを伝えたいなら正確な言葉で話さなくてはいけません。はっきりいってあなたの言葉は、あまりに雑だ。雑すぎる。聞くに堪えない」

「う、うるせえよ」

「それより、答えてください。あなたが帰ったとき、ロビーに灯りは点いてましたか」

「うるせえんだよ、お前は。消えてたよ」

 嘘よ、という声がした。玲子だった。私とは反対側の、壁近くに立っていた。唇を震わせ、両手を胸の前でもみしだいた。

「私が帰ったときは、真っ暗でした。その人は嘘をついてます」

「もうやめないか」五反田が遮るように手を振った。「ここで誰かを吊るしあげても意味なんてないんだから」

「いやだね」

 意外なことに、逆らったのは高橋だった。

「このまま終わったんじゃ、おれが疑われるだけじゃんよ。そうはいかねえって。おれは、おれ自身の潔白を証明する」

 五反田がなだめるように、もうやめようと何度も提案したが、そのたびに高橋が反対した。私はそれを目にしながら、別のことを考えていた。何かが引っかかっていた。高橋のことだ。高橋がいったこと。

「おれはやめない」

「高橋くん、興奮しないで」

「うるせえよ五反田。お前も朝鮮人か」

「私は日本人だ。何をいってる」

 直感が、私に、しつこく囁いていた。

 高橋は、嘘をついてる。

 それがわかっているのに、どうしてそう思うのか、わからなかった。高橋の言動を最初から考えていると、不意に、光が差した。

 名前を呼ぶと高橋は振りむき、私の顔を舐めるように見た。

「誰かと思ったら、お前か、ワナビ」

「どうして嘘をついたんだ」

「おれが何の嘘をついたっていうんだ、この、日本にヘイトスピーチを浴びせる工作――」

「お前が帰宅したのは玲子さんより後だ」私はいった。「あかりさんが郵便受けを見たのは夕方になってからだ。そうでしたよね」

 あかりの姿を探すと、人垣の中央から返事がした。ちょっと通してくださいといいながら、あかりが私のそばにやってきた。

「そうよ。夕方になって見た。さっき、そのことなら話したでしょう」

「旅行会社の案内が入っていた?」

 うん、とあかりが頷く。あかりは高橋を見なかった。そのことが高橋を余計に苛立たせたようだった。

「だからなんだよ、こら、くそワナビ」

「あかりさんがそのことを話したのは、お前が来る前だ」

 高橋が集会所に入ってきたのは、八階から始まった聞き取りが、五階に進んだときだった。

「だから、お前があかりさんの郵便受けに何が入っていたのか、知ってるはずはないんだ。もっとも」

 私は高橋に向かって、一歩近づいた。

「お前が、他人の郵便受けを開けて調べたのなら違うだろうけど」

 視界のすみで、さっとあかりが高橋を見たのがわかった。高橋の顔から見る見る血の気が引く。

 私は皆実に午前一時二分まで、映像を巻き戻してスタートさせた。午前一時二分、人影が中に入り、灯りがつく。二分後、別の人影が玄関に向かって画面を横切り、マンションに入った。灯りは一時十五分まで消えなかった。

「灯りがついていたのは、一時四分から十五分まで。無人になって三分すると照明が消えることから考えれば、二番目の人間は八分間ホールにいた。お前はすぐに部屋に戻ったといったが、あかりさんの郵便物の内容について知っていた」

「思い出した」あかりが口を開いた。「あたし、旅行会社からの知らせが来てたって話したけど、パンフレットがタヒチだったなんて、ひとっ言もいってない」

「うるせえよ」弱々しく首を振り、高橋は顔をあげた。「わかったよ。くそ。投函口からスマホ突っこんで撮影したんだ。なかなかうまくいかなくて、時間かかった」

 あかりが手に持っていた住民集会の紙を丸めて、高橋に投げつけた。紙のボールは、高橋の腹に当たった。足もとに落ち、乾いた音を立てて転がった。

「ふざけんな」あかりが叫んだ。「警察だけは勘弁してくれっていうから、大目に見てやったのに」

「いいよ。もう警察でもどこでも相談してくれ。正直、おれもどうしていいかわからなくてさ」

 ふっと吐息をつくと、私を見た。

「確かにおれは、嘘ついてた。後から帰ったのはおれだ。それは認める。でも、あの手紙はおれがやったんじゃねえ。証拠だってある」

 高橋はスマートフォンを取り出し、画像を表示すると私に手渡してきた。戸惑いながら受け取り、画面を見た。内容から三度撮影しているのがわかった。最初の一枚はパンフレットの文字が読みとれなかった。次の写真は前よりもパンフレットが見えず、その次の写真ではタヒチという文字が読みとれた。ボールペンを使って中身をずらしたんだと高橋が説明した。

「おれが帰ったときにはホールの灯りはついてた。八分間だっていったけど、そんなに長いこといた気はしなかったな。とにかく後ろが気になったし、誰かに見られたらと思うと、焦って何度も失敗したからな。おれには時間的に、他のことやってる余裕なんてなかった」

 画像の時刻はそれぞれ、一時六分、八分、九分になっていた。

「ワナビ。おれは本当にやってねえんだ。わかるだろう」

 私は声を出すことができなかった。何も考えることができなかった。ただ唇を噛んだまま、画像を眺めていた。

「わかるだろう、ワナビ。タヒチの文字を隠していたのが、何だったのか。おれがボールペンを使って移動させたのが何だったか。封筒だよ」

 旅行会社からの案内は透明のビニール封筒に入っていて、パンフレットが透けて見えた。タヒチの文字を隠すようにして、細長い、茶色い封筒がのっかっている。封筒の表には文字の記されたシールが貼ってある。「小学生のあなたに」という文字が判読できた。

「おれが帰ったときには、お前らのいうヘイトスピーチは投函されてたんだよ」

 私からスマートフォンをむしり取ると、高橋は画面を高々と掲げ、皆に見えるようにして叫んだ。

「これが証拠だ。犯人は、おれじゃない。おれより先に帰った朝鮮人か、ワナビか、五反田のおっさんだ」

「私は違う」五反田が真っ先に否定した。「私は一階に降りたとき、何も持ってなかった。そうだろう、小岩井くん」

「ええ」

「それに、その後、夕刊を取ってすぐに戻った。そのことも小岩井くんが証明してくれる。そうだね」

 私は頷くしかなかった。確かに五反田はすぐに戻っている。おまけに、部屋に戻ってからも派手な喧嘩をしたりして、部屋から出てない。だから、高橋がホールにいる時間帯に、五反田が一階に降りた可能性はゼロだ。

「だったら、スパイかワナビが犯人だな」

「まだお前が犯人じゃないと証明されたわけじゃない」私はかろうじていった。「お前は手紙を投函してから、撮影したのかもしれない」

「残念ですが」皆実がため息をついた。「もし高橋が手紙の投函と、あかりさんの郵便物を撮影する、その二つを実行するつもりなら、やはり撮影してから手紙を投函すると思います。邪魔になるのはわかってることなんですから」

「だから」

 偽装のために、といいかけた言葉が喉もとで止まる。皆実がマンションの撮影をしていたことは、誰も知らなかった。撮影されていると知らなければ、偽装する必要はない。観客のいないところで芝居する役者はいない。

 何とかしなければならない。どうにかしないと。焦っていた。どうして焦っているのかもわからないまま、考え続けた。

 きっと、高橋は暗証番号を知っていた。自由に開け閉めできるから、先に投函して撮影した。いや、番号を知っていたなら、画像は残さなかっただろう。番号を知らなかったからこそ、証拠が残るリスクを知りながら、撮影したのだ。思考は、何をどうやっても行き止まりにぶち当たる。

「ほら、ワナビ、なんとかいえよ」

 高橋が私の肩をついた。足もとがよろけた。苦しかった。息がつまりそうだ。

「確かにおれはストーカーだけど、犯人じゃねえ。わかっただろうが。おれは潔白なんだ。だから犯人は、お前か」そういうと、右手の方向で目を止めた。「あいつかだ」

「私が」玲子の震える声がした。「私がそんなことするはずがない」

「だったら、この、社会の底辺にいる、クソったれワナビの犯行だってことだな」

 高橋が優越感をにじませた声で宣言した。

「そろそろ、自白したらどうだ。おれみたいな愛国者を罠に嵌めようとしたんだと」

 私は顔をあげることができなかった。私は玲子のほうを見ることができなかった。

 今、私の顔には自分の本心が出ているに違いなかった。

 犯人は私ではない。それはわかっている。けれど、それを証明するのは困難だ。私は四十を過ぎて、定職についてないような人間だ。不審に思われても仕方ない。けれど。私は自分の中に潜んでいる、見たくなかった思いを見つめた。

 私は日本人だ。

 でも、だから何だ?

 だから高橋と一緒になって、証拠もないのに玲子を告発する? 追い詰められれば、簡単に己の信条を翻して、レイシストに加担する?

 それでこの先、《彼》とどうやって会話するつもりだ?

「黙ってないで自分が潔白だというべきだよ、小岩井くん」

 声に顔をあげる。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

 五反田が私をかばうようにして、背中を向けて立っていた。

「この人は犯人じゃない。それは私が保証する。彼はそんな人じゃない」

 どうして。頭が混乱した。どうして「どっちもどっち」の五反田が、よりによってここで私の味方をするんだ。

「君は犯人じゃないだろう」五反田が低く、警告するような声でいった。「だったら、自分の潔白を恥じずにいうべきだ」

「どうして」

 思わず質問していた。五反田は背中を向けたまま短くいった。

「無実の人間をかばうのは当然だろう」

 私は、礼をいうべきかもしれなかったが、あっけにとられてそれどころではなかった。口を開けて、まじまじと五反田を見つめていた。正直、ここまで庇ってもらう覚えがなかった。ほとんど会話したこともない。無理やり本を押しつけられて、迷惑していたくらいだ。

「犯人は小岩井くんじゃない」

「だったら」得意そうな声で高橋が割って入った。「反日の自作自演だ」

 高橋が玲子を指をさし、つられたように皆の視線が動いた。

「やめなさい」

 視線を遮るように、小柄な女性が動き、それは志田民子だった。震えながら、両手を広げて、玲子の前に立ちはだかる。

「なにが自作自演です」

 民子は静かに息を吸うと、背筋を伸ばした。

「教職員組合の書記局に銃弾が撃ち込まれたときも、在日朝鮮人の自作自演だとか、教員の仕業だとか、無責任なうわさが飛び交ったものです。こんな文章、この人が書けるはずがないなんて、誰だってわかることです。わからないほうがおかしい」

 あかりが玲子のそばに向かった。それを見て、心が決まった。最初から、そうすべきだったのだ。

 私は五反田を避け、高橋の正面に回った。

「なんだ、そういうことか」

 高橋が薄笑いを浮かべた。

「やっぱ、お前ら、グルだったんだな」

「こんなことをやったって意味がない」五反田がいった。「もう、ここで終りにすべきだ。こんなことを続けても――」

「ええっと、あのですね、ちょっといいですか」

 周囲の緊張を弛緩させるような、間延びした声だった。皆実だ。

「終りにする前に、ちょっと聞きたいんですが、この中で」

「いいかげんにしてくれ。なんなんだね、君は」

「すぐに終わりますよ、五反田さん。この中でポストに手紙が二通入っていた人がいると思うんですが、どなたですか?」

 住民の真ん中あたりで手が挙がった。不安そうな顔で、おろおろと回りを見ている中年の女性だった。

「私のところには二通入っていましたが、それが」

「いえ、そうだろうと思っていたんです」皆実はうなずいた。「それで目処がつきました。あと小岩井さんに聞きたいんですが、零時に下におりたとき、隣のポストで妙なことがなかったですか」

「妙なこと?」

「何でも構わないんですが、ちょっと気になったことがなかったですか」

 私は記憶を呼び起こした。夕刊が水平に近い角度になっていて、だらしなく見えた。そう告げると、皆実はわかりましたと答え、それから明るい声でいった。

「これでようやく、犯人が誰だかわかりました」


   4


「あなたが犯人ですね」

 皆実がいった。

 私は息を呑んだ。

「君は、何をいってる。どういうつもりだ」

「あなたが犯人なのは、僕だけじゃなく、小岩井さんも同意してくれるはずです」

「お、おれが」

「そうです」

 皆実は相手の顔を見つめていた。

 皆実が見ているのは、高橋ではなかった。もちろん、皆実が見ているのは、私でもなかった。

 玲子でもない。

 後ろを見なくても、住民の目が一斉に、一人の人物に注がれているのを肌で感じた。

 その場にいる全員の視線を浴びて、顔色が紙のように白くなっていた。

 ぴくりとも動かず、皆実が正面から見ていたのは、五反田護だった。

「思い出してください、今朝、五反田さんが新聞を取ったとき、見ましたよね」

 そういわれても、私にはわからなかった。そういうと、皆実がため息をついた。

「五反田さんは、新聞の尻を押しながら、ポストを開けていませんでしたか」

「ああ、そうすると、手紙が落ちなくて便利だろうなと思ったな」

 そのときの光景がありありと心に浮かんだ。洗濯物をランドリー室に取りに行くという手ぶらの皆実と、一階に降りた。五反田が、新聞と上に重なった薄茶色の封筒を取り出すのを横目に見ながら私は――いきなり答えが降ってきて、素っ頓狂な声をあげてしまった。

「し、し、新聞の上に封筒がのってた」

「そういうことです。オートロックの解除は午前六時です。新聞は六時以降に配られる。そもそも最初に封筒を発見したのは五時過ぎでしたし、高橋さんが封筒を撮影してもいる。封筒が投函されてから新聞が配られたんです。だから、あの封筒は、新聞の上にのっているはずがない。そうでしょう」

 五反田は返事をしなかった。だけど、私は思った。どうして五反田はそんなことをしたんだ。他と同じように、自分のポストに手紙を入れておけばよかっただけなのに。疑問に答えるように、皆実が続けた。

「おそらく五反田さんは、手紙をきっちり五十六通用意していたはずです。けれど、最後まで配ろうとしたとき、一通足りないことに気がついた。焦って入れるあまり、二通同じポストに入れてしまったんです。ポストはきっちり閉まっていて、下から取り出すことはできない。投函口から取り出そうにも、手ぶらだから道具もない。ぐずぐずしている時間はなかったでしょう。長時間そこにいればせっかくのアリバイ工作が無駄になる。そこで仕方なく、唯一開けることのできる自分のポストから手紙を取り出し、最後のポストに入れた。手紙が二通入っていた人がいたのはそのためです」

 誰も、何もいわなかった。皆実はちょっと前後しましたがといい、話を再開した。

「五十六通を配り終えるのに、二分かからなかったでしょう。アクシデントを考慮すると、三分以内に終わったと思います。それから五反田さんは急いで七階に上がり、小岩井さんから本を受け取り、自室に戻った。恋人をなんとか言い含めて送り出すと、すぐに手紙を用意し、隙を見計らって自分のポストに投函した。しかし、それは六時以降のことだったんです」

「私は手ぶらだった」ようやく顔をあげると、五反田はのろのろといった。「私が何も持ってなかったのは、小岩井くんが証言している」

「もちろん、あなたが手ぶらだったのは確かです」皆実はなんでもないことだというように答えた。「あなたは五十六通を前もって自分のポストに隠しておいたんだから」

 五反田が拳を握るのが見えた。さっきまで青白かった頬が紅潮し始めていた。

「あの封筒は重しをのせたみたいに薄くなっていた。五十六通を隠しておくためには、通常のままだとかなりかさばってしまいますから、少しでも薄くしておく必要があった。それでも底に大量の封筒があれば、郵便物は入りにくくなる。だから夕刊は、水平に近い角度になってだらしなく見えた」

 そう、隣の夕刊は水平に近い状態だった。けれど、朝は違っていた。

「私の夕刊じゃなかったかもしれないじゃないか」五反田が反論した。「そういうことなら、あかりさんにだって可能性がある。小岩井くんは左右を見間違えたのかもしれない」

「あたし、新聞取ってないっていったはずだけど」

 あかりが素早くいい、五反田は大声でいった。

「私じゃない、信じてくれ、私じゃないんだ」

「最大の問題は」まるで五反田の声が聞こえなかったように皆実がいった。「どうして犯人が郵送にしなかったのか、です。郵送なら、見つかるはずがないし、手間もかからない。封筒に入れたのはね、僕にも理解できるんです。便箋のままだと素早くポストに入れられませんからね。時間を争うのであれば、封筒を使うのはわかります。でも、そこまでするなら切手を貼って、後は郵便局に任せたらいい。でも犯人はそうしなかった。つまり、犯人は危険を犯しても、どうしても自分で手紙を投函する必要があった。ここが要です。郵便局員ではなく、自分自身の手によって集合ポストに手紙を入れる目的は何か。いいかえると、郵便局員がポストに配るのと、自分でポストに配るのとでは、一体、何が違うのか」

「悪い、皆実くん」私は正直にいった。「さっぱりわからん」

「自分の手で配るとですね、騒ぎが大きくなるんですよ」

「郵送だと、そうはならないのか」

 皆実はそりゃそうですよといった。

「郵送だと、届く時間は午前中なら十時過ぎくらいでしょう。その時間に一斉に郵便受けを皆が開けるとは思えない。で、ばらばらに受け取っていたら、せっかくの手紙が、悪質な悪戯だと思って捨てられてしまいます」

 郵便受けの下にある段ボールのゴミ箱を思った。いつもなら、あそこは、チラシやダイレクトメールでいっぱいになっている。

「でもそうはならなかった。なぜなら、朝の郵便受けは、開ける時間帯がほぼ同じだからです」

 私はうめいた。時間のコントロール。そのために、五反田は自分の手で配らざるを得なかった。

 皆実がポケットから折りたたんだ手紙を取り出した。

「これが手書きの文字であることからもわかるように、犯人はこの内容を、是が非でも人々に訴えたかった。中身をぱっと見ただけで捨てるような相手にも、内容を告げずにはいらえなかった。そして騒ぎさえ大きくなれば、集会を開き、手紙の内容を堂々と口にすることができます。では集会を開くよう迅速に動いたのは誰だったか? 理事として司会進行ができる立場にいたものは誰か? 中立を装って、公正な正義を主張する人間になりすまし、ヘイトスピーチを助長することが可能だったのは誰か? 理事の一人が監視カメラを設置すべきだと主張していたのを知っていたのは、誰だったのか? わかりますか、五反田さん。全ての事実は、あなたが犯人だと――」

「いい加減にしたまえ」五反田の顔色はどす黒くなっていた。「君は私がそんな卑劣な人間だというつもりか」

「ええ。もっとも、あなたの舞台は失敗しましたが」

「なんだと」

「あなたは『公正な人間』という役作りに失敗したんですよ」

 そんなことはないと問うように周囲を見て、五反田は口を一文字に結んだ。人の目は、時に容赦のない鏡になることがある。五反田の目は、鏡が信じられないと語っていた。この鏡は歪んでいると無言で叫んでいた。だとしたら、本当に信じていたのだろう。自分が周囲には公正な人間だと思われているのだと。

 五反田に同情はしなかった。私も、一歩間違えばああなっていたはずだ。民子やあかり、皆実、それに玲子や《彼》がいなければ、そうなっていたとしても不思議ではない。

 自分自身に同情することなどできない。

「私が犯人だとして、どうだっていうんだ」五反田がつぶやいた。「法律ではどうにもできないんだぞ。お前らには、何もできないんだ」

「それは違います」皆実がいった。「まだわからないんですか」

「なんだと」

「あなたを罰することはできません。でも、玲子さんを守ることはできます。現に、今の状況はそうなってる」

 部屋の後方、壁際に立っていた玲子の周囲に、人々が集まっていた。

 五反田はそちらを睨みつけると、低い、恐ろしいほど冷たい声でいった。

「偽善はそんなに楽しいか」

 目をぎらつかせ、顔をひきつらせた。右の瞼が痙攣するように震えている。

「厚塗りの美しい言葉で本性を隠そうとしても無駄だ。お前たちは、揃いも揃って偽善者だ。自分だって差別してるのに、まるでそんなこと考えもしなかったような顔しやがって。私ははっきりと、この目で見たんだ。共和国といったとき、そこにいる大勢の人間が顔をしかめたのを。そのことに知らん顔して、絶対に自分たちは正しい、差別を許さない、か。笑わせるね」乾いた声で笑った。「その女のダブルスタンダードは見ないふりか。正義ごっこは楽しいか。日本を差別するヘイトスピーチは見逃して、私のような愛国者の言葉を差別呼ばわりしていれば満足か」

 静まり返った住民を見て、五反田は満足そうな歪んだ笑みを浮かべた。

 その時だった。思わず私は息を止めていた。人垣を割って母が歩いてきた。五反田の前まで行くと、足を止めた。

「なんだよ、偽善者は、まだあきらめないつもりか」

「いえね、あたしはずっと気になっていたんだけど、あなたや高橋さんのいうダブルスタンダードと、ダブルバインドの区別がつかなくて」母はいった。「人が二重拘束で苦しんでいるのを、外から眺めていたら、ダブルスタンダードに見えるんじゃないかなって思ったんですよ」

「黙れ、偽善者」

「人の苦しみをダブルスタンダードだと決めつけていたら、あなたは自分の苦しみも見えなくなってしまいますよ。だから――」

「黙れ」

「あたしたちはね」母はため息をついた。「必要だから集まったの。ダンプカーにぶつかって、自転車に乗っていた人が血を流していたら、助けようと思うでしょう。緊急時に、自分も差別したからとか、相手がこんなことをいったからとか、本当の正義とは何かなんて考えてる暇はないんです。必要なのは血をとめて、ケアすること――」

「それはお前らが左側に立ってるからだ。私が右よりに見えるなら、それはお前たち偽善者が左側にいる証拠だ。自分の立ち位置も見えないのか」

 すると母は、五反田と向き合ったまま、左横に一歩動いた。

「おっしゃるとおり左側に立ちましたよ。あなたは右側に立っているように見えますね」

「それがどうした」

「でもね、あなたから見て、あたしは右側にいるんじゃないかしら」

 五反田が目をむいた。視線を合わせて母は言った。

「あのね、五反田さん。頭の中で右とか左とか考えていると、人と人は向き合うことができるのを、うっかり忘れてしまいますよね」

「うるさい、黙れといって――」

「あなたこそ黙りなさい」

 母が一喝した。それは病院に勤務していた、婦長時代の威厳がこもった声だった。母の背が、定規を当てたように真っ直ぐ伸びていた。

「顔を洗って出直しなさい」

 母はそういうと、背中を向け、玲子たちの元に戻って行った。一度も振り返ろうとはしなかった。

 五反田はしばらく無言で立っていたが、急に肩の力を抜くと、私は不愉快だと言い捨て、出口に向かった。五反田の後を、高橋が追っていく。二人はドアも閉めずに出て行った。

 ドアの向こうに、公園が見えた。月明かりに照らされ、ブランコの下に濃い影が落ちている。砂場のわきに、誰かの忘れて行ったスコップが転がっていた。

 涼しい風が吹いて、私の髪をすいて流れた。参りましたねといって、皆実が首をふった。

「僕なんかとは役者が違う」

 私は皆実を見つめた。

「なあ皆実くん、教えてくれないか」

「何ですか」

「どうしてもっと早くいってくれなかったんだ、犯人は五反田だって」

「あたしも、それ聞きたい」

 いつの間にか、あかりが私の隣に立っていた。ちらっと私を見ると、すぐに横顔を向け、つぶやくようにいった。

「ありがとね、おじさん」

 おじさん。

「あんたがピントの外れたこといったおかげで、ハードル下がって助かった。そうじゃなかったら、五反田に文句なんていえなかったと思う――どうかしたの?」

「いや、なんでもない」

 私は首をふった。

「皆実くん、君はかなり早い段階で、五反田が犯人だとわかってたんだろう」

「ええ」

「どうしていわなかったの」あかりがいって、ためらうように付け加えた。「もっと早くにあいつが犯人だっていえば、玲子さんだってあんな辛い思いしなくてすんだのに」

「わからなかったんですよ」

「何が」私はいった。「何がわからなかったんだ」

「怒りませんか?」

 申し訳なさそうな口調だった。わけがわからないまま、いいから話せとせっつくと、皆実は諦めたように息をついた。

「つまり、もしかして、万が一、ありえないことですが――」

「ごたくはいいから、早くいいなさいよ」

「共犯者がいるかもしれないと思っていたんです」

「共犯者?」

「だって、五十六通も投函しようと思えば、普通は単独でやったりはしないでしょう。共犯者がいるだろうと考えるのが普通だと思うんですよ」

 それでどうして私が怒るんだろうと思った。

「でも、高橋が共犯者だとしたら変じゃないか。あいつが帰ってきたのは、一時だったんだから」

「鈍いね」あかりがいった。「共犯者として疑われてたの、小岩井さんだよ」

「おれが」

「すみません」悪びれたふうもなく、皆実が頭を下げる。「でも、そう考えるのが自然だったんです。五反田が手ぶらだったことも、アリバイがあったのも、小岩井さんの証言だけが頼りでしたから。おまけに、ずっとどっちつかずの態度を取っていたのに、あなたのことは庇った。共犯者としての条件は揃ってたんですよ」

 背筋が冷たくなった。自分では、その可能性をまったく考慮すらしてなかった。

「たぶん、五反田が小岩井さんを庇ったのも、同じような理由だったんだと思いますね」

「どういうこと?」

 あかりが聞いた。私はまだ衝撃から立ち直っておらず、二人の会話をただ聞いていた。

「つまり、小岩井さんの証言だけが頼りでしたから、小岩井さんが犯人だとされてしまうと都合が悪かったんです。小岩井さんが犯人ならば、自分が共犯だと疑われますからね」

「そういうのパターンだよね、誰でも共謀してるみたいな。高橋もよくそんなこといってたし」

「お二人はつきあってたんですか」

「まさか。本当に一方的につきまとわれてただけ」

「それは大変でしたね。警察に行くなら、付き添いますよ」

「大丈夫、一人で行けるから」

「ちょっと待ってくれ」ようやく私はいった。「だったらどうしておれが共犯じゃないと思ったんだ」

「共犯者だったらですね、自分が庇われて、あんな顔しませんよ」

 皆実はまるでお化けでも見たように目を見開き、口をあんぐりと開けた。

「すごい、そっくりじゃん」

「役者ですから」

「でも、演技だとは思わなかったの」

 あかりの言葉に、皆実は静かに首をふった。

「小岩井さんはね、とにかく致命的なんです。一度ね、劇団に興味を持ってくれたこともあって、役者として手伝ってもらおうとしたんですが、どうしようもなく、その、なんというか――」

 私はわざとため息をついた。

「悪かったな、大根で」

「悪いことはいいません」皆実は大真面目な顔になった。「小岩井さんは、これからも観客でいて――」言葉を切ると、そっと続けた。「そして、小説を書いてください」

 応援してるんです、と皆実がそっぽを向いてつぶやき、まだ開けっぱなしのドアから風が吹いた。穏やかな風だった。

 私は目を細め、誰もいない公園を、明るい夜を眺めた。

                                      了

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