灰色勇者物語(二)
荒い、呼吸。
街道に仰向けで寝転がり、胸を上下させている。私の足音に気付いたのか、目をこちらに向ける。そして、私の姿を認めると、少し呼吸を整えて、右手に力を入れて体を持ち上げようとした。けれど、その体が持ち上がることはなく、無様に転がった。
「ア、ルマ……」
私の目に映ったレフは、見るも無惨。
左側の腕と脚は丸めた紙屑のように潰れていて、今にも千切れそう。特に腕は、最早皮一枚の所で辛うじて付いているようだった。
けれど、でも。
「レフ、生きてて良かった……」
安心感。
千百八十四
今日消えていったその命の中に、彼が入ってなかったことに安堵した。
腕が潰れていようと、足が粉々だろうと、生きていてくれたことに感謝する。
「レフ、貴方じゃ何もできない。だから、帰ろう。私たちの家に」
レフのように立ち向かった幾百人の行いで、ヒュドラの進みはどの程度遅くなったのか。答えは、火を見るよりも明らかだった。微塵も遅くなりはしていない。
生きている、とは言ってもレフは重傷だ。なるべく早くに彼を連れて帰って手当てしなければ、死んでしまうだろう。
腕は切断するしかないだろう。足も、もしかしたら。
そんなことを考えながら彼に近付いて、肩を持った。
口の端からは血が垂れている。レフは荒い呼吸を繰り返すばかり。
「……アルマ、ごめん」
耳元で小さくそう呟いたと思ったら次の瞬間、彼は私のことを思い切り押した。
態勢を立て直す間もなく、私は少し飛んで倒れる。
「な……、レフ。なんで」
上体を起こして、思わずそう叫ぶ。
「動かないで、アルマ」
私よりも張り上げた声で、レフはそう言う。
左足が潰れている彼は、一人では立っていることもできない。けれど、倒れ込みながらでも、彼はこちらをしっかりと捉えていた
レフの手には聖剣。その刃を自らの首筋に当てている。
私を押した瞬間に抜き取ったのだろう。
「レフ、なにするつもり……?」
瞳、冷たく固い何かが宿っていた。それはまるで、最初に会った時と同じ。氷のような意思。
「アルマ、助けに来てくれてありがとう。でも、ごめん。僕はここで死ぬ。この聖剣を以って、ここで死ぬ」
「な、なんで……」
「アルマ、ごめんね。アルマが、勇者じゃなければ良かったのにね。それだったら、僕もアルマと一緒に帰ったのにね」
けれど、その氷の奥に炎が盛っている。あの日とは違う。
レフは小さく息を吐き出すと、落ち着いた声で、言った。
「アルマ、君はさっき、こう言ったね。貴方じゃ何もできない、って。じゃあ、何かできるのは誰?」
それは……。
その質問に私は視線を落として、唇を噛んだ。
「それはアルマ、君だ」
またどこか遠くで命が消えた。誰かが守りたかった命が消えた。
「そして、アルマ。君は僕じゃ何もできないって言ったけど、それは違う」
ポタリ。
地面に赤い雫が落ちた。それにふと顔を上げれば、レフの首の皮を切ったせいで聖剣に血が伝いって、鍔で雫を作り、垂れている。
「僕は、世界のために、死ねる」
落ちた雫が、地面に血だまりを作っていく。そこにまた一滴落ちて、ポタリと音を立てた。
彼の荒い呼吸音が聞こえる。それを少し落ち着けて。
「僕は、君が勇者の責務を果たすためにどれだけ悩んでいたのかも知っている。君がもう誰の命を使いたくないのも知っている。多分、他の誰よりも。……けど、ごめん」
湿気た夜風に私の金髪がさらりと撫でられた。
「僕は、君にその力を使って欲しい。その力を使って、人を救って欲しい」
「……嫌だ、出来ない。私には、やれない」
震えた小さな声で、そう返す。
私は、レフが好きだ。
他の何よりも、愛おしい。
「アルマ。……一緒に色んなものを見たね。山も、街も、海も見たし、砂漠も見た。高原に、雪原。東西南北。長いこと旅をしてこの国の色んなところに行ったけど、行けてないところもいっぱいあるんだろうね。色んなところに色んなものがあって、そして、色んな人がいた。お金持ちから貧乏人。優しい人もいたし、そうじゃない人もいた。僕は人なんて、下らないものだと思っていたけど、君と一緒に旅をして、色んなものを、人を、人の営みを見て、そうじゃないと分かった。
日々を一生懸命に過ごす人は、美しい」
そう言うが、私にとってレフはそんなものよりも大切だ。知らぬ誰かの命など、価値はなかった。
ポタリと、また一滴。赤い雫が地に落ちた。
レフの命を奪うなど、出来るわけがなかった。
「君は、僕が好きだ」
「うん、レフ。私は貴方が好きだ」
だから。だから、レフ。
貴方には死なないでほしいんだ。生きていてほしいんだ。
頬を何かがなぞって、私は自分が涙を流していることに気が付いた。
「ありがとう、アルマ。けど、ごめんね」
レフは瞳を閉じて、息を吐きながらゆっくりと開く。
そして、彼は聖剣の刃を先程よりも強く自らの首に押しやった。
「……僕がこの聖剣を以って自らの命を絶ったら、君は僕の命を無下にはできないだろう」
頭の中の血が全て下った感覚。
思考は真白に落ちて、夜の闇に身体が解けたようだった。
「貴方が……。好き……だから」
彼が自ら死を選ぶなら。
勇者となった日のことを思い出す。
今の私は、あの日の父と同じなのだろう。
私も避けられない絶望に、抗えないのか。
目の前で彼が死んでいくのを嘆いて、自らの無力に泣くのか。
「僕だって、自分の命は大切だ。……だけど、それ以上にここに生きる人たちの命のためになら、それを投げ出していいと思える」
彼の目の底、燃えている。
レフ、貴方は我儘だ。
私はこんなに生きていて欲しいのに。
この世界の何よりも、貴方が大切なのに。
レフ。だから、私は貴方が好きだ。
「ごめんね、アルマ。よろしく」
そう言った彼の手にはぐいと力が入って、自らの喉を斬り裂こうとする。
私は、彼の手を叩いて、それを止めさせた。
不意をつかれた彼からは聖剣が落ちて、地面に当たり、カランカランと音を鳴らした。
驚いた彼の顔を、私は両の手で包む。
ヒュドラに嬲られて、土に汚れ、口からは血が垂れている。
そして私は、そっと彼に口づけをした。
静寂。
一瞬か、永遠か。
彼と口づけた瞬間に時間感覚なんてどこかに失せてしまっていて、そのどちらでも同じように思えた。
驚いて硬直していたレフの体からゆっくりと力が抜けていって、そして、私の背をそっと抱き寄せてくれた。
ずっとこうしていられるのであればそれが一番よかった。けれど、彼の頬の冷たさ。そして数えきれない勢いで消えていく泡。そして、それらは、もうあまり時間がないことを私にはっきりと分からせる。彼の命も、この世界も、風前の灯火だ。
レフの口の端から流れる血は顎の方へ伝っている。私は少し唇を放すと、彼の顎先で出来た赤い雫にそっと舌先を付ける。
鉄の味。
知り切っているその味に感じたのは、懐かしさ。そして、条件反射的に私の心を落ち着かせてくれる。
それから、血の跡をなぞりあげた。口にまで辿り着くと、私は舌先を彼の中に侵入させる。そして、鉄の味に私の知らない味が混ざった。甘さと酸っぱさが混ざったそれに、私は胸が締め付けられて。
私の口の中にはもう、充分以上の血が溜まっている。それをゆっくりと、飲み込む。喉元を過ぎて、私の一部になる。
レフは、聖剣が殺すのではない。
私の、一人の人間の、アルマの、意思が殺すのだ。
上手く言えないけれど、私が彼の全てを手に入れた。私が彼の心を受け継いだ。他の誰でもない。この私が。彼と、一つになったのだ。
レフからそっと、唇を離す。小さく吐いた息の音は、彼に聞こえただろうか。
風が吹き抜けて、濡れた頬が冷たい。
私はレフから手を放して立ち上がり、黙って彼の横を通り過ぎた。
「好きだよ」
彼はそう言ってくれたが、最早意味は失くしていた。
「……遅いよ」
私は無理矢理笑顔を作って、そう言い返す。
そして、涙はその場に残して、私は王都の方へと駆け始めた。
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