灰色勇者物語
蒼い満月は、静かに。
私はベッドの上で一人、それを見ていた。
昨日、干したシーツは陽だまりと彼の匂いが混ざって柔らか。クローゼットの中には直したばかりの服、鍋の中にはまだ残っているスープ。畑には大きく実りそうな野菜があって、日が昇れば餌を欲しがる鶏たちが鳴くのだろう。
この家には、何にも代え難い生活がある、かけがえのない日常がある。
そう、思っていた。
けれどレフ、彼は私を置いて行ってしまった。
「ヒュドラを少しでも足止めしなくちゃ」
そう言って、使い慣れた弓と短刀を持って飛び出して行った。止める私の言葉は微塵も聞かないで。
分かる。分かるよ、レフ。
ヒュドラに王都が襲撃されて多くが死ねば人間は大きく衰退するし、陥落してしまったらそれこそ絶滅は目前になる。貴方が数秒稼げたら、その僅かな時間で逃げ果せる人も多いだろう。
もしかしたら、貴方のお陰で王都の陥落が防げるようになるかもしれない。
でも、だけど。
それが何なのだ。末路は絶対。いつかは、滅びる。必定の絶望を、少し未来へ押しやるだけ。私はそんなことのために、貴方を失いたくない。私は、他の何よりも貴方と過ごす毎日が大切なのだから。
三つ四つと泡が弾ける。
レフと同じように考えた誰かが、きっと戦っているのだろう。誰かを救うために、誰かがまた生を散らす。皆な、皆な身勝手だ。
また一つ、泡が。
その命は誰かが何よりも大事にしたかった命の筈なのに。何かを守るためにと言って、その命を投げ捨てる。守るために命を使うというのは、詭弁だ。嘘だ。命に貴賤はない。数さえも関係ない。命は命とさえも不等価で、代えられない。だから、命を使って命を守ることも、命に対する侮辱だ。
レフ。
貴方は身勝手だ。
私にとって他の何よりも大切なその命を、貴方は私にとってどうでもいいものの為に投げ出そうとしている。
それは、レフ。貴方の我儘だ。
目を閉じる。覚悟を決める。
だから私も、そうなろう。
我儘になろう。
所詮、人は自分の為にしか生きられない。自分の大切な何かの為にしか、生きられない。私は、私の大切なこの生活を守る為に。
深く息を吐いて、目を開けた。
ベッドから降りて、ダイニングへと。
さらりとテーブルを撫でて、月光差し込む窓辺に近付く。
そして、そこにある聖剣に触れた。
埃被ったその下に、冷たく無機質な感覚。それは、寂しげで、気高く、何人にも侵されない。
聖剣は、かつての私の覚悟そのものだった。最早崩れ去ってしまった、私の覚悟だった。
今。今もう一度。ここに私の覚悟を誓う。
手の平で埃を払う。そして、下げ緒に頭と左腕を通して、聖剣を背負い、家を出た。
夏、夜、星の瞬き。
少し冷えた風が私を包む。僅かに混ざる、血と煙の匂い。
低く浮かぶ雲は赤く色付いていて、その下の集落の様子が分かった。
前へ、倒れ込むように。
地面まで数十cmまで迫った瞬間、私は右足を上げて地面を思い切り打った。そして、その次の瞬間には左足を。そうして交互に蹴る。
その極端な前傾姿勢のまま、私は走り始めた。
命の消える感覚は続いている。
どこかの誰かが、また一人、また一人と死んでいく。
これがレフじゃありませんように。
それもレフじゃありませんように。
私はただ、そう願う。
数分走ると、十五メートルほどの幅で木々も何も薙ぎ倒された場所に出た。
それは王都の方角へ向かって、真っ直ぐに続いている。
これがヒュドラの這いずった跡なのだろう。
「……おじょ……ちゃん。助け……て、くれ……」
その声と共に、誰かが私の足首を掴んだ。
目をやれば、倒れた木々に潰された中年の男が力の入ってない手を懸命に伸ばしている。
顔にもう死相が浮かんでいる。助からない。
この男も、大切な誰かのために、ヒュドラに立ち向かったのだろう。敵わないと知っていて、それでもなお、救いたいもののために。
けれど、私はその手を払った。
「ごめんなさい。私が救いたいのは、貴方じゃないの」
そう言い残して、私はレフを探すために、また走り始めた。
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