6  拉致

 震えが止まらない。

 リューンの人間を超越した強さを見る者は、誰であれレクセリアと似たような思いを抱くはずだ。それはある種の、宗教的な法悦、奇蹟を目のあたりにした信者たちの信仰心にも似たものではないのか。


(だが……これで正しいのだろうか)


 もし、このアスヴィンの森を無事、突破することができたとしよう。

 そのとき、一体、この「リューン軍」はどれほどの精兵揃いに生まれ変わっているのだろうか。

 人ならざる魔獣と戦う恐怖は、戦場の恐怖とは異質で、そして単純な恐怖の総量でいえばとても比較にならない。むろん人は怖い。恐いが、それでも話せばわかりあえる。

 それに対し、魔獣とはわかりあうことなどできようもない。

 文字通りの怪物であり、意思疎通のできない、敵意と殺意、あるいは食欲をむきだしにした怪物どもと生存のために戦い続けていれば、その者たちの魂は鋼の如く鍛え上げられる。


(もし……無事、アスヴィンを突破できれば……)


 俗に百人力などという言葉がある。一人で百人の相手と互するなど、むろん夢物語に過ぎない。

 だが、いまのリューン軍であれば、並みの連度の兵であれば軽く三倍の敵とは渡り合えるだろう。徴用したばかりの雑兵ならば……十対一でも、おそらく通用する。

 そして、この森を生き残ったものたちは皆……当然のことながら戦闘の力ではなく、強い精神力と判断力を持つことになる。そうでないものは、魔獣の餌になるだけだ。

 つまり、戦をするときに欠かせない下士官、あるいはさらに大局をみる将軍のような存在もこなせるのではないか。

 むろんのこと、戦士としての資質、兵士としての資質と指揮官、指揮者のそれは別物である。だが、まさに生き地獄、あるいは修羅場の連続とも言うべきこの森で鍛え上げられたものがアルヴェイアにたどりつけばどうなるか。


(私は……なにをしているのだろう)


 ふとレクセリアは、眩暈のようなものにとらわれた。

 あたりでは相変わらずアルグ猿との激戦が繰り広げられている。凄まじい獣のような咆吼がわきあがり、暗い森の底を何匹ものアルグが疾駆しては兵たちに飛びかかっていく。爪と牙、そして長剣と槍とが行き交い、凄惨な死の舞踏が繰り広げられる。

 濃密な血の臭い。鉄の匂い。むせる革鎧の匂い。

 さらにはこの森が持つ特有の腐敗臭や強い苔の類の匂い。


(まるでなにか……悪夢……いえ、悪夢ではないが、なにかこの世のものとも思えぬ眺めではあるが……)


 そのとき、ようやくレクセリアは異変に気づいた。


(なんだ……なんだか、おかしい! この感じは……まるでなにかの薬でも……)


 よく見れば、うっすらと紫色の煙のようなものがあたりに立ちこめ始めている。

 一瞬、ランサールの槍乙女が放った稲妻が樹木を焦がした際の煙かとも思ったが、匂いの質が違う。もっと甘美でいながら重く、脳髄をとろかすかのような……。


「いけませぬ、姫様」


 見ると、傍らのヴィオスがローブで顔のあたりを覆っていた。


「これはアルグの巫術かなにかのようです。あるいは、麻酔か催眠か、とにかくこちらの頭の働きを鈍らせるようななにかが……」


 いつのまに、アルグたちはこんな術を使っていたのだろうか。

 戦闘は以前、おさまる様子を見せない。だが、こころなしか人間たちの動きがさきほどに比べてゆるやかになっている気がした。よくよく見れば、兵たちがアルグに斬りかかる斬撃も大ぶりになり、ずいぶんと外している。

 だが、それはアルグも同じことのようだった。いままでの俊敏な動きを欠いて、どこかよろけたような動きになっている。


(なぜ……なにを考えている? アルグどもの巫術だとすれば、誤って味方も巻き込んだというのか? それとも……)


 多少の味方の損害を出してまでも、人間たち、すなわちリューン軍の全体の判断力や注意力を低下させたいのか。

 なんのためにそんなことを?

 リューンは相変わらず戦っているようだが、いま彼がどこにいるのかいつしかレクセリアにはわからなくなっていた。さまざまな人影やアルグの影があちこちで行き交っているのはわかるのだが、誰が誰なのかわからなくなってきた。軽い酩酊から、泥酔状態に近い感覚に陥っている。


(まずい! いつのまにか、ヴィオスからもずいぶんと離れてしまっている)


 心臓の鼓動が早くなっていくのがわかるのだが、体が思うように動かない。

 恐ろしかった。もし、こんなところをアルグに捕まったら……。

 そのとき、恐ろしい想像が脳裏をかすめた。


(まさか……これが狙いだったのか?)


 アルグたちは高い知性を持つ。常に、リューンのそばにいる、他の女たちと明らかに変わった姿をもった女が「なにか特別な存在である」と判断はつくはずだ。

 つまり、あの巨大蟻を投入したのも……リューンたちを引きつけるための、一種の陽動だとしたら?

 アルグのように狡猾、という言葉が思い出される。そうだ、それほどにアルグは奸智に長けているのだ。


(すべてはリューンを引き離すための陽動……囮……そしてこのあたりにみなの思考を麻痺されるような術を使うのは……)


 偶然ではない、とレクセリアの理性は告げていた。


(初めから、彼らはすべてを計算していた! つまりこの襲撃の目的は、決してリューンを倒すことなどではない!)


 背筋に氷柱を突っ込まれたような気分になった。


(そうだ……そう考えればすべて納得がいく……なにもかもがつじつまがあう……彼らの狙いはリューンではない……あのアルグたちの、忌まわしい種族たちの真の標的は……)


 レクセリアは悲鳴をあげそうになった。


(この私こそが、アルグたちの真の標的!)


 その瞬間、レクセリアの口は毛深い手を持つ何者かにふさがれたかと思うと、そのまま担ぎ上げられた。


「!」


 悲鳴をあげようとしたが声にならない。それを理解した瞬間、恐怖の限界を超えたレクセリアの意識は慈悲深い闇に包まれた。

     


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