第14話 予期せぬ訪問者

 みかの家にいつもと同じ平和な朝がやってきた。

 学校に行き始めて二日目であるその日はみかはもう急ぎ過ぎることもなく普通に起きた。まだ鳴る前だった目覚ましを手に取り、眺めてみる。

 早すぎるということは無かったが、それでもまだ少し早めな朝の時間だ。でも、せっかく目が覚めたんだし、もう起きよう。

 みかは寝起きに少しまどろむ眼で目覚ましのスイッチに手を置き、あることに気づいた。


《スイッチが初めから切れている》


 そして、思い出した。


「コイさん!」


 そうだ。みかは昨日帰ってきてからすぐに寝てしまったのだ。昨日はとても早起きしたし、いろいろな出来事があって疲れてもいたので、みかは目覚ましをかける暇もなくあっと言う間に眠ってしまったのだった。

 玄関に置いたままほったらかしにしてしまったコイさんは今頃どうしているのだろう。夜の外はとても寒いのに。

 みかは心配になって慌ただしく階段を駆け降り、パジャマのまま外へと飛び出していった。

 ひんやりとした朝の外気が体を包み込む。みかは玄関先で立ち止まり、周囲に目を走らせた。

 昨日置いた場所にはもうコイさんはいなかった。さらにもっと注意深く辺りを見回してみる。玄関付近のどこにもいた痕跡も残っていなかった。コイさんだけでなくコイさんが入っていた水瓶すらも残っていない。


「そんな……」


 呆然とするみかの脳裏にコイと過ごした様々な光景が横切っていく。

 始めて一緒に遊んだ学校の池でのこと、けいこやゆうなと一緒になって頭をなでてやっていた時のこと、そして池が埋められコイがいなくなった時のこと……


「せっかく友達になったのに……どうして……どうして、いなくなっちゃうのお!!」


 コイが突然いなくなった。それがとても理不尽なことのように思えて、どうしようもなく悲しいことのように思えて、みかはこみあげてくる気持ちをどうしようもなく抑え切れなくなって声を限りに泣き叫んだ。

 みかの泣き声は静かな朝の街に大きく染み渡るように広がった。


「ちょっと、みかちゃん! どうしたの!?」


 驚いて飛び出して来たお母さんが、みかの肩を掴んで振り向かせた。みかはぐすぐすと泣きじゃくる。


「ほら、もう怖くないから、落ち着いて話してごらんなさい」

「えぐっえぐっ、コイさんが……いなくなっちゃったの……」


 お母さんの優しい声に、みかは泣きじゃくりながらもなんとかそれだけ答えた。


「そう、それが原因だったのね。ごめんね、みかちゃん。コイさん窮屈そうだったから、お母さんが庭に移しておいたのよ」

「え?」


 お母さんの思いがけない言葉に、みかは驚いて顔を上げた。


「ほら、せっかくのかわいい顔がだいなしよ」


 お母さんはみかの頬を流れる涙を軽くふき取ると、みかの手を取って庭へと連れていった。


「みかの大切な友達はこっちで待っているわよ」


 お母さんに手を引かれて庭へ回って見ると、確かにコイさんはそこにいた。

 みかの家の庭にはちょっとした小さな池が一つある。夏はよく水着になってけいこや両親と一緒に遊んだものだ。

 決してテレビで見る豪邸についた優雅な池のような満足のいく広さというわけでは無いけれど、コイは楽しそうにゆらゆらと泳いで回っていた。


「わーい、コイさーん! コイさーん!」


 みかはお母さんの手を振り切って池の縁へ走って行くと、そこにしゃがみこみ、はしゃぎながら水をかき回し、ちゃぷちゃぷと小さな水しぶきを跳ね上げた。

 みかの小さな手で掛けられた水しぶきがコイの上に降り注ぎ、コイは少し迷惑そうにそそくさと揺れ動く。

 みかはただただ嬉しくて無邪気にコイとたわむれる。


「みかとコイさんって本当に仲が良いのね」


 お母さんがみかの隣へやってきて、同じように水に手を入れて軽くかき回した。


「うん! みかとコイさんは友達なんだよ!」

「そう、良かったね。良い友達が出来て」

「うん! それにね! コイさんだけじゃないの! ゆうなちゃんとも友達になったんだよ!」

「そうなの。そのゆうなちゃんっていうのは鳥? それともコオロギ?」


 意地悪をするつもりは無いのだろうが、お母さんが本気でそう言っているように感じて、みかは少しむっとした。


「ゆうなちゃんは人間だよ! ちゃんとした同じクラスの女の子の友達!」

「人間……!?」


 お母さんが一瞬信じられないというように息を呑んだが、みかはそれをもう気にしないことにした。

 言っても仕方がないことというものはあるものなのだ。今はそんなことよりも大好きなコイさんの相手をしてやりたかった。


「ほーら、コイさん。ビッグウェーブだよ」


 みかは両手で水をすくい、この前テレビで見たような大きな波をイメージして、コイに思いっきり大きな水の波を送ってやった。

 コイはみかの起こした大津波にも負けず元気に泳ぎ続ける。

 みかは嬉しくなってそのまま大好きなコイさんと遊び続けた。


「みかちゃん、遊ぶのも良いけどちゃんと学校に遅れないように準備するのよ」

「はあい」


 しばらくの時間が過ぎてからお母さんが立ち上がり、みかに一言注意をしてから家の中へと戻っていった。

 みかは一人になってもまだ、コイと夢中で遊び続けていた。

 家に入ったお母さんはみかが学校に持っていく物を用意し、自分も会社へ行く準備をする。

 時間になればけいこがやってきて、みかをちゃんと学校へ連れていくだろう。その点では二人のことを信頼しているみかの母だった。


 ピンポーーーン!


 そして、予想通り彼女はやってきた。


「はあい!」


 みかはまだコイと遊ぶのに夢中でチャイムの音に気がついていないようだ。みかのお母さんは玄関先へとけいこを迎えに出た。


「おはよう、けいこちゃん。今日は早かっ……」


 彼女にしては少し早い時間とも思ったが、みかのお母さんは少しの警戒もすることなく玄関のドアを開けてしまった。

 そして、あっけにとられて口を開けてしまった。


「だ、だ、だ、誰!?」


 ろれつの回らない口調でなんとかそれだけを言う。

 それほどに目の前に立つ人物は意外な人だったのだ。

 ……と言うか全く知らない子だった。

 ついつい興味深くしげしげと観察をしてしまう。

 髪の長いどこか人形っぽさをイメージさせる物静かな少女。自分と目を合わせようともせず、ただ正面を見つめじっと立っている。

 けいこでは無い、その母でも無い、集金やセールスマンでも無ければ、誰なんだろう。

 みかの母がめまぐるしい考えに没頭していると、その少女は何事も無かったかのようにきびすを返した。ただ黙って立ち去ろうとする。


「ちょ、ちょっと待って!」


 人形か何かのように無感情に去ろうとする彼女の前に、みかの母は慌てて回りこんだ。息を弾ませるみかの母を、少女は息一つ乱すことなく見上げてくる。

 目線が合ってみかの母は一瞬どきりと息を呑んだ。


「え、えーと……」


 突然の予期せぬ訪問者を前に、起きたばかりのみかの母の脳はどうもうまく働かない。その頭に突然の雷光のように一つの名詞が思い浮かび、みかの母は思わず指を一つ立ててにっこりした。


「そうだ! あなた、ゆうなちゃん! ゆうなちゃんでしょ!」


 目をきらきらと輝かせるみかの母の前で、ゆうなは物おじすることなくただ黙ってうなずいた。


「やっぱり! さあ、あがって! すぐにみかを呼んでくるから!」


 みかの友達と分かれば話は早い。みかの母は急いで彼女の手を取ると家の中へと引っ張りこんだ。

 この家に新しい友達が入ってくるなんて何年ぶりだろう。

 みかの母は精一杯のおもてなしを彼女にしてあげるつもりだった。




 だが、その意志に反し朝の自由になる時間というのは物凄く短いものだ。

 みかの母はゆうなを茶の間のこたつの前に座らせると急いでみかを呼びに行った。


「みかちゃん! ゆうなちゃんよ! ゆうなちゃんが遊びに来たわよ!」


 みかはまだ池でコイと遊んでいたが、お母さんの声を聞くとぱっと立ち上がった。


「え!? ゆうなちゃんが来たの!? なんで……まあいいや、分かった、すぐ行く!」

「がんばるのよ、みか!」

「うん!」


 何を頑張るのかはよく分からなかったけど、がんばれと言われれば元気に答えるみかだった。




 みかが家の中に入っていくと、ゆうなはこたつの前にちょこんと座ってテレビを見ていた。

 何を熱心に見ているんだろうと思って目を向けてみると、テレビに映っていたのはみかがいつも見ている子供向けアニメの再放送だった。

 かっこいい正義のロボットがおなかから必殺のミサイルを出して敵の空爆ロボをやっつけていく。


「ゆうなちゃんも好きなんだ、そのアニメ」

「付いてたから」


 どうやら好きで見ていたわけでもないらしい。みかが声をかけるとゆうなはいつもの感情を表に出さない顔で目を向けた。


「コイさんが気になったの」

「あ、そうなんだ」


 座ったまま言葉をかけてくるゆうなに、みかは言葉のキャッチボールを返す。

 短いやりとりではあるが、ゆうなが積極的に行動してくるなんて思いもしなかったことだ。それほどコイさんのことが気になるんだろうか。他人のことは言えないけど。


「コイさんね、家の池に放したの。こっちにいるよ」


 少し見たアニメの続きが気になりはしたが、みかはゆうなを庭の池に案内してあげることにした。

 みかが先に立って歩いていくと、ゆうなはおとなしく後をついてきた。二人して玄関を出て庭へとまわる。


「ほーら、コイさんでーす」


 みかは池の前に立ち、旅行のガイドさんよろしくゆうなに足元で泳いでいるコイさんを紹介した。

 ゆうなが近づいてきて池の縁から立ったままコイに視線を投げ降ろす。そのまま一秒、二秒……


「ほら、ゆうなちゃんもコイさんなでてやってよ。コイさん喜ぶよー」


 みかがしゃがみこんでそう広くもない池でちょうど近くを泳いでいたコイさんの背中に手を伸ばしてさすってやると、ゆうなもそっとしゃがんで手を伸ばしてきた。

 その手がコイの頭に当たり、みかの手と並ぶ。


「気持ちいいよねー」

「ぬるぬるする」

「すべすべもするよねー」

「冷たい」


 どこかちぐはぐな感じもする言葉のやりとり。でも、それが今のみかにとってはとても楽しくて幸せなことに思えるのだった。

 みかの母はそんな二人の様子を縁側の廊下から微笑ましく眺めていた。新しい友達に自分も何かしてあげたい気持ちはやまやまだったが、楽しそうな二人の様子を見ていると、子供達のことは子供達にまかせようと思う気持ちになるのだった。


 ピンポーン!


 それからやがて聞き覚えのあるこの朝二つ目のチャイムの音が平和に和む平口家に鳴り響いた。

 みかはゆうなやコイさんと遊ぶのに夢中で今度もチャイムの音には気づいていないようだ。


「はあい!」


 今度は誰が来たのだろう。

 みかの母は今度は何が来ても驚かないように気持ちをよく引き締めて玄関の扉を開きに行った。そっと扉に手を触れ、慎重に覚悟を決めて開いていく。


「ごめんなさい、おばさん。遅れちゃって。みかちゃんいますか?」


 するとそこに立っていたのは今度こそ見慣れた姿であるけいこちゃんだった。走ってきたのかほんの少しばかり息を切らせて立っている。朝の涼しい空気に白い煙が上がっては消えていく。

 みかの母はほんの少しばかり拍子抜けの気分を味わってがっかりした。


「なんだ、けいこちゃんか」


 ついそんな言葉が口をついて出る。その不遜な響きをけいこの耳は聞き逃さなかった。


「なんだってなんなんですか。ひどいなあ」


 少しばかりへそを曲げたように言う。みかの母は慌てて表情を取り繕いフォローに回った。


「違うのよ、けいこちゃん。さっきね、珍しい子が来たから。ゆうなちゃんっていってみかの友達なんだけど、けいこちゃんも知ってるわよね?」

「うん…………なんで?」

「なんでって言われるとなんでなんだけど、今庭の方にいるから行ってあげて」

「はい」


 けいこは半分気が抜けたようなおぼつかない声で返事をすると、庭の方へと歩いて行った。

 その後ろ姿を見送りながらみかの母は思いをはせる。今日はどうも朝からいろんなことがあって頭がこんがらがっている。少し落ち着いて考えてみようと。




 けいこがみかの母に言われた通りに庭の方へと歩いていくと、仲の良い姉妹のように池の縁で遊んでいるみかとゆうなの姿が見えた。

 いつもはわたしがああやってみかちゃんと遊んでやっているのに、なんだってゆうなちゃんが来ているのだろう。

 けいこは不思議に思いながら黙ってみかとゆうなの背後から近寄っていった。驚かせてやろうと思っていたわけではない。ただなんとなく声をかけにくい雰囲気だったのだ。


「みかちゃん、ゆうなちゃん、なにやってるの?」


 十分近づいたところで二人の肩越しに声をかける。


「うわ! わわ! けいこちゃ、ん!?」


 驚いたみかは慌てて振り返り、立ち上がり、後ろにバランスを崩して……


「みかちゃん危ない!!」


 けいこは急いで手を伸ばして、なんとかみかの手を取ることに成功。池に倒れかけたみかの体を勢いよく引っ張り戻した。


「けいこちゃん、ありがとう」


 助けてくれた礼を言うみか。そんな二人の様子に、ゆうなは今気づいたかのように黙って振り返り、すぐにまた池に視線を戻した。

 彼女達らしいといえば彼女達らしい。けいこはそんな二人の様子を見比べながら安堵とあきれの混じったため息を吐いた。


「ありがとうじゃないよ。何やってるの?」

「うん、コイさんと遊んでるの」

「コイさん?」


 みかの言葉に怪訝な表情を浮かべて、けいこはみかの横からそっと池を覗いて見た。

 コイが泳いでいる。気持ちよさそうにくるくると回っている。少し狭そうでもある。口をパクパクさせている。ひれをパタパタ動かしている。

 ひとしきりコイの様子を観察すると、けいこは視線をみかの方に戻した。


「なんでコイさんがここにいるの?」


 不思議なことである。まさかみかのお母さんやお父さんが飼ってもいいなんて言ってくれるとも思えないけど。

 しかし、みかの答えはそのまさかであった。さも当然とばかりにみじんの迷いもなく首を縦に振る。


「うん、お母さんが飼ってもいいって言ってくれたから」

「え? ほんとに?」


 信じられないことだと思った。でも、みかのお母さんの性格を思い返してみると、あながち不思議でもないような気もする。なんと言っても今目の前にいる『みかの』お母さんなのだ。

 物思いにふけるけいこの前でみかはもう一度首を縦に振った。


「うん、ほんと」

「へえ~、良かったね。で、ゆうなちゃんはなんでここに?」


 不思議なことはもう一つ。昨日の彼女の行動を思えばあまり積極的な子には見えないんだけど……

 話をするけいことみかのことにも目もくれず、黙ってコイの観察にふけっている彼女の様子を見て改めてそう思う。


「コイさんのことが気になったんだって」


 黙って座りこんで池のコイを見つめているゆうなの代わりに、今度もみかが口を出してきた。


「ふーん」


 こんなに朝早くから来るなんてこの子も動物が好きな子なんだろうか。昔はみかもよく人のことを無視して動物と遊びに走っていったものだけど……今もそうだけど。

 昨日知り合ったばかりなのに、みかとゆうなは奇妙なところでよく似ている。なんとなくそう思うと、けいこは何故か少し寂しい気持ちになるのだった。


「みんな、早く学校へ行かないと遅刻するわよ」


 そうしてしばらく話をしていたところで、みかのお母さんが声をかけてきた。

 コイとまだ遊びたがっていそうなみかの代わりに、けいこが縁側から部屋をのぞいて時計を確認する。もう結構な時間である。


「大変、急がなくちゃ」


 そうして、彼女達は急いで学校へ行くことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る