なまえぎらい

環槙一

 なまえぎらい

 開け放した窓から穏やかな風が教室へと入り込み、机を挟んで真向かいに座った鶯の髪を優しく揺らした。絹糸のように滑らかで細い髪が夕日に当たって薄く茶色に輝いている。

「ねえ朝顔。ちゃんと聞いてる?」

「聞いてるよ。大丈夫」見とれていたことを悟られぬよう、私はわざと大きく頷く

「ほんとかなあ……」

 彼女は訝しんで身体を前に乗り出し、くりくりとした目を近づけて私を見つめる。鶯の美しい顔が間近にあることに私の心臓は大きく大きく鼓動を繰り返す。聴こえないかと心配になるほどに。

「ま、いっか」

鶯は身を引いて再び話し始めた。私はホッとする半面、まだ見ていたい気持ちもあり少しだけ残念だった。

 鶯の話はいつだってキラキラと輝いている。服に化粧に髪形。血液型と星座の占い。アイドルに好きだった隣のクラスの男子や気になるタイプの人のこと。

 だから私と違ってこれから先の新生活の話もキラキラしている。

「鶯は明日?」

「うん。向こうでの一人暮らしにも慣れないと駄目だ、ってお父さんが。冷蔵庫とか買わないとダメみたいだし」

「東京、だものね」

「卒業旅行、二人で行くの楽しみにしてたのに。ホントにごめん」

「いいのよ。私も行けるかわからなかったもの。それにお父さんの言う通り、一人暮らしに少しでも慣れてた方がきっと楽よ」

 でも、もう少し遅いと思ってた。と危うく口から出そうになるのを私はなんとかして飲み込んだ。

言ってしまうと鶯は何でもないふりをして、後で気にしてしまうはずだ。根の明るさと喋り方から誤解を受けてしまいがちだけれど、彼女の神経は細やかで、感受性もずっと豊かだ。

「そういう朝顔は?」

「私はギリギリまでいるわ。県内だもの」

 だから家電だって鶯のように買ったりせずに親戚から譲り受けたものを父の車で片道二時間かけて運ぶ。

 東京までは飛行機で二時間。私が行くところも二時間。同じ時間しか掛からないというのに、距離にすると随分と遠い。夜が終われば私たちはバラバラになってしまう。

「向こうに行ったらバイトとかするかなあ」

「まずは学校に慣れることよ。アルバイトはその後からでも困らないのでしょう」

「うん。……友達、できるといいね。お互い」

「できるわよ。鶯なら」

「そっかなー」

「そうよ」

 私はきっぱりと言い切り、首を強く縦に振った。机に向かっているのが取り得のような私なんかとも仲良くしてくれた鶯だ。きっと誰も放っておかない。

 鶯にはこれから多くの友人ができる。

「ありがと。でもいいなあ。県内だったら困った時も――」

 言葉が途切れて、鶯の目が大きく見開かれた。

 どうしたの、と問いかけようとしたところに強い風が吹き入ってきた。風が当たった頬が何だか冷たくて指で拭うと、私の指は水に濡れていた。

 泣いていたのだ。私は。

「もう、仕方がないな。朝顔は」

 そう言うと鶯は上着のポケットからフェイスタオルを取り出して私の頬に当ててくれる。なんとか止めようと思うのに、フェイスタオルがやたらと柔らかくて、その感触がどうしようもなく優しくて、涙が余計に溢れて、沸き上がってくる嗚咽も止められなかった。

 今日、ここを出れば終わってしまう。

 放課後に鶯と机を挟んで向かい合う、二人だけの小さな世界。他愛のない会話をして笑い合うだけの何でもない日常。

 同じセーラー服を着て一緒に登校したり、お弁当の中身を交換することもなくなってしまう。彼女の声を耳にすることも、大人が僅かに滲んだ横顔を眺めることも。帰り際に寄り道をしてすっかり日が暮れて。帰ってからも携帯電話で夜更けまで話しこんで、次の日に二人揃ってあくびをして。それが面白くてまた笑って……。

 そんな日々が終わってしまう。

「寂しい」

鶯と離れ離れになるとわかってから、ずっと我慢していた言葉がぽつりと口から洩れていた。涙のせいで鶯がどんな顔をしているのかわからないけれど、きっと瞼の縁に涙を溜めて困った顔をしているはずだ。そういう顔をさせたくなくて我慢していたというのに。

ごめん、と口を開こうとしたらそれよりも早くふわりと漂ういい匂いが鼻孔をくすぐった。目の前が真っ暗になって、ちょっとごわついた肌触り。目を凝らせばそれは黒ではなくて濃紺で。私たちのセーラー服の色。

 私は鶯のちょうどお腹のところにすっぽりと抱きしめられていた。鶯が机に乗っかっていないとできない体勢だ。

「ばかだなあ、朝顔は」

 名前通りの綺麗な声が微かに震えている。けれど決して哀しそうではなくて、優しく慰める声だった。

「離れたら友達じゃなくなるって思ってるんでしょ」

「……どうして?」

「わかるよ、それくらい。朝顔の考えてることなら何でもわかる。でもね、今どき携帯だってパソコンだってあるんだよ? いくらだって連絡できるし、繋がっていられるよ」

「けど、遠い」

 あまりにも鶯の声が優しくて、私はまた言わなくてもいいことを呟く。

「旅行に来ればいいよ。朝顔が来るときにはすっごく詳しくなってるから。ほら、修学旅行の続きみたいな感じでさ」

 修学旅行は東京だった。明日から鶯が住む東京。

あの時、二人で一緒に自由時間を過ごして買ったお揃いのストラップは今も鞄についている、ご当地限定のキティちゃん。

「私だって夏休みとかには帰ってくるし。ああ、そうだ。帰ってきたらまた買い物に行こ。朝顔の服、選んであげる」

 一年生の時、二人で初めて買い物に行った日のことが浮かぶ。

「どれだけ離れても、どれだけ向こうで友達ができても私は朝顔の友達だよ。朝顔が私の友達でいてくれる限り。そうでしょ?」

「……ありがとう」

 私は泣きながら、言った。


 ――でもね、鶯。

 彼女に抱かれて、私は思う。

 ――泣いているのは、友達じゃなくなるからじゃないの。

 自分の気持ちを伝えようとは思っていない。言ってしまえば私は幾分か楽になるだろうけれど、それだけ鶯が苦しむのがわかっていたから。三年間、間近で彼女を見てきたからこそ、私は言わない事を選んだ。


 ――私は自分の名前が嫌いだ。

 ――朝顔の花言葉は『はかない恋』だから。


                           了

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