おむつ姫
素以エチカ
第1話
自分の行いがどういう結果をもたらすか、少しは考えろ。ノリと勢いと煩悩だけで生きてるバカどもが。世の中にはどうしようもなく取り返しのつかないことっていうのがあって、それがまさにこの状況なのだといい加減学べばいい。
教室の黒板の前で、
本当はここにいる誰もが知っていたはずなのだ。
「おむつ姫……」
この期に及んでまだバカな男子の一人がニヤけ顔でつぶやいて、私はぎょっとする。
季節は春の終わり。早とちりして鳴き始めたセミがその声を滲ませ、教室の気まずさを強引に溶かした。
「わたしは病気、です」
学年初めのホームルームで聞いたその自己紹介が、私の聞いたなかで沙姫の一番大きな声だ。なんの病気かについての話はなかったが、沙姫と同じ小学校だった人たちからすぐに噂が広まる。
緊張すると失禁する病気。だから小さい頃からずっとおむつを履いているらしい。
私はそんなことにはあまり興味なくて、へぇー、そんな病気があるのかと思うだけ。それよりも私は沙姫の整ったオーラというか、指で梳きたくなるような黒髪とか毎日きれいにアイロンがけされたスカートのプリーツとかが単純に好きで、いつの間にかずっと目で追うようになっていた。
だけどクラスの人たちの多くは違った。特にバカな男子は面白半分に沙姫のことをからかうようになって、その時の男子の奇異なだけじゃないエロい目線が本当に気持ち悪くて嫌だ。沙姫のおしっこなら飲めるとか言うアホもいたけど、沙姫だってそんな奴相手に飲まれたくなんてないだろう。そしてそうやってからかいの対象になるたびに、沙姫は顔を火照らせてうずくまり、小さく震えた。小学生の頃は女子からもいじめのようなものがあったらしいけど、生理が始まる子が出てくるとそういうことでからかいにくくなったのか、自然となくなったというのがせめてもの救いだ。
だけど問題は今。
「あんた、やめさせてや。ああやってからかうの」
「はあ? なんで俺なんじゃ」
「あんたクラスのリーダー? みたいな感じやんか。それに友達も多そうやし」
「んなことないって」
放課後、呼び出した非常階段の踊り場で、私は久しぶりに草介と話す。
謙遜する草介の横顔は昔よりも大人びて見えて、なんだか別人みたいだ。中学に入ってから急に身体も大きくなった気がする。成績は相変わらずダメダメみたいだけど、それでもクラスのバカどもと違って落ち着いていて、頼れる存在だ。実際、沙姫がからかわれているときにもさりげなく話題を別の方向にずらしてフォローしているのを、私は知っている。それなのに、なぜか今の草介は目を合わせてくれない。
「沙姫に対して冷たない?」
「いや別にそんなつもりやないけど……」
「じゃあ助けてあげようとか思わんの? あんたにはそれができるんやで?」
草介のつっけんどんな態度に、つい意地悪な煽り文句を継いでしまう。すると草介はしばらくの間押し黙り、そこでやっと私の顔をじっと見る。
「なんであいつのことそんな気にすんのや? おまえ、あいつとそんな喋ったこともないやろが」
「そうやけど。でも、あんなとこもう見たくないし」
「おまえ、あいつのこと嫌いなんちゃうんけ? さっきもそうやけど、いつもおまえあいつのこと見るとき、ぶすっとしてるで」
「え?」
慌てて自分の頬に触れて、さっき自分がどんな顔してたか思い出そうとするけど、よくわからない。嫌な気分だったのは確かだけど、そんなふうに思われていたなんて知らなかった。
「ちゃうよ! 私がムカついてるんはアホすぎる男子らやし、そもそもそんな喋ったこともないのに嫌いになんかならんわ」
「確かにせやなあ。アホの男っていうと、あいつか。山崎」
吐き捨てるように、草介はその名を挙げた。
そういえば、さっきみんなが見ている前で沙姫のスカートをめくったのが山崎だった。その後もずっと下品にはしゃいでいて、本当に救いようのないバカだ。
「あれは論外。私はああやって病気やからって腫れ物に触れるみたいな周囲の空気とか、男子のエロい目つきとか、そういうんも全部気持ち悪いだけ。……やからあんたに、どうにかしてほしいんや」
「ちょい待てや。なんでそんな話になるんじゃ。せやったら俺やなくてもいいやろが」
思った以上に草介の態度が煮え切らなくてもどかしい。どうしてすぐに頷いてくれないのだろう。問題の外側にいるみたいな態度が、なんだかいつもの草介らしくない。
そこで私は気付いてしまう。
「あんたかて沙姫のこといやらしい目で見てるやんか……」
「はあ? なんじゃそりゃ」
「私にはわかるもん。あんた、沙姫のこと好きなんやろ?」
「ちょっとおまえ、さっきから何勝手なことばっか言ってるんじゃ」
ムキになる草介を見て、やっぱりそうなんだと思う。絶対そう、きっとそう。信じたくないからこそ、自分を納得させようとする言葉が頭のなかを埋め尽くしてゆく。
「答えてや。好きなんやろ?」
「ほざくなや。おまえが何に対してキレてんのか全然わからんけど、おまえひょっとしてあいつに嫉妬してるんちゃうけ?」
「は……?」
階段に座っていた草介が立ち上がり、階段を降りていく。呆れたようなため息とともに、スラックスの埃を払っている。しぐさのひとつひとつが目につくのに、それがうまく意味と結びつかない。何も言えない私に背を向けて、階下で立ち止まった草介が言う。
「おまえやから言うけど……誰にも言うなよ? 確かに俺は沙姫のことが好きや。本気で大事にしたいと思ってる。せやからこそ慎重にいきたいんや」
冗談かと思う。そんなことを真顔で言える奴、そうそういるもんじゃない。そんな草介の目を見れば見るほど可笑しくて、
「なにそれ……」
笑ったつもりで、声が震えた。
失敗した。聞かなければよかった。こんなこと頼まなければよかった。草介の言うとおり、草介じゃなくてもよかったはずだ。でも、今更どうにもならない。後悔が諦念に変わり、頭の片隅で自分の歯止めが効かないことをかすかに自覚した。
「アホか。そんなこと言うて結局あんたは沙姫が傷つくのを放ったらかしにしてるだけやんか!」
「おまえには関係ないやろ」
半ば叫ぶような私の言葉とは裏腹に、溜息みたいに言い捨てる草介の態度があまりに落ち着き払っていて本当にムカつく。
「やめときなね! あんな子! あんたは卑怯やとか思わんの!?」
下腹部をうずまくどろどろした気持ちがあふれる。こういう感情のことを何と呼ぶのか、知っている気がするけど今はよく判らない。
「私はな、あの子がなんでもかんでもされるがままで弱いもんみたいな顔しくさってんのが耐えられへんの!」
草介はその背中で聞いている。息巻く私の声が落ち着くのを待ってから、これまでに聞いたこともないような低い声で「おまえ、最低やな」と呟き去っていく。
私はひとり、急に冷え込む初夏の夕暮れに取り残されて、崩れ落ちるように膝をつく。
自分の行いがどういう結果をもたらすか考えないバカは私だ。なんでも思ったことをただ言えばいいというものではないし、それに本当に言わなきゃいけないことを言うってことも同じくらい大事なことなのに。
私が沙姫のことが好きだってことも確かに本当なはずだ。
それからしばらくして私はバカの山崎が沙姫の替えのおむつを盗もうとしているところを捕まえて、誰にも気付かれないように先生に引き渡す。「教室で失禁させたかった」と笑う山崎を私は本気で殴る。二度と立ち直れないくらいに、何度も殴る。ついでに私もこっぴどく叱られたけど、そんなことは別にいい。
「ありがとう」
職員室から廊下に出ると、小さく細い声で沙姫が言う。控えめだけど丁寧なお辞儀で、その長い髪がまっすぐ下に垂れる。はっとするくらいに純粋で、誰もが目を凝らすほどの透明。私はやっぱりこの子のことが好きだし、好きでよかった。私はその前髪を指でかき分け、
「あんたと私、友達にならへん?」
だけど沙姫は顔を上げないままだ。
「あかんよ。私、おむつ履いてるんやで? 変な子やと思わんの?」
「そんなんどうでもいいわ。私は沙姫のことが本当に可愛いと思うし、友達になりたい。いっしょに帰って寄り道とかしたい」
それだけで、縋るような目が私に向けられる。ぽろぽろと涙がこぼれて、
「うれしい……!」
私はその細い腰を抱きしめる。これで少しは周囲の沙姫の見る目も変わって、いじめやからかいがなくなればいい。
それでもやっぱり、こんなふうに泣く子がいるなんて信じたくなかった。スカートをめくられるなんていう決定的な出来事のせいで沙姫はあまりにも可哀想な子になってしまったし、そのことが彼女の綺麗さをいっそう引き立てているのだと、私はようやくわかる。
ひどいことになればなるほど綺麗になる沙姫が、私は憎い。だからこそ私は精一杯の思いを込めて沙姫が幸せになることを祈る。もう二度と誰にも沙姫をおむつ姫だなんて呼ばせたりしない。
草介はあれから私とは口をきいてくれないけれど、それでも、教室に汚い水たまりができなくて、本当に良かった。
おむつ姫 素以エチカ @motoietchika
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