第7話
「私さー、結構頑張ってると思わない?」
「もちろんです。頑張りすぎなくらいです」
「そうでしょー? 私本当にね、頑張ってるんだよー」
これはやられた。いや、良い意味でだ。
ほんの一時間前までは、いつも通りのしっかりとした先輩がいて、最近はどうとか、困ってる事ないとか、職場で見る先輩と違わぬものだった。
しかし、酒が進む度に順調に先輩は崩れていった。杯数はそれほどでもないあたり、そこまで酒には強くないようだった。徐々に俺への親身な言葉は、自分自身の弱音へと変わっていった。
「あんまり会社の人には見せないようにはしてるんだけどさー」
そう言って、先輩は自分の中に抱えてるものを吐き出し始めた。
驚きもあったが、そんな自分をさらけ出してくれている事が嬉しかった。少なくとも、俺はそこまで言ってもいいんだという信用はあるという事だ。
「仕事はさ、好きだし楽しいよ。やりがいもある。だから頑張るよ、多少無理したって。舐められたくないって気持ちも強かったし。でもそう思ってバリバリやってたら、気付いたらこの歳。周りはどんどん結婚していくしさ。やっぱりちょっと考えちゃうんだよね。私はこのまま突き進んでいいのかって」
俺だけではない。周りも皆口にははっきりと出さないが、先輩は仕事に生きるんだと思っている所がある。本人の意思を確認した事はない。でも結局勝手な想像だ。先輩だって一人の女性なんだ。女性としての悩みだって当たり前のように抱えてるんだ。
先輩を頼ってばかりの自分を情けなく思った。助けられてばかりで、先輩の負担やら抱えているものを何一つ取り払える事も出来ていない。
先輩のあまりにも正直な気持ちに、俺はうまく言葉を出せなかった。
「女としての幸せって、なんなんだろうね」
幸せ。なんだろう。人が歩くレールの先。男性も女性も、一つの大きなポイントとして結婚というものは存在している。まるで幸せの象徴のように鎮座している。
今でこそ、女性が社会で活躍する事は素晴らしい事として認められている。でも一昔前まではそうじゃなかったし、今だって結婚を幸せのものさしにする人間は多い。
それだけじゃない。こんなに頑張ってる先輩は素敵だし、仕事を好きだと言って打ち込める姿を不幸だなんて絶対に思わないし、周りにも言わせない。言わせてはならない。
「俺はよく分からないですけど」
「ん?」
「結婚イコール幸せって思って、そこをゴールにして人生を浪費するような人より、先輩は素敵で輝いてると思います」
正直な気持ちだった。結婚をはき違えているような人もいる。夫を生活費の製造機のようにしか見ず、生きる努力を放棄するような人だっている。互いに支えるなんてものより程遠い時間を歩んでいるような人達を幸せだと言うのなら、この国はもう終わりだ。
酔っている先輩に、俺の言葉は明日以降も残っているだろうかは不安だ。
でも先輩はとろんとした目を俺に向けて、薄ら微笑んだ。
「やっぱり優しいね、みなと君は」
やっぱりの意味が分からなかったが、少しでも先輩の心がほぐれたのなら俺はとりあえずそれでいいと思った。
その後しばらくして俺と先輩は店を後にした。先輩の酔いが心配だったが、意外にしっかりとした足取りで歩く姿を見て安心した。
「ごめんね、つまらない愚痴聞かせちゃって」
「そんな事ないですよ。いつも助けてもらってる側なんで、少しでも先輩の助けになったのなら十分です」
「そんなに優しいのに彼女いないだなんて、優しさの持ち腐れだよ」
俺は少し悲しくなる。優しいのは誰にでもというわけではない。先輩だからこそこの優しさを向けてるのに。でもこんな程度じゃ、俺の気持ちは伝わらないだろう。優しさなんて、ステータスとしてはたかが知れていて武器にもならない。
「それに、みなと君には結構助けてもらってるよ」
「そんな事ないですって」
そう言うと、先輩はちょっとだけ悲しい顔をして見せた。
「私ね、指示は出せても、あんまり人に頼みごとするの得意じゃないの」
「そうなんですか?」
「指示は会社としてやらなきゃいけない事だけど、頼みごとは私個人のお願いだもの。それで誰かの負担を増やすなんて、どうしても気が進まなくてね。だから遅くまで残る事も多くて」
優しいだなんて言ってくれたが、先輩の優しさに比べたら俺のなんて知れている。
「でもね、みなと君には、何度かそういうお願いを聞いてもらった事があるの」
「え」
「憶えてないか。まあちゃんと憶えててなんていうのも押し付けがましくておかしな話なんだけどね。みなと君に仕事の相談をされた時に、その時に君が言ってくれんだ。こんな奴にでも出来る事があったら、遠慮なく言って下さいって」
「そんなの、俺以外の奴だって――」
「言ってくれる人はいるよ。でも、なんていうか……分かるの。そのほとんどが、上っ面のお世辞なの。実際に頼んだら、顔は笑顔でも心では面倒くさい事押し付けるなって顔するのが分かるの」
「そんな事ないと思いますけど……」
「私案外そういう部分ネガティブなんだよね。でもね、みなと君は本当に真っ直ぐそう言ってくれてるんだなって感じたの。私、素直に嬉しかったの。だから御言葉に甘えちゃった」
確かに何度か声を掛けられ、先輩の仕事を手伝った事はある。嬉しくは思ったが、仕事上の事で、俺以外の人にも当たり前に言っている事だと思っていた。
「だからね、結構感謝してるんだよ」
先輩はそう言って優しく微笑んだ。
「きっと付き合ったら、甘えちゃうんだろうな」
どきりとした。心が一瞬で跳ね上がって、鼓動がおかしくなりそうだった。
先輩の視線と言葉に耐え切れなくて、照れくさくて、俺は思わず顔を逸らしてしまった。
「先輩、ちょっと飲み過ぎなんじゃないですか」
そう言ってごまかすのが精一杯だった。
「私、酔ってないよ」
先程までのとろみを帯びた声ではなく、しっかりとした声だった。
俺は驚いて、先輩の方に視線を向けた。
「また、ご飯行こうね」
先輩は笑顔で手を振り、歩いて行った。
茫然とする俺はその場で立ち尽くした。
“私、酔ってないよ”
そう言った時の先輩の表情は、真剣そのものだった。
あの顔と言葉に、俺は絶対に見逃してはいけない意味があるように思えてならなかった。
――俺、まさか……。
信じられない、でもこれは。
推測を抱えたまま、俺は歩き始めた。
とりあえず、ベタ子に報告だ。
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