ラウンジの窓辺から

乃上 よしお ( 野上 芳夫 )

第24話 永遠のバレンタイン

 ——ある司祭と永遠の愛を誓った二人の物語


 戦地からローマに戻ってきたアポロは、疲れ果てて市内の中央にある泉の縁石に腰を下ろしていた。

 冷たい水に腫れあがった腕をつけると、あまりの気持ち良さに、つい彼は唸り声をもらしてしまう。


「あぁ、やっぱり故郷はイイなぁ......」


 彼が顔を上げると、太陽を背にして、ひとりの乙女が彼の傍らにいることに気がついた。

 彼女は栗色の長い髪を丁寧に編んでいて、生真面目な性格の娘に違いなかった。白い麻のドレスが天使の衣のように風にたなびいている。


 ——オレは幻を見ているんだろうか?こんなに美しい女神がそばにいるなんて......やっぱりオレは敵にヤラレちまって、お迎えが来たんだろうか?


 いや、それはシンシアという、いつもは目立たないが、幸福な家庭をつくることを夢見て毎日を過ごしている、純真な女性だった。

 彼女はアポロの視線を浴びた時に、全身が熱くなるのを感じていた。

 それは恥ずかしいという感情と、もっと見つめていて欲しいという矛盾する女心が相克して、彼女の中で発熱しているのだった。


「あなたは女神ですか?

 いや、そうに違いない。」


 アポロの問いかけに、シンシアは胸のあたりまでピンク色に染めながら、恥ずかしそうに微笑んでいるだけだった。


「あの、お名前だけでも教えてください....」


 アポロは、そう言うのが精一杯だった。

 戦地から帰ったばかりの彼は、きっと自分は女性の扱いを忘れているので、彼女を怒らせてしまうだろうと、恐れていたのだ。


「シンシア......」


 彼女は自分の名だけを告げると、何処かに走っていってしまった。



 それから数日後、ついにアポロは次の出陣までの仮の住処を探し当てた。

 そこは民家の地下を宿として貸している簡易アパートで、アポロの戦地での報酬で借りることができるちょうど手頃な物件だった。


 その自分の部屋に入るやいなや、すぐにアポロは眠り込んでしまった。

 ......彼は夢の中でまだ戦っていた。

 自分が切り刻まれてしまう恐怖を抱きながら、必死に逃げていた。

 だが脚が思うように動かない。


 ——もうダメだ......


 彼はそう言って地面に倒れこんだ。

 すると、彼の頭の上から光が差した。

 そして、白く柔らかそうな手が、彼のほうに差し伸べられているのを見た。その顔は間違いなく、あの、彼女だった......


 よほど疲れていたのだろう。彼は次の日の昼近くになって、やっと目が覚めた。

 ちょうど家主が彼を心配してやって来て、部屋のドアをノックするところだった。


「アポロさん、もう昼ですよ。

 大丈夫ですか?

 よかったら上の階に来て、一緒にランチでも食べませんか?」


 アポロの腹が鳴った。昨日から何も食べていないのだ。

 彼は手早く身支度を整えると、一階へと向かった。


 彼がドアをノックした後に、部屋の中から気の良さそうな家主が顔を覗かせた。


「さあ、どうぞ。」


 家主は、アポロが荒くれ者でないことを既に確認していた。

 できるなら、彼から武勇伝を聞いてみたいとも思っていた。


 テーブルの前には彼の妻、弟、そして娘がすでに座っている。


「あっ、あなたはあの時の......」

 その娘は、あの泉のほとりで出会った、シンシアだった。


 うつむき加減で食卓を見つめていたが、彼女はゆっくりと顔を上げて、アポロを見た。


 ——⭐️✨——


 真っ直ぐに自分を見つめるシンシアの瞳の中に、アポロは永遠の愛の輝きを確かに見た。

 それと同時に、シンシアはアポロの瞳の中に、優しさと幸福が自分をしっかりと受け止めようとしているのを感じた。

 この瞬間に、二人だけの愛のメロディーが流れ始めたのだ。


 ——このまま、あなたの中に、私自身を委ねてみたい......

 永遠に。


 その夜、月明かりに照らされた二人の影が、あの泉のほとりの石畳の上に、いつまでも残っていた......



 ある朝、出陣を告げるラッパを吹き鳴らしながら、騎兵隊長が街にいる戦士を集めようと、ウマを闊歩させていた。

 蹄の音がシンシアの家の前を通り過ぎてから、アポロは階段を駆け上がった。


「どうしよう?シンシア。

 僕は行かなければならない......」


「そんな?......どうしてなの?

 私たちは結ばれたばかりなのに......」


 ここローマでは、戦士はけっして結婚してはならないのだった。

 それは、もし家族を残して出かけたなら、戦いに集中できずに、後ろ髪を引かれて故郷に残してきた家族を想うようになるからだった。


 シンシアは、以前に友人から聞いたことのある、バレンタイン司祭のことを思い出した。司祭は、ローマに広まりつつあったキリスト教の神の前で、一夫一婦の結婚の誓いを立てさせてくれるのだという。


 シンシアがその話をアポロにするやいなや、彼はシンシアの手を握りしめて教会に向かって走り出した。

 二人は、長い石畳の坂道を転がるように走り、脇道に咲き誇る花ばなには目もくれないで、あっと言う間に教会にたどり着いた。


 勢いよく開けられた教会のドアが、カベに当たって大きな音を立てた。


「司祭様、驚かせてすいません。

 私たちを、あなたの神様の前でひとつにしてください!」


 バレンタイン司祭は、彼らの置かれている状況の一切を瞬時に理解した。そして笑顔で近寄ると、二人を両腕で抱きかかえた。


 その時、司祭はこの二人の結婚式をとり行うことを決意した。

 ローマ皇帝からは、戦士の士気が下がるので、今後は絶対に兵士を結婚させてはいけないと言い渡されていたのだが......

 バレンタイン司祭の決意は固かった。


 ——これを最後の結婚式にしよう。

 神とキリストの名にかけて、私には彼らを永遠の愛で結ぶ義務があるのだ。


 チャペルにはいくつものキャンドルが灯されて、式が始まった。至福の愛に包まれた二人が、神の前で永遠の愛を誓う。

 教会の鐘は、恐れを知らずに、高らかに街に鳴り響いた。


「あの司祭め、また結婚式を挙げているな。」

ローマ皇帝は怒りをもって言った。


 ローマ軍からは即座に憲兵隊が教会に派遣された。

 兵士に引きずられるようにして、パレンタイン司祭が何処かに連れていかれる。殴られたり、蹴られたりしても、司祭は黙ったままで打たれていた。やがて赤い血が石畳を染めて、月明かりをキラキラと照り返すまでになっていた。


「司祭様!あぁ、私たちのために、あなたがそんな目にあうなんて!あなたはコレッぽっちの罪も無いお方なのに......」


 さっきまで幸せの頂点で酔いしれていたシンシアが、今はもう半狂乱になり司祭に駆け寄ろうとしている。

 それをアポロが必死で止めようとして、シンシアの腕を掴んでいた......



 翌朝になり、アポロはもう出陣の隊の中に居た。

 彼は、何とか昨日までのことを忘れて、一兵卒として戦闘に集中しようとしていた。

 しばらくすると、彼の隊は戦地に向けて行進を始めた。

 広場から、あの思い出の愛の泉の前を通り過ぎて、やがてひと気の無い赤茶色の土だけの丘を越える頃、辺りの空気を引き裂く鋭い音が聞こえてきた。


 アポロが目を凝らすと、丘の頂きには大きな十字架が置かれていて、その少し下のほうでは、見るも哀れな姿になったバレンタイン司祭が、ムチで打たれている。

 ムチは何度も司祭の身体を襲い、肉は裂け、膝まづいた彼にはもはや立ち上がるチカラも残ってはいないようだった。


「バレンタイン様ぁーっ!」


 アポロには聞き覚えのある声が、彼の胸に突き刺さる。

 家族に抱きかかえられたシンシアが、泣き叫んでいるのだ。


 アポロは、シンシアに駆け寄りたい気持ちを必死に抑えながら、前を向いて行進を続けた。

 ——オレは、オレは必ずお前の元に戻ってくる。

 アポロは何度もそう自分に言い聞かせていた。


 そして、シンシアの声が聞こえなくなるほどアポロが遠くに行ってしまった頃、突然、十字架の丘の空が真っ暗になった。

 黒い雲の切れ間から、真っ直ぐに光が降り注ぐと、バレンタイン司祭の傷だらけの身体を明るく照らした。

 それはあまりにも眩しくて、周りにいる兵士たちも目を開けていられないほどだった。

 ムチを持っていた兵士はそれを地面に落とすと、膝まづいてつぶやいた。


「このお方は、確かに、神に召されたのだ......」



 何カ月かが過ぎて、いよいよ出兵していた戦士たちがローマの街に戻ってきた。

 シンシアは、さっきからずっとアポロを探している。

 戦士たちの中に、きっと彼がいるはずだった。


 永遠の愛を、神の前に誓ったのだから......


 彼女はアポロをなかなか見つけられないので、この近くにあるバレンタイン司祭の墓に行き、ひと休みすることにした。

 綺麗な白いユリの花を摘んで、司祭の墓に供えた。

 白いユリは、罪穢れなく永遠の愛の誓いのために身を捧げたバレンタイン司祭には、ぴったりな気がしていた。


 シンシアが目を閉じて司祭にアポロの無事を祈っていると、どこからか、司祭の声が聞こえるような気がした。


『大丈夫だよ。甘いモノでも用意して待っていなさい。』


 そう言っているようだった。


 シンシアは急いで家に帰ると、カカオ豆を潰して乳とバターを混ぜて、チョコレートを作り始めた。

 それがアポロの大好物だったのだ。


 しばらくしてシンシアが顔を上げてキッチンの窓から外をみると、遠くから彼女の家に向かって歩いてくる人影が見えた。


 それは......



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