第8話
気が付くと、授業開始時間が過ぎてきた。
和彦は職員室の前に差しかかった。
(?…)
扉がきちんと閉まっていない。
覗いてみると、すでに教師はひとりもいなくなっている。和彦は中に入ってみた。
だいたい職員室の教師の机というのは乱雑になっていることが多いのだが、それにしてもこの乱雑さは度が過ぎていた。出席簿やテキストといった授業ら持っていかなくてはいかなくてはいけないものまで、机の上に置きっぱなしになっていたり、床に散らばっていたりしている。
まるで地震でもあって、机の上に出してあるものはそのままに、というより乱雑にして、とるものもとりあえず逃げ出したようだ。それにしては、まだ湯気がたっているお茶が置かれたままの机もある。
(どうなってるんだろう)
まったく誰もいない職員室を見渡し、いくつもあるパソコンの電源がどれも入れっぱなしになっているのに目がいった。
試みに覗いてみると、どうも生徒の成績のデータが入力されているようだ。
覗いてはいけないと思いながら、和彦はつい見入ってしまった。今見ている画面には三年生の一クラスのデータが表示されているらしい。ほとんど知りもしなければ縁もゆかりもない名前と無味乾燥な数字が並んでいる。
文字とはいっても、筆と墨を使って、半ば身体の延長上として一瞬の生命を紙の上に記録する書道の文字とはずいぶん違うものだと思った。
しかし、どんな成績なのだろうと自分の成績でもないのに好奇心が湧いてきて、モニターを覗きこんだ。
と、ぶるっとモニター上の文字列が一瞬身震いするように動いた。和彦も同期したように胴震いした。
自分が考えていたことが読まれていて、そんなことはない、コンソール上のただの光点の集まりでしかない文字でもそれ自体の生命を持っているぞとパソコンの中の文字たちが反論したような気がした。
ばかばかしい、どうかしている、電源が一時的に低下したからだろう、と和彦は自分に言い聞かせた。第一、文字の形はしていても元は0か1かのデジタルデータではないか。
しかし、再びモニターを覗く気にはならなかった。
誰かが見張っているわけでもないのに和彦はそうっと足音を忍ばせて職員室を抜け出した。
和彦は廊下を小走りしながら教室を見て回った。
すでに授業が始まっている時刻だ。廊下は静まり返っている。不自然なくらいに。
わずかに扉が開いたままになっている教室があった。覗いてみると、生徒が行儀よく授業を受けている。しかし、
(何かおかしい)
教師の声が聞こえない。静まり返った中、生徒たちは整然としてじっと席についている。静かすぎるし、整然とし過ぎている。
思い切って、和彦は扉を開けた。しかし、生徒は誰ひとり注意を向けない。
教壇に教師が立って、歴史を教えているらしくホワイトボードに 「古事記 712」「日本書紀 720」「万葉集 759」などといった年号を書いており、生徒たちはそれをノートに写している。あるいは教科書から直接写しているのかもしれない。
教室の中は相変わらず静かだ。ボードにマジックインキが走るきゅっきゅっといったわずかな音が聞こえるほどだ。
その音がいきなり大きくテンポアップしだした。みるみる年号と出来事でボードが埋められ、それでも足りずにその上に何度も何層も重ねられて何と書かれているのかわからないほどになった。
そして生徒たちもまったく同じようにノートをとっているのだった。文字が重なってわからなくなるところまで一緒だ。
見ていると、歴史教師の服の下から何か黒いものがざわざわいいながらはみ出てきている。ボードに書かれているのと似たような年号の数字と歴史上のできごとの表記との組み合わせが無数に絡み合いぐしゃぐしゃに固まって膨張し噴出してきた。
教師の服の下の身体はすでに年号とできごとの組み合わせの塊になっているようだ。辛うじて残った頭と顔も、やがて黒い絡み合った塊に浸食され人間の姿を失った。
それでも生徒たちはおとなしく年号を書きとっている。
ふと気づくと、生徒の中に数人、ノートをとっていない者がいた。ノートを立てて置き、その陰でスマホや携帯をいじっている。
和彦は思い切って教室の中に入り、携帯をいじっている生徒の後ろにまわりこんだ。しかし、それをとがめる者はいなかった。それどころか、堂々と入り込んできたよそのクラスの生徒である和彦に、誰も気づきもしないで、それぞれボードやノートに書き続けている。
和彦は携帯で何を打っているのか覗いて見た。「ちゃーいし」「よーだ」「つりーん」「ぽぽふ」…意味がまったくわからない。
絵文字も盛大に多用されている。それも新しい、見たこともないのばかりだ。
(原始人か、おまえは)
しかし、周囲と共通しているのは、きりなく限りなく似たような文字を叩き続けていることだった。
似たような意味の文字を重ねすぎてただの紋様になってしまってもお構いなしにえんえんと誰に送っているのか手を動かし続けている。
背筋がざわついて、和彦は教室から出た。背後で生徒たちが教師に倣って変貌していく気配を感じながら、つとめて無視した。
廊下を走っていると、前方からこちらに後ずさってくるいる女子生徒がいる。手に何か文字を書いた紙を持って、何か角を曲がって現れるのに備えて身構えているようだ。和彦の気配に気づいたのか、振り向いた。やはり千晶だった。千晶は明らかに誰が背後にいたのかわかった様子だったが、それ以上注意を払うことなく、また何者かが迫っているのに備えて身構えた。
廊下の角を曲がって<それ>が現れた。おそらく生徒か教師の一人だったのだろう、人間の形は一応保っていたが、まるでジャコメッティの彫刻のように極限まで削ぎ落とされたごつごつした表面の物体が、棒のように細い脚を交互に動かしながらこちらに進んでくる。表面がごつごつしているのは、凝り固まった文字群の止めや払いが無数に突き出ているからだ。それらが蠢き、別の言葉になり、また思考が巡らされるのに相応するように別の言葉になっていく。
和彦は、それらの文字のかなり多くに「細野和歌子」の名前が混ざっていることに気付いた。体が名前を表すことになったのか、それともダイエットして細くなりたがっていた願望の言葉が実現したのか、とにかくこれ以上ないくらい細身の体がかたかたとよろめきながら進んでくる。
細野の歩みが止まった。千晶が腰を落として手にした紙を構える。元は細野だった物体が膨張しようとした時、その頭を押さえるように紙が宙を飛んだ。いや、文字が紙ごとひっぱったのだろうか、ともかく紙ごと梵字のような意味不明の文字が巨大化し、物体を包み込んだ。
しばらく物体はじたばたと蠢いていたが、やがて動きを止めた。和彦と千晶が息を止めて見ていると、物体を包んでいた紙あるいは皮膜が破け、中から裸の細野が転がり出て、床に倒れこんだ。
そばに寄ろうとした和彦を制止した千晶は、窓の外を示した。さほど遠くないところに山並みが迫っている。その山の稜線がふわりと揺らぎ、現実にはない、ありえないはずの輪郭がみるみる目に見える線に変わっていく。
やがて山並みは画に書いたようにくっきりと輪郭線に縁どられ、その線がみるみる太くなり、代わりに線に囲まれた山肌にあたる部分が緑一色に塗られた塗り絵のように平板化し、みるみる色褪せてついには太ぶととした線だけが残った。
その線が描く文字は、「山」と読めた。
(何の冗談だ)
やがて、あまり動じた風でもない千晶のまなざしのもとで、その「山」という文字は現実の山並みに戻った。
廊下の角の向こうで何者かがまた迫ってくる気配がした。和彦は身構え、千晶は呼吸を整えた。
姿を現したのは、舟木だった。意外にも姿はいつもと変わらない。いつものようにメガネをかけ怜悧な表情で、きちんとスーツで身を固めた恰好でこちらにゆっくりと歩いてくる。
「帰りなさい」
千晶の方が先に口火を切った。
舟木のメガネの奥の両眼はガラス玉のように動きを止めている。
そのまま沈黙が続いた。
やおら舟木が大きく息を吸い込み、聞いたこともない発音の音声を発すると、びりびりと窓ガラスが震え、その音声を写し取ったのだろえか、これまで見たことのない紋様が壁といわず天井といわず床と言わずに現れた。
千晶が手にした漢字を書いた紙をそれに対して投げつける。投げつけられた文字は膨張して、壁や天井や床に広がりかけた紋様を包み込み、それぞれ「壁」「床」「天井」といった一つの文字に収斂し、そして実物の壁や床や天井がまた現れた。
和彦は千晶に手を引かれ、その場を離れた。
校舎から走り出ると、世界はほとんど真っ白になっていた。
空も地面も山も色を失い境目が曖昧になっている。和彦が見上げると、頭の上にあったのは太陽そのものではなく、巨大な「日」という文字だった。
地平線があったあたりには、「月」という文字がある。
授業だったか副読本だったかで、実際の太陽や月をどう模式化して「日」や「月」といった漢字ができたという図解を見たことはあったが、その逆のできごとがありありと目の前で起こっている。
和彦はいつ自分もただの文字か記号になって実体が消えてしまうのか、存在が脅かされる予感に震え、走る足が地面を踏んでいるのか、手が千晶とつながれているのか、わからなくなるのではないかという不安に襲われ、手をぎゅっと握ると千晶は握り返してきた。
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