第7話
若村家を出て帰途につくと、突然何か背後に恐怖を感じて思わず足早になった。見慣れた道に戻っても、なかなか言葉にならない気味悪さは消えなかった。
舟木は車に乗っていってしまったので、すでに日が傾きかけている道を小一時間かけて自宅に戻った。
(ひどいな)
と腹が立ったが、同時に舟木のあまりの変わりようを思い出すと、薄気味悪さの方が先に立った。学校に電話してみたが、舟木は戻っていないという。舟木自身の携帯の番号は知らないので、それ以上調べようがなかった。
家に戻ったが、誰に相談するわけにもいかない。父の帰りはいつも遅いし、母もパートに出ている。
妙に頭の芯が疲れていたらしく、あした学校に行ったら誰に何をどう問いただせばいいのかあれこれ考えているうちに、何か書き残してみたくなった。しかし、いつもだったら体験談を書くのにパソコンを開けてワープロを打つか、あるいはいきなりネット上にアップしてしまうことも多いのだが、今回の体験はなぜかそうする気にならなかった。あまりに荒唐無稽に思えたからでもあったが、何か文字を簡単に直接手を介さないで書くことにある種の抵抗というか畏れを感じていた。
なぜなのか…、それは<あれ>が文字、言葉そのものであることが直観的にわかったから、としか思えなかった。それまで見たこともない、今ある文字のどれとも、漢字とも仮名ともアルファベットとも、あるいは見ただけで意味などわからないがとにかく形は漠然と知っているロシア語やギリシャ語やアラビア語やエジプトの象形文字や、そのどれでもない。にも関わらず、それが文字であり意味や感情を乗せる言葉を記す記号であることはわかった。というより、見ただけで分からされた。
和彦はおよそそれまで年中行事絡み以外の宗教になど興味はなかったし今もないが、それでもこの<なぜか>わかるという直観は、ある種宗教家がお告げを受ける時の感覚に似ているのかもしれない、と思ったりした。
和彦はノートを出して、今日あったことを書こうとした。しかし、うまく言葉としてまとまらず、がしゃがしゃっと落書きのように記憶に残っていた<あれ>の様子ゃ、それに対する若山母娘、そして舟木の対応についてメモ書きと落書きのようなものが混ざったスケッチを描くにとどまった。自分で見ても下手な画だったが、それが何か子供の落書きのようでもあり、古代人が手近な材料に書きつけた紋様とも文字ともつかない記録にも似ているようでもあり、下手なりに一応メモとしての役目は果たせそうだった。
ふっと、(そういえば)と思った。
あの家には母と娘しかいなかったが、父親はどうしたのだろう。特に何も聞いていないし知りもしないが、いるのだろうか。いるとすれば、何をしているのだろうか。
翌日、和彦は早く家を出た。
早く起きてしまったので父親と顔を合わせたが、珍しく早いなとしか言われず、理由を問い糺されることもなかった。
いつもの通学路を歩いていると、きのうあったことがすべて夢の中のできごとのような気がしてきた。
学校に着いて、教室より先に部室をまわることにした。一番乗りかと思ったら、部長の荒川の方が先に来ていた。
「おはようございます」
和彦が挨拶すると、
「おはようございます」
と、荒川が返してきた。
(ん?)
和彦はその答えにわずかに違和感を覚えた。いつもだったら、もう少しいかにも礼儀正しいといった、そこがややとっつきにくいところでもあったが、そういう態度でいたのが、何かまったくのオウム返しのような、機械的に再生したような言い方だ。
荒川は席につくと、いつもにもまして背筋を伸ばし、端正な姿勢で墨をすり始めた。
和彦はぼやっと見ていたが、また叱られるのではないかとはたと思って、あわてて自分も書く用意を始めた。
しかし、荒川はまったく和彦などに注意を払わず、いつもにもまして集中して横に舟木の手本を置いて書をしたためている。正確に言うと、舟木が蘭亭序を臨書したものをさらに書き写している。元の王羲之が書いた蘭亭序の真跡がどんなものだったのかオリジナルが散逸してわからなくなっており、何種類もある模写のうちから舟木が独自に解釈して臨書したものを手本にしている。
また、和彦は違和感を覚えた。
書き写しているのだから似るのは当たり前なのだが、似すぎているのだ。
それ自体は驚くほど上手い。上手すぎるのだ。手本とまったくそっくりそのままとしか見えない。
舟木が集中してまったく眼中にないのを幸い、投げ出されてる書を何枚か拾い集めて、重ねてみた。透かして見ると、驚いたことにぴったり一致する。
わずかな払いの違いも、線の勢いも、筆の走りで自然にできたかすれに至るまで、まったく同じにしか見えない。まるでコピー機でコピーしたようだ。
荒川が傍らに置いているから比べることはできないが、おそらく舟木が書いた手本そっくりそのままなのではないか。だから互いに似ている。
しかし、いくら上達したからといって、そんなにそっくりそのままになるものかどうか。
和彦は改めて荒川の書いている姿を見た。
細い手首の皮膚の下あたりを、何か黒いものが蠢いていく。あるいは皮膚の上に浮きあがったのかもしれない。それは、きのう空中を飛びまわっていた文字の一種のように見えた。
(まさか…)
ふと和彦が視線をあげると、いつのまにか荒川の向こうに舟木が立っていた。
(!)
飛び上がりそうになった。
舟木はただ立っているだけだったのに。それまでも指導するにあたって部員たちの後ろや傍らに静かに立っているだけ、ということは普通にあった。
しかし、今の舟木の立ち方は何やら背後霊のようだった。もちろん和彦は背後霊など見たことはないのだが、いるとしたらこんな具合だろう。生気がなく、影が薄く、眼光だけが目立っている。
荒川が机に向かって筆を運び続け、その後ろで舟木が少しかがみこむようにして見守っている。その背の丸め方がちょうど相似形をなしていた。
(中身までそっくりになったみたいだ)
和彦があとずさると、どんと人にぶつかった。
「痛いな」
丸山の声がした。
「すみません」
丸山の大大とした体躯にぶつかった感触が消えるより早く和彦は謝っていた。丸山はまったく気にするでもなく、
「おはようございまーす」
と、挨拶しながら部室に入っていった。
「おはよう」
と、舟木と荒川がまったく同時に首を振り向けて挨拶を返した。
和彦はそのまま歩き去りかけた。しかし、不吉な塊は胸の奥から去らず、十歩もいかないうちに足を止め、踵を返した。
部室を覗いてみると、丸山ががたがたと道具を用意しようと動き回っていた。舟木は静かにすうっと立ったままで、荒川の持つ筆だけが動いている。
何と書いているのかは、横から覗いていてはわからない。と、その筆が接している紙がぶくぶくと沸き立つように膨れているように見えた。すぐにそれは紙が膨れているのではなく、紙から書かれた文字が起き上がろうとしているのがわかった。
前に千晶が書いた文字が紙から軽やかに起き上がったのとは違い、ひどく身体が―文字に身体があるとしてだが―重たげで、のたうつように、あるいは這うようにゆっくりと動いている。。
やがてその重さのようなものが突然薄れ、ぴょんと宙に跳ね、丸山にとびついた。とびつかれても、丸山は何も感じないようだ。しばらくその文字は白いブラウスの上にくっきりと見えていた。「丸山雅子」という丸山自身の名前が読めた、と思ったらすぐ曖昧になってしまった。文字そのものがみるみる動き変容して、別のものに変わっていく。
それらの文字は丸山の体格を揶揄する言葉のようにも、学業の成績の数字のようでも、どこに住んでいるのかでも、今片思いしている相手でも、丸山のさまざまな属性を表す言葉に変わってはまた別に変容していく。それが全身の表面いっぱいに広がって、だんだらの文字と言葉の塊のようになり、そして最終的にぼやけ布地かさらにその下に溶け込むように薄れて消えて行った。おそらく肉体の中に染み込んでいったのだろう。
奇妙に丸山の表情がこわばっている。というか、ビデオを一時停止したように妙にぶれながら動きが止まっている。
途中から和彦はまた動けなくなっていた。きのうに続いて今日と、何が起こっているのか、頭の中が真っ白になって何の言葉も湧いてこなかった。言葉が枯れると感情も化石化し、恐怖までが凍りついている。
しかし身体は勝手に反応し、その場からとにかく離れた。身体も半ば凍り付いていたのでぎくしゃくとしか動かなかったが、幸い部室にいる誰にも気づかれることはなかった。
少し離れると、感情も解凍されて突然猛烈な恐怖に襲われ、また動けなくなった。床に貼りついたようになっている足をなんとか引き剥がすようにしてどこに行けばいいのかわからないが、とにかく歩き出した。
和彦はその場から逃げだした。
急に、千晶のことが心配になった。部室には来ていなかったが、だいたい学校に来ているのだろうか。
授業が始まるまでまだ間があるが、教室に急ぐことにした。
隣の教室をのぞくと、千晶の姿はなかった。
(どこにいるんだ)
携帯をかけようにも、番号を知らない。という以前に、千晶は携帯を持っているのだろうか。
女子に限らず特に用がなくても習慣で携帯をいじっている生徒が多い中で、千晶が携帯を持っている姿は見たことないの気づいた。
とにかく千晶を探し出さないと。きのう、ことを曖昧にしたままにしてしまったことを和彦は後悔していた。
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