長い針と短い針

赤秋ともる

長い針と短い針

     1


 僕の、平凡だった日常に、事件が起こった。

 僕の幼馴染、深川映理ふかがわえりが、ピアノを弾かなくなったのだ。

 彼女は息を吸ったり吐いたりするように、ピアノを弾く。昼放課や放課後は音楽室で、帰宅したら自室でピアノに向かう。昼放課直後の授業中に、彼女が教室にいなければ、間違いなく夢中になってピアノを弾いているのだろうと誰もが察するほどだ。

 僕はそんな彼女のことが嫌いではなかった。なんといっても彼女がピアノを奏でるその姿は様になっているというか、僕のレパートリーの少ない言葉で無理やり表現するとしたら、「かっこいい」と評するのがしっくりくる。普段ちょっと抜けているところがある彼女が別人になったように、真剣な目つきとオーラで音楽の世界を構築する、そのギャップに多くの聴衆が魅了されてきた。僕もその中の一人というわけだ。

 ピアノで腹がふくれたらいいのに、と思っていそうな深川映理が、一週間もピアノを弾いていないということは僕らにとっては事件だ。僕と深川がいる二年一組においては、様々な憶測が飛び交っている。

「もしかしてスランプなのかな?」

「それともピアノ以外のことにハマっちゃったとか」

「え、それって恋……」

「「「きゃーーー!」」」

 ピアノ以外のことには鈍感な、彼女の耳には届いていないだろうが、僕はしっかりその噂を耳にしている。家が近所で、登下校も一緒にする幼馴染の立場から言わせてもらうと、その可能性はなきにしもあらず。今のところ確認している証拠としては、人生で最も大切なピアノをやめていること、最近になって周りの視線を気にするようになったこと、ぼーっとすることがちょっと増したこと、本屋に行っても小説か音楽の本しか買わなかったのに、突然ファッション雑誌を買いだしたこと。決定的なのが、深川の下駄箱に手紙が入っていたことだ。

 あれはきっとラブレターだ。時代遅れだが、古風なことを好む深川には効果抜群な方法だと思う。

 問題なのは、その相手が誰なのか見当もつかないということだ。そのことが気になって、こっちまで調子が狂わされてしまう。

 はーっとため息が漏れた。

「何悩んでるの?」

「わっ!」

「豆鉄砲くらった鳩みたいな顔して。私は幽霊じゃないよ」

「突然話しかけるなよ」

「だってつぎは移動教室だよ。なのにぼーっとしちゃってさ」

「あっ! そうだった」

「マー君、最近なんかおかしいよ」

「だから、マー君って言うな!」

 それにおかしいのはお前のほうだ、とは言えず、急いで移動教室の準備をした。


 ***


 幼馴染である浅沼誠あさぬままことのことを考えると胸が苦しくなるようになったのは、この前のピアノ発表会のときからだった。

 私の演奏が終わると、彼は私のところに来てくれて、私の手を取り、

「かっこよかった」

と言ってきた。真剣な目つきで。

 女の子に向かってかっこいいとは何だ、という問題を忘れさせるほどの目だった。この人はあの幼馴染のマー君だよね、と確認しなければ、その目は別人のものにしか見えなかった。

 それからというもの、マー君のことばっかり考えてしまうようになった。授業中も、入浴中も、机で本を読んでいるときも、布団の中でも。

 マー君のことを考えながらピアノを弾いていると、涙が止まらなくなってしまうようになった。なぜ自分が泣いているのかはよく分からないが、ピアノを弾くということは自分の心の中をみるようなものだから、きっとその涙にも意味があるのだろうと思った。

 実は、私の通っている高校には、女子たちだけの間で流れている、ある噂がある。二階の図書館にあるアンデルセン童話集の『人魚姫』の箇所に恋愛相談の手紙を挟めば、後日、下駄箱に返事が返ってくる、というものだ。

 私には恋愛とかよく分からないけど、男の子のことだから、きっと大丈夫だろうと思い、手紙をその本に挟んだ。

「初めまして、二年一組の深川映理です。

 単刀直入に言うと、特定の人のことを考えると、胸が張り裂けそうになります。その人とは幼馴染で、今まではそんなことなかったのですが、ある時、彼の真剣な眼差しを見てから変わってしまいました。私はこれからどうしたらいいのでしょうか?」

 二日後の下校時、下駄箱の中に手紙が入っていた。表には何も書いていない白い封筒。噂はやはり本当だったようだ。マー君にばれないように細心の注意を払いながら、その手紙を鞄の中に入れ、家に帰ってから手紙を開いた。

「ピアノをやめれば、あなたは自分の気持ちに気づくことができる」

とだけ書いてあった。新年に引くおみくじみたいに抽象的な文章。そして、私の頭の中には存在しなかったこと。ピアノをやめる?

 その日は、ピアノをやめるとはどういう意味かを考えて過ごした。哲学者が人生とは何かを考えるように。

 私にとってピアノは感情と密接につながった何かであり、切って離せないものであるという固定観念が形成されていた。だから、どうしてもピアノをやめるということが理解できなかった。

 そうして寝る時間まで考え、歯を磨いてパジャマに着替え、布団の中に潜ったとき、

「あ、そういえば今日は、家帰ってからピアノ弾いてないな」

と独り言をつぶやいた。


     2


 深川がピアノを弾かなくなってから八日目の朝。彼女はいつも通り僕の家の前で待っていた。

 セミが今は夏だぞと食傷気味に鳴きわたり、通学路はいつもと変わらず、何もおかしいことはないのではないかと僕に錯覚させる。だが、隣にいる深川は変わっていた。変わらないもののほうが珍しいというが、彼女の変わり方というのが、まるで僕から離れていっているように感じられた。僕の知っている深川は、ピアノが生きがいで、ピアノ以外は、テストで学年一位をとっているぐらいしか取柄はない。

 そういえば、彼女は不思議なところが多い。授業中は馬鹿っぽく口を開けて、ノートもとらずに黒板と教科書を見ている。それで大丈夫なのかと思えば、平然と満点近い成績を修める。そのため、ノートをとらないことを注意していた先生も、いつしか黙認するようになった。また、ぼーっとしているように見えて、先生に指名されるとすぐに正解を答えてしまう。僕は、こいつのことをアインシュタインの生まれ変わりだと思っている。

 だから頭がいいのかというと、そうでもない。「今日中にこのメールを四人に送らなければ死ぬ」という典型的なチェーンメールにビックリして、僕のところに必死の形相で駆け込んできたこともあった。世間しらずというか、騙されやすいというか。

 つまり、僕は深川のことを理解しているのかというと、そうでもない。そして、今隣にいるのが深川映理なのか、実をいうと確信をもてない。別人と言われても納得するほどの変容。

「えーっと……深川、だよな?」

「そうだよ、マー君」

「だから、マー君はやめろ。じゃなくて、今日は化粧してんだな……」

「うん、莉子りこに教えてもらったんだ。今日初めて自分でやってみたんだけど……変じゃない、かな?」

「あ、ああ、全然変じゃない、変じゃない。」

 むしろ似合っている、という言葉が口から出かかったが、なぜか飲みこんでしまった。言ってはいけないことのような気がしたのだ。

「そうかな。よかった。安心した」

 真夏のひまわりのような、安堵した笑顔を見て、僕の頬は、猛暑のせいにするには異常なほど熱くなってしまった。


 その日の昼放課、僕は二組の莉子を訪ねた。

 教室の外からでも莉子の揉めている声が聞こえてきた。唯我独尊を地で行くお嬢様と、その周りの人らにとっては日常茶飯事なのだろうが、部外者の僕には面食らうものだ。

若杉わかすぎ、私の弁当が食えないって言うのか!」

「だから、違うって! 今日は友達と学食で食うって昨日メールしただろ!」

 この嵐の中に自分は入らないといけないらしい。

「おーい、莉子。ちょっと聞きたいことあるんだけどいいか」

「おお、誠! ちょうどいいところに来た。こいつ、私の作った弁当を食べないって言うんだよ。酷くないか?」

「だけど、ヨッシーは昨日メールしたんだろ」

「そうなんだよ。頼むから、学食に行かせてくれ。みんなを待たせちまう」

「けど、それだとこの弁当はどうすんだよ」

 やれやれ。

「しょうがないから僕が食べるよ」

「おお、まじか! よし、若杉、行っていいぞー」

「お前な……。誠、悪いな」

 そう言うと、ヨッシーは急いで教室を出ていった。

「あいかわらずだな」空いている席に腰かける。

「へへ、そうだろ。ほい、召し上がれ」

「いただきます……ってこれすごく美味しそうじゃん!」

「美味しそうじゃなくて、美味しいの間違いだとすぐ分かるぞ」

「自信満々だな……おお、まじで美味しい! これどうやって味付けしてんだよ」

 人は見かけによらないのだなと、決して口から出せないことをしみじみと思った。

「だろ。若杉が逃した魚はデカいなあ。味付けは秘密」

「ああ、けど、お前毎日若杉にお弁当作ってるんだろ。餌付けか?」

とニヤニヤしながら聞くと、

「ち、ちげええよ! ……そんなんじゃねえよ」

と言って、リンゴみたいに真っ赤な顔になってしまった。視線も安定しない。

 莉子は態度や見かけに反して純情なやつだということを忘れていた。

 その莉子は気恥ずかしさを紛らわせるかのように、話題を変えた。

「そ、そういえば、聞きたいことがあったんだろ! 何?」

「あー、深川に化粧を教えてあげたんだってな」

「ああ、映理が化粧に興味もつなんてな。青天の霹靂だったよ」

「そこだよ。どうして深川が化粧に興味をもったか知ってるか?」

 莉子は「んー」と右手を頬に当て、僕が絶妙な味付けの卵焼き一個を飲みこむまで思案し、

「知ってるけど、内緒」

と左目でウインクしながら言った。


 結局、それで話を切り上げられ、絶品の弁当まで取り上げられた。まったくどういうことなのだ。深川はやっぱり好きな人ができて、彼女の人生であるピアノも断ってまで、化粧の練習をしているのか。この状況証拠を裏付けるのがあの手紙だ。一生懸命育てていた飼い犬が別の人に懐いてしまったような、この感覚はいったい何なのだろう。

 幼馴染として僕は何をすべきなのだろうか。普通はやはり応援すべきなのは分かるが、乗り気にならない。

 ここはやはりあいつに相談するとしよう。僕は放課後、生徒会室に向かった。


 ***


 放課後、莉子からLINEが着ていた。

『誠は料理のできる女が好きだな』

『本当? けど、マー君、毎日家族のために料理作ってるし、私料理したことないし……』

『とりあえず、こっち集合』


 莉子と合流し、料理はハードルが高すぎると私が主張すると、

「任せなさいって、この料理界の重鎮である莉子さまに」

と押し切られ、莉子の家で料理の手ほどきを受けることになった。

 押しの強い莉子に付き合うのは嫌ではないが、今回ばかりは気が重い。

「そんなに思い詰めんなって。店に並べるような、誰の舌でも唸らせるようなもんを作れって言ってるわけじゃないんだ。あいつの好みにだけ合えばいいんだ」

「簡単に言うけど、それができれば苦労しないよ……」

「あのピアノ以外は適当にやってきた映理が、誠のことになるとなんでそうネガティブになるんだよ。これが恋する乙女ってやつかねー」

「はぁー、ピアノ弾きたいなあ」

「弾けばいいじゃん」

と莉子は不思議そうに首をかしげ言った。あの手紙のことは誰にも話していない。莉子には話してもいいかなと思うが、言ってはならないような気がした。

 そして、私は重大なことに気づいた。

「ねえ! そういえばなんでマー君のこと気にしてるって分かったの!?」

 このときの私は、相当マヌケな顔をしていたのだろう。莉子は、やれやれと演技っぽく手首を曲げるポーズをとった。憎たらしい顔とともに。


 そうして莉子の家に着いたのだが、何度来てもその佇まいに圧倒される。初めて来たときは、これがお嬢様の住む館か、と驚愕した。そのとき、馬車があるのか聞いたのだが、莉子は「あるんじゃねー」とどうでもいいように答えたことを今でも覚えている。

 当然、その館の台所、いや、調理場も充実していて、練習にはうってつけなのだが、自分がこんなところ使っていいのか、と気後れしてしまう。見たこともない器具をうっかり壊してしまわないか、落ち着かない。

「さて、まずは映理の実力チェックから始めるぞ。そうだなー。カレー食べたいからカレーで」

「カレーなんかでいいの? それなら余裕よ」

 私はスマホでカレーのレシピを検索し、それに従って調理をした。私は料理をせず、変な苦手意識をもっていただけで、普通に料理はできるのかもしれない。そういえば、レシピには載ってないけど、インスタントコーヒー入れるとマイルドになると聞いたことがある。

 初めて一人で料理を完成させ、私は上機嫌に浮かれた。料理は意外と簡単そうだ。

「じゃーいただきまーす」

「はい、召し上がれ」

「ん……こんなカレー初めて食べた……」

「え、それってどういうこと……」

「味が薄いし、隠し味が隠れてない。カレー独特のとろみがない。野菜に火が通ってない。他多数……これは重症ね」

 だだっ広い調理場で二人の女子高生がお葬式でも開いているかのような空気に変わった。おそるおそる自分のカレーを食べてみて、私に料理は無理だ、と完全に心が折れた。

「料理下手なやつの地雷を正確無比に踏んでいった感じだな。つまり、それを直していけば食べられる料理はできるようになるってことだ。だから、そう気を落とすな」

 あのわがままで自己本位な莉子に慰められるとは、自分がますます不憫に思えた。

「まずは数少ないよかったところから。レシピを調べたところはいいぞ。下手なやつはなぜか自分の頭の中のゲテモノレシピに自信を持ってしまってるやつが多い。その点、お前は偉いぞ。そのレシピ通りには作らなかったみたいだが」

「全然褒めてない……」

「次に悪かったところ。なんで味見をしない? 毒見をしろ。人を殺す気か。そんで初心者がレシピに載ってないインスタントコーヒーを入れるな。そういうのは料理に慣れてから。それと火力が適当すぎるんだよ。火の通りにくい食材から入れていくんだよ。あと、お前めんどくさがりすぎ。ニンジンとジャガイモの皮むき雑いし、あく抜きもしてないだろ。」

「ごめんなさい……」

「任せろ。今日からみっちり仕込んでやるからな……」

「何卒お手柔らかに……」流石にこれでは駄目だ、と自分でも思った。

「甘えたこと言ってんじゃねー! 愛しのマー君のために頑張れー! 分かったか!」

「サー、イエッサー!」

 こうして、地獄の訓練が始まった。


     3


 漫画とかに出てくる生徒会はものすごく権力をもっていたり、ブラック企業さながらのタイトなスケジュールだったりするものだが、この学校の生徒会はその対極に位置する。

 僕はノックもせずに、「ういーっす」と気の抜けた挨拶を、大富豪で遊んでいる生徒会連中と部外者に、かけた。

 その中で一人、真面目に仕事をしている人物が、丹生千秋にぶちあきだ。律儀そうな顔つきを眼鏡がそれを強調している。栗色のショートカットと少し小柄な体形が男子の間で人気の理由だ。しかし、性格に少々難があると皆、口をそろえて言う。僕はそこに好感を覚えるが。

「やあ、丹生さん、ちょっといいかな?」

 彼女は動かす手を休めず、

「どうしたの、浅沼君?」

「僕の周りに信頼できる女の子っていないだろ。ちょっと困ってるんだ」

「映理のこと? あの映理がピアノを弾かなくなったなんて何かあったの?」

「相変わらず、話が早くて助かる」

 僕は大富豪に夢中な彼らの耳に届かないように声を潜めて、

「そうなんだ。どうやら好きな人ができたみたいなんだ」

 それを聞いて、丹生の手がついに止まる。彼女も声のボリュームを下げ、

「それやっぱり本当なの?」

「ああ、実はこの前、下駄箱の中に手紙が入ってるのを見たんだ。その日からピアノを弾いていないし、これはほぼ間違いないんじゃないか?」

「手紙を受け取ってからピアノ狂の映理がピアノを触らなくなった……これは間違いなく恋ね!」

「やっぱりか」

 深川に好きな人ができたのは、疑いの余地がなくなりつつある。

「おかしなところもあるけどね。映理って一点集中型っぽく見えるけど、私からしたら、あれもこれもってやりたいことなら両立できるような人間な気がするの」

「たしかにそうだな。深川なら好きな人のことを思ってピアノを弾くのが普通だ」

「もしかしたら、好きな人にピアノをやめるように言われたのかもね」

「なんてやつだ! 深川からピアノを取り上げるなんて、半殺しみたいなもんじゃないか!」

「お二人さん、何話してるの?」

 僕らは声も出さず、声の主に首を急転回させた。

「君ら途中から声のボリューム大きすぎだね。追い出してよかったよ」

 さきほどまで大富豪に興じていた、生徒会長である安元徹やすもととおるが、いつものように飄々とした感じで机に肘をついている。

 僕らは話しに夢中になってしまっていたようだ。普段はこんなことはないのだが。

「助かったよ。恩に着る」

「いや、これは一大事だからね。マー君の気持ちも分かるよ」

「マー君?」

「ところで、マー君は深川さんに好きな人ができたということを知って、どうしたいんだい?」

「どうしたいって、そりゃ幼馴染として応援すべきかとか……」

 安元はわざとらしいため息をつき、

「君がそんなのだったら、彼にはチャンスが十分にあるな」

「おい、それはどういうことだ」

「深川さんに手紙を出した人なら知ってるよ」

「誰だ?」

「内緒。プライバシーの問題でね」

 僕は内緒とか秘密という言葉に辟易した。まるで世界が僕を除け者にしているようだ。

 僕は何も言わず生徒会室を後にした。なぜ自分がこれほど頭に血がのぼっているのか分からない。パーティーに自分だけ呼ばれなかったときには寂しさしか感じなかったのに、なぜ怒りと悲しみが僕を何かに駆り立てているのだろう。

 なぜ僕はこんな回りくどいことをしているのか。直接本人に聞けばいいのだ。


 ***


 頭に多くのことを詰め込みすぎると、人はふらふらになるようだ。莉子の特訓指導は夜八時まで続いた。家には帰るのが遅くなることも伝えてあるし、夕食については泣きたくなるほど美味しくない物体で胃を満たしてある。

 莉子と私の家はそれほど離れていないが、夜の道を一人で歩くのは少しだけ心細いところがある。隣にマー君がいればとつい考えてしまう。莉子がおかしなことを言うのがいけないのだ。マー君に電話して迎えに来てもらえば、とニヤニヤしながら言うから。

 ただ、自分の気持ちが、何となくではあるが、分かってきた。きっと私は浅沼誠のことが好きなの“だろう”。あとは、自分の心の中に生まれた未知の感情が、恋だと確信を持てるかどうかだけだ。

 私は月を見上げた。

 ――マー君は今何をしているのかな。

 そんなことを考えていると家に着いた。そして、家の前にいた人物を見て、胸の鼓動が跳ね上がる。

 マー君は、ブロック塀に背を預けて座っていた。顔は見えない。

「マー君? どうしたの?」とおそるおそる声をかける。

 彼の顔が見えるようになると、あの日の真剣な顔つきをしていた。自然と頬が熱くなる。

「こんな時間までどこにいたんだ」

 マー君はやめろ、という恒例の反応が飛ばされたことに、ただならぬ雰囲気を感じた。彼は怒っているのか?

「どこって、莉子の家だけど……」

「親は騙せても僕はそうはいかないぞ! 答えろ! 誰なんだ!」

「マー君なんか怖いよ……」いつもと違う。

「答えろ! ピアノをやめるように言われてんだろ! あの手紙は誰からなんだ!」

 頭が真っ白になってしまった。彼が何を言っているのか分からない。

 私は察する。

 もしかして、あのとき手紙を見られていて、他の男子からのラブレターだと勘違いしているのか?

「違う! あの手紙は――」

 ――あれ? なんで? 声が、何かにつっかえてしまっているかのようで、出ない。

 私が答えられないでいると、それにつれて彼の顔は知らない顔になっていく。

「答えないということはそういうことなんだな。お幸せに」

 そう言うと、彼は去っていってしまった。喉が回復し切っていないため、私は何も言えずに、その背中を見送ることしかできなかった。

 立っているのが辛くなって、涙がとめどなく溢れる。胸が張り裂けそうに痛い。


     4


 一歩踏み出すごとに、心の中で「ムカつく」と叫ぶ。地面は地球上で一番のドМだ。嫌なことがあったら地面を踏みつければいい。誰も困らない。ただ、暗い夏の夜道にコンクリートを踏む音が響くだけ。

 本来、この憤りは深川にぶつけたかったものだ。なぜ彼女は何も僕に言ってくれないのか。

 深川だけではない。莉子もあの安元も秘密を盾にして僕を弾き飛ばす。僕は彼らにとって邪魔者のようだ。

 そう思うと、踏み出す足に力が入らなくなった。顔に違和感を覚え、触って確かめる。手に水の感触。僕は立ち止まり、上を見る。雨は降っていない。月と夏の大三角形が見えるだけ。

 ――なぜ僕は泣いているんだ?

 僕は、周りからハブられて泣くようなガキではない。

 父が死んだときのことが頭に流れだした。あれは僕が7歳の頃。父はいつも帰りが遅く、休みが少ししかもらえなかったため、僕と全然遊んでくれなかった。そんな父の方から週末に遊園地に連れて行ってくれると約束してくれた。あのときの喜びは今でも覚えている。なぜなら、あれが僕と父の最後の会話だったからだ。父は週末の直前に過労で倒れ、そのまま息を引き取った。

 そのときに感じた痛みが、いま僕が抱えている苦しみに似ている。父が離れていった次に、深川が僕から離れていく。

 それが嫌だと思うと同時に僕は泣くことがこらえきれなくなった。ガキみたいにうずくまって泣きだす。僕はまだまだガキなのかもしれない。

 僕はガキだから、自分の気持ちに素直になることができた。僕には深川映理が必要だ。

 僕は家まで走って、自分たちだけで夕食を済ませた弟たちの頭を撫で、自室のパソコンを開いた。そして、インターネットの検索エンジンに「かっこよくなる 方法」と入力した。

 手紙の男よりも好きにさせてやる。


 ***


 喉の違和感は消えたが、次の日に熱が出た。そのため、学校は休んだ。

 一晩経っても、私は昨日の出来事を引きずっていた。手紙のことを言おうとしたら、喉が一時的におかしくなったことと、マー君の誤解を解けず怒らせてしまったこと。

 私は魔女に魔法をかけられてしまっているのかもしれない。本の読みすぎによる被害妄想ということもありえるが、あの喉の違和感は本物だった。私はあの手紙に関することを話せないのではないか。今回は警告の意味も込めて軽めの症状で済んでいるだけで、また手紙のことを話そうとすれば、もっと酷い罰を受けないとは限らない。

 ただ、喉の問題に対する解決法は簡単だ。手紙のことを話さなければいい。

 しかし、それだとマー君の問題がややこしいことになってしまう。彼はどうやらあの手紙が私の下駄箱に入っているのを目撃していて、それを誰かからのラブレターだと勘違いしているようだ。

 何をしたらいいか分からないとき、ピアノを弾く以外の選択肢がなかったため、どうしたらいいのか頭の中は迷走していた。ピアノに感情をぶつけたい。だけど、もうちょっとでマー君に対する自分の気持ちがつかめそうなのだ。私は彼のことが好きだと言葉にするのは簡単だけれど、心が自然とそれに納得できるようにしたい。これはきっと私のわがままなのは分かっているが、これは大切なわがままなのだと本能が言っている。

 自分の部屋は酷く殺風景に感じられた。トンカツがのっていないかつ丼みたいなものだ。ピアノがあってこそ成り立っていた場所から、ピアノが感覚的に消えてしまったのだから、しょうがない。

 明日はしっかりマー君に謝ろう。彼はきっといろいろと傷ついているのだろう。突然私がピアノをやめたり、化粧を始めたりしたのだ。彼を不審に思わせ、傷つけたのは私だ。

 ――あれ? そういえば、マー君はなんで私に怒っているのだろう?

 そして、それに対する純粋な答えにたどり着いた瞬間、顔に火がついてしまった。熱で火照った頬が次の段階へ行くとピリピリと痺れてしまうようだ。

 その熱が引くにつれて、だんだん浮かれたような気分になった。

 「にへへ。うへへ」

 うれし笑いをするとき、私はこのような声が出るということを初めて知った。正直に言うと、ピアノの発表会で入賞したときよりもうれしい。

 私は昨夜のことなんか忘れて、明るい未来のために決意を固めた。マー君に好きになってもらえるように、そしてマー君のことを心の底から好きになれるように、明日からまた頑張ろう。

 心の荷が下りたのか、私はやってきた眠気にそのまま身を任せた。


     5


 僕は登校すると、まず莉子のところへ向かった。

 クラスによって雰囲気はちがうのだなと、二組に入るといつも思う。僕のクラスは差し迫った期末試験で少しだけピリピリした空気なのに、この組は夏休みの話題で持ちきりのようだ。

「なあ、若杉。夏休みなったら海行こうぜ。海の近くに別荘あるんだけどさ」

「まじかよお前。そりゃ是非とも行きたいが、それよりお前ん家やばいな」

 あいかわらず、莉子は若杉に絡んでいた。そこに僕は割って入る。

「おはよう、お二人さん」

「おはよう……。あれ、誠ワックスつけてるじゃん。ちょっと雰囲気変わったなあ」

「本当だ。けど、初心者らしく悪戦苦闘した跡があるな。目にもちょっと隈ができてる」

 莉子に的を射られて、照れ笑いした。

「ワックスって結構難しいんだな」

 化粧のときの復讐として深川に見せたかったのに、彼女とは今朝会っていない。教室にもいなかった。昨日のこともあって心配だ。

「そうだ。莉子、深川のことなんか知らない?」

「あー熱らしいよ。まったく、恋する乙女は大変だ」

「熱か。安心した。ありがとう」

 若杉と莉子はきょとんとしていたが、僕はそのまま自分の教室に向かった。


 その日の授業はほとんど頭に入ってこなかった。昨夜はインターネットでかっこよくなるためにはどうすればいいのか、さまざまなサイトを巡って、夜通し調べていたのだ。

 そのような内容を扱っているサイトでは、常に派閥どうしの争いがなされている。内面のみ重視する派、外見より内面を重視する派、内面より外見を重視する派、そして外見のみ重視する派だ。選挙の候補者から投票する人物を一人選ぶように、僕はどの派閥を信じるべきかまず決めなければならないと思った。

 僕は外見的には変哲もない男で、性格についても、ときおり自分の信じている優しさというものが、どこか押しつけがましいものではないかと、悩むこともある。つまり、僕は外見にも内面にも自信がない。だから僕は、自分にできることならどちらも取り入れていく方針に固めた。

 外見はまず髪型を整え、内面はまず自信を持つようにする。僕は今まで床屋を利用してきた人間であるため、まずは美容院にいかなければならない。深川をデートに誘うなら、お金も必要だ。そのため、アルバイトを始めることにもした。お金が手に入るまではコンビニで買ってきたワックスでセットの練習をする。内面のほうは簡単な方法が紹介されていた。自分との約束を守るだけで、ポジティブになれて、自分に自信がもてるようになるらしい。

 僕は外見をよくする計画を通して自分の内面も強化しようという計画を立てたわけだ。とても効率のよい方法だと、我ながら思った。

 とにかく時間が惜しかった。

 早くかっこよくなって、深川の口から好きだと言わせてやる。


 ***


 朝、目が覚めると熱は引いていた。朝食と着替えを済ませ、マー君の家に向かう。

 こうやって彼の家へ行き、二階にある彼の部屋の窓を通して、彼と目を合わせることはもはや、習慣になってしまった。

 しかし、今日の彼の目はいつもとちょっとだけ違うような気がした。ピアノの発表会のときのあの目に少し似ているような。

 彼は喧嘩などなかったといった感じで私の隣を歩く。それでも私はあの時のことを謝らなければならない。私はいつもの通学路を歩きながら、訥々と言う。

「あのね……。この前は何も言えなくて、ごめんなさい。マー君に誤解されるような行動のことも。手紙のことは……、どうしても言うことはできないの。けどね、マー君の思っているような内容じゃないということは、はっきりと誓える」

 いかにも取り繕ったような都合のいい私の謝罪に対して、彼はあっさりと、

「いいよ。手紙が誰からだろうと、僕は気にしないよ。深川が言えないような事情があるなら、それはしょうがないことなんだと思う」

 そして、彼は続ける。

「手紙の内容は聞かない代わりに、僕からもお願いがある」

「何?」

「僕が会いたいと思うまで、距離を開けたい」

「どういうこと?」

 やはり私のことが嫌いになってしまったのだろうか。

「別に嫌いになったとか、そういうわけじゃないんだ。ただ、君なしでやりたいことが見つかったんだ。この条件を飲んでくれたら、手紙のことについては何も聞かないよ」

 思い返してみれば、マー君と会って以来、ほとんどを一緒に過ごしてきた。そう考えてみると、突然おかしくなった私から距離をとってみたいと彼が思うのは、当然のことなのかもしれない。

「分かった……。私、待ってるね」

 私は無理やりに笑顔を作った。そういうことは普段しないため、酷くぎこちなかったのだろう。彼も優しく笑ってくれた。

 私には真似できないと思った。私が彼の立場だったら、もっと詰問しているだろう。きっと彼の出した結論が、もっとも穏便な方法だったのだろう。

 ――頑張ろう。

 彼にまた私と普通に会いたいと思われるような女性になれるように、私は前に進まないといけない。私にはまだまだやらなければならない課題がたくさん残っているのだ。この機会に、それらを完全に消化し切ってみせる。

 これはきっとお互いに必要なことなのだ。だから、私には悲しんでいる暇はない。少しでも早く、彼にまた振り向いてほしいから。


     6


 期末試験後、僕はコンビニでアルバイトを始めた。最初、親には反対されたが、今の成績をキープすることを条件に許しをもらえた。何もかもが初めてで覚えることも多いが、店長も先輩も優しい人が多かったのは救いだ。一方で、客の中には面倒くさい人もいたけれど、内面を鍛える訓練だと思いこむことで乗り切った。

 家に帰っても、その日にしてしまったミスにくよくよしてしまいそうになる。きっとそう思うことが一番楽だからだと思う。僕は内面を鍛えるサイトに書かれている項目を読み直し、次の日も頑張ろうと自分に喝を入れた。


 ***


 私の熱で中断されていた、莉子師範による料理教室が再開された。前回の注意点は頭に叩き込んであるが、料理は奥が深い。莉子の指摘は止まるところを知らなかった。こんなに大変ならコンビニかスーパーで弁当を買って食えばいいのではないか、と思うが、絶対に莉子の前で言ってはならない。

 ただ、技術を覚えればおぼえるほど、結果はすぐに味に出ることは、ピアノに似ていると思った。レシピは楽譜だ。発表会が楽しみだ。彼のためだけに開かれる私の舞台。それがきっと料理なのだ。厳しい先生である莉子も、幼少期のあの厳しかったピアノ教室のおばさんを連想させる。そうやって私はいつしか料理にのめり込んでいた。


     7


 学校も夏休みに入り、僕はアルバイトに専念できた。単純ながら、働くことって大変なのだなと、アルバイトの分際で思ってしまう。正直、誰かのためでないと、僕は働き続けられる気がしない。もし、深川が僕から離れて行ってしまったら、僕は何のために、誰のために働けばいいのか分からなくなってしまう予感がする。だから、なおさら頑張らなければならない。


 ***


「映理、メイク慣れてきたんじゃない」

「そうかな?」

「うん、自然になってる。これで立派な女性に一歩近づいたな」

 そう言い終えると、莉子は私の尻をたたいた。こういうところがおっさん臭いのだ。

「料理もそのうち上達するよ。映理はやっぱりセンスあるしね」

 そう言われるのは嬉しいが、自分では料理の奥深さに嵌りかけている感じがした。味は問題ないのだが、個性が出せない。譜面通りに弾くピアノ演奏みたいに、私の料理は味気ないのだ。きっとそれはピアノと同じで何回も何回も料理をして培っていくものなのだろう。

 しかし、莉子にそのことを相談すると、

「いや、別にそんなの必要ないぞ。それに、お前には最高のスパイスがあるじゃないか?」

「え?」

「愛だよ」

 莉子のからかい方にも慣れてきたと思った矢先の爆弾発言だった。


     8


 僕は、コブクロの時の足音という曲が好きだ。

 

 恋人を時計の針に例え、重なっては離れていく恋人たちの関係を比喩的に表現しているところに、私の心は奪われた。


 僕たちは、重なりあったまま止まっていたのだと思う。


 私たちは、お互いのことをどう思っているのかを放置して、進めずにいた。


 時計の針がまた動き出したのは、彼女が手紙を受け取って、ピアノをやめたときからだ。


 私は進むことを選んだ。


 そこから、僕たちの距離は開いていった。


 きっと私たちは今、180°離れているのだろう。


 そうならば、僕たちは再び近づくことができるはずだ。


     9


 夏休み中、アルバイトでファッション磨きに時間を費やしてきたが、ついに夏休みも終わりにさしかかっている八月の下旬、給料をもらった。自分の労働がこうやって形になるのはなんともいえないものがある。

 これで軍資金を得たことになるが、アルバイトはこれからも続けていこうと思う。おじいちゃんの店長も、親も認めてくれた。


 ***


 夏休みを通して、料理の腕にも自信がついてきた。八月中旬になった頃からは、家族に料理を作るようになった。母は仕事をとられたと怒って、たまにしか料理をさせてくれなかったけれど。母のそういう子供みたいに可愛らしいところを初めて見た。


     10


 僕は美容院を予約し、週末、人生で初めて足を踏み入れた。床屋とは規模の大きさが段違いだ。綺麗に磨かれた白色のタイルは足音をよく反響させる。外からではまったく分からなかったが、天井がものすごく高い。開放感にあふれた空間でありながら、鏡と椅子が効率よく配置されていて、新聞の代わりに雑誌が置かれている。ネガティブな自分が心の中でちょっと顔を出して、自分は場違いだとささやいている。同時に、新しい自分へのエントランスのような気もした。未知への恐怖にワクワクが少し上回るようになったところに自分の成長を感じた。

 受け付けに行き、氏名を告げる。予約したときの事項が再度確認され、担当の美容師さんに席まで通された。後藤さんというミュージシャン風の男だった。

 軽く会話しただけで気さくな性格が伝わってくる。

「さて、ではどんな感じにしましょうか?」

 出た。髪型の注文は初心者にとって難関だ。情報の中から僕ができそうだと思ったことを言うしかない。

「美容院に来るの初めてなんで、いろいろと相談してもいいですか?」

 ええ、もちろん、と後藤さんは落ち着いた低めの声で答えてくれる。僕は後藤さんと積極的にコミュニケーションをして、僕の人柄を知ってもらう必要がある。そうして、後藤さんの頭の中に、僕に合う髪型が浮かんでくれることを祈った。

 カタログを見て話し合った結果、髪型が決まった。アルバイトの経験が役に立ったのか、僕は人見知りすることが減ったようだ。僕は後藤さんがふってくれる話題に乗って楽しく過ごすことができた。当然好きな子の話も。

 そして、ワックスで整え、できあがった髪型を見て、これは自分なのかと目を疑った。

 サイドを短く刈り上げ、トップは長めに残す、ツーブロックと呼ばれているスタイルらしい。

 僕は後藤さんの方に振り返った。どうだと言わんばかりの顔をしている。

 その顔は、コンビニで形だけのお礼に慣れてしまっていた僕に、心からの「ありがとう」を思いださせてくれた。

 会計を済ませ、店を出ると、モワッとした空気に迎えられた。

 スマホのLINEを開いて、深川へのメッセージを入力し始める。


 ***


 莉子曰く、彼に料理を披露する方法は、弁当がいいだろうとのことだ。

「あいつを食事に招待するよりも、そのほうが気楽だろ」

「たしかにそうだね」

「夏休みももうすぐ終わるし、教室で食べさせてやれよ」

 私は、気が乗らなかった。顔にもその様子が出てしまっていたのだろう。

「どうした、乗り気じゃなさそうだな?」

「なんて言うのかな……。単純なほうから言うと、教室で弁当を食べてもらうのは恥ずかしいな」と私は、頬をかきたい衝動に駆られながら、言う。そのため、手は不自然に上下してしまった。

「それで、単純じゃない方は?」

 どう言おうか考えていたら、スマホのバイブレーションを感じた。莉子に、ごめん、と告げ、確認する。その動作中にも震えた。マー君から二件のメッセージが届いている。

『会わないって約束はもう終わりにしたい』

『夏休みが終わる前に二人であの遊園地に行かないか?』

 私はスマホの画面から莉子に目を向けた。

「解決したかも」


     11


 僕は、デートの行き先には迷わなかった。最初に頭に浮かんできたのが、遊園地だった。


 本来、父と二人で遊園地にいくはずだった日に、僕は家を飛び出して、行くところもなく公園にたどり着いた。僕はとりあえずブランコに腰かけ、時間が過ぎるのに身を任せた。

 すると、見たことのない女の子とその父親が公園に入ってきて、遊び始めた。それは、そのときの僕にとっては目に毒だった。しかし、そこは公園だ。遊ぶのが普通の場所で、場違いなのは僕のほうだった。

 僕は二人の邪魔をしないように公園を出ようとした。そのとき、ちょっと待って、と女の子が声をかけてきた。どんなことを言ったのかは今でも覚えている。

「泣いてるの?」

 そして、なぜか彼女のほうが泣きだしてしまった。僕はどうしたらいいのか分からなかったが、父親のほうは彼女の元へ駆け寄り、いつものことのように彼女を宥めはじめた。

 彼女の泣いている姿を見ていたら、無意識にこらえていた涙がとめどなく溢れてきた。

 父と一緒に遊園地に行きたかった。もっと父と遊びたかった。父に会いたかった。

 そのどれもがもう叶うことはないのだと、彼女の泣き声が僕に訴えてきた。


 そのときの女の子が深川映理だった。彼女は本当に不思議な子だ。

 思うに、彼女は鏡なのだと思う。人々が心の奥に隠している本当の気持ちを彼女は映し出して、彼らにその気持ちと向き合わせることができる人間。

 僕は彼女が泣いた日から目隠しをしていて、ピアノの発表会のとき、彼女にそれを外された。

 深川映理のことが僕は大好きなのだと、駅の改札を抜けて歩いてくる彼女を見て、あらためて思った。


 ***


 集合場所である、遊園地から最寄りの駅の改札を抜けると、見覚えのある目をした男の人と目が合った。年齢は私と同じくらい。髪も服装も清潔感があって、立ち居振る舞いに落ち着きを感じる。

 マー君には申し訳ないが、彼に恋をしてしまった。彼に声をかけてほしい。私の足は自然と彼のほうへ向かった。

 近づくと、彼の口が開く。が、どう声をかけたらいいのか迷っているようだ。口がぱくぱくしている。そして、彼は意を決したかのように声を発した。

「やあ、深川」

「え」どうして私の名前を知っているのだろう。それにこの聞き覚えのある声。

 私は驚愕の声をあげた。私の浮気相手はマー君だったようだ。たった一か月で雰囲気が変わりすぎである。ダイエットのビフォー・アフターを見ているみたいだ。

 これは流石にズルいと思う。普段のマー君のことを思うときでさえ心臓が飛び跳ねてしまうのに、お洒落になった彼のことを見ていると、心臓が止まってしまいそうになる。

「どうしたんだよ」

と彼は分かっているくせに聞いてくる。一か月で図々しさも増したようだ。彼のせいで頭の中の計画が飛んでしまって、私はテンパっているのに。

 私は少し拗ねてしまったため、早く行きましょう、とそっけなく言った。


     12


 僕のささやかな復讐は成功に終わったようだ。ただ、自分の目的を忘れてはいけないと自分に言い聞かせる。たしかに、深川と遊園地に行くのは楽しみなのだが、彼女には好きな人がいる可能性がまだあるのだ。

 そのことを彼女に直接問いただしてしまったら、あのときの失敗を繰り返すことになってしまう。だから、僕は自分を磨くという迂遠な手段を用いて、彼女を振り向かせようとしているのだ。

 正直、僕は彼女が好きな人とどこまで進展しているか分からない、という不利な状況にいる。僕は積極的に攻めなければ、活路は見いだせない。彼女が先に歩き出してしまったのは想定外だったが、必死に悪知恵を働かせる。

「ちょっと待って」と言って僕は地面に立ち止まり、その場に座りこむ。

 どうしたの、と彼女が心配そうに僕を見る。少しだけ心が痛むが致し方ない。

「すまん、軽く立ちくらみ」

「大丈夫?」彼女は手を差し伸べてくれた。深川はそういう人間なのだ。

 僕はその手を掴んで立ち上がる。手はもちろん離さない。

「また辛くなったら言ってね」

「ああ。ありがとう」計画通りだ。彼女の純粋さに感謝すると同時に、将来詐欺師に騙されそうだと心配にもなった。


 ***


 夏休みが終わると言っても、猛暑はまったく終わる気配をみせない。

「暑いねー」

「そうだなー」と二人でお世話になっている太陽に悪態をつく。

「麦わら帽子かぶってて正解だよ。それによく似合ってる」

「ありがとう……」マー君はそんなこと言わないキャラではなかったのか。戸惑うけれど、ピアノを褒められることよりもうれしい。

 遊園地の入り口が見えてきた。歳をとるにつれて、来なくなってしまったなあと、おばさんみたいなことを思ってしまう。

 そういえば、

「ここ、経営厳しいらしいね。この前ニュースで聞いた」

「らしいな。少子高齢化の時代だからしょうがない。けど、ほら」と言って彼は右手で前方にある料金所を指す。

「おかげで空いてる。並んで待つ必要がないのは、この時代に子供でいることの特権だな」

「そうね」

 その前向きさがおかしくて、頬が緩んだ。

 料金所は、五つある窓口の内一つしか空いていないようだ。この遊園地は大丈夫なのか、と少しばかり訝しく思ったが、窓口の女性は仕事熱心でやさしい雰囲気を醸し出していた。

 いらっしゃいませ、と頭を下げる仕草も洗練されている。

「高校生二人です」

チケット販売員は私たちを見て、よろしかったら、と口を開く。

「こちらのカップルプランがお得ですよ」

 ――か、カップルっ!? 違います違います、まだ違います

「じゃ、それで」

 ――ええええええっ! うれしいけど、安いからそういう体ってことだよね?

 マー君は片手で器用に財布からお金を出す。その動作を見て、私もお金を出さないと、と右手で財布を取り出そうとする。

 あれ? 手をつないでいる……。

 私は自分の顔が爆発したのを感じた。

「心行くまでお楽しみください」

 落ち着きの戻らない私に彼は、さあ、行くぞ、と平然と言った。


     13


 入り口を抜けると、そこは老朽化したアトラクションによって、独特なレトロ感を出していた。僕たち以外にも客はちらほらいる程度で、人々の喧騒よりもセミのほうがうるさい。

「実は、ここに来るの初めてなんだ」

 深川は意外そうな顔をしている。父のことを思い出すから、僕はきっと無意識にここを避けていたのだろう。

「こんな場所だったんだな。悪いな、こういう感じになってるとは知らなくてさ」

「ううん、懐かしくてわくわくしてきた。それに、遊び納めしておかないとね。この調子だと、寿命は目前そうだし」

「アトラクションはどれも動いてるみたいだし、ほぼ貸し切り状態」

 東京の夢の国よりも、ロマンチックだと思った。

「走っても怒られないよね」

 そう言うと彼女は駆け出した。僕も素直に従った。小学生に戻ったみたいだ。


 僕は、深川が誰かを好きになっているかもしれないということを忘れて、はしゃいでしまった。結局、彼女を僕に振り向かせるという目的なんてどうでもよくなって、今はただこのときを大切にしたいという気持ちが強くなっていた。

 遊びまわった僕は、尿意をもよおして、今はお手洗いにいる。

 鏡の中の僕が、訴えてくる。

「お前は、この楽しい時間が、今日だけになってしまっていいのか?」

 もちろん嫌だ。しかし、僕のこの願望を深川に押し付けて、台無しにしてしまうのも恐ろしい。

 僕は結局、変われなかったようだ。いくら外見を取り繕っても、臆病な性格はそのままではないか。何かを失ったり、誰かに見捨てられたりするのが怖くてたまらない。自分に自信がもてない。

 このまま時間が止まってほしい。深川とずっとここで遊んでいたい。頼む、神様。どうか時間を止めてくれ。

 そのとき、正午を知らせる園内放送が流れ始めた。もうそんな時間になったのか。僕は腕時計を見る。

 すると、脳内にあの曲が再生され始めた。

 僕は何をうだうだ考えているのだ。何がどうなろうと、時間は絶対に止まらない。深川だって変わり続ける。だから、僕も前に進まなければならない。

 僕がトイレを出たのは、十二時一分だった。


 ***


 私は彼がお手洗いに行っている間、木陰に入って、火照った心を落ち着かせている。

 今日はいろいろなことがありすぎた。一か月ぶりの彼が驚くほど見違えていたり、手をつないだり、カップルだと思われたり、子どもの頃に戻ったみたいにはしゃぎまわったり。

 もっと一緒にいたい。

 私は確信した。マー君のことが好きだ。理屈とか動機とか根拠なんてどうでもいいほど、彼のことを考えると心が満たされる。地球最後の日になっても、彼と手をつないでいたい。彼が冒険に出るのなら、どこにだってついていく。

 それぐらい彼のことが好きだ。もうこれは私の中で事実となった。

 今日、想いを伝えようと決意する。

 園内放送が正午を知らせ始める。遊園地の時計を見上げた。この時計の長針と短針はこれまで何度重なりあったのだろう。ところどころ白の塗装がはがれていたり、汚れていたりする時計だ。きっとあの長針と短針は、何度も巡り合っては離れてを繰り返しているのだろう。

 そして、長針と短針は離れ始めた。

 私は不安になった。どうしようもなく彼に私の心の中をさらけ出したい。

 彼がお手洗いから出てきた。

「なあ」「ねえ」とタイミングがかぶさってしまった。

「「そっちからで」」

 私たちはこらえきれなくなって笑いあう。笑いが収まるまで一分はかかったのではないだろうか。途中で私のお腹がなってしまったから。

 視界にあるものが入った。

「ねえ、あそこ見て。あれに乗ろうよ」

「腹ペコなのに?」

「うん、今から。昼ご飯はあとでいいでしょ。実はお弁当作ってきたの」

「深川の弁当!? それは楽しみだ。楽しみは後に残しておこう」


     14


 離れたところからしか見たことがない観覧車は、真下から見ると首が疲れるほど大きかった。

「怖くなった?」と彼女は悪戯っぽく尋ねてくる。

「誰にだって初めてはあるんだ」

 僕は彼女の手をとって歩きだした。スロープになっている通路を進んでいく。こんなに大きな建造物なのに、もっとも静謐なアトラクションで驚いた。

 乗り場に着くと、黄緑の帽子と制服を着たスタッフがゴンドラの扉を開け、どうぞ、と手招いた。中に入ると、スタッフが扉を閉めた。

 冷房がついていて、涼しいと感想が漏れる。汗ばんだ皮膚にとっては天使の吐息だった。僕は額の汗をぬぐい、深川は麦わら帽子を脱ぐ。

 僕たちは向かい合って座ったが、予想以上に広かったため、少し遠く感じた。

「観覧車ってゆっくりなんだな」

「休憩にちょうどいいね。上のほうまで行くと景色もいいんだよ」

 僕は窓の外を見る。右を向くと遊園地、左を向くと僕たちの住んでいる街が見えた。

 二人の間を沈黙が支配し、冷房の稼働音がよく聞こえた。

 ――失敗したっていいじゃないか。

 気まずい雰囲気でこのゴンドラが下にたどり着くのを待つのと、深川が自分以外の誰かと幸せになっていくのを見るのと、どっちが自分にとって残酷だ。

 僕は決意を固め、彼女を見て話し始める。

「深川、今日はものすごく楽しいよ。来てくれてありがとう」

「ううん、私も子どもみたいにはしゃいじゃってる。こっちこそ誘ってくれてあるがとう」

「僕はできれば、この時間がずっと続いてほしい、と思ってる。けど、この楽しい時間は今しかないんだ。大げさかもしれないけど、今日が終われば、僕たちはまたいつも通りの日々に戻る。僕は怖いんだ。深川の日常から僕が消えてしまうんじゃないか。女々しいことを言うけど、僕は深川についていきたい。一緒に変わっていきたい。僕の失敗と成長をそばで見ていてほしい」

 つまり、

「僕は深川映理のことが好きなんだ」

 ゴンドラの中を、再び沈黙が占める。彼女は下を向いたまま動かない。


 ***


 私は一生懸命に笑うのをこらえた。マー君の真剣な告白は泣きたくなるほどうれしい。しかし、私たちは初めから両想いだったのだ。ピアノをやめる必要もなければ、彼と喧嘩する必要もなかった。わざわざ遠回りしてここまでたどり着いた、そんな私たちが馬鹿らしくて笑えてしまうのだ。

 恋愛は奥深い。男女が好きになるだけなのに、なんて複雑なのだろう。実は単純なのかもしれない。私たちが難解にしてしまっているだけで。

 告白を受けた女性ほど、有利な立場はないな、と私は思う。彼の顔は受験番号を必死に探す受験生そのものだから。

 早く彼を楽にしてあげよう。

「私も浅沼誠のことが好きです」

 それはちょうど、ゴンドラが一番高いところに到達したときだった。

 突然、ブザーが響く。

『申し訳ございません。当観覧車は緊急停止いたしました。原因はただいま調査中です。予備電源を作動させますので、少々お待ちください』

 タイミングが悪いとはまさにこのこと。折角の告白が台無しだ。

 私たちはまた笑いだした。

「ねえ、ここでお弁当食べちゃおうか?」

「いいね。そっちに座ってもいい?」

「うん」

 彼が移動しようとすると、ゴンドラが揺れて、驚いてしまった。それがまた楽しい。

 きっと好きな人と一緒にいると、どんな辛いことも、怖いことも、嫌なことも、楽しくなってしまうのだろう。自分の腹筋がこれからの人生、もつのかどうか不安になってしまった。


 結局、私たちが地上に戻るのに一時間かかった。初めてのキスは自分のお弁当の味がした。


 私はその後、ピアノを弾くことはなかった。ピアノを弾くということがどういうことか認識できなかったのだ。

 それでも、一人、一つ、一瞬、一秒、一度きり、あなたに出会えてよかった。

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長い針と短い針 赤秋ともる @HirarinWorld

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