さざめく色のノンスタンダード

月下ゆずりは

第1話 水槽の脳

 なんてこった手も足も出ないぞと脳味噌は思った。

 とある地下室の一室。試験管型の水槽の中央に脳髄が浮いている。脊髄に相当するものはなく、代わりに電子的な接続端子(コネクタ)が据え付けられている。脳本体を保護するための薄い膜からは無数のコードが延びており、それぞれが自由気ままに蠢いていた。

 それぞれの先端はセンサーとなっており、同時に接続装置でもあった。

 センサーから送られる情報を元に脳は判断できたのだ。しまったぞ、ここから出られないじゃないかと言うことである。何せ脳味噌単体なのだ。歩けるような足も無いし、伸ばせるような手も無い。


 『………えー操作機器っと』


 脳が発音する。各種センサーが拾った信号を音に変換しているに過ぎないが。

 脳味噌が各種端子を利用して何とかシステムにアクセスした。


 【現在時刻/不明】

 【メイン動力/予備システム稼働中】

 【冬眠モード解除】

 【国家緊急警報システム作動による非常事態措置発令中】


 よくわからない情報にない首を捻る。

 つまるところ自分は――。


 『なにも思い出せないのか』


 愕然とした。文字は読めるし、意味もわかると言うのに、状況どころか名前も思い出せない。

 自分が脳味噌だけで浮いていることはわかっても、なんで脳味噌しかないのだろうという疑問を解決できない。

 全身が痒い感覚を覚えた。

 なんてこった。文字通り手も足も出ないのだ。仮に施設が完全に機能停止していて、誰も助けに来なかったとすると脳味噌の機能を維持する装置が故障するなり、予備システムなるものが停止した段階でゆっくりと死ぬ。

 焦った脳味噌はなんとかしようとしてシステムを引っ掻き回した。


 【義体 インプラント実行可能な固体残量なし】


 どうやら脳味噌を入れておけるボディがあるらしい情報を引き出すことに成功したが、完全の中身が壊れているらしい。


 『八方塞ってやつか……いや待て』


 システムを操作する。十体はあるらしいが、どこかしらが破損しているらしい。

 少なくとも十体の義体が存在し、各種センサー類や稼動部品が揃っていることは確かだ。


 『つまるところ部品取りして一つの体を作ればいいわけだな』


 ニコイチもといジュッコイチを実施できるだけの機能が果たしてあるかどうかに脳味噌はかけた。


 【分解開始】


 すると狭い室内の片隅に十字架型の懸架装置が床の下から出現すると、ロボットアームがせり出てきた。骨格部品。電子装置。あらゆる使えるパーツを高速でくみ上げていく。

 白い髪の毛。薄い胸元。関節剥き出しの肢体。女性的な、もとい、人形のような美しいこじんまりとした仮の肉体が完成した。

 造形だけ見れば球体関節人形を人サイズにまで引き伸ばしたような格好の体である。

 外見だけ見るならば可愛らしい女の子と言えるであろう。


 『そういや私の性別ってなんだったんだ……? 男か? 女か? わからない。まあ、この際贅沢は言わないぜ』


 ふと疑問が浮かんだ。性別がなんだったのかだ。体があれば判別は容易だろうが、生憎体は無いのだ。性別を判断する記憶も思い出せない。口調から判断することも難しい。男口調の女かもしれない。女口調を楽しむ男だったかもしれない。記録にも残っていなかった。

 背に腹は変えられぬ。もっとも背中も腹も無いが。


 【移植シークエンス開始……終了まで、残り……】


 脳味噌は自らがするすると試験管型水槽の下に吸い込まれていくのを感じた。

 意識が完全に切り離される。センサーが取り外されたのだろう。

 しかし、完全な暗闇というわけではない。脳味噌が見せる幻影が視野をちらついていた。過去のものらしき映像もあった。酒瓶。金色の髪の毛の女の子。太陽。海。船。森。

 視界がかちんと接続された。


 「とりあえず周囲の状況をぶべばっ!?」


 起動と同時に歩こうとした。アームが外れ固定装置が解除される。

 一歩目と同時に前のめりにぶっ倒れた義体はしばし沈黙し、ややあって床を拳で叩いた。


 「このポンコツが!」


 まずは歩く練習からはじめないといけないのだと考えただけで脳味噌が痛かった。

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