雨宿る

雨宿る

 何故、涙が出ないのだろう。と、私は机に突っ伏して考えていた。解きかけの宿題は片さずそのままにしておく。

 母が急逝して二週間。私にとって、あまりに突然の母の死というものは思っている以上に衝撃的なことだった。以来、私は泣くことが出来なくなった。そして、呼応するように雨が一度も降らなかった。梅雨入りした六月の中頃だというのに。

 やがて眠りの淵でうとうとしていると、私の頭を誰かが撫でている。

 その手の温もりがどこか懐かしい、身に覚えがある感覚だ。これは母の手である。

 きっとそうに違いない。

――……母さん、だよね。帰ってきてくれたの。

 と思わず尋ねた。母であって欲しい、その一心で。

――私は君の母ではない。

 私の想いとは裏腹に、聞き覚えのない女性の声がそう告げた。

――えっ。でも、その姿は……。

 と、女性に聞き返した。顔を上げて振り返ると、目の前にいた女性は母だったからだ。十五年間、毎日暮らしてきた母の顔を見間違うはずがない。私は首を傾げた。

――ああ、そうか。この姿は君の母のモノだったな。

 女性は顔色一つ変えず、すまして言った。

――私は水晶なのだ。君の母が蒐集していた石の中のひとつでね。見たことはないか。

 確かに見たことはあった。が、珪酸塩鉱物は地球上で最多の鉱物とされるゆえに、それに属する水晶は、母の標本の中でも数が多いのだ。その中のどれを言っているのか分からない――それ以前に何を奇妙なことを言っているのだろう。私をバカにしているのか。

――それなら見たことがありますけど……。

 訝しく思いながら答えると、女性は目をつむり、何かを考える仕草を見せて、

――「地球の歴史が堆積している石というものは、記憶の結晶のようなものだ」

 と呟いた。私は懐かしさを感じると同時に、彼女への不信感は薄れた。その言葉は、何度も耳にしたことがある、母の口癖だった。

 つい私も、

――もし人間の想いとかが蓄えられるなら、それはタイムカプセルのようでロマンチックじゃない。

 彼女の後に言葉を続けた。彼女は無言で頷くと、

――私には君の母の記憶が堆積している。

 母の記憶、と告げられて私は驚いた。それから、

――何故、母さんの記憶を持っているの。

 と不思議に思い、聞いた。何が何だか分からないので、納得のいく説明が欲しかったのである。

――それは私が、君の母にとっての始まりだったからだ。

 そう言って、何処か遠くを見ている様子で、

――彼女が初めて手にした石だったのだ。それだけ思い入れが強かったのだろう。付喪神、というものを知っているか。古来日本では、持ち主の思念が濃く染み着いた物が百年経つと神様になるという伝承がある。私もそれと似たようなものだ。水晶自体が宿した霊力、それを助けにして現れたのだ。

――そういうものなの?

――そういうものだ。

 彼女は、それが世の理であると言わんばかりに、淡々と語った。

――君の母は本当に風変わりな娘だった。

 私の顔を見て、ぽつりと言った

――どういう風だったの。私も聞きたい。

 私は率直に聞いた。

――私が彼女に拾われたのは三十年程前、今の君と同じくらいの頃だった。野外授業とかいうもので、あの場所に来ていたらしい。そこは山中を流れる渓流で、私は川底に沈んでいたところを拾いあげられた。川底には、他にも似たような石がごろごろしていたのだが、何を思ってか彼女は私を選んだのだ。以来、彼女は石を集めるようになった。

――母さんはそんなに前から石を蒐集していたのね。

 母は大学時代、地学研究会に所属し、日本各地の石を掘りに駆け回っていたらしい。これは、母から直接聞いた話である。だから、部屋にある標本はその頃の物だと思っていた。

――ねぇ、貴方が母さんの記憶だというのなら聞いてもいい。

――ああ、構わないよ。

 彼女は頷く。少し間を置いて、

――私は薄情な人間なのかな。

 そう問うと、彼女は物悲しい顔をして、私を見た。そして、

――何故、そんなことを言うのだ。

 と聞き返してきた。

――だって、母さんが死んでしまったのに泣けないんだよ。とても悲しくて、寂しくて、胸が締め付けられるくらい苦しいはずなのに。

 私は今まで心に抱き続けてきた感情を吐き出した。

――それでも君は薄情などではない。とても優しい娘だ。

 彼女はきっぱりと断言した。

――……でも……。

 私が小さく呟くと、彼女は首を横に振り、

――全て、私が悪いのだ。私が水晶であるがゆえのこと。

 と、私に告げた。驚いて、ただ呆然としていると、

――水晶の別名を知っているか。

 と唐突に続けた。

――いいえ、知らないわ。

 そう応えて、再び彼女を見た。何か大事なことを知っているのだろうかと。

――水精。水に、精霊の精と書く。文字通り、水晶が水の精霊と考えられていたからだそうだ。

 私は手元にある辞書を引いた。確かに表記には、水精、と書かれていた。

――先に私は、水晶の霊力を糧に現れた付喪神のようなものだと言ったが、あの話には続きがある。名は体を表す、と言うように、水精の名を持つ私も、同義なのだ。つまり水を自由自在に操ることが出来るということだ。

――それはどういう……。

――私が君の涙を封じてしまったのだ。

 彼女はそう言って、私の前に手を差し出した。その手には一つの水晶が握られていた。

 水晶は元々、もっと大きな結晶だったのかもしれない。山の中を流れていくうちに、石同士がぶつかり合って角が削られ、随分と丸みを帯びていた。

――水晶の中に小さな気泡が見えるだろう。それは水が閉じ込められているからだ。水晶が形成された時代の水がそのまま封じてある。だから水入水晶というのだ。

 彼女はそこまで一気に話すと、ひと呼吸おいて、

――私は君のことをずっと見てきた。いつも笑顔でいる君が私は好きだった。だからこそ、いつも笑っていて欲しい。悲しい顔をして欲しくない。そう願った。

 と言葉を紡ぐように続けた。私は彼女の話を瞬きせず、聞いていた。

――でもそれは私の間違いだった。悲しい時は無理をして涙をこらえる必要などない。気が済むまで泣けばいいのだな。

 そう言って、悲しげに下を向いた。急なことで私は驚いたが、ようやく彼女の話の意味が分かった気がした。

 彼女は私の悲しみを代ってくれていた。

 だとしたら、それは全てではない。

――……あ、貴方だけのせいではないわ。

 絞り出すように言った。私は目を閉じ、大きく息を吸い、それからゆっくりと吐き出した。

――私も間違っていたの。母さんがもう帰ってこないという現実を受け入れることが怖くて、逃げてしまっていた。でもこれからは逃げず、しっかり現実を受け止めるわ。前に進まなくては母さんに心配を掛けてしまうもの。

 と、私は笑って見せた。それから、

――ありがとう。

 小さく呟くと、私の目尻から涙が流れていた。久々の感覚で抑えることが出来なかった。いや、抑えなくていいのだ。ごめんなさい、と言いながら泣き続ける私を、彼女は諭すように抱きしめてくれた。腕の中は石とは思えないほど温かかった。

 私は腕の中から見上げて、

――私、貴方達のことをもっと知りたい。もっと興味を持って、母さんが見てきたものをこの目で見てみたいの。

――頑張ってみたらいい。本当に君達は親子そろって変わり者だな。

――親子ですから。

 と笑顔で答えた。

――そうだな。それじゃ私はいくとしよう。

――母さん。

 私はとっさにそう呼んだ。

――もう会えないの。

――私はいつでも君の傍にいる。

 そう言うと、彼女はすうっと空気に溶け込むように姿を消した。


 彼女が去った後、机の上には水晶が一つ置かれていた。私一人になった部屋の中に、雨音が響いていることに気が付いた。窓の外を見ると、久々の雨が降っていた。

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雨宿る @kkishinn

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