腹黒い彼女のとらのあな
※本SSは『冴えない彼女の育てかた3』発売時に「とらのあな」さんで配布されたものとなります。
二○一三年四月下旬。
『あれ? この作品の時間軸って確かまだ二○一二年だったはずじゃ?』とか、そんな些細なことを気にしている場合ではない、ある平日の池袋……
東口に西武、西口に東武という池袋独特の文化に従い、西武デパートの横を抜けて東口の地下通路を通り、地上に出てから徒歩数秒。
そんな駅前過ぎるビルを七階まで昇り、エレベーターを出た瞬間、目の前に広がるのはワンフロアまるごとのパラダイス。
「というわけで
「年末に来たときは違うビルだったような気がするんだけど、移転したの?」
「いや、そっちもまだあるよ」
「じゃあ、拡張したってこと?」
「そう! あっちは女性向けに特化された池袋店Bとして、そしてこっちは男性向けに特化された池袋店Aとして生まれ変わったんだ! 喩えるなら女子校と男子校のように!」
日進月歩で常に進化し続ける街、池袋……
この激動の地においては、人も建物も、そして企業も、ほんの少しの時ですら立ち止まることも許されない。
かつての乙女の楽園は、今日この日をもって、男性オタクをも受け入れる懐の深さを世に知らしめたのだ。
「……で、池袋に着くなり、女の子をいきなりその“男子校”の方に連れてくるのはどういう了見なのかしら倫理君?」
「やだなぁ、だって詩羽先輩は男性向けラノベ作家……つまりここに集う男子生徒たちを導く存在。いわばこの店の女教師だよ!」
「なにその生贄の教室」
……さて、そんな身も蓋もない会話はともかく、今、俺の隣にいるのは
俺の通う豊ヶ崎学園の一年先輩にして、常時学園一位の秀才にして、実は
処女作(本人が処女かどうかは知らない)『恋するメトロノーム』(不死川ファンタスティック文庫刊)が全五巻で五○万部も売れた、期待の大型新人だ。
本来なら、俺なんかが気軽に話しかけられるような立場の人じゃないんだけど、そこはほら、後輩としての甘えとか、ファンとしての厚かましさとかそういう色々な要素が泥沼のように絡み合って何ともややこしい関係ができあがってしまっているというか何というか……
「じゃあ詩羽先輩、まずはラノベコーナーをチェックに行こうか」
「ううん、私はここで店員が来ないか見張ってるから、後は倫理君が何とかしなさい」
「何とかって……何を?」
「もちろんラノベコーナーの平棚を全て『恋するメトロノーム』で埋める作戦の遂行よ」
「人を倫理君呼ばわりしておいて倫理から外れる命令をしないでよ!?」
……まぁ、この人がこういう性格だというのも、俺たちの関係をややこしくしてしまった一つの要因なんだけど。
「お、あったあった『恋するメトロノーム』! ほら、ちゃんと平積みだよ先輩」
「扱い的にはファンタスティックで四、五番手というところかしらね。少し悔しい」
「……もう完結したシリーズなんだから贅沢言うのやめようよ」
ラノベの既刊コーナーの、不死川ファンタスティック文庫の棚は、他のレーベルに比べて何番手くらいの規模かというのは置いといて……そこには、しっかりと詩羽先輩の作品が五巻全冊平積みにされていた。
完結してそこそこ経っているのに、相変わらず何度か重版もされているらしいし、息の長いシリーズに育ったみたいで、応援し続けた俺も感慨深い。
「実は明日、知り合いに会うから、献本のために一巻を五冊ほど買っておこうと思って」
「そういうのって不死川に言えばくれるんじゃないの?」
「無理よ、町田さんケチだし」
「あ、そ」
不死川書店と担当編集さんの名誉のために言っておくけど、今の詩羽先輩の言葉は確実に嘘で、妥当な理由を言えば絶対に追加でくれる……はずだ。
ただ、そういう交渉がめんどくさくて金で解決しようとしてるだけなんだ、このひと。
「お、ちょうど五冊残ってたよ先輩。良かったぁ」
平積みされていた一巻をごそっと五冊分抜き取ると、ちょうど棚の一冊分のスペースが空っぽになった。
というわけで、これでめでたくこの店の『恋するメトロノーム』一巻は完売……
「これは……チャンスだわ」
「先輩?」
と、その状況に、詩羽先輩の目が妖しく光ったような気がした。
いや、『気がした』じゃない。こういうときは必ず何か妙な悪巧みをしてるに決まってるんだ。
「じゅ、一○冊!?」
「そう、今からあなたは店員さんに『布教するから恋するメトロノームの一巻を一○冊ください』と言うのよ」
たった今レジの人に『あの……全部同じ本ですけどよろしいですか?』と怪訝な顔をされつつ会計を済ませた詩羽先輩は、俺に更なる無茶振りを要求した。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 確かに俺、今まで全巻一○冊以上買って布教しまくったけど今は資金的にキツいよ!」
「……あなたが今まで私のためにそんな無茶をしていたという衝撃の事実にちょっとどういう顔したらいいのかわからないけれど、でも今お願いしてるのはそういうことじゃないの」
「そうなの?」
言ってることは相変わらず真っ黒だったけど、その瞬間だけ、先輩の頬はそれとは全然違う色になった。
「だいたい今、一巻は品切れ中なのよ? 私が全て買い占めたんだから」
「あ、そうか。でもだったら聞くだけ無駄なんじゃ?」
「いいえ、だからこそ聞く意味があるのよ」
「だから、どういうこと?」
「いい倫理君? もし向こうが『申し訳ありません、その商品はただ今欠品しておりまして』と言ったら『信じられない!』と大げさに騒ぎなさい。『あの霞詩子の名作を置いてない本屋があるなんて!』と罵りなさい」
「……その行動にどのような意味が?」
「そこまで大ごとになれば、きっとこのミスを反省して次回注文数はさらに跳ね上がるに違いないわ」
「だから人を倫理君呼ばわりするならその通りの生き方をさせてくれと……」
などと今さら嘆いても、俺が先輩のその手の“お願い”を断れるはずもなく……
「あの~すいません、『恋するメトロノーム』一巻だけ一○冊ありませんか?」
「もちろんございます! ただ今バックヤードからお持ちしますからしばらくお待ちください!」
「え? あ、ちょっと!」
と、俺が慌てて呼び止めるのも聞かず、店員さんは猛ダッシュでレジの奥へと消えた。
うん、とっても好感の持てる誠実な対応だ。だけど……
「…………あるって、先輩」
「…………まぁ、全部にサインしてあげるから」
「…………わぁいラッキー」
(了)
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