二重歩行管理局

和泉の国

第1話

目の前には沢山の人間が流れている。各々が様々な理由と目的によってどこかへ向かっている。何を着ているか、何を持っているか、誰といるか、それら全ての情報から判断したとしても、その人たちの全てを想像することが想像の域を出ることはない。

普通は目的地とならないであろう地下鉄の連絡通路。その行きかう人々の流れの中に男がいた。周りには沢山の店。柱や壁には沢山のポスター。壁にもたれている彼は大きな顔の前に尻や背中をくっつけていた。

青年はその横で少し上を見ながら人混みを視界に納めていた。

彼はさっきからこうしている。人の流れが途絶えることはなく、いっそう増すばかりだ。

平日だが、やはり人は多い。各々の時間に各々の目的を持った人たちが集まり、そして混ざり合う。一日はそうして過ぎていく。

どこからともなく流れてくる熱風のイヤな暑さに頭がくらくらする。 

行きかう人々。一日が終わりへと向かっていき、それにつれて、どこか浮かれた空気と云うもので空間が満たされているというのはわかる。

時間の感覚がマヒしてきたのを青年は感じていた。同じような風景が繰り返しているような感覚。もしかしたら自分は、知らぬ間に繰り返される時間の環に取り込まれてしまったのではないか?そんな三文小説の様な思考に自嘲しつつも若干現実味を感じたていたが、それを遮る何かが彼の視界に進入した。

その流れの中で、一瞬通り過ぎた「違うもの」を青年は見逃さなかった。

「あっ」

 と彼の声が漏れた時には、それは駆け出していた。後を追いかけるようにして濁流に飛び込む。

人々が放つ色や匂いに呑まれながらも、上手く空白を見つけて足を置いていく。見た目ほど混沌とはしておらず、ある程度の流れがあり、その流れに乗って人々は目的地に進むのだ。時には強引な路戦変更を必要とする。

 青年は走りながら、「違うもの」の姿を目に留めた。

 それは、もたつきながら、足を交互に前へ放り出す。肉付きの良い健康的な脚は白いオーバーニ―ソックスで包まれている。膝の上の小さなフリルが風を受けてざわつく。少女は走る。

短いが、しかし有り余るほどのフリルによって異常なほどボリュームのあるスカートからのびる脚はおぼつかない。地面を正確には捉えていない。およそ走る事を、いや、もしかしたら歩くと言う事にさえ適していない巨大なエナメルの赤い靴。こちらは装飾という点においてはシンプルだったが、形がそもそも装飾そのものだった。

少女は走る。薄暗い地下通路を。スーツや制服と言った、ユニフォームに包まれた人の濁流の中を不似合いの少女が一人駆けて行く。

スカート以上にデコレートされた服が体を包んでいる。あまり身体的起伏が少ない少女の体。それを強調しつつさらに補完する、そんな服。西洋のかつてのドレスを積極的に誤訳したかのような装飾の塊。それに包まれた少女。肘を曲げて不自然なまでに不格好な少女性を強調して走っている。乱れた息の連続の間から幼い声が漏れる。

地下通路を抜けて大通りに出ると、目の前の信号が点滅し始めた。青からそして赤に変わる。少女は、しかし立ち止まることなく、少し目を細めたが、そのまま交差点に進入した。前方につんのめりながら彼女は右へカーブしていく。重心の移動が上手くいかずに両手でざらついたアスファルトの上を滑りながら、華奢な身体を支えて、何とか転倒せずに曲がりきる。二つにくくられた長い髪の束がうねりながら、彼女のカーブの軌跡を描いていく。

息を荒げながらも彼女は走り続けたが、エナメルの靴がわずかな段差と合致し、壮大に身を投げて横転した。

「………っうぅぅっ…」

アスファルトに削られて四肢が血を流していた。痛い。とても痛い。寒空の中、吐く息と、その傷だけが熱も持っている。そして頬を伝う涙と、鼻水も。彼女は立ち上がりながら、ちらと肩越しに後方に目をやる。いる。男がいる。男の目はこちらを見ていた。

男もまた走っている。疾走している。安定したブレの無い走り。運動エネルギーの移行に無駄がない。男の髪が僅かに揺れているだけだ。規則的に動かされる手足は、多くの運動を内包しながらもしかしゆっくりと、細かな伸縮の総体としてのダイナミズムを表現していた。男の疾走にはまるで現実感がなく、いや、超現実とでも言うべき運動だった。運動の一コマ一コマを視認できるはずがないのに、はっきりと視認できる。男の運動を目撃した人間は脳があまりの情報量に処理オチを起こしてしまうのではないかという錯覚にさえ陥ってしまうだろう。あるいは現実にそうなってしまい、残像を残しながら瞬間移動しているように見えていたかもしれない。その様な運動を見せつけられた少女は全身で恐怖した。

「まだ…ま…だくくくくく…る!!!」

意味もなく口を開閉し、意味もなく目をせわしなく動かし、意味もなく頭を左右に振り、電柱に手をかけて身体を持ち上げると、また脚を前後させて駆けなおした。男との距離はまだあった、でも、すぐに追いつかれる。その考えが少女の頭の中を暴れまわっていた。気温によるものではなくて、緊張して血管が収縮して、なにかそういったもので顔や背中が凍え、胸の奥に内側から圧迫してくる何かを感じ、余計に息が荒くなる。

「ああ…ああ…だれか…」

うわごとの様に喘ぎながらも全力でとにかく少女は走った。途中幾人かとすれ違ったが、とうてい「普通」の服装では無い半狂乱の少女に声をかけるものなどおらず、皆道を譲った。もっとも彼女も彼らを拒絶するように、突き飛ばしながら駆け抜けて行った。

少女は信号を確認することもなく横断歩道から強引に車道へ飛び出した。彼女の右目に飛ばしてくるスポーツカーが映ったが、気にもせずに、まるで予測していたかのように地面を蹴り跳躍した。頭部を基点としながら、回転し、ふわりと宙に浮かぶ。少女の頭頂部のすぐ下を、車は甲高い音を立てながらスピンしていき、交差点のど真ん中で自分が進んできた方を向いて停車した。

運転手は思った。女をはねたと。しかし彼が頭を持ち上げると、フロントガラスの向こうに、見えたのは、走り続ける少女だった。

少女はどんどん男が迫ってくるの感じた。音が聞こえたわけでも、目視したわけでもない。ただ確実性を持って、訪れるべき事実としてそう感じる。

少女は、むき出しの背中と腰の大きなリボンとの間に手を伸ばした。右手だけを振りながら走るので、バランスが余計に不安定となり、その不安定さが、更に手元を狂わせ、望むものを取り出せずにいる。背中の汗と手のひらからあふれ出る汗とが合流する。

焦燥感と激しい呼吸との混乱の中でつかみ取ったそれを彼女は突きあげるようにし頭上へ振り上げると、その一連の動作の当然の結果であるかのように少女の体は宙に引きずり挙げられた。少女の手に握られていたのは小さなステッキで、それはワザとらしいほど安っぽさがにじみ出ていた。僅かな光からでも十分わかる貧相なプラスチックの光沢と、パーツの接合部が丸解りな雑な仕上げ。なによりデザインそれ自体が、最大公約数的なものだった

ああ助かった。とりあえずは凌いだ。万事は休せず。そう思った。しかし、自分の足首に圧を感じた瞬間、その思いは少女の頭から飛び出す事は無かった。

重力とは、こうも強力であったかと脳髄に叩きこまれながら、地面に叩きつけられた。

「…うぐぅッん!!!」

少女は肩で泣きながら、思考を止めてただ這った。自分の後ろには男がいる。わかる。わかるが、だが、何だと言うのか。少女は力の限り、息も絶え絶えにただ這った。

「ふ…うぅあわ!!!っっっふうぅん、う、ぐぅ、はぁ…」

後ろに感じた男の存在がどういうわけか感じなくなった、代わりにそれは前に置換されただけだと言う事を、目の前のスニーカーを見て知り、見上げた先に見下ろす目があったことで現実となった。

「た…たすけ…」

「…助けるも何も、あんた、そういうものじゃないだろ?」

男はポツと言葉を見上げる少女の顔に垂らした。

「…は…ん?」

表情が抜け落ちた顔が固定する。

「金にはならないけど、俺も生きる為に必要なんだ」

男はグローブのはめられた手で、髪でぐるぐるに覆い尽くされた顔に拳を打ち込み、思い切り少女を殴り飛ばした。近くの壁に叩きつけられて、波打つ少女の身体、そして揺れる髪からのぞく顔には顔がなかった。頭部はあるが、しかし顔は無かった。

 もう一度”顔面”に一発叩きこむと、金属とガラスで作られた、スティック状の物を、そのまま顔に突き刺した。

 痙攣する少女を抑え込んでいたが、しかし、やがて少女の表面は揺らぎ始め、輪郭が融解していった。そのドロドロの気体は、顔面に突き刺さっていたものへと、それが物理的に自然であるかのように流れ込んでいった。

男は、それで満たされた物を手にとって眺めた。粘度をもった何かが渦巻いているのが見える。

「原液のままじゃ流石に拙いが、これで一カ月分ってところか。後は先輩に任せよう」

男はそれを無造作に上着の内ポケットに突っ込むと、再び元来た方向へと戻って行った。

 駅へと到着したときには、終電の時刻をとうに過ぎていた。


 [1話]

 空はまだ暗い。遠くの方では微かに白み始めているが、十分な明るさとは言えない。

 遅々とした始発を乗り継いで、ようやく付いた頃にも、空はまだそんな調子だった。

 年代物というには幾分腐敗が進みすぎている、傷みきって痛々しいアパート。そこの六階に彼女は住んでいた。

 エレベーターが嫌いだった。俺はエレベーターを信用していなかった。小さな時に何かあったのかもしれない。だが何も覚えていなかった。ただ気分が悪くなった。それだけだった。

 トントンと虚ろな薄暗いどこまでも続く階段に音を響かせながら歩いていく。六階の高さと言うものは意外と知れている。人がイメージする六階よりも実ははるかに容易いものなのである。しかし六階に登り終わった頃にはその考えを否定しなくてはならない。意外と高く感じる。眺めに関しては。

602号室。バシバシとドアを叩く。コンコンと叩いているつもりでも大袈裟な音がなる。

「開いてるから~」

 そっとドアを開けて中に入る。

「おはようございまーす、先輩」

 奥の部屋からアイドルグループの当たり障りの無い音楽が控えめな大音量で流れてくる。

「あぁ?あー実篤ね、オハヨウゴザイマス」

 先輩がジーンズにティーシャツ姿で机の前に胡座をかいて座っていた。

「先輩、またこんなに散らかして」

 広げられた雑誌や、開きっぱなしのコスメグッズ、積み上げられた漫画の間を縫いながら彼女の元へ足を進める。

「いいやろ、別に。あんたの部屋とちゃうんやし」

「まあ、そりゃそうですけど」

 ぐるり部屋を見渡した後に作業台とおぼしき机の上に目を落とす。

「っていうか、あたしはもうあんたの先輩でもなんでもないけどな…それにしても、昼でも夜でもおはようございますっての、お互い昔の癖やな」

「そうですね。ただ、もう一応朝ですよ」

 先輩は一瞬、虚を衝かれた様な表情を浮かべると、ざんばらな髪を掻きながら外に目をやった

「…朝だね」

洗面所に目をやると、裁ちばさみと髪が散らばっているのが見えた。この人は、また自分で髪を切ったのだ。

「美容院とか行けばどうですか。髪にお金ぐらいかけても良いでしょう。一応女性なんですから」

先輩はじっと何もない壁を見詰めた。

「うるさい。あたしの勝手やろ」

 視線を自分の足元に向けると、器用に歩いてきたはずだが、漫画が存在した。

「まだこんなもん読んでるんですね」

 明らかに、ノーマルではない表紙、裸体の女性っぽい男性が危なげな表情で抱き合っているイラストが展開している。

「あぁ?いいやろ、べつに。好きなんやから」

「まあ良いですけど」

「それも、お客さん用ですか?」

 漫画を脇によけると、もう一度作業台を眺めた。半壊、いや部分懐とでも言うべき状態の人の身体、人の様な身体が横たわっていた。どこか不健康、でも病気というわけでもない肌の白さ。少し強調された目もととふっくらとした唇は、やはりさっきのアブノーマルなイラストと同じような印象を与える。だがさっきと少し印象が異なっている、どちらかと言えばより中性的な印象が強いのは、その身体が子供のものであったからかもしれない。

「ん?あぁこれね、そうそうなんか急に「起たなくなった」って」

彼女はその人形の局部らしき控えめなシンボルを興味無さげに、人差し指でつついている。

「はぁ……」

 俺はその様子をなんとなしに見つめた。

「こんなもん、人形には何の問題もないのになぁ。それでいて精神的な問題なんやで。笑けるやろ」

「そんなこと言っていいんですか?」

 反対側に回ると、しゃがみこんで水平にその人形を見た。頼りなく垂れ下がる右手にそっと触れてみる。思ったほど無機質な感触では無い。かといって生物学的なリアルさもない。そこにあるのは季節の変わり目にありがちな、あの不自然な生暖かさ、そう言った類いのものだった。

 人のそれに似てはいるが少し違う弾力性。決して不快ではない。顔。とても愛らしい。だが違う。違っていることはなんら問題ではないのだが。

「いいの、いいの。こんなもんどうせ機械なんやし」

「機械ねぇ」

 俺は立ち上がるとテレビのスイッチを入れた。当たり障りの無い番組が流れている。本当に当たり障りない。

「それより、あんたちゃんと持ってきてくれたん?」

「はいはい。これ。何体か回収してきました」

 振り返りながら、羽織っていた黒のミリタリーブルゾンのポケットから、ベポライザーを3本取り出す。色はどれも同じで、等しく濁っているものがガラス管の中でゆっくりと動いている。

「おぉ~いっぱいあるな」

 興奮する彼女を横目に出来るだけ冷静な様子でベポライザーを人形の傍らに置いた。彼女の妙なテンションに呑み込まれやすい。俺はいつも冷静でいる様に努めている。しかし努めているという自覚がある時点で、実際は内心彼女と同じテンションになってしまっているということは言うまでもない。

「それより、これっ。今回はどこで手に入れてきたん?あの、詐欺みたいな霊媒商法まだ続けてんのか?」

 ベポライザーの先に管を繋ぐと、それを蒸留機の様なものに繋ぎ、いつもの作業を始めた。長い管を通って、ポタポタと薄いコーヒーみたいなものがペットボトルへと滴っていく。

「霊媒って…」

「だって、そうやろ。二重身を幽霊って嘘ついて、それを徐霊します!って詐欺やんか。あんた、ほんまに幽霊出てきたらどうするん?」

俺はため息をついた。どっちだって同じことだ。

「見えない人にとっては、何だって一緒でしょう。人から出てきた怨念のかたまり、言わば生霊ですよ。説明なんて、何でもいいんです。それらしく見えれば。何だったら、宇宙人の仕業って事にして、それを退治しても良いですよ」

先輩は滴る液体を眺めながら答える。

「あんた、それはいくらなんでも盛りすぎやろ。宇宙人退治するんやったら、めっちゃ小道具に苦労するで。それこそ今みたいな、紙切れをお札なんて言って売りつける商売は成り立たんで」

そう言われると、俺の良心は少し傷つく。実際売っている者は本当にただの紙なのだ。

「俺は、紙切れを売ってるんじゃなくて、安心を売ってるんですよ」

「出た、詐欺師のセリフ!」

先輩は俺をやる気なさそうに、とりあえず指をさす。

「実際、問題は解決してるわけですから、呼び方なんて何だっていいですよ。重要なのは人が信じやすい設定ですよ。だいたい二重身っていう名前自体、地元の伝承じゃないですか。それだって怪しいもんですよ。そう呼んでるのは、僕らだけな訳だし」

先輩は相変わらずポタポタ滴る液体を目で追って、まるで数えているようだ。

「まぁ、そうやな。あたしらかって未だに魔女先生に騙されてるだけかもしれへんで。魔女先生どうしてはるんやろうな」

先輩の口から、魔女先生の名前を聞くのは久しぶりだった。

「先輩、連絡とか取ってるんですか?」

先輩の目が滴りを追うのを止めた。

「いや、鏡花がいなくなって、地元を離れてから…あの時から、一度も」

鏡花姉さんの名前を先輩から聞くのも、また久しぶりだった。お互い避けていたわけではないが、話題には登らなかった名前だった。

「そうですか…」

先輩は再び滴りを目で追い始めた。

「それで、今日は来るの遅かったな。もぅ日超えてるで」

沈黙が終わり、俺は少し安堵した。

「ちょっと、たまたま見かけた二重身を追ってたら終電を逃しちゃいましてね。コスプレみたいな女の子の形でしたよ」

「へぇ。まぁ、だいたいそんなもんやろ。コスプレみたいなやつばっかりや」

 弧を描く目と口元が俺の方を向く。

「まぁ、そもそも二重身なんて、人間の心が耐えきれなくなって吐きだした、ものやしな。そんなものが普通なわけがない。皆、歪な形やで」

 俺は先輩の目からのがれる様に身体の向きを変えた。

「人間の心の中って、綺麗なものは無いんですかね。何かへの想いって、どうしてこんなに醜く歪で…」

続きを遮るように先輩が続ける。

「綺麗なものもあるかもしれん。あたしらが知らんだけでな。あたしらは、ああいうものが見えて、触れれる時点で、真っ当な心はもってないで。あきらめや」

落ち着いた口調で、丁寧に吐き捨てるように言った。

「あきらめてますよ。俺は、人へ心を向けることを止めましたから。どれだけ心を向けても、相手の事を全く信用できず、疑念が拡がり続け、自分でもどうしていいか解らなくなる。相手に色んな事を求め過ぎて、最終的には相手も自分もボロボロになって」

先輩は、抽出が終わったのか、ペットボトルに刺さった管を空のベポライザーへつなぎ直した。

「そして二重身が産まれると。皆そうやわ。あんただけとちゃう」

 彼女は床に散らばった雑誌の一つを膝の上に置き、なんとなしにページを繰っている。

「あたしも、似たようなもんやからな。思い知らされたから、色々と」

 雑誌をまた放り投げると、物陰に隠れていた人形二体を抱き寄せた。台の上に乗っているものとほぼ同サイズの二体もまた幼い少年の容姿を備えていた。心なしか大人びて見える黒髪の一体、その横でナヨナヨしている茶髪一体。

「そんな人形二体も抱えて……」

 人間と対比させると彼らの小ささは一際強調された。お互いに儚げに手と手を取り合い、寄り添っている。様に見える。

「かわいいやろ?」

 くしゃくしゃと撫でられた髪は人間のそれである。無邪気な笑みの様なものを浮かべる二体の人形。奇妙だ。ひどく奇妙なのだ。だがその奇妙さとそうではないこととの境界の触れ合いが愉快だった。

「その二人もチチクリ合ったりするんですか?」

「しねーよっ!」

「しないんですか」

「するわけないやろ!この子達はね、めっっっっちゃっ、純粋な子らやねん。わかる?」

顔を突き出しながら、顎で挑発する。

「はぁ」

としか言えない。

「わからんとは言わさんで」

「まぁ……」

「わかるやろ?こぅ、な?手と手が触れるだけで胸がトキメキ、近づきたいけど近づけない純愛!」

「純愛……」

「そう純愛」

「純愛、純愛って、先輩、もういい歳なんですから結婚して、家庭でももって落ち着いたらどうですか。それこそ子供でも産んで…」

地雷を踏んだと解った。先輩の顔は気だるげな笑顔だったが、目に光は無かった。

「はぁ?結婚?っていうか子供産むってなに?」

 こうなったら、逃げられない。俺は腕を後ろで組みながら柱にもたれ掛かった。

「お腹痛める?お腹痛めるってそりゃあ結果論やろ」

「そこまで言ってませんて」

 彼女は特に激怒するわけでもなく、少しの興奮を内包しながら声の調子を上げた。

「初めはセックスやんけ、セックス」

 そう言いながら作業を再開し始めた。ベポライザーの先端に、霧吹きのノズルの様なものを取り付け、台の上の人形全体に塗布していく。

「セックス、セックス連呼せんで下さい」

見た目は何も変わっていない、はずだが人形は段々と人間と同質に、その境界ギリギリまで近づいて行っているように見える。

「私の子供はこの子達よ。私がどれだけこの子らの事を考えて組み上げたと思ってんのよ。少なくとも出発点は性欲じゃないわ」

 人形を持ち上げると、彼女は近くの小さなゴシック調の長椅子に座らせた。

「はぁ」

「でもね、素敵な奥さんになって生きるってのもなかなか悪くはないと思うわ。うん。でもあたしには無理やな」

 そう言いながらまた、気だるそうに作業台の前に腰を降ろして胡座をかいた。

「先輩だってまだまだ若いでしょ」

「若無いわ」

ベポライザーを無造作に台の上に投げ出すと、彼女は何かを観察するようにボーっと台の上を眺め始めた。

「そうですか?」

 長椅子に座らさせられた二体に目をやると、再び視線を彼女の手元に戻した。

「……っていうかあんた、さっき「いい歳」って言ったとこやろ!」

 彼女はワザとらしいしかめっ面を向けた。いつもだらしなく開いた口が余計にしかめっ面を誇張している。

「そうでしたね」

 その表情も見慣れたもので、俺は何故かたまらなくそれが好きだった。わざと気に障ることを言いたくなるのも、そのせいかもしれないと、目の前の彼女を見ながらふと考えた。

 そうすると自然と笑みが溢れる。二人で目を合わせて、数分の沈黙。

俺達を見ているのは人形だけ。当たり障りの無いアイドルの歌声と、それに混ざりこむ冷蔵庫の無機質な低く震えるような音。

どちらからでもなく、モロー反射の様にお互いニヤリと笑う。

「そう。それにあたしずっと夢見てたいし」

彼女は一呼吸置いてからまた作業を始めた。脇にあったノートパソコンの前まで行くと、キーボードを軽く二三回叩いた後に、何かをタイプし始めた。

「夢ねえ」

画面をそっと覗くと、誰かと連絡をとっているようだった。

「もうすぐ今の仕事終わるからその辺に座っといて」

 俺は人形用の隣にある、人間用のソファに腰掛けた。上着をひじ掛けに畳んで乗せると深く身体を沈めた。テレビではニュースが流れ始めている。

 先輩は人形を抱きかかえると、台の下に置いてあった毛布で丁寧にくるみ、スーツケースに梱包し始めた。遠目から見ると、まるで死体遺棄の現場だ。

「人の感情なんて、ぜーんぶ、ものっそい主観やのにな。誰かの気持ちなんて結局は観測できひん。全部、考えてる本人の中にしか無い。そう想うと、二重身ってのは、想いって言うよりも、本人が決定した世界の住人なのかもしれんな。まぁ、だから、こうやって仕上げられた人形は持ち主が望む人形になるんや。見た目は何にも変わってへんけどな」

人形の入ったスーツケースを、彼女は再びボーっと見ている。

「先輩、俺のやってる事って社会の役に立ってるんですかね」

「さあ。なってるんちゃう」

「昔から何か人の役に立つ事がしたかったんです。結局自分一人だと自分に何も価値が見い出せない人間なんですよ。今も。廻りにどんなに親しい人がいてもまったく信用できなかったんですよ。なんていうか、なんで自分の廻りに人がいるのか理由がわからない、って。今じゃ誰もいなくなりましたが」

「お前、喋りすぎ」

先輩は作業を止めることなく、相槌を打つように突っ込みを入れていく。

「すいません。ちょっと風邪薬のせいでハイになってるんです」

「あんた、今の風邪薬っての、ほんまの風邪薬やんな?なんかの隠語とかじゃないやろな?」

「違いますよ」

「ふーん、まあ良いけど。そんな深く考えんでもいいんちゃう」

「そうですかね。っていうかそう言って欲しかったんですけどね」

「あっそ」

言いながら、スーツケースのふたを閉め、鍵をした。

「はい、できました~。かんせーっ」

先輩は頭の上で手を叩いてみせる。

「かわいかろ?この子も。でも実篤、商品やから手出したらあかんで」

そう言いながらニヤリと笑みを浮かべる。

「出しませんよ」

意味のない会話を遮って柔らかい電子音のチャイムが鳴った。

「はい、はーい。実篤、ちょっと玄関出て。たぶんこの子のオーナーやから」

そう言いながら彼女は台所の方へと歩いていき冷蔵庫のドアを開けた。

「ちょっ、仕事ギリギリすぎるでしょっ!っていうか完璧僕待ちだったじゃないですか。僕がこなかったらどうするつもりだったんですか」

俺は、自然と大げさな身振りになっていた。

「さあ、そん時はそん時やろ」

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップになみなみ注ぐ。先輩は特に偏食家というわけでもなかったが、水とお茶以外の飲み物は口にしなかった。ジュースもコーヒーも、酒も。

「昔だったら信じられない言い草ですね」

「あぁ?あぁ、まあねぇ。あの頃はしっかりしてたと思うよ。あたしも」

飲み干した空のコップを遊ばせながら歩いてきた。

「あのときの僕がおんなじこと言ってたら絶対しばかれてましたね……って、痛っ!」

本気とも遊びともつかない力の塩梅で先輩は俺を蹴り飛ばした。

「あほちゃう?今でもシバクはボケ。さっさとドア出て」

コップを持った手で軽くあしらう。

「はいはい……」

俺は少し襟をたて、服装を整えると、スーツケースを持ち上げた。ズシリと重い。足取りがその程度でふらつくことはなかったが、慎重に玄関まで進んだ。

玄関脇にスーツケースを置き、ドアノブに手をかける。何となしに振り返ると、部屋の奥にいる先輩が見えた。俺はもう一度手元に視線を落とすとドアを押しあけた。

「あー、その人形を…受取りに来てくれた人…ですか?」

恐る恐る言葉を探りながら訪ねる。

「あ…はい」

そこには一人の少女が立っていた。黒いショートカットで髪を真ん中から分け、その中心に程良く配置された奥二重の眼は始終泳いでいた。

 足でドアストッパーを下ろし、半身前に乗り出し、スーツケースを彼女の側へ置く。

「重たくないですか?女の人が持って帰るには」

「あの、下に車留めてあるんで…」

「ああ、なるほど…」

二人の間に沈黙が流れかけた瞬間、奥から先輩の叫び声が聞こえてきた。

「あの、「テリヤキ」さんとはお付き合いなされて…いるんですか?」

「テリヤキ?あぁ、彼女のことですか、いやその同棲してるとかそう言うのじゃなくて、僕は今日たまたま部屋に寄っただけで…」

「ああ、そうなんですか。良かった…」

「良かったですか…それは何より」

スーツケースと鍵を渡すと、彼女はその場でふたを開け、中身を確認した。

丁寧に梱包されており、中身は見えないはずだが、彼女は満足げな表情を浮かべている。

「それじゃあ私はこれで…これ、お代です」

少し厚みのある封筒が差し出された。

「失礼…」

数の中から札束を引きずり出し、軽くめくって見る。

「確かに」

「ええ…では」

「では…」

スーツケースを引きずりながら少女は去って行った。まだ学生のように見えた。人形の購入費にこの改造代。とんでもない金額というわけではないが決して安い買い物ではない。むしろ高級品に分類される。最高の無駄。そういうもの。彼女はその金をいったいどこから手に入れたのだろうか。俺はもう二度と会うこともないであろう少女と、その少女の「愛玩」に利用される人形の未来に思いを巡らしながら誰もいない薄暗く、寒い、玄関の向こうに拡がる空間を見つめていた。

 間接照明の薄明かりの中、先輩の横顔が浮かび上がる。やわらかくて鋭いそのラインは何かまだ彼の知らない何か、強さを強調するための弱さが内包されているように感じられた。少し険しい表情を浮かべている。眉が鋭利に吊り上っているが、そこに威圧感は無い。それからは程遠い。思考を感じる。

 何かを考えている、それが一体何なのかは彼にはわからない。即物的な意味での近接的な思考を巡らし、悩んでいるのかもしれない。もう少し遠くの未来を見つめているようでもある。あるいは先の時間へは思いを巡らせず過去に没頭している可能性もある。そして、先でも後でも無く、進行のない今にとどまり続けている―機能停止状態にあるのかもしれない。とにかく彼女の表情にはロールシャッハテスト然りの不可思議さが滲み出ていた。そう感じていたのは俺自身の内にあるであろう精神の揺らぎに依存しているという、何もかもが無に還元されてしまう危ういものかもしれない。少なくとも俺自身はそれを自覚していた。

 そんな彼女を見つめていると、ひどく鬱な気分になる。この彼女の一瞬はすぐにどこかへと消え去って行き、記憶の中で最低限の情報と、思い返す度に加えられる歪な協調によって原型を知るすべはないのだと。

「先輩、顔が真っ青ですよ」

 ソファに腰かけながら先輩の顔を見上げた。近くで見つめると、彼女の表情に甘い空想を寄せることは俺には出来なくなっていた。見上げた彼女の顔は寝起きの様な油断さが満ちており、それは緊張が皮膚から抜け落ちているようだった。痛々しさが見て取れた。

「先輩、疲れてるんじゃないですか。休んだ方がいいですよ」

彼女は大きく息を吐いて向かいの椅子に崩れた。

「そうやな…そうかもしれんなぁ…。」

「風邪ですか?」

口にくわえたストローを甘噛みしながら二体の人形が眠っているのを眺めている。

「たぶん…。でもあたしって、半分は気合で生きてるような人間やからな、なんとかなるとおもうねんな」

先輩は視線を天井に移すと身体を小さくゆすった。

「なんとかって…」

「なんとかよ。気合いなんやから」

「はぁ」

「だってな、あんた病院なんか行ってみいや。絶対断言されるで。そしたらな、あたし、もう気合で治されへんようになるやろ」

「そんなもんですか?」

「そうや」

 二人の間に沈黙が注がれていく。

 たった数十センチの距離。目測での距離に意味などなかった。眼の前には物理的な空間しか広がっていない。俺には未だ彼女との間にそれだけのものしか見だせなかった。しかしふとした瞬間に訪れた沈黙が物理現実によるものの見方から解放する。媒介としての静けさを彼女に悟られないように密かに身体に招き入れた。それが俺の内なる栄養となった。それにより彼女を信じることができた。

「じゃあ僕はそろそろ行きますよ。朝から、詐欺の予約があるんで」

立ち上がり、ブルゾンのジッパーを首元まで上げ、ボタンを留めた。襟元を少し整え、彼女に背を向ける。

それに呼応するように先輩も立ち上がり、Tシャツの裾を整えた。

「先輩、寝ててくださいよ。見送りとかいいですから」

「え、あたし、ただ水入れようと思っただけやけど?」

そう言って無表情に俺を見つめ、それかグニャグニャと笑みを浮かべた。

「嘘やって、はいはい、見送ったる、見送ったるって」

「いや、いいですけど…」

一秒ほどの空白の後、二人は玄関に向かって歩きはじめた。人形の脇を通るとき、彼らを起こさないように自然と抜き足になっていたが、彼らを背にした時にそれがあまりにも無意味でお笑いな所作であると実感した。

白熱灯の不明瞭な彩度の下で靴の紐を結ぶ。オレンジのラインが本当は何色だったのかわからなくなる。お気に入りの汚れ一つない白とオレンジのスニーカー。色が反転して見えてくる。それもきっと気のせいだろう。紐を適度な強さで締め上げる。

「ちゃんと薬飲んでくださいよ」

「飲んでるわ」

ドアに手をかける。きっとこのドアの先にはさっきと同じ光景が広がっているのだろう。一体の哀れな男の子の人形を詰め込んだスーツケースを引きずっていったあの世界が。さっきよりは幾分明るくなっているのかもしれないが。

「え?」

ドアを開けきらずに振り返った。

「だから飲んでるって」

先輩は壁にもたれかかりながら小首を気だるそうに傾げた。

「それならやっぱり病院行ってくださいよ。ほんとに…」

俺も同じように傾げた。手のジェスチャー付きで。再び沈黙。その一瞬を見逃さない。それを舌の上で転がすとドアを表に押し、一歩踏み出した。

「なぁ」

先輩は喉だけで小さく声に出した。

「なんです?」

今度はドアに背をもたらせて

「もし私が死んだらどうする?」

「死にませんて」

「いや、死ぬ」

「死にませんて」

「じゃあ、お疲れ様です。お大事に」

「…実篤。あんた、一人で、もう大丈夫なんか…」

地雷を敢えて分で行く人なんだ。

「叶わない想いなんて、麻薬みたいなもんですから。それに、あれから9年ですよ」

俺はもう高校生じゃない。俺の傍らには、もう誰もいない。

「そうやな…。そうや、これ、今週の分。空が3本と、あんたの補充分が3本」

紙袋に無造作にベポライザーが放り込まれている。

「ありがとうございます。さっきのコスプレ女を捕まえるのに、結構消費したんですよ」

俺は充填された一本を取り出して加えると、一気に吸い込んだ。

「あんま無理しいなや…」

先輩は相変わらず感情のこもらない声でそう言う。

「でも、先輩は姉さんが好きなんでしょ…今でも」

無言

「じゃあ行きます」

離れようとする、と

「なぁ」

「なんです」

「今度飲みに行こうや」

「別にいいですけど、先輩は飲めないでしょ?っていうか、スマホ。連絡できるように充電くらいちゃんとしておいてくださいよ」

力無く先輩は手を振っている。

「うん。じゃあおやすみ」

「おやすみなさい」

俺はアパートを後にした。


***

あの日も、俺たちはいつもの様に、そこにいた。

息をするだけで、暑さが身体の中に入ってきてしまうかのような夏の日。

「実篤、私たちの可能性は無限大なんだ。何だってできる。」

俺の名を呼ぶ、鏡花姉さんの顔はどこか自身に満ちていてその顔を見ているだけで、何だってできる、そんな気分になれた。

彼女の側にいる事の心地よさと言うのは、そういうところに由来しているのだと思った。

彼女はいつも笑っていた。それは何かが可笑しくて、楽しくて、そういう笑いじゃなくて、かといって全てを慈しむ様な慈愛に満ちた表情でも無くて、ただただ、何も悲観する事が無い、そんな表情だった。

姉さんとは、本当の姉さんの様に高校に入る日までは、田舎に帰る度に夏を過ごした。

進学先の高校を指定したのは親だったが、地元を離れてまで田舎へ来たかったのは、姉さんと一緒に過ごせる期間が増えると思ったからだ。

姉さんは揺れるカーテンの向こうに見える、窓の外の景色をぼんやり眺めている。

抜ける様な夏の空。何も無い空を、見つめている。

「若者は、可能性の塊なんて言うけど、どうなんだろう。まだ何も決まっていないモラトリアムだから、その先に何かが拡がっている、そういう蜃気楼を見ているだけなんじゃないか、俺はそう思う」

言葉を聞いて鏡花姉さんは立ち上がる。

「実篤は何かになりたくないのか?成りたいものは無いのか?今なら何だって始められる。何にだってなれる。何だってできる」

「わからないね…成りたいものは解らない…それに俺の中では、成れるものになるしかないんじゃないかって気がする。初めから全部決まっていて、そこに行くまでの過程は選べるけど、結局落ち着くところは同じなんじゃ無いかって」

「その過程に、価値は見いだせない?」

「見いだせるほどの何かを、まだした事は無い」

「実篤なら何だってできるよ、あたしが付いてるから。だから、何か始めてみなよ」

そう言って姉さんは、頭を撫でた。

***


俺は、未だに何にものにもなれていない。

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二重歩行管理局 和泉の国 @izumi_kuni

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