救世主の代わり

~1~


 グレイは何度目かになる目覚めを迎えた。レッジに真実を告げられた後眠って以来、自然に起きたり医師に起こされたりしては、またすぐに眠りに落ちてを繰り返し、彼はようやく睡魔を感じなくなった。朧気な記憶から、朝と夜を幾度も経た実感があった。

 まだ頭の中で情報の整理が忙しく行われているのか、軽い頭痛がする。空腹も覚える。眠ったまま何日も飲まず食わずなのかもしれない。初めてこの病室で目覚めた時と同じような緑色の管と、ベッドの脇の水晶体が栄養を供給してくれてはいるようだが。

 ここ数日は身体も動かしていない。グレイが上体を起こすにも、背中やら腰やら腹やら腕やらが鈍く痛んだ。彼は初めて水晶体を見た時のことを思い返し、今一度その無色透明な塊に触れてみる。すると、以前と同じように全身の管は抜かれた。

 グレイは自由となった四肢を用い、立ち上がった。虚弱になった脚がふらつき、自身の体重を支えられない。何かに掴まらないと歩くのも辛かった。

 院内はまた慌ただしい様子だ。赤や黄、青などの色衣を纏った医師団が、雪崩のように過ぎていった。グレイはその中にレッジの姿を見つけ、彼に呼び掛けた。当人も今しがた目覚めたばかりの患者に気づき、足を止める。


「おお、起きたか! 色々と話してやりたいのも山々なんだが、生憎と今は忙しくて手が回らない。一足先に目覚めたレインに大方の説明は済ませてある。詳しくは彼女に聞いてくれ。この階の531号室だ」


 レッジは切羽詰まった調子で言うと、グレイの歩行障害を認め、患部に掌をかざした。すると、彼の脚の震えは忽然と消えた。同時に身体を襲っていた異常の諸々から解放され、グレイは元気と自由を取り戻した。食事と水分ばかりは自力で摂ってくれ、と言い残し、レッジは長い廊下を駆けていった。

 グレイは騒然としている院内を健全となった脚で歩き出した。何やら怪我人が大量に運ばれてきているらしく、純白な廊下は赤黒い血液でところどころ汚されていた。誰かを乗せた寝台と何度もすれ違い、その度にグレイは鉄の錆びたような異臭に顔をしかめた。一体、何が起きたのだろう――この世界に来てからというものの、いつも困惑している気がして、グレイは自嘲気味に笑った。

 人や機材とぶつかりながら、グレイはようやく目的の場所に到達した。531号室である。出入り口の扉の脇で、彼女の名前が書かれた札が壁に掛かっていた。グレイは、ふと元の世界を思い出した。

 グレイは3度ドアを叩いた。


「どうぞ」


 間もなく朗らかな少女の声に許され、グレイは部屋に入った。目覚めた自室と変わらない内装の白い部屋。その奥の窓辺に設置されたベッドに、レインは腰かけていた。


「あ! グレイ!」


 レインは平然と言ってのけた。電車では彼の本当の名前を知っていた素振りの彼女が、躊躇いなく彼を『新しい名前』で呼んだのだ。


「あ、ああ。レッジさんに会ってさ、この世界のことは――レインに話しておいたから、聞くなら君にって言われたんだけど……」


 驚愕を隠せず、グレイはここに来た訳を伝える。その場の流れで彼もレインの『名前』を呼んでみるが、やはりぎこちない気がする。よくもまあこんなに早く慣れられたものだ、とグレイは思った。


「うーん……私も今さっき聞いたばかりだし、現実離れし過ぎて頭がこんがらがってるんだよね――うん、でも頼られたからには、私が聞かされたことは全部教えるよ。分かりにくくても責めないでね。私だってあんまり分からないんだもん」


 レインは念を押すように言った。だがその言葉とは裏腹に、彼女が現状に困惑しているような様子はない。どこか、元の世界とこの世界との格差を認めてしまっているような、受け入れてしまっているような妙な落ち着きが、その佇まいに表れているようにグレイは感じた。


「私たちが元の世界から召喚されて今ここにいることは聞いたよね? その召喚の魔法は古くから伝えられてる謎の多い技術の一つなんだけど」

「待って――今なんて言った?」


 早々、グレイはレインの話を遮った。いくらこの世界の常識が自分たちの世界の法則とかけ離れた次元のものだとしても、こればかりは聞き返さずにはいられなかった。


「魔法だって?」

「うん。この世界には、私たちの世界のゲームとかアニメとかで見るような魔法があるんだよ。しかも割りと世間に浸透してて、使える人も多いみたい」


 平然と答える彼女の語調が、グレイにはどこか機械じみて聞こえた。一体、どんな話をどんな精神状態で聞いていればそのような調子でいられるのか、彼には理解できない。あるいは自分の適応力が不足しているだけなのかもしれないと、グレイは自身をも疑うが、しかし森から助け出された時に目撃した掌から発射される火花や雷の類いを思い出し、その架空の存在と思われていたものの肯定を余儀なくされた。

 グレイが『ごめん、どうぞ』と言うと、レインは先ほどと変わらない調子で続けた。


「で、その召喚なんだけど、別の世界からこの世界に送る方法は解明されているんだけど、この世界から別の世界に送る方法は、まだ研究してる途中ではっきり分からないんだって……不可能ではない、ってことは確からしいんだけど」

「じゃあ……今すぐには帰れないのか?」

「そうだね――」


 グレイは落胆し、レインの脇のベッドに腰かけた。涙が溢れ出そうな瞳を隠すため、頭を抱えて踞る。深い絶望に押し負けそうだった。レインが隣に座って自分の肩にそっと手を置いたのにも、彼は無反応だ。


「でも私たちや、あの原っぱにいた人たちの身体には召喚魔法を使った人の痕跡が残っているかもしれないらしいの……あの土地そのものにも。だから、怪我人の治療が終わったらあそこに行って、レッジさんたちが調べてくれるって」

「怪我人……?」


 グレイは上ずった声で訊ねた。


「私たちを助けに来てくれた兵隊さんがいたでしょ? みんな、あそこにいた怪物――クラウズを町から遠ざけようと懸命に戦ってたの。この病院にいっぱい怪我人が運ばれてくるのはそのせい。グレイが眠っている間、何日間も騒ぎが治まらなかった。もうそろそろ重体の患者さんの容態も安定して、医療チームが調査班と合流できるって。私たちの身体から採ったサンプルと現地に残ってるサンプルとを比べるんだって」

「……あそこにいた他の人たちは?」


 グレイは恐る恐る訊いた。彼は救出されて以来、まだ一度も自分とレイン意外に草原にいた人々を見かけた覚えがないことに気づいた。彼らが無事であるという報せも聞いていない。途端に不安になったのだ。

 グレイがレインの眼を直視すると、彼女は視線を逸らした。瞬間、グレイは全てを悟った。あの場所に居合わせた――召喚に巻き込まれた人々は、自分とレイン以外、全員死んでしまったのだ。否、まだ死んだと決まったわけではないのかもしれない。遺体が確認された人もいれば、存在を認知されていないだけで行方不明となっているだけの人もいるだろう。

 そんな希望的観測すら、この世界の法則の前では無意味なことを、グレイは直後に思い出した。この世界では、この世界に存在として定着しているための符号――名前が必要である。元の世界での名ではなく、この世界で生きるための新たな名前だ。それがない限り、彼らは存在として不安定であり、いつ消えてしまうかも分からない……逃避行の果て、幸運にも誰かに助けられたとしても、名付けられなければ彼らはいずれ虚無になる。自分やレインは、ただラッキーだったのだ。


「そ、そういえばさ、俺たちをここに運んでくれた人がいたじゃん。彼はどこ? 一言お礼を言いたいんだ」


 重苦しい雰囲気を打破せんと、グレイは話を切り替えた。レインも暗く沈んだ面持ちを正し、先ほどのような快活な調子に戻って答えた。


「ああ、ウィルWILLさんは調査の人たちとあの草原に行ってまだ戻ってないよ。ウィルさんは私たちをここに運んでくれた後、増援を連れてあそこへ戻って、最後まで戦い抜いたの。だから私たちの事情とあの土地の状況を、今のところ私たちを除く誰よりも知っているから、参考人みたいな立場で付き添ったって」

「じゃあ、そのウィルさんが持ち帰ったあの場所のサンプルがあれば、俺たちのサンプルと合わせて誰が召喚主か特定できるんだな?」

「そう。私たちのサンプルも同時進行でレッジさんが調べてくれてるから、あとは時間の問題だね」


 グレイはこの世界の事情云々を聞かされている中で、初めて安堵を覚えた気がした。元の世界に戻る手立てはないらしいが、どうやら事の真相は着実に解明されるようだ。理解し難い状況下に放り込まれて麻痺した彼の感覚は、もはや帰還できずとも満ち足りてしまえるようになっていたのだ。


~2~


 レインとの再会から数日の後、まだ万全とは言えない体調を、院内の設備や魔法の類いを使う医師団の治療によって回復させている最中のことだった。朝食を済ませ、療養中で娯楽の一つも嗜むことを許されない身の上を憂いていると、ふと自室の戸を叩く音にグレイは気づいた。別段何を期待したわけでもなく、また定期的に行われる検診を受けさせられるのだろうと、気だるそうに入室を許すと、そこには見知った顔の訪問者がいた。


「グレイ! 今すぐ来るんだ! 君を召喚した人物の正体が判明したんだ!」


 レッジが興奮しているような、驚愕しているような曖昧な語調で急くように言った。言い終えた頃には、戸惑うグレイをよそに彼の身体に繋がれた管を、脇の水晶体もろとも突き飛ばすような勢いで外していた。

 しかしグレイは意に介さず、半ば駆けるように病室を飛び出したレッジの後を追いかける。憂鬱な数日間のことなど、もう忘れ去ってしまえた。真実を見聞し、自身を納得させたい衝動を、彼は抑えようとはしない。一刻も早く、自分やレインに振りかかった災難の元凶を知りたかったのだ。

 するとレッジは部屋も何もない、隅の方の目立たない場所で立ち止まり、ただひたすら何かを待ちわびるように立ち尽くした。謎めいたその佇まいに疑問と苛立ちを覚え始めた時、グレイは彼の足下に目がいった。

 レッジは病院の床と一体化した丸い部分、元の世界で言うところのマンホールのようなものを踏むように立っていた。もちろん、病院の中にマンホールがあるなどとは考えられない。いくらこの世界が元の世界と明らかに法則が異なる場所だとしても、その丸い灰色のものは目に見えて場違いだ。

 グレイが訝しんでいると、突如、そのマンホールに似た様相の地点が鈍い光を発したのだ。目障りでない程度の、弱く優しい光が、マンホールの縁に沿って円柱型に発され、レッジはそれに身体を包まれた。


「何してるんだ? さあ早く」


 レッジは手を荒々しく振ってグレイを光の中に招いた。グレイは緊張と好奇心の入り混じった心境で彼に続いた。

 次の瞬間、グレイは高所から遥か下方を眺めた時のような胸の浮遊感を覚えると、どこか別の場所に立っていた。景色が変容するでもなく、視界が一転するでもなく、何の前触れもなく彼は別の場所にいた。まるでスライドショーで映し出される写真が、フェードアウトせず突発的に切り替わったような、例えるならそんな具合の転移だった。


「今、何が……」


 グレイが当惑して呟くと、レッジはかれを振り返ってにやりと笑った。


「これが魔法だよ。レインに聞いたが、そっちの世界にはないんだよな?」


 本人に他意はないのだろうが、グレイは小馬鹿にされたような気分になって少し不機嫌になった。が、直後にレッジが開いた眼前の扉を目にして、その感情も息を潜めた。

 中には数人の青い衣の人々、その中に場違いな白衣を纏ったレインと、暑苦しい鎧兜で武装したウィル――グレイたちを草原からここまで運び届けてくれた恩人の姿があった。そこには武人の風格が惜しみ無く溢れ出ていた。


「君か。グレイくん……と言ったな。身体の具合はどうだ?」


 ウィルはレインに確かめるように目配せしながら言った。レインはその隣で、グレイとウィルの両者がこうして対面しているのを喜んでいるかのように微笑んだ。


「はい、おかげさまで――あの、この前は助けていただいて、本当にありがとうございます……ウィルさん」

「そうか、既に彼女から聞き及んでいるんだったな……けど、そういう恩義なんて不用だからな。俺は兵士として当然のことをしただけ、君たちもこの世界に生きる善良な民として当然の保障を受けただけなんだ」


 ウィルはグレイの肩をぽんと叩き、優しい声音で言った。彼はその際、兜を脱ぐことはなかった。


「ウィル……君の意思を尊重したいのも山々なんだが、その装備は外してはもらえないかな」

「俺は兵士だ。それ以上でもそれ以下でもない」


 レッジが控えめに言うと、ウィルは素っ気なく一蹴した。


「じゃあ早速、結論を述べようか」


 諦めたのか溜め息を吐くと、レッジはそう切り出した。周囲の青い服の人々が出入り口の扉を施錠し、窓を閉め、資料の諸々を取り出した。


「今回、我々が調査したグレイ、レイン両名の召喚主の正体が判明した」


 一同の目前に、グレイとレインのレントゲン写真のようなものと、二人が召喚された草原を映した写真とが提示された。いずれの写真にも、ところどころに丸く小さな靄

もや

のようなものが現れている。


「この世界に召喚されて間もない二人に説明すると、この不可解に映り込んだ球体は、二人の召喚主を特定する素材の含まれた、いわゆる魔法の源のようなものだ。この源を分析していくと、いずれこの世界でたった一人の人物に行きつく――魔法を使う者は一人一人が源である【魔力】の波長が違うからな。即ち、その人物こそ君たちの召喚主だ」


 わざとなのか (当然そんなことはないはずなのだが) 随分と勿体ぶった物の言い方に、グレイの痺れが切れかかった。


「二人を召喚したのは【イーヴァスEVAS】様だ」


 グレイとレインにはピンとこなかったが、脇に立つウィルが『何!?』と叫び、二人は飛び上がらんばかりに驚いた。彼の着る甲冑が堅い音を鳴らした。


「救世主様が彼らをこの地に!?」


 場が騒然とした。青い服の集団には既知の事実らしかったが、いざレッジが公言すると、やはりその動揺は隠しきれないようだった。グレイとレインもようやっと事の重大さを再認識し、驚愕した。

 救世主――レッジに聞かされた、世界を守る存在。クラウズという未曾有の脅威に対抗すべく選ばれた、人類の導き手。そんな偉大な人物に召喚されたという真実は二人に衝撃こそ与えたが、確信はもたらさなかった。そもそも救世主という存在の神秘性すらまだ理解に乏しい二人には、この真相は明確ながら曖昧な事柄なのだ。


「何故イーヴァス様はそんなことを?」

「そこまでは魔力成分の分析では解明できない」

「行方は分かっているのか?」

「まだ本部の公式な発表はない。だが十数人の連れを率いて旅立たれた姿を、何人か目撃した人がいるらしい」

「公衆にも知らされない極秘任務にあたっているということか?」

「多分、そういうことになるかもな」


 会話は流れる河川のような進み具合で、グレイは追いつくのがやっとだった。レインが耳元で『救世主様は今、行方不明らしいの』と囁き、彼はやっと理解できた。


「その救世主様って、どんな人なんですか?」


 グレイは気になって訊ねた。


「ご自身の使命を充分に理解され、且つ民へのお心遣いも決して怠ることはない、優しく思慮深い方だ」

「戦術も達者だ。その心得も独学で身につけたという噂で、武技・魔法共に他の追随を許さないレベルの猛者だ。救世主に選ばれるのも納得いく」


 レッジとウィルは、まるで二親を誇るように言って聞かせた。


「二人は救世主に会ったことあるんですか?」

「ない」


 続けてグレイが問うと、二人はキッパリと言った。あれだけ誇らしげに武勇伝の幾つかを語っておいて、潔い。この世界の人民は皆、会ったこともない救世主の存在を盲信しているのだろうか、とグレイは訝った。が、世界を脅かす軍勢に対抗する目に見えた希望にすがる人々の気持ちがそこに表れているなら、その心理も分からなくはないとも思った。

 すると突如、グレイの鼓膜に雷の鳴るような轟音が響いた。その音はあまりにも大きく、両耳が裂けるような激痛にも襲われる。グレイは苦痛に顔をしかめながら辺りを見回すと、どうやらレインも含め場の全員が同じ現象に苛まれていることが分かった。

 耳小骨を貫き、直接頭蓋に木霊するようなその音は、次第に緩急をつけ、声と呼べるものになった。声は轟音と同じ調子で言葉を紡いだ。


「生きとし生ける全てのものよ、聴くがいい」


 それは野太い男性の声のようだが、凄まじい雷鳴の如き耳鳴りではっきりとは聞き取れない。だが不思議と言葉そのものは、頭に杭を打ち込まれているかのように理解できた。


「救世主は死んだ」


 声が言うと、微かに別の声が脇で笑った気がした。それは打って変わって若い男の声に聞こえるが、やはり上手く聞き取れない。それよりも、グレイは声の言ったことに驚愕していた。おそらく、レッジやウィルを始めとした周りの人々も同様だろうと思われた。


「奴は己の力に慢心し、数人の犠牲を引き連れて我が居城に乗り込んだ挙句、不様に殺されたのだ。もはや希望を失った貴様らに勝ち目はない。圧倒的な絶望と悲嘆に沈み殲滅されるのを待つがいい」


 声が言い終えると、耳をつんざくような轟音が消えていき、グレイはようやく平静を取り戻した。気づけば、彼は片膝をついていた。グレイは立ち上がると、レインやウィルたちを見回した。困惑しているのは勿論、グレイだけではないのだ。

 救世主の死――それはあまりにも唐突な報せだった。



~3~


 グレイたちが元の病院の階層に戻ると、慌ただしく人の行き来する様が彼らの目に飛び込んだ。


「やはりパニックが広まりつつあるな」


 レッジが顔をしかめて言った。


「伝染が早すぎませんか?」

「救世主様は世界をクラウズの魔手から守る絶対的な存在だ。今まで我々が奴らと戦ってこれた士気の要となる方が敵にやられたとなると、一人一人の恐怖と不安が増幅され、伝染するまでもなくなる。ただでさえ行方が分からなかったんだから尚更だ」

「でも、敵のデマかもしれないでしょう? こっちの士気が下がることを見越して嘘を吐いてるかもしれない」

「確かにそれも考えられる。だがもし嘘なら、それはあくまで一時的なものだ。イーヴァス様が数日後にひょっこり帰ってくれば、民と軍の士気は以前より増すだろう。嘘は敵が自らの程度の低さを露呈させるようなものだからな。そもそも今の戦況から言って、嘘を吐いてまで我々の士気を下げずとも、敵の方が優勢なんだ――まあ、そんな事情を知らない民衆も、救世主様に関する報せはいつだって注目しているからな」

「じゃあ、クラウズには今、救世主の死をでっち上げるメリットはないってことですか?」

「ほとんどな」


 ウィルは慌てふためく人々を見て、敵の思惑を熟考しながらグレイの問いに答えた。


「それより、クラウズが人語を喋り、敵を揺さぶる嘘を操る知能を有していることはないはずだ……」

「あいつら、知能がないんですか?」

「あの外見と、実際に戦ってみれば分かる。奴らは本能の赴くままに戦っているようだ。しかし、軍の上層部も危惧していたが、クラウズたちは外見や戦術から知能が低いことは明らかになっていたものの、侵攻のタイミングや目標は理に適っているんだ。戦略的に有利な時期と場所を心得ている」

「どういうことですか?」

「クラウズを影で指揮している存在がいる可能性がある――いや、もう断定してしまってもいいかもしれない。クラウズに嘘はおろか、人語を学べる頭脳があるとは思えない。さっきの声は、その黒幕が直々に我々の士気を地の底へ叩き落としてくれたと考えられる」

「黒幕ですか?」

「ああ。このパニックは救世主様の死もそうだが、民衆のクラウズに対するイメージが覆りかけていることにも因

るだろう。クラウズは『能なし』で通っていたからな。個々の力が強く数も多いが、陽動や計画的な作戦には弱い」


 純白の廊下では、騒がしい人の恐慌を鎮めようと、様々な色の衣を来た医務員たちが声を張り上げている。


「で、さっきの声が言ったことの真偽はどうなんです?」

「定かではないが、俺は少なからず真実であることを恐れてる。君たちが来たこともあるしな」

「俺たちの何が関係あるんですか?」

「タイミングが良すぎると思わないか? 君たちが来た途端に、君たちをここへ呼び寄せたイーヴァス様の訃報だ」


 首をかしげるレインを横目に、グレイはウィルが言わんとしていることを悟り、背筋が凍るような感覚に襲われた。


「イーヴァス様は自らの死を悟って、咄嗟に君たちを――無作為に指定した範囲の人々を召喚したのかもしれない……死にゆく自身の代わりに、世界の命運を託そうと」


 信じたくないという意思に構わず、ウィルの言に対する確信をグレイは微かに抱いていた。世界を守り通す役目。救世主は自身の死の間際に、その重責を不特定多数の人々に担わせようとしたのだ。

 グレイは恐怖とも不安ともとれない、言い知れない感情に胸を圧迫され、くらくらと目眩を覚えた。うっすら吐き気すら催している気もする。自分がこうも、眼前に突きつけられた現実に動揺しているのだから、レインはきっと震え上がってでもいることだろう。グレイはそんな予想をして、彼女の身を案じ振り返ったが、意外にもレインは平然としていた。驚愕の色は表情から充分すぎるほどに伝わってくるが、自らの置かれた境遇に対する恐れや嘆きといった感情は、不思議と抱いていないように思われた。


「大丈夫?」


 グレイが心配になって訊ねると、レインは不意を突かれたのか僅かに息を呑むと、胸を撫で下ろして言った。


「う、うん……ちょっとびっくりしただけ」


 グレイは、その言葉の通りのような気がした。彼女は過大でも過小でもなく、今の自分の心境を嘘偽りなく、適切な表情で伝えたのだと。本当に、ウィルの述べたことに『びっくりしただけ』のような、薄気味悪さすら覚えるほどに落ち着き払った態度。普通の女子高生なら、怖じ気づいてうずくまってしまいそうな真実を、レインは直立不動で受け止めているのだ。その光景に、グレイは狂気すら感じた。

 レインが新たな『名前』を付けられた当初から見られた、異様なほどの適応能力。それが今、顕著に窺えたようにグレイは思った。

 なぜそこまで『慣れる』ことが出来るのか訊ねようとした、その時。グレイの目前の真空に、三人の男性が現れた。きらびやかな銀の衣装を纏った、かしこまった物腰の人物たちである。


「ウィル・ミン・ヴォルンテス軍曹だな?」

「はっ!」


 先頭に立つ男性が問うと、ウィルは威勢よく答え、右腕を縦に構えた。グレイたちの元の世界とは異なるが、どうやら敬礼の一種らしかった。


「この少年たちが報告にあった『被召喚者』かね?」

「はい」


 グレイが当惑していると、レッジが耳元で『二人のことは連合組織の上層に報告してあるんだ』と囁いた。


「では、彼らに我々と同行してもらいたいのだが、身柄の保護を任された君に同行の認可と随伴をしていただきたい」

「はい。准尉じゅんい殿、質問の許可を願います」

「なんだ?」

「今回の任を仰せられたのはどなたでしょう?」

「【ケントルム】の命を受けた元帥閣下ご一同だ」


 男性が言うと、ウィルは『一体どういうことですか!?』と動揺を隠せない様子で叫んだ。


「ケントルムは、正式名称【世界連合組織最高議会】の略語だ。要は、今この世界における最高意思決定機関さ。各国の総領様が集って行われる会談の場で、連合軍の領地守護や敵地偵察、賊軍撃滅の大まかな指示を出す他、財政を司り民衆の安全を保証する立場にもある」


 グレイとレインが不安げな表情で成り行きを見ていると、二人の心境を察したのか、レッジが耳打ちした。すると、ウィルと話していた准尉が隣の男性に何かを囁かれると、今度はレッジに向き直った。


「君が軍曹と共に彼らの身柄を預かっている、レッジ・ノウ・スケンティア博士はくしかね?」

「はっ!」


 准尉が威厳のある声色で言うと、レッジもウィルと同じ構えをとった。


「では君にも認可と随伴を願いたい」

「はっ!」

「准尉殿、ケントルムはどのような判断を下されたのですか?」


 レッジが答えると、ウィルは続けて訊ねた。


「私には知らされていない。詳細はケントルム本部に到着してからとのことだ――君たちも、同行してくれるな?」


 准尉は視線をグレイとレインに移した。その言葉は同意を求めるものではなく、強制するものだと二人は理解した。グレイが振り返ると、レッジは彼らの身を案じるような優しい眼で、ウィルは『大丈夫だ』と言っているような頼もしい眼で見返した。


「博士殿の不在については、部下に諸々の連絡を関係各所に伝えさせよう。この状況では人手が欲しいだろうからな――では参ろう」


 准尉が廊下を見渡して言うと、一言も言葉を発していない男性が頷き、何かを呟いた。そして、彼を除いた六人は、先ほどグレイがレッジに同行した時に体験した『魔法』と似た光に包まれ、院内から姿を消した。


~4~


 暗転するでもなく、視界が歪むでもなく、次の瞬間には、グレイたちは真っ白な廊下とは全く異なる別の場所にいた。そこは屋外だった。灰色の曇天が垂らす冷たい雨が、彼らの身体をみるみる濡らした。


「さあ、早く中へ。各国総領様が待ちかねている。身だしなみも整えなくてはな」


 准尉はグレイたちの眼前にそびえたつ、巨大でまばゆい金色の建造物へ歩き出した。そこに、准尉に連れ立っていたもう一人の男性の姿はなかった。グレイは周囲を見回すが、やはりこの場所に転移されたのは自身とレイン、ウィル、レッジ、そして准尉の五人だけらしかった。


「彼は元帥閣下殿たちに報告しに行ったんだろう」


 ウィルが言った。レインとレッジは既に准尉の後を追っていたので、二人もそれに続いた。


「ここは【パラティウム】という、ケントルムの会談場所にして総領様方の居住宅でもある。人類がクラウズと戦うための総本山といったところだ」


 レッジが、金色に輝く建物を見上げて言った。レインは『すごーい!』と無邪気に驚いて見せ、それをまじまじと眺めた。

 長い階段を登りきった末にあった重々しい扉を准尉が開け内部に入ると、両脇に二人の男性が立っていた。その衣服は元の世界でいうスーツと似通っている。

 准尉が到着の旨を伝えると、男性たちは頷いた。ふと、彼らはグレイたちの簡素な濡れた患者服に目を移すと、二人そろって同時に指を鳴らした。するとどこからともなく一人の女性が現れ、グレイたちに両手をかざした。たちどころに全員の衣服は乾き、グレイとレインにいたってはいつの間にか衣服そのものが変わっていた。グレイはモノトーンのジャケットとシャツ、ズボン一式。レインは色鮮やかなジャンパースカートだ。今の今まで素足だったところも (よくもここまで気にならなかったものだ) 、各々の服装に適った靴が履かされていた。その様相は、彼らの元の世界と変わらない。


「久しぶりね♪」


 女性はニコッと笑い、グレイやレインの後ろを歩いていた二人に言った。ウィルは兜の隙間から窺える目を見開き、レッジは彼女と似た笑顔で応えた。


「やあ、エモEMO。本当に久しぶり。最後にこうして三人で会ったのはいつだったっけ?」

「四年前だ……俺は任務の都合上、何度か単独で接触したことはあったが」


 レッジが朗らかに言うと、ウィルは気分でも悪そうに頭を抱えて答えた。


「もう、久しぶりに会ったのにそれはないでしょ? 相変わらずなのね、あなたたちは――ま、これからは『任務の都合上』、また三人で行動する機会も増えるはずよ♪」

「今回の件に関わっているのか!?」


 ウィルが語調を強めて訊ねると、エモと呼ばれた女性は軽妙な態度を崩さないまま『その通り♪』と言って、グレイとレインの方へ向かった。彼女は二人に目線を合わせるように長身を屈ませ、先ほどのニコッとした笑みを浮かべた。


「初めまして♪ 私はエモ。エモ・シオン・アフェクタス。よろしくね♪」

「よろしくお願いします」


 レインが快活に応える一方で、グレイは口元を微かに動かすも言葉を紡ぎ出せずに、頭だけ下げた。エモはグレイが苦手とする、凄まじい美貌と肢体の持ち主だったのだ。


「じゃあ私、まだやることがあるから行くね」


 エモは上体を起こしながら言うと、グレイたちに手を振った。次の瞬間には、もう彼女の姿はなかった。


「私たちの着替えのためだけに彼女を呼んだの?」

「いいや……彼女のことだから、きっと君たちの顔を見に来たんだ。これから少なからず関わることになる少年少女に、一目会いたかったんだろう」


 レインの無垢な問いにレッジが答えると、ウィルはふんと鼻を鳴らした。『行くぞ』と急かすような准尉の声が言い、グレイは何も言えないまま彼の背中を皆と共に追いかけた。

 恐ろしいくらいに長い廊下を渡り、踏破する頃には息も絶え絶えになってしまう階段を登り、また長大な廊下を直進する。そんなことを准尉に従って幾度か繰り返していると、レインはとある階段の中腹で、ついに立ち止まってしまった。


「これ、さっきみたいな魔法で、総領さんたちのところへ直行できないんですか?」

「この世界において、そのような行為は無礼に値する。上位層の方のご自宅へ赴くならば、下級族が足を使うのは当然のこと」


 准尉が素っ気なく言うと、レインは『うへー』と呻きながら再び階段を登り始めた。グレイも正直、へとへとであった。見ると、ウィルはおろかレッジまでもまるで根をあげていなかった。なぜ学者の足腰が丈夫なのだ、とグレイは偏見に凝り固まった思考をした。自らの身体を鍛えることで研究を進める学者は、実際グレイたちの元の世界でも少なくはなかった。

 いよいよ頭が真っ白になりかけた時、ようやく准尉はとある鉄扉の前で立ち止まった。グレイは手すりに身を預け、レインは最寄りの段差に腰かけた。


「レイゼン・フォール・アルクレピステス准尉でございます! 総領ご一同様の命を賜った元帥5名より仰せつかった、彼

の少年たちが到着しました!」

「入るがいい」

「はっ! ――失礼のないようにな」


 老人の声が入室を許すと、准尉は敬礼しつつグレイたちを一瞥して呟いた。准尉が『失礼します』と扉を押し開け、グレイたちはその後に続いた。

 途端、眩しい照明の光が四人の眼球に射し込んだ。思わず目をつむりつつも、グレイたちは准尉に倣い、中央の豪華絢爛な円卓に沿って玉座に腰かける重鎮にうやうやしく敬礼した。一厘の隙間なく金箔で覆われた内装の部屋に、グレイとレインは圧倒された。レッジやウィルでさえ、緊張の色を隠せない様子だ。


「ご苦労だった、准尉。下がって本来の職務に戻るがよい」

「はっ! 失礼します」


 言うと、准尉は再度、重い扉を開けて長い廊下を降りていった。どこまでも礼儀に忠実な男なのか、先ほどグレイたちに投げかけた言葉の通り、彼は魔法を使わずに徒歩で宮殿の出入り口へと向かっていく。

 やがて扉の脇に待機していた男性たちにより扉は閉ざされ、四人は世界の長たちと向き合うことを余儀なくされた。真正面の玉座に位置する、場で最も高齢と思われる老人が、何事をも見抜くかのような眼光でグレイとレインを見据えた。


「そなたらが救世主に召喚されたという若者かね」


 グレイが一瞬の迷いから何も言えずにいると、レインは威勢よく『はい』と即答した。自ら救世主に選ばれたことを肯定するのは、即ち自ら世界を守る重責を進んで担うと明言するようなものだ。そんな一抹の不安から物怖じしてしまったグレイを尻目に、レインは臆せずそれらを認めたのだ。グレイは、いよいよレインの潔さに狂気を覚え始めた。


「そうか――聞くところによると、そなたらは救世主の危機に際し、彼の死後の代理を務めるべく召喚されたらしいが、その覚悟はあるかね?」


 老人が言うと、円卓を囲う老齢の男女が、総領の集いの中で唯一の若者を除き、一斉にがやがやと騒ぎ始めた。


「聖王様! このような若造に世界の命運を託すのですか!? 言葉を選ばずに申し上げますと、それはあまりにも無謀ではないかと!」

「第一、報告によれば彼らは召喚されたばかりで、この世界について未知であり、戦いに関しても未熟この上ないとのこと! そんな輩に官軍の先陣を切らせるなど、下々の兵や民衆に何と表明するのですか!?」

「しかしながら、あんな大々的に救世主の死を宣告されては、民衆がパニックを起こして治安が悪化しかねない。もっと言えば、これを機に民が我々への不平不満を募らせ、クーデターなんぞが起こるやもしれん! 民衆も連合政府の言うことに疑問や反感を抱くだろう」

「その通りだ! もはや不安を煽られた民の心を鎮めるには、新たな希望を公衆に明かす他にない! たとえ非力であったとしても、救世主が二人に増えたとなれば、軍部の士気も倍増どころの話ではないだろう!」


 グレイはただ立ち尽くして、四方から放たれる政治的内情で埋め尽くされた言葉の数々を、丁寧に聞き取ることしかできなかった。どうやら聖王と呼ばれた老人の発言に対する賛否は、ものの見事に両断されたようだった。


「そんな難しい話ではないし、単純な話でもないと思われますがね」


 総領の中でも一際異彩を放っていた、若い男性が言った。とんでもない罵声や野次が飛び交っているのを意にも介さず、彼は遠くから二人の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「僕には先ほどの聖王様の言葉が全てであるように思いますけれどね――我々の選択肢は多くない。救世主様の死が敵軍の嘘であると発表するか、救世主様の死を肯定して民衆の地力に賭けるか、救世主様が最後に遺したのであろう希望を公表し彼らに全ての期待を背負わせるか……何にせよ、その決断に重要なのは我々の事情よりも、彼らの心情の方ではないですか?」


 男性は言った。すると老齢の総領たちは皆黙りこくり、男性の肯定した聖王の言葉を待つかのように、なんの声音も発さなくなった。

 グレイは総領たちの一連の話を聞き、自身の中に芽生えた最大の疑問を投げかけることを決意した。もう、状況に流されるままなのは嫌だ。分からないことに困惑するだけなのは嫌だ。何より、レインの変貌を見て見ぬ振りをするのは、嫌だ。

 グレイは片手を挙げて『あの……』と呟いた。それを高齢ながら聞き取った聖王が『何かね?』を訊ね、彼は腹を括った。


「救世主は本当に死んだんですか?」


 誰もが沈黙し、場が静寂に支配された。まるで時が止まったかのような刹那だったが、聖王は険しい顔つきで言った。


「救世主――イーヴァスの亡骸が、何者かによって我々の元へ送られてきた……ああ、そうだ。救世主は死んだ。我々の頭上で、誰の目にも触れられぬよう、厳重に祀られている」


 聖王は、部屋の天井を指差した。ウィルは『そんな!』と叫び、レッジは目を点にして驚愕していた。レインも、先ほどまでの冷淡とも言うべき物腰とは打って変わり、小さく悲鳴をあげて口元を震わせた。

 グレイは頭が真っ白になった。ここに来るまでの、パラティウム内部の道程など霞むくらい、呼吸が辛くなった。グレイは、どこか期待していた。救世主は生きている、と。自らが世界を守る重責を担うことなど、あるわけがないと。半ば現実逃避の意味合いも濃かったが、しかし、それでも彼は救世主の生存を願っていた。

 だが、その希望は砕かれた。もはや、人々を導く光となる役目が、不安と恐怖に駆られた民衆の注目と期待の矛先が、いよいよ自身に向けられる日が来てしまうのだ。グレイは、目尻に熱い何かを感じた。泣きたくなった。うずくまって吼えたかった。尻尾を巻いて逃げ出したかった。


「じゃが、先ほどハオス国王が述べたように、我々は――少なくとも儂と彼は、そなたら二人の覚悟を重んじている」


 吐き気すら催すほどの緊張に圧迫されている最中、グレイの耳に聖王の言葉が届いた。顔を上げると、そこには実の祖父のような優しい面持ちの老人が、温かい眼差しをもって二人を見つめていた。


「たしかに、救世主の死は凄まじい痛手だ。ケントルムの権力ちからも、クラウズの侵攻に伴った世界連合結成当初より着実に弱まっている……それでも、子供に有無も言わせぬまま戦場に叩き出すほど落ちぶれたつもりはない」


 聖王が円卓を見渡した。気まずそうに顔を伏せた総領を、グレイは何人も見た。


「むしろ救世主なぞいなくともクラウズを打倒せんとする意気と情熱が、今の世界に足らないということは、昨今では尽きない悩みの種の一つとなっていたのだ。救世主を失った悲しみも大きい――だが、儂はそれを前進を諦める理由にはしない。断固たる意志と、猛獣には持ち得ない知恵、そして人が人であるが故の感情を以て戦い抜くと誓っている」


 聖王は、救世主の亡骸が横たわっているであろう頭上を見上げた。シワの刻まれた瞼の奥で、曇りなき瞳が煌めいていた。


「……ただ、このような死に損ないの老いぼれの我儘ではなく、敵の下劣な計略によって希望を見失ってしまった民の心を思うなら、どうか一筋の光明となって未来を指し示してほしい」


 聖王は――世界を治める君主は、その僅かに白髪の残った頭を下げた。


「はい」


 間髪入れず、レインは答えた。グレイはその姿に、幼馴染みの面影を見出だす気にはなれなかった。

 聖王の思いは伝わった。彼の思想は、素晴らしく尊いものだ。グレイは彼の言葉を真に受け止めつつ、断る腹積もりでいた。正しい考えを持つ聖王の頼みだからこそ、誠意をもって、自らの決断で拒否しようとしていたのだ。

 しかし、人間味を失いつつあるように思われるレインを横目に、グレイの決意は変わった。多くの危険を孕んだ彼女の変容を、見過ごすわけにはいかない。自分が傍で、かつての彼女を取り戻さねば。そんな使命感にも似た情を抱き、グレイは再び聖王に向き直った。少年と老人、両者の眼差しが重なった。


「――俺も戦います。救世主の代わりに、世界を……人を守ります」


 聖王が『ありがとう』と呟くと、ケントルムの総領一同が指先に仄かな光を灯し、宙に何かを書き記し始めた。やがてそれらは聖王の眼前へ運ばれ、彼が同様に宙に模様を描くと、全ての軌跡が一つとなって、夜空を彩る星々のように散った。


「新たな救世主の誕生じゃ」


 大いなる使命を帯び、グレイとレインは世界にとっての希望となった。

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