終節:鍋

 黒い鍋に置かれた肉がバチバチと音を上げながら、赤身の色を徐々に変えていく。

 立ち昇る煙が焼ける香ばしい匂い運び、部屋中に広がらせる。

 曇る視界に、じっと構えていた箸で肉を掴み、一度ひっくり返した後、近くに置いてあった割り下と呼ばれる、醤油と砂糖などを混ぜてある液体を鍋へと入れた。

 ジューっと弾ける音と同時に煙が更に立ち昇り、今度は甘辛い香りが鼻をくすぐってくる。

 火を弱め、肉を端へとずらし、鍋の横にある野菜や豆腐を中に置いていく。

 グツグツと音を出し、鍋の中で揺らぐ具材達。

「で、できた……」

「まだだよ」

 ふと横から聞こえる麻祁の言葉。しかし、俺はそれに動揺する事なく、横に置いてあった本を手に取り、栞を挟んでるページを開いた。

 貼られたすき焼きの写真の下に書かれている完成までの手順。上の一から四までの数字を目で辿り、本を閉じる。

「手順に間違いは……これで完成じゃないのか?」

「まだまだ、大事なもの忘れてるって」

 麻祁に言葉に、俺はジッと鍋を見つめ、その答えを探した。

 しいたけ、ねぎ、豆腐に牛肉、黒に緑に白にこげ茶色。

――全部入れたはずだが……。

 マグマのように噴きあがるすき焼きを、ただ黙ってジッ見ていると、横から麻祁のため息が聞こえてきた。

「全て蒸発するまでそうやって見続けているのか? 卵だよ、たまご。卵がない」

「卵?」

 本を手に取り、確認する。

 卵なんて書いてあっ――。

 持っていた本が上へと持ち上げられ、遠くへと投げられる。

「いつまでこんなもの読んでるんだ。料理ってのは調理する本人が好みの味に合わせて作れるからいいんだよ。いつまでもこんなものに頼っていたら、せっかくの自作料理ですら、ただの真似事でしかならない。だから卵だ、卵」

 急かすように左手を払い動かす。

「なんだよ……これ見て作れって言ったの誰なんだよ」

 俺はしぶしぶ腰を上げ、卵を取りに冷蔵庫へと向かった。

 二つ卵を手にとり、元の場所へと戻る。

「卵なんて始めてかな……家でも誰一人入れてなか――あっ」

 器に入れていた卵二つを麻祁が手にとり、机に叩いてはすぐに鍋の中へと入れた。

「中に入れるのかよ!? こっちじゃないのか!?」

 言葉をかき消すように、二回叩きつける音を響かせ、最後の卵も中へと入れた。

「はい」

 麻祁の一言に合わせ、殻だけになった器が俺の前に置かれた。

 鍋の中では黄色の目玉が二つ、こちらを見つめるようにぐらぐらと揺れている。

「中に入れるのか……」

「わざわざ割って付けるよりも、半熟にしてから食べたほうが美味い。さあ、食べるぞ」

 麻祁の箸が鍋の中の肉と野菜を掴む。

「ふ~ん……」

 それを見届けた後、俺も肉などを器へと移した。

 箸で持ち上げると甘辛い香りに絡む焼けた肉の脂の匂いが鼻から入り込んでくる。

 俺はすぐにそれを口へと放り込み、味をかみ締めた。

「ん~、美味いな」

「…………」

 麻祁は何も言わず、黙々と口を動かしながらテレビをじっと見ている。

 次に何を食べようかと悩む中、先ほど入れた卵がちょうどいい感じに白の膜を全体で覆っていた。

 食べ頃かな……、でも……。

 もし食べ頃ならすでに麻祁が先に手をつけているはず、それをしないという事はまだなのかもしれない。 

 掬って取ろうかと思ったが、一応麻祁に声を掛けてみた。

「卵ってそろそろ食べ頃だと思うんだけど……、もう少し時間がかかる?」

「ん? ……」

 卵をじっと見つめ、一つ掬っては器に入れ、そしてもう一つも同じ器に入れた。

「えっ? 俺のは?」

 あまりにも予想外の行動に呆然としている中、麻祁は器にギュウギュウと詰められた卵の一つを食べる。

「食べるために私が二つ持ってきたんだ。欲しければ自分で取って来るんだな」

「なんだよそれ……」

 食べたい気持ちはあるものの、同時に現れた、めんどくさいという気持ちが頑なに足を動かそうとしない。

 二つ目の卵を麻祁が口にする。

「……美味い?」

「…………」

 俺の問いに何も答えず、テレビに目を向けたまま口を動かしている。

「……くそ」

 悪態を付きながら俺は冷蔵庫へと向かい、卵を一つ手にとった。

 すぐさま座り、鍋の中に卵を割り入れる。

 ぐらぐらと揺れる俺の黄身。どんな感触でどんな味になるんだ――。

 その瞬間を今か今かと待ち続けようとしていたとき、カチッという音が俺の心と思考を止めた。

 ぐらぐらと地獄のように揺らぐ鍋が音と共に緩やかになる。

「あっ!? なにやってんだよ! 緩めたらできないだろ!!」

「これ以上火を付けていたら煮詰まって味が濃くなってしまう。せっかくのお肉が台無しだ」

「肉って……卵は!? これじゃ卵無理だろ!?」

「放っておけば余熱で温もってくる。それより問題なのが、せっかく温めたモノが冷えた生卵を入れたおかげで温度が下がってしまうことだ。これでは温めた意味がない」

「そんなこと言われても……食べたかったんだから別にいいだろ! ――あっ!!」

 突然麻祁が、黄身に向かい箸を突き立て、寄り添う他の具材と共にかき混ぜた。

 目の前で繰り広げられた無惨な行為。俺は体を崖から突き飛ばされた。

「た、卵が……」

「一つの冷気が中心にいるおかげで、全体の温度も下がっていく。周囲の温度を極力下げずに抑える方法と言えば、私が食べるか、これしかない」

「俺が食べるってのがあるだろ!?」

「悩んでいる間などない、これで全体的に温度は同じになり食べやすくなった。私の行為は善意そのものだ」

「善意って……ああ、そのまま食べたかったのに……」

 後悔の視線が鍋に注ぐ。

 それを気にせずか、麻祁は白身が混ざった肉と野菜を器に取り、そしてテレビのチャンネルを変えた。

 何度か切り替えた後、別の情報番組で指を止める。……流れてくる内容は先ほどとあまり変わりがない。

「さっきからニュースばっかり見ているけど、あのイノシシの事を探しているのか?」

「イノシシ? ああ、それなら流れない」

「えっ、流れない? なんで?」

「それほど大事件ってものじゃないからな。出ても地方での新聞か、地方ニュースだけでの僅かな間だけだな。イノシシの大群が出てきた、みたいな。それ以外で流しても、興味を持つ人間なんて限られてくる。話題にすらならない」

「でも……あのイノシシ、かなり変わっていたが……あれは結局なんだったんだ? 本当にイノシシなのか?」

 頭の中で浮かび上がる、血に染まった白毛の巨体。テレビとか本でイノシシの姿を見た事はあるが、あんな色をしたのは見た事はない。まるで神様のような感じだ……。

「あれに関しては現在調査中。とは言っても、回収した血だけでは全ては分からないだろう。なんせ名札は付いてない。分かる事と言えば、何の能力があったのか? ぐらいかな」

「能力? 能力って……イノシシに何か力が?」

「ああ、その可能性があるってことだよ。実際に見ただろ? 一緒に走ってきたあの大群の大半は、あいつが見せていた幻だよ」

「幻?」

「そう、幻。一回目の時もそうだが、二回目でハッキリ分かっただろ? あれだけの着色料をぶつけられたはずなのに、群れの中に色を付けてないのが数体いたはずだ」

「……確かに、横にいたイノシシには赤とか緑が付いていたのに、その横にいるイノシシには何も付いてなかった」

「一回目の時、篠宮が撃った弾は確実に一匹ずつ仕留めていった。だがあいつの撃っている弾は拳銃のようなおもちゃの弾じゃない、着弾した相手の半身をも吹き飛ばすぐらいの威力を持つ弾だ」

 ふと頭の中に、弾を詰め込む篠宮さんの姿が現れた。確かに冗談とも思えるような大きさをしていた。例えるなら口紅ぐらいの大きさかな……。

「それをイノシシに撃ったんだ。相手が硬い皮膚なら貫通せずに体の内部に弾丸は留まってそれ以上進まない可能性はある。が、全てが全て内部に向かって撃ってはいないはずだ。あれだけの集団で迫ってくるんだから、一匹の腹部辺りを掠め撃って、弱らせるか転倒を狙い、他のを巻き込む方がより成果としては出る。掠めた弾丸は勢いが止まらず隣接してる他のイノシシにも外傷を与えるはずだからな。だが、その外傷による影響が見られなかった」

「それで幻だと?」

「それだけの事でイノシシが幻を見せている確証とは言えない。それを知る為に、今回アレを破裂させたんだ。本当ならば、一回目の後に撃ち殺した死体を回収して血を調べるはずだったが、再度訪れた時には、私達が車から落した雑貨以外は、死体の跡形なんてのは全くその場所にはなかった。仕方なく、二回目であの方法にしたんだ。破裂させた後は相手が諦めるまで走り続け、のちに篠宮が撃ち殺した一匹を持ち帰って詳しく調べればそれなりの結果は出てくる……はずだったのだが、まあ結果は結果だ。どんな状況でさえ最後に血だけでも持って帰れるならそれで十分だ。せっかく来たのに無駄だったな」

 麻祁が鍋の中から野菜などを取り、口へと運んだ。

「だから俺が……じゃ、あの白いイノシシは?」

「血を調べて見ないことには分からないが、多分あれが幻を見せていた原因の可能性が高い。一匹だけ変わった色をしてるし」

「あれは一体なんなんだ? なんか特別な感じがしたけど……」

「神様じゃない?」

「か、神様!?」

 動かしてた箸が思わず止まり、目を見開いた顔が自然と麻祁の方へと向いた。

「か、神様って大丈夫なのか!? あのその……祟られたりしないのか!?」

 頭の中で、神様という言葉が何度も現れる。

 もし麻祁の言ってる事が本当なら、俺達は神様を撃ち殺した事になる。そうなると当然祟りなんて事もありえる話だ。

 少しばかり焦る気持ちを余所に、麻祁は箸を止めない。

「あくまで仮説としての一つ。本当に神様かどうかなんて分からない。昔、あの辺りではそこに住む人達が狩りなどで動物を獲っていたらしく、ある時イノシシのような姿をしたモノに襲撃された過去があるんだ。それ以来、山に入るたびに村の何人かが犠牲になり、それは自分達の行いが招いてしまった災いだとして、あの場所に山の中に祠を建てて、それからは誰も踏み入る事はなかったらしい」

「それじゃあのイノシシはその災いの正体だと?」

「その可能性は高い。私が山に入った時もその祠があった。最初分からずに触れたら、あのイノシシの大群だ。後に調べたら、あの辺りにはそういった伝承みたいなものがあったらしく、それ以外には考えられない」

「イノシシの神様……どうして今頃そんなのが……」

「これも仮説の一つだが、原因は多分高速道路の開発が考えられる。自分の家の近くで突然大きな工事を始められてみろ、ましてや夜には夜景見たいさに車を走らせてくるバカも集まってで、四六時中騒音と明かりでゆっくり気も休めれないだろ?」

「それで出てきたと? ……そんな事で出てくるのかな……」

「あくまで仮説の一つだ。深く考えた所で答えなど本人達以外分かるわけがない。それよりも、一応原因となるモノの排除は完了したんだから、後は数日待ってから再度問題が起きるかどうかを待つしかない」

「……って、もし本当に神様だったらどうなるんだ……ましてやその村人をも襲ったんだろ? もし家に来たり、途中で事故にあったりしたら……」

「神様だったとしても心配する必要はないだろ?」

「なんで? だって俺達が撃って……」

「撃ったのは篠宮だ。アイツが引き金を引いて、アイツが撃ってトドメを刺したんだ。祟られて殺されるなら、直接手を下したアイツだけが対象になる。だから、何も心配する必要はない」

「直接って……そんな他人事みたいな……」

「だったら、篠宮がもし祟られたら、代わりに祟ってもらうか? 私ならそんなのは遠慮するけどな。祟られたかどうかも明確にされてないのに、何をどう背負う必要がある?」

「それもそうだが、その言い方も……」

 麻祁は箸を止めず、俺の口からは、ふとため息が自然とあふれ出た。

「まあ、篠宮さんに何かが起きるまで待つかな……」

 徐々に残り少なくなる肉を取り、口へと運ぶ。

 歯ごたえのある肉質が噛み締めるたびに伝わってくる。

「そういえば、この肉、なんか結構硬いんだけど、これ何の肉なんだ? 牛とかじゃない様な気がするけ――」

「イノシシ」

 麻祁の言葉に、箸と口が止まる。

「い、イノシシ……?」

「ああ、イノシシの肉。篠宮から貰った」

「貰ったって……まさかあのイノシシじゃ……」

「心配しなくてもあのイノシシではない。弾の種類にもよるが、弾丸は基本毒だからな。もし即死では無い場合、人と同じで体内に残った弾丸からは火薬の毒が血液を通り、全身へと駆け巡ることがある。そうなると肉そのものがダメなり、とても食えたモノじゃない。それに、もしすぐに血抜きしたとしても、全身の血を抜くまでには相当な時間が掛かる。こんな短時間では無理な話だ」

「……でも」

 その話を聞いた所で、あの出来事の後では箸など動かす事が出来なかった。

 俺は箸を置き、麻祁が食べるのをただ見続けていた。

―――――――――――

 人が二人ぐらい住めるぐらいの小さな部屋。

 埃一つないフローリングの床には白の絨毯がひかれ、その上には四角の机が一つ置かれている。

 机の上には一つのペンといくつもの定規、そして大きな一枚の紙が置かれていた。紙には細い線が上下左右に何本も走り、横長の型を一つ描いている。

 部屋の奥となる場所にはベッドが置かれ、その向かいには背の高い本棚が一つ。棚には分厚い本が並べられ、静かに部屋を見守っていた。

 誰も居ない空間に、突然入り口近くにあるドアが開き、そこから篠宮が現れた。

 ショーツのみを着けたままの姿。

 垂れる前髪の濡れたショートボブの髪をタオルで何度も拭き、それを肩へとかけた後、ベッドと机に挟まれるようにその間に腰を下ろした。

 ふっ、とため息を吐いた後、目の前に置かれた紙にへと目を向ける。

 しばらくそれをジッと眺め続けた後、ペンと定規を手に取り、紙に線を引き始めた。

 その直後、突然ノックをする音が部屋中に響いた。

 篠宮は立ち上がり、ドアを開ける。――そこには、メガネをかけた一人の女子生徒が立っていた。

「あっ……」

 女子生徒の目が、より一層開かれる。

 その視線は顔ではなく、肩に掛けたタオル一枚とショーツのみの姿に向けられていた。

 ジロジロとその姿に目を向けたまま、何一つ喋り出すことが無い女子生徒に、篠宮が先に口を開く。

「何か荷物を渡しに来たんじゃないの?」

 その言葉で我に返ったのか、女子生徒は、ああ! と声を上げ、手にしていた小さな段ボールの箱を両手で前へと突き出した。

「ご、ごめんなさい! こ、これ預かりものです! 昼間に届けたのですが居なかったので……」

「それは悪かったわね。ありがとう」

 そう言った後、篠宮はドアをすぐに閉めた。

 残された女子生徒は何も喋る事はないドアを見つめたまま、その場に動かずに居た。

 ドアを閉めた後、篠宮はすぐに机の場所へとは向かわず、その場で右手に持っていた箱へと目を向けた。

 ひんやりとした冷たい空気が荷物の全体を包んでいる。

 箱を動かし、表に書かれていた差出人へと目を向ける。そこには、差出人の名前と、その横に狩猟会の文字。

「チッ……また……」

 小さな舌打ちをし、風呂場の向かいにあるキッチンへと振り向き、そこに置かれている大型の冷凍庫へと近づいた。

 アイスを入れるような冷凍庫の中には同じような小さなダンボール箱がいくもひしめき合い、その中に手にしていた箱を入れた。

「肉ばっかり……私は猟師じゃないっての、ったく……」

 悪態をつきながら、再びベッドと机の間に座り、ペンと定規を手に持つ。

 新たに線を増やそうとペンを動かした、その時、

「……クッシュン」

小さく鳴ったくしゃみにより、線が大きく歪んだ。

 真っ直ぐ伸びる線が作る一つの型に、歪んだ線が紛れるようにして一本。

 その光景に、篠宮はペンと定規を握ったまま目を動かさずにいた。

「最悪だわ。ほんとに最悪、私が何したっ――くっしゅん」

 再び出るくしゃみの後、鼻をすすった。

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