終節:不確認事項

 裸電球だけが照らす小さな部屋。無造作に置かれた道具棚が部屋を仕切り、淀んだ空気が辺りを漂う。

 その中央、そこには青の作業着を着た大柄の男と小柄の男がいた。

 小柄の男は辺りの物を端へと寄らせ、少しずつ広場を作り、大柄の男は、まるで何かを待つように、引き締まった腕を胸元で重ね、前にあるドアをジッと睨みつけていた。

 灰色の錆びついたドアの周りには、部屋の隅を埋めるほどの大型の透明カバーが被され、中に置かれた数台の送風機が、ゴーゴーと風を吐き出し、辺りをバタつかせる。

 嵐のような光景、しかし、中央まで伸びるカバーのトンネルの中まで風は届かず、外は何一つ変わらない状況だった。

 小柄の男はせっせと物を動かし、少しずつ空間を広げていく中、

「…………」

大柄の男が眉間を歪めた、

――ドアが開かれた。

 金切り声の重い音を合図に、ドアから白の防護服が流れ込むように入ってきた。

 腰を曲げ、背中にはもう一人の白の防護服。落とさないように肩から通している両腕をザックと一緒に首元まで寄せ、まるで荷物のように運ぶ。

 吹き荒れる風に少しバランスを崩すも、弾丸のように一直線にカバーのトンネルを走りぬけ、そして崩れるように出口で倒れた。

 同時に背中にいた防具服も横に倒れ、背負っていたボンベが地面で金属音をあげる。

 大柄の男が何も背負ってない方へと駆け寄る。しかしそれを、伸ばして広げられた右手が制止させた。

「私はいい、それより横のやつに酸素を」

 平然と語られる言葉に、大柄の男はすぐさま離れた場所にいた小柄の男を呼んだ。

「おい! すぐに酸素を持って来い!」

 その言葉に、唖然としていた小柄の男が近くにある道具棚から小さなスプレー缶を取り出し、走った。

 大柄の男は横に倒れてる防護服のボンベとマスクを手際よく外し、目を閉じている龍麻の顔にスプレーの吸引口を当てた。

 横ではマスクを外した麻祁が立ち上がり、長い銀髪を煩わしそうに揺らす。その姿を見ていた大柄の男が声を掛ける。

「酸素は要らないのか?」

「肺が大きいから私はいい。それより……」

 腰を屈め、ザックを開けては中からホッチキスで纏められた数枚の紙と小さなフラッシュメモリー、そして二つのタグを取り出す。

「これをすぐにアイツに渡してくれ、後でそっちに行くとも」

「……おい!」

 大柄の男の掛け声に、小柄の男がすぐに反応し駆け寄る。

「これを指令室へ。後、銀髪がそちらに行くと伝えてくれ」

 小柄の男は両手でそれを受け取ると、飛び出すように部屋を後にした。その姿を見送った後、再び大柄の男が麻祁に声を掛ける。

「……おい、あの棒はどうした?」

「ああ? あんな支えにもならない棒は捨ててきた。……大体、防護服が耐電と分かっていて、何故あれを渡したんだ? これは落ち度だぞ」

 ザックの中身を確認した後、麻祁は立ち上がり、防護服を脱ぎ始める。

「焼き切れなかったのか……」

「試さなかったのか? 私なら先端を尖らせて、突き刺してから内部に電流を流す。もう少し状況を考えて作るべきだな。今度会社の人間に持たせて実践でモニターさせるといい。それなら私も安心して使えるってものだ」

「…………」

 大柄の男は顔を下に向けたまま、何かを考え始める。その様子に麻祁は気にもせず、脱いだ防具服を捨ててあるゴミのように足で蹴り、ザックを背負っては出口に向かい足を進めた。

 部屋に反響する足音に、男が反応し顔を上げる。

「相棒はどうするんだ?」

「目を覚ましたら連絡を。どうせ起きるのに何時間はかかる」

 煩わしそうに右手を軽く振り、麻祁はドアの先へと姿を消した。

 大柄の男はその後姿を見送った後、手にしていたスプレー缶を離し、龍麻の様子を窺う。まるで眠っているように、呼吸は穏やかに繰り返されている。

 男がふと横に倒れているボンベに目を向けた。その瞬間、その目を見開かせた。

 二人が下へと降りてから、時間にして一時間以上は経過している。さらに、麻祁のボンベは龍麻の呼吸を補う為に、装着されていた。それなのに、ボンベの圧を変えるハンドルの横にある目盛りの針が、今だに緑と黄色の境目部分を指していた。

「たいしたやつだ……」

 その意味と状況を理解した男はため息を吐き、口元を緩ませた。

――――――――――――――――――――――――――――――

 重たい扉を閉めると同時に、あの煩い羽が音を立て、微かに座るシートに震動を伝えてくる。それに合わせ、体がふっと浮き上がる。これで二回目の経験だが、やはりその衝撃は心地よくはならない。

 窓から外に目を向けるが、流れる景色は暗く、何も見えない。上を見れば、白い雲が月明かりを通すも、どこか暗く、まるで今の俺の心をそのまま映している様だった。

 俺はふと視線を前に向けた。向かい側のシートに麻祁が座っていた。

 胸元に抱えているザックの上に右肘をつき、広げた手の平に顎を乗せ、まるでふてくされた子供のような格好で、窓の景色を見ていた。……俺は四時間寝ていたようだ。

 起きてまず最初に目に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。手に触れるのは柔らかい感触の布団。体を起し、辺りを見渡すと、俺の横には白衣を着た女性がいた。

 女性は椅子に座ったまま目を閉じ、頭を小さく揺らしている。俺は一瞬訳がわからず、声を出すことすらせずに、ただその女性を見ていると、ふと目を覚ました。

 一瞬目が合い、間を作る。そして、それを打ち破るかのように、女性は、あっ! と声を上げ、俺に向かい大丈夫かと問いかけてきた。

 その問いにどう答えていいのか分からず、たどたどしく言葉を返すと、女性は笑顔を見せては立ち上がり、少し待っていて、と席を外した。

 しばらくして、遠くの方から重たい靴音が聞こえたと思えば、徐々にそれは大きさを増し、そしてその主が現れた。――地下へと行く前にあった、あの男の人だ。

 大柄の体格に見合った腕を胸元に重ね、俺の顔をマジマジと見た後、一言だけ言葉を発する。

「大丈夫か?」

 その言葉に俺は素直に返事をすると、男の人は、腰を屈め、ベッドの下から俺の靴を出してくれた。

「上で待っている」

「上?」

 その言葉に一瞬悩んだが、すぐにその意味を理解した。少しばかりふらつく足下に意識を集中させ、俺は背中を追った。

 それからの流れは簡単なものだった。呼ばれた部屋に行くと、そこには麻祁とスーツを着た男の人がいた。

 二人は何かを話し合っていたが、俺達が部屋に入ると同時にこちらに顔向けてきた。しかし、その表情は再会を喜び合うようなものではなく、ただ単に無表情で顔を一瞬見た後、また何かを話始めた。

 小さく聞き取れない言葉はその後すぐに止み、ザックを片手に持った麻祁がこちらに向かい歩いてくる。俺は何か一言掛けようかと思ったが、それより先に麻祁の体は横を通り過ぎ、ドアへと足を進めていた。

「帰るぞ」

 その言葉の後、麻祁は右手を肩の上から出しては軽く振り、廊下へと姿を消す。残された俺は一瞬迷うも、頭を下げ、その場を後にした。

――――――――――――――――――――――――――――――

 外は変わらず暗いまま。ヘリに乗ってからどれぐらい時間が経っただろうか……? 遠くを見ても点々とした明かりがあるだけで、街と呼べる明るさはない。麻祁は相変わらず同じ姿勢で外ばかりを眺めている。

 俺は少しばかり重たい口を開き、退屈しのぎ……ではないが、気になる事があったので聞いて見た――あの粉の事だ。

 問いに対し、麻祁は何も答えてくれないだろうと思ってはいたが、その答えはあっさりと返ってきた。どうやら、俺が寝ていた四時間の間に、情報をまとめ、ある程度の結論を導きだしていたらしい。俺にも解りやすく、あの場所にあった粉について教えてくれた。

 どうやらあの粉は細菌の一種のようだ。それぞれが生き物としての意思があるらしく、熱に敏感でそれを頼りに栄養素を吸収しようとしているらしい。

 しかし、その細菌には歩く為の足が無いらしく、自力ではそこまで目指すことが出来ない為に、その場で粉のように留まり、風や人などが運んでくるのをひたすら待ち続けていたようだ。

 そして、あの場所にいた真緑の液体。あれはその後の経過状態らしく、同一のモノだと教えてくれた。どうやら、熱に触れると、体をすぐさま液体になるらしく、理由としては、より栄養素を体内へと吸収をする為と、個々よりも集団での吸収する効率を広げる為だとか。つまりあそこで見た真緑の液体の全てが元は粉のような物体であり、その経過状態だったらしい。

 その状態が最も面倒らしく、粉の場合は口や鼻から体内に入り、中で変化。皮膚などに触れた場合は、すぐに状態を液体にさせ、皮膚を溶かすための溶解液を吐いては、血液へと侵入し、全身を駆け巡り出す。その後、脳にもそれが回り、機能を支配。目は熱を探すために探知機として活動し、そして更に動く熱――人などを積極的に歩いて襲うようになる。

 もし、周りに熱などが無い場合でも、生き物の体は栄養素のタンクとしての役割を果たし、しばらくは活動が可能らしく、それが尽きた場合は、全てを搾り取る為に全体を真緑の液体で染め上げ、それが無くなるまで吸い続けるらしい。

 その説明を聞いて俺は唖然とする中、ふと新たな疑問が現れた。

「一体何の為にそんなのを作ったんだ? もし外に漏れたら……」

「単純に考えれば――兵器だろ」

「兵器?」

 その問いに、麻祁は外を向いたまま答えた。

「生物兵器。人だけを殺す為に使うものだよ」

「ひ、人って……なんでそんなものを……」

「邪魔だからな。そこを制圧するにも、人さえいなければ、ただそこに居座るだけで楽に占拠は出来るし、なにより、そこにある物資も破損させずに利用できたりと、良いこと尽くし」

「占拠って、何を占拠するんだ?」

「重要建造物もしくは街。建物内なら感染者をただ中へと入れるだけ、街なら風の流れを考えてからの上空から散布、もしくは感染した奴をその場所に離し、中で更なる感染を流行させる。後は、外で火でも焚けば、その熱に群がり集まって勝手に燃えて灰になる。――楽でいいだろ?」

 麻祁の言葉で浮かび上がるその映像。それはまるで映画のようにシーン毎に頭の中で次々と切り替わっていく。

「良いって……そんなのもし世界中に撒かれたら……」

「ああ、その点は気にする必要はないよ。もしそんな奴に売るとしたら、自分で自分の首を絞めることになる、誰が喜んでそんな事するのか。さすがに売る側も選ぶし、大体、それ自体を気にする必要もない。私達が住む街なんかにそんなものを撒いて占拠したって、意味も価値もないんだ。ただの気苦労だよ」

「…………」

 確かにそう言われればそうだと思う。しかし……心の中ではわだかまりとなり、離れない。まるで、この後すぐに起きるであろう犯罪をそのまま見過ごしているような気分だ。……少しばかり気分が悪い。

「その資料ってやっぱり相手に……」

「渡す」

 麻祁が即座に答える。それは見えていた答え、でも……。

「ただ――」

「……?」

「情報の何割かは削って渡す」

「削る?」

「情報の何箇所かを削除して渡すんだ。今回は紙の資料もあるから、何ページかを千切ったり、フラッシュメモリーの中にあるファイルを削除したりする。後、変えれるなら中身の一部を変更したりとか、細工を施した後に渡す」

「そんなことしても大丈夫なのか?」

「問題ない。頭に記憶できないからこうして残しているわけで、特に上側の連中なんて知らない事ばかりだ。覚えているのは唯一直接生成に関わっている極僅かな人間の極僅かな部分のみ、変えても覚えてないのがほとんどだ。あとは信用性の問題だが、相手は色々なリスクを承知で依頼してくる。目標であるモノさえ手に入れば、ほとんど文句などは言われない。無いよりはマシ、というものだ」

「でも、なんでそんな事を? そんなもの持っていたって……」

「こちらが有利になる為。報酬は多少なり減るだろうが、情報がそのまま入手できるのだから、ただの紙切れよりかは十分価値がある。」

「有利って……まさか作るのか? あの細菌を」

「作るかどうかはその時次第だが、対抗策は必ず練り上げる。これは手札としての一つ。相手は資料が削れた分の時間を補填をしなければならない。十年掛けた研究成果が、そのまま一年も二年も遡らなければならないとすれば、それだけでかなりの遅れが生じる。その間に私達が開発を進め、対抗策などを作り、そしてそれを国などに売るんだ」

「国って、ここの?」

「そう、先にこの情報を手札として表示すれば、必ず何らかの反応は見せる。もしそれが国自体と関わりが無いものなら尚更な。そして対抗策を持つ私達は危険因子と見なされつつも、情報提供者としての信頼として両面の顔を得れることが出来る。そうなるとこっちのもの。後は、条件次第ではそれなりの援助を受けれるからな、金から始まり色々な物資などを」

 スケールの大きくなっていく話に、俺の頭の中は一杯になり、徐々に考えが追いつかなくなっていた。突然、国など言われても、まるで子供の考えた作り話のようにも思えてくる。

――どこまでが嘘で、どこまでが本当なのか?

 頭の中で無限に湧き続けるワードを整理していると、自然と黙り込んでしまった。しばらく流れる沈黙に、

「――龍麻」

麻祁に突然呼ばれた。

 顔を向けると、外に顔を向けたままで続きを話し始める。

「この後、もし何があっても絶対に何もするな、いいな?」

 その言葉に、首を傾げた。意味も解らず、続きの言葉を待っていたが、麻祁はそれ以上何も喋る事はなかった。

 俺は一言返事をし、麻祁と同じく外へと目を向ける。地平線の向こうで眩い光が煌いていた。

――――――――――――――――――――――――――――――

 ヘリから降りた後、俺達の足は三階にあるあの部屋へと向かっていた。麻祁がノックもせずにドアを開け、中へと入っていく。

 奥の机には椚さんがいた。俺達に気付いた素振りも見せず、頻りにノートパソコンのキーを打ち続けている。

「ここにザックは置いて行く。分析をお願いする」

 ソファーの上にザックを置き、ドアへと向かう。その時――。

「ゆうきは?」

 その問いに、麻祁は立ち止まり、俺は思わず顔をしかめた。

 瞬時に頭の中で流れるあの時の映像、そして手に広がるあの時掴んだ足の感触。それが今、全て思い出されるように浮かび上がってきた。薄暗い場所とはいえ、その出来事は鮮明に理解できた。多分ゆうきさんは……。

 背を向けたままの麻祁が、答える。

「――まだ確認していない」

 キーを打つ音が止まり、眼帯をしてないもう片方の目で、ジッと麻祁の背を見る。

「……そうか」

 再び聞こえ始めるキー音に、俺達はドアを閉める音を残し、部屋を後にした。

 月明かりも蛍光灯もなく、ただ中庭にある街灯の明かりだけを頼りに、暗い廊下を歩く。俺は、今だ頭の中で引っかかっているゆうきさんの事について、聞こうかどうかを悩んでいた。

 返って来る言葉は分かっている。でも、それを認めたくない自分がそこにはいた。麻祁がやったとはいえ、実際に俺も手伝った。……あの高さ、苦労して上ったからこそ分かる、もしあそこから落とされた場合、人間なんて……。

 俺は、自分の手でゆうきさんを殺したなど考えたくなかった。誰かが否定してくれれば、それだけで気が楽になる、そんな気が今もし続けている。でも――それを誰が?

 何も言えないまま、ただ麻祁の背中に着いて行く。階段を降り、そして靴箱へとたどり着いた。

 ふと目の前で麻祁の背中が止まる。目線の先、そこに目を向けると一人の女子生徒がいた。中庭にある街灯の薄明かりがその場所と茶色の髪を照らす。紫藤えみさんがそこに居た。

 俺達と目が会うも、何も行動はせず、まるで俺達の動きを待つ獣のようにただジッと立ち尽くしたまま、その場所にいた。麻祁は一瞬だけ顔を向けると、何も言わず靴箱へと足を進める。

 横を通り過ぎる、その時、えみさんが喋った。

「さっき保健室に向かったけど兄はいなかった。今どこにいるんですか? 兄は――」

 その言葉に、麻祁は足を止めるも、何も言わず歩き――。

「兄はどこにいるんですか!?」

 グッと右肩を掴まれ、麻祁の体は壁へと押さえつけられた。えみさんの顔と麻祁の顔が間近に迫る。麻祁はその目を見続けたまま、何も言わない。それに対しえみさんが、

「ッ――!?」

聞こえる小さな舌打ちの後、麻祁の頬を叩いた。皮膚が弾ける音が響き、麻祁が顔を背ける。しかし、すぐに顔を戻した。再び視線が合い、えみさんが口を開く。

「兄はどこにいるんですか? 兄は……」

 言葉に合わせる様に肩と手が震え始める。

「答えてください……ど、どこにいるんですか、あ、兄は――」

 麻祁は――何も答えない

「答えてッ!!」

 怒声とも取れるような大声に再び聞こえる頬が弾ける音。しかし、麻祁は顔を背けずに目を見続ける。

「なんで、なんでなんでなんでなんで!!」

 制服の襟元を掴み、何度も何度も体を揺すっては壁へと叩きつける。その光景、俺は止めに入ろうと腕を伸ばした。だが、ある言葉を思い出し、その手を下げる。

『この後、もし何があっても絶対に何もするな、いいな?」』

 ヘリで聞いた麻祁の言葉が頭を過ぎる。行き場をなくした手はそのままズボンを掴み、それを握り締めた。

「ど、どこに行ったのよ……兄はどこにに……」

 震える声と鼻を啜る音、同じ言葉が幾度も廊下に響く。

「――なんで答えてくれないのッ!!!」

 はち切れんそうな怒声の後、

「ううう……うううぅ……」

麻祁の胸に、えみさんは顔を埋め、そのまま崩れるように廊下に頭を付けた。

「あああ……あああーー!!!」

 まるで全てをかき消したいと願うような叫び声だけがその場を染める。

 麻祁はうずくまるその背中に顔を向けた後、そのまま靴箱へと歩き出した。俺はすぐに後を追い、玄関前で合流する。

「あ、麻祁……」

 俺の呼びかけに、麻祁は何も答えず、スカートのポケットに入れていた携帯を取り出し、どこかに掛け始めた。

「……今、靴箱の前に紫藤えみがいる。そちらに行ったそうだな。……ああ、後は頼む」

 電話を切り、外へと出る。一瞬だけ空を見上げた後、麻祁が歩き始める。俺は、今だ玄関に響く声が気掛かりになり、もう一度そちらの方へと目を向けた。

 廊下でうずくまるえみさんに、白衣を着た女性が駆け寄り、膝を屈んでは背中に手を当てている。その光景を目にし、俺は駆け足で麻祁の元へと走った。

 前にある門を目指し、大きく開いた道を二人で歩く。話しにくい雰囲気の中、俺は麻祁の様子が気になり言葉を掛けた。

「頬……痛くないのか?」

 一瞬の間の後、麻祁が左頬を手で擦る。

「……痛いよ」

「そうか――っ!?」

 突然、左頬に痛みが走った。顔が思わず右に向き、足が止まる。ヒリヒリと痛む場所を押さえ、何が起きたのかを一瞬考えるも、すぐにその原因が分かり、歩き去る麻祁に近づいた。

「突然何するんだよ、痛いって!」

「痛みの共感だ。分かっただろ?」

「共感って……つ……」

 それから何も言わずに門まで歩き、麻祁が手を掛ける。少しだけ開かれる門、その時、麻祁が口を開いた。

「ゆうきの安否を、私達はこの目で確認をしていない。誰に何を問われようとも、こればかりは答えようがない。あの粉に関しての事柄を全て分析し対策を立て、準備が整い次第、あそこには必ず戻る――必ずだ」

 門を開け麻祁が道路へと出る。

「だから、気には留めるな。それより帰ろう、私はお腹が空いた」

「……ああ」

 門を閉めた後、俺はふと空を見上げた。月は隠れ、雲が一面を覆っている。横に向けば、麻祁は坂道を下っていた。俺は呼び止めるように声を掛ける。

「家で食べるって、今家に何か食べ物あったっけ?」

「今朝の残りは? ってより、今日の食事当番はお前だろ、晩御飯どうするつもりだったんだよ」

「え……いや……その、夕方寄ろうかなって思ったら、ほら麻祁に止められてさ……突然昼に声掛けられたからすっかり……」

「……なら仕方ない、どこかの店で食べるか」

「外食? でもお金なんて持ってきてないんだけど……」

「私はある、一応カードがあるし」

「そうかそれなら良かっ――」

「私一人分だけどな」

「えっ? 一人って……」

「当たり前だ。忘れたやつが悪い」

「わ、悪いって、そんなこと言うなよ! それこそ共感ってものを……」

「麻祁と久柳では字数も違えば、性別も違う。残念だが共感は出来ないな」

「そ、そんな……ここまで一緒なんだから、せめて安いものでもいいからさ。何なら明日の――」

 駅前にたどり着くと眩い光が出迎えるように広がっていた。聞こえ始める雑音や少しざわめく人混みの音が辺りで響く。俺はかき消されそうな声を一段高くあげた。

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