三節:悪夢

「はあ……」

 大きなため息と共に、俺達は正門を目指し歩いていた。

「いてて……」

 後ろから聞こえる声。目だけを覗かせると、そこには苦痛の表情を浮かべて歩く僚の姿があった。腰をさする度に、わざとらしく声をあげている。 

 授業が終わり、俺は約束通り僚の手伝いをした。当然ながら用具室の掃除は思っていた通り、大変なモノだった。

 陸上、球技、柔道、などなど……ありとあらゆる道具がその狭い空間を埋め尽くし、その場所はまさに蟻一匹すら通さない『要塞』そのものだった。

――――――――――――――

 さて、どうしたものか……。

 用具室の扉を開けた後、とりあえず目の前にあったボール入れのカゴを取り出した所で、俺は立ち止まった。

 中をうかがい、状況を整理する。

 ここでの手順は簡単なものだ。

 まず中にある道具を全て外に出す。次に、床を掃き、そして拭いて綺麗にした後、外の道具を中に戻すだけ。――実に簡単な流れだ。

 しかし、たとえその手順が簡単だとしても、数が数だけに、そう簡単には終わる話じゃない。

 だいたい、そんな場所をたった一人で掃除させようとするなんて、先生も先生で無茶を言うと思う。

 本来この場所は、部活をしている生徒が月一で集まり、時間と人数を掛けて清掃をする。

 それを一人でさせるのだから……、よほど僚の態度が悪かったのだろう。――なんにせよ、俺はただのとばっちりである。

 自然と出るため息、引き受けた事への後悔。しかし、心のどこかでは、『諦め』と『仕方がない』という二つの気持ちも現れていた。

 もし、僚でなく俺だったとしたら……、当然、誰かに助けを求めている。

 そんな気持ちもあり、黙って帰らず、今ここにいるのだが……その原因を作ったはずの男が、ひとり陽気にボール遊びしているその理由を、いま聞きたい。

――――――――――――

 見えない風が左右の木々を揺らす。

 まるでこの場所から俺達を追い出すように、葉はざわめき、風が背中を押している。

「――いつつ……」

 後ろからまた僚の声がした。

「……まだ、痛むのか?」

「当たり前だッ!」

「大げさな……、そんなに痛くはないだろ」

「ッざけんな! 何が痛くはないだろ、だ! 俺の大切な背骨ちゃんが泣いてるわ!」

 背中をさする度、僚が小さな悲痛を上げ、目に涙を浮かばせた。

「遊んでるのが悪いんだろ? これこそ天罰だよ天罰」

「天罰ったって、何も背中にぶつける事ないだろ? 習わなかったのか? 『バスケットボールは人にぶつけちゃいけません!』って」

――――――――――――

「ギャァアァァッーー!!」

「おい、うるさいぞ。いちいち叫ぶな」

「いや、無理! 絶対に無理! 腰が無理!」

「もうすぐ終わりなんだ。さっさと済ませるぞ」

 僚にそう言い聞かせ、両手に持ったボール入れのカゴを強く押した。

 一歩進む度、喧しい叫び声が体育館全体に響き、その後も声は途切れることはなかった。

 時々、その声に誘われるかのように吉田先生が顔を見せるも、僚は絶好調のように叫び続けていた。

 最後は先生にも手伝ってもらい、掃除開始から終わったの七時ぐらいだった。

 俺達は先生に鍵を渡した後、学校から出た。

 外に出て空を見上げると、そこには暗闇が広がっていた。

――――――――――――

「それにしても事前に親に連絡していたとはな……親父も全く冷たいぜ……」

「それは自分のせいだからだろ? 僚とこのお父さん真面目だからさ、罰はしっかり受けろってことだよ」

「まじめ? 普通は怒るだろ? 夜までこんなことさせていたらよー。……ったく、案外適当なところあると思ったら、妙なところはしっかりしてるからな……。くそっ、いいよな、龍麻んとこは一人だから誰も気にする人いなくてよ」

「一応連絡はしてると思うぞ。……まあ、俺のところも似たようなものだから、何も言ってはこないと思うけどな……」

「――互いに辛いな――ッてて……、それじゃまたな」

 正門を過ぎ、住宅街へと入った辺りで、僚が片手を振った。

 俺達の前に、十字路が現れた。

 その中央で立ち止まり、話を続ける。

「ん? ああ、もうか……。暗いから見えなかった。――それじゃ、またな。今日はお前のおかげでクタクタだよ」

「はあ? 何言ってんだよ。俺の方が重傷でクタクタだぜ。大体、どうするんだよこれ。こんな姿見せたら親は泣くぜ? しかも、小さい時からのお友達の龍麻君にやられたなんて知ったらよ」

「お前が悪いんだろ? 普通に手伝っていたら何もなかったんだよ。聞かれたらちゃんと説明すればいいだろ?」

「なんて?」

「龍麻の手伝いをせずに、バスケットボールで遊んでたらけたって」

「あー、記憶の改変だぞ。セコイなセコイ」

「セコイってなんだよ。とにかく自分が悪いんだ、仕方ないだろ?」

「……あーあ、なんて可愛いそうな俺。こんなにも過酷な人生を歩み出すなんて辛い」

 両手を合わせ、星もない空を仰ぐ。

「俺が可哀想だよ、巻き添えくらって」

「へへっ……まあ、ありがとうな、本当に助かったよ。今度の土、日にどこか行こうぜ、その時なにかおごるからさ」

「それは楽しみだな。また明日決めるか……それじゃな」

 互いに片手を振り、それぞれの方向へと歩き出す。

 闇に消え行く中、

「なあ、龍麻……」

突然の呼びかけに、俺は立ち止まり振り返った。

 暗闇の中、家から漏れる明かりのおかげで、僚の姿が微かながらも確認できる。

「ん? 何だ?」

「今朝話していた、殺人事件の話なんだけどな……」

「ああ、宇宙人? いないことを祈るよ」

「それも大事なんだが……実はな、バラバラされた女性が歩いていた時間帯……」

 突然空を見上げ、不気味に笑いだす。

「今ぐらいらしいぜ。へっ、へへへっ……」

――バカらしい。俺は何も答えず、ただ無表情でそれを見ていた。

「おいおい反応が冷たいな。せっかく教えてあげたのに、あっ、もしかして漏らした?」

「んなわけないだろ、またおかしくなったのかと心配してんだよ」

「俺は常に真面目だぜ? まあ、これは忠告みたいなものなんだからよ。まだ家まで遠いんだろ? まだ捕まってないって話だし、一応気をつけろよ。まあもし、宇宙人にあったなら、また明日にでも話を聞かせてくれよ。じゃあな」

 高笑いを残しながら、僚が姿を消す。

 最後までそれを見送っていた俺は、

「なんだよありゃ……」

小さな悪態をそこに残し、足を進めた。

――――――――――――

「……ぬおッ!?」

 横から突然犬の声が聞こえた。

 一瞬にして静かだった住宅地に喧しい声が響き渡る。

「……っだよ、――わッ!」

 俺は仕返しにと犬を威嚇し、急ぎその場を通り過ぎた。俺の威嚇が効いたのだろう。鳴き声は更に強さを増した。

「ったく、なんだ最近の犬は……はぁ……」

 出るため息、しかし、心の中では少しだけ安堵あんどした。

 僚と別れてからここに来るまでの間、生き物と呼べる生き物に出会う事が一度も無かった。

 一応、左右を挟む家の窓からは明かりが出ており、そこから時々聞こえるテレビの音や話し声、そして生活音などからも『人が居る』ということだけは伝わっていたが……、やはり姿を見ないことには、どこか不安を感じていた。

 光は徐々に途切れ、そして足は暗闇へと踏み入れる。

 辺りはひっそりと静まり、光を灯す家が無くなってしまった。あるのは地面を照す街灯だけ。

 その雰囲気はまるで『この世から全ての生物が消えてしまった』そんな感じだ。

 ……これなら、何が起きても誰も気付かないだろうな、何が起きても……。

――いやいや、それはありえない。俺みたいな金も何も持ってないヤツを襲ってどうなる。ましてや……僚の言った宇宙人なんてもってのほかだ。

 大体、よくテレビで宇宙人を見たとかカメラでユーフォーを撮ったとかいう人はいるけど、実際にニュースの中継とかで、直接それが登場している所なんて見たことがない。

 そう考えると、本当に宇宙人は居ないと思える。もし居るなら、必ずどこかで一度は映ってるはずだ。だから、宇宙人なんて――。

「――ッ!?」

 ある音が足を止めた。

 動きを止め、その音に集中する。……どうやら風が家の門を叩いたらしい。

 途切れた思考を戻し、顔を前に戻す。その瞬間、自分のいる状況を改めて認識させられることになった。

 誰もいない暗闇、そして静寂。

 なんだか寒くなってきた。早く帰って風呂にでも入……。

「……ん?」

 突然、奇妙な音が耳に入ってきた。

 辺りを見回したが、チカチカと点灯を繰り返す街灯以外に、音の原因となるものは見られない。

 また風……いや、気のせ――まただ、また小さく聞こえた。

 目をつぶり、音に耳を傾ける。

 ……さっきよりも聞こえる――右から?

 音のする方へと振り向く。そこには家のへいと塀に挟まれて出来た路地があった。

 ひと一人が通れるぐらいの場所。奥は暗く、先は見えない。

 俺はもう一度耳を向けた。――聞こえる、微かに……。

 路地は相変わらず暗く、そこを見続けていると、まるで異次元世界に行く為の入り口のようにも見えてくる。

 その場から去ろうと思ったが、その音が耳に残り、気になって足が動かせない。

 頭の中で、僚のへらへらした顔と今朝の言葉が浮かび上がる。

 殺人鬼、宇宙人――そんなものがいるわけがない。

「――よし……」

 気を張り、それを否定する為に俺は、その場所へと足を進めた。

―――――――――――

 まばらに置かれた古い街灯の薄明かりを頼りに、足を進めて行く。

 一歩進む度に、あの音が徐々に大きくなる。まるで、水にかったべちょべちょの小麦粉を、何度も練っているような音が……。

 ゴミ箱や自転車など、進む道を邪魔をするように置かれた物を避けながらしばらく歩く。

 そして、遂にその音が目の前にまで迫った。

 間近に聞こえる、普段ではあまり聞き慣れない音。角を曲がれば……すぐそこに――。

 俺は足を踏み出さず、その場で止めた。

 声も出さず、息も殺し、ただ聞こえ続けるあの不快な音を耳にする。

 背中に冷たい感触が走る。熱くもないはずなのに、額からは汗が溢れ出てる。

 粘り気のある小麦粉を練るような音。その原因がその角を曲がった先にある。

 次第に真っ白だった頭の中に、今朝、僚の言っていた言葉が浮かび上がってくる。

『まず、体がバラバラの状態で発見されたんだってよ』

 頭を振るい言葉を消す。確めるように左手をコンクリートの壁へと当て、暗闇に紛れる自転車などを避け、前へと進む。

『何か鎌みたいなので肩から斜めに勢いよくぶった斬ったって感じなんだってよ』

 奥の壁に辿り着き、左へと曲がる。

『体をカラスが啄んだような後が無数に残っていて、滅茶苦茶になってたらしいぞ』

 少し進むと、暗い闇を照らす一つの街灯が現れた。

 俺は足を止め、目を凝らし、奥を見つめる。ハッキリとは見えないが、暗闇の中で微かに何かが動いている。――どうやら、人がいるようだ……でも一体誰が……?

――この近くに住んでいる人?

――変質者?

――それとも殺人事件の犯人? ……何にしても、早く音を止めたい。

「す、すみませーん……」

 俺は薄闇に向かって恐る恐る呼びかけた。

 呼び掛けと同時、あの音は止み、暗闇にいた影がゆっくりと立ち上がった。

 ゆらゆらと揺れ動き、こちらに向かって歩いてくる。

 その足取りは重く、そして焦らすように遅い。それに合わせ奇妙な音も聞こえてきた。――水滴が地面に落ちるような音だ。

 びちゃ、びちゃ、と、時には間隔をあけ、時には立て続けに、その音を耳に、影が姿を見せるのを待っていると、そいつが街灯の手前で立ち止まった。

 水滴の落ちる音だけが聞こえ続けている。

 こいつ……なんだ……?

 警戒しすぐには近寄らず、顔だけを覗こうと一歩前に進んだ。しかし影は深く、顔は隠れ――口元で何かが揺れている。

 何かをくわえているのだろうか?

 それが揺らめく度、あの音が耳に響く。ますます気持ち悪い奴だ……早く警察に……。

 携帯を持っていない為、俺は一度その場から引き返そうとした。その瞬間――、

「……えっ?」

目が打ち付けられた。

 視界に入った思わぬモノ。それは、そいつの口元からだらしなくぶら下がり、まるで助けを求めるように、地面へと向かい真っ直ぐ伸びていた。

――手。細い腕から人差し指へと、赤い線が真っ直ぐ走り、しずくとなっては、地面に崩れたバラ模様を描く。

「えっ……な、なんだよこれ――グっ!?」

 突然、鉄の匂いが鼻を刺激した。咄嗟に口を押さえる。

 この匂いは……まさか……。

 今すぐこの場を去ろうと振り返る。が、突然音が鳴り、動きが止められた。

 それは耳に残る、まるで果実を地面に叩きつける様な音。

 俺は動く事が出来ず、釣られるように目を向けた。――その瞬間、全てが奪われた。

頭の中に、あの言葉がまた響く。

『実は――』

――それは助けを求めるように、細い腕を真っ直ぐと伸ばし。

「あっ……、あっ、あぁぁぁ……」

 振るえる声が言葉のように止めどなく溢れ出る。

『バラバラにされた死体らしく――』

――それはしなやかな曲線を失い、ただの醜い塊へと成り果て。

「……はぁ、はぁ、はぁうッ!?」

 突然の吐き気に襲われひざまずいた。

『今だに――』

――街灯の光により、赤黒くなった長髪はより色を輝かせ。

「うっ……、グッ――」

 耐えきれず、胃のモノを地面にぶちまいた。臭いと喉の痛みにむせかえる。

『頭部の方だけ見つかってないらしぜ――』

――何かを語りがたそうな悲痛の表情で、俺を見ていた。

「たす……け……」

「げほッげほ――!!?」

 目の前から聞こえる小さな声。

「ひっ、ひっ、ひっ!?」

 俺は涙を拭いながら立ち上がり、その場から逃げ出した。

 闇に体を溶け込ます時、後ろからまたあの声が聞こえた。それ酷く掠れた小さな声。まるで誰かが……呟いているような。それが誰の声なのかは分からない。襲われた人、襲った犯人?

 右、左、前。何度も壁に体をぶつけ、自転車やごみ箱に足を取られながらも、速度を落とすことなく俺は走り続けた。

「はぁ、はぁ、はぁ――」

 もはや自分の辿って来た道など分からない、とにかく出口へ――。

 幾度目かの角を右に曲がった時、ふと目の前に一つの光が見えてきた。点滅を繰り返すあれは……。

「――っ!?」

 突如、視界から光が消えた次の瞬間、

「クァッ!」

体中に痛みが走った。

「くっ……、くそ……!」

 すぐさま転んだ体を起こし、痛みを感じる間もなく路地から出た後、右へと曲がった。

 はやく、はやく公園へ! 公園さえ抜ければ――。

 ポツポツと明かりの灯る住宅に挟まれながら、導かれるようにその道を走り続けていると、ふと目の前に、天光あまと公園と掛かれた壁が見えてきた。

 俺は顔面から突っ込むように、アーチ型の車止めを飛び越え、中へと入った。

天光自然公園あまみつしぜんこうえん

 街の中心、住宅地に囲まれたその場所に、この公園はある。今朝、俺が通った所だ。

 その名の通り、自然公園と呼ばれるだけ土地の面積はかなり広く、空から降り注ぐ光の全てをその身で受け止めるため、日中は暖かい。

 そのおかげなのか、公園内には幾つもの大きな木々が生え並び、数多くの生き物達がそこには集まっていた。

 昼間には近所の子供や母親達、散歩、ジョギングをする人など、活気満ちた人の声が公園内を包み、夜には虫達が絶え間なく鳴き続ける。

 心休まるそんな場所――のはずなのだが……今はそんなところではない。

「はぁはぁ……」

 公園の中央辺りで立ち止まり、俺は一度振り返った。

……姿が見えない、追い掛けて来ていない……? しばらく見続けていたが、やはり姿は見せない。とにかく家に……。俺は再び走り始めた。

 まだ姿を見せない事から安心したのか、走る途中、その瞬間を呼び起こすかのように、頭の中にあの時の映像が浮かんできた。

 地面に広がる真っ赤な血に、滴が何度も跳ねる音。そして――首。

 あれは現実なのか? あんな事……本当に人間が……。

 考えれば考える程、あの光景を目にした自分の目が嘘のようにも思い始め、モヤモヤとした感情が膨らんでいく。そんな時、ふと視界にアーチ型の車止めが入った。

 出口、あれを越えれば……何だ……?

 一瞬、後ろから奇妙な音が聞こえてきた。それはまるで空気が震えるような――。

「なっ!?」

 突然の事に足が止まり、

「あ……ああ……」

俺はその場に座り込んだ。目の前に――突然それは落ちて来た。

 水風船を叩きつける様な音と共に現れ、落ちた衝撃で辺りに肉片をぶちまける。

 その光景に勢いは殺がれ、尻餅をついた体が自然と下がり始めた。

 言葉にならない声を出し、ズボンの擦れる音を鳴らせながら、とにかく後ろへと下がる。

「タス……ケ……」

「ひっ――!!?」

 後ろから声が聞こえると同時、背中に何かが当たった。

「……テ……」

 何度も聞いたかすれた声。今その声が、はっきりと俺の後ろから聞こえてきた。

 それはまるで、か細く震えた女性、もしくは呟く幼い子供の様でもあり、そして何より機械質な声。

 急ぎ振り返り見上げると、そこには俺を見下ろす一つの黒い影がいた。影の右腕は天高く伸ばされ、その先が光っている。

……まさかッ!?

 それが何なのかを覚った瞬間、反射的に目が瞑り、すかさず右腕が前へと出た――同時、

「くッ!!」

痛みが走り、すぐ引いてはその場所を左手で押さえた。

 溢れ出す血液。指と指の間をい潜り抜け、妙な温もりだけを残しては、その量と事実を伝えてくる。

 俺はもう一度顔を上げる間もなく、這うような形ですぐにその場を離れた。

 右腕の使えないぎこちない四つん這いから体勢を直し、走っては時たま地面に崩れ、再び立ち上がっては走る――その動作を繰り返しながら、とにかく前へと進んだ。

 道を塞がれ、行き場を見失った俺が死に物狂いで辿り着いたのは一つの街灯だった。

 後ろへと目をやり、アイツが来てない事を確認した後、俺は街灯へと崩れるように背を重ねた。

 薄暗い明かりの中、改めて自分の右腕を目にする。

 視界に映る青白い肌。そこには乱れた鮮やかな赤い線と、押されて出来た指紋の跡がくっきりと残されていた。幸いにも浅かったのか、真横一直線に入れられた傷口は、今は乾き、血の臭いが鼻の辺りを漂っていた。

 緊張と恐怖が入り混じった空気から一時的に解放された腕がジンジンと痛み出し、震え始める。俺はそっと握り締め、顔をあげた。

 目に映ったのは大きく広がる青い空。雲一つないその場所に満月が一人灯る。

 その光景に視界が徐々にぼやけ出し、頬に温かい液体が伝った。

「ひっすっ……な、なんなん……なんなんだよ……、一体……」

 問い掛けた言葉に、誰も答えない。

「くッ……、ひっひっすっ、く……すっくそ、くそくそくそくそッ!」

 どうしてこうなった? そう振り返る事もなく、俺はただ単に悔しくなり、罵る言葉を誰にぶつける事もなく吐き続けた。

 顔を下に向けると、止めどなく流れる涙が地面を濡らしていく。

「……うぅ……すっ、はぁ、はぁはぁは――」

 罵る言葉が荒い呼吸へと姿を変えた時、ある物が目に入り、俺の呼吸が一時的に止まった。

 街頭により照らし出された自分の影。そこに別の影が新たに現れた。

 この場所には俺以外の誰かは少なからずいるはず。散歩、ジョギング、決してアイツと俺だけではない。もし誰かが居たならば、その人に助けを求めれば――。

 それは決して可能性がないと言えない事。ふと前に現れたその影が、俺を助けてくれる。そんな希望を抱いていた。――あの声を聞くまでは。

「タスケテ……」

「うぅ……あぁぁッーー!!」

 俺は影に覆われた地面に顔をうずめたまま叫んだ。逃げる事はなくただじっと動かず、いや、動けずに――。

 恐怖? 絶望? そんな感情じゃない。

 疲労? 草臥くたびれ? そうでもない。まるでその動作自体を忘れたかの様に、逃げる意思すらなくなっていた。

 熱のこもる震えた腕を抱き締め、掠れた声をただ上げ続ける。

 影は何もして来ない。しかし、頭の中ではある一つ映像が流れていた。

 徐々に上げて行く右腕、天辺に着いた合図としてその先が光り、それが振り下りてくる。断片的なコマ送りの映像。その一連の動作が脳内で引っ切り無しに行われている。

 俺は待つしかなかった。その繰り返される最後の画面、そして最初に切り替わる為のあの瞬間を――。

――破裂。

「――ひッ!!」

 声が上がり、体が自然と身構える。それは突然鳴り響いた。まるで何かが張り裂けた大きな音。

 その音の後、前で何かが倒れたような重たい音がした。恐る恐る顔を上げる。

 蒼と黒が入り混じったぼやけた視界、軽く目を擦り、改めて見る。

 誰もいない……? いや、視界の左側に黒い影が見える。俺は視線をそれに向けた。

……さっきの影だろうか。視界に入った影はぐったりと横たわったまま動……!? あるモノが目に入り自然と体に力が入った。

 それは人ではなく、一匹の死体だった。

 細長い緑の頭に、大きな目。頭のてっぺんには二本の細長いものが付いている。

 それは俺が幼い時に図鑑や実際に見たことがある、カマキリのような姿をしていた。

 大きな目から覗く黒い瞳が、俺の顔をじっと見ている。

 数秒待つが、何も起きない。そいつは地面に体を沈めたまま、動かずにいた。

 寝ている体からはじわじわと、宝石のような緑の液体は溢れ出て広がり始める。

 訳のわからない事態に困惑し、思わず言葉が出る。

「なんなんだよこれ……」

 その時だった。

蟷螂かまきり

「……ッ!!?」

 突然、右側から女の声が聞こえた。俺の頭が自然とその方へ振り向く。

 向いた先、俺は目を見開いた。そこには、一人の銀髪の女が立っていた。

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