星降り 06



「う…」



彼の肩が、震えている。


どこか遠くの方から。

それでいて、とても近くから、自分を呼ぶ声がする。



「う……うう…ううううっ……」



それでも彼は決して振り返らない。



―それは、どこで読んだ、物語だっただろうか。


生と死の狭間を目前にして、決して振り返るな、と神から言われていた一人の女は。

最後の最後で、過去を振り返ってしまって。

自分が今まで積み上げてきたものが、恋しくなってしまって。

たったそれだけのことで、後ろを振り返ってしまった彼女は。

天から降り注いだ火によって、塩の柱になってしまった。


きっと自分も、彼女のように振り返ってしまったら。

全てが、台無しになってしまう。

ここまで来たことを、後悔してしまう。

どうにかして抑えている涙が、抑えられなくなってしまう。



だから。

一段ずつ、一段ずつ、慎重にその階段を昇っていく。


彼が踏み出す一歩で底がずれていく彼の靴の音が、

夜の風にかき消されながら、ただひとりでにその場を離れていく。

それを見ないように、見えないように。


これから彼に待ち受けるであろうことから、あえて目を逸らすように。


もし今この場面を見ている観客がいるとするならば、我関せずと吹きさらし続ける風の群れか、大地に爪痕を付けたことで付いた指先の土を払い落としている、神様ぐらいだろう。



半球の円周、端からちょうど中心部に向かって半分くらいのところにたどり着いたところで、円の中心部、地上からではほとんど見えなかった頂上が、確かに光っているのが見えた。


それはずっと光り続けているのではなく、蛍が自らを発光させるときのような、周期的な光。そのリズムは、自らの心音に合わせて照らされているようでもあった。


そして、その淡い光の向こう側で、さらにいくつもの光の断片が、

ぽつぽつと散らされているのが見える。まるで、いつしか落ちてきたであろう星の断片が、光に吸い込まれていくたびに、細かく砕けて、粉々になっていったようにも見える。


そして、確かにあと半分だと確信したところで、

急激に体が重くなるのを感じた。

確かに彼の身体は疲弊しきっていた。


いつ崩れてもおかしくない城壁のように関節はひび割れていたが、その体の重さはそれから来るものとは違っている。


まわりの景色が、傾斜しているクレーターの表面が、風が、大地が、青空が、

ゆっくりと質量を高めていく重力のように、体ごと、押しつぶされていくような感覚。立っていることはおろか、這って歩くことすらままならないほどになるであろう重みが、どんどん強くなって、彼のひび割れた体にのしかかっていく。


彼はうめきの声をもらし、弱った両膝はその体重を全く支えることができずに、簡単にくずおれていく。

今までどうにかして保っていた体力も、その重みによって、失われていく。


彼は、いったいどうなっているのかわからず、ただ茫然と首だけをなんとか動かして周りを見渡してみた。


すると、今まで暗闇に包まれていただけの空間が、徐々に光に浸食されていくのが見えた。それは本当に微かでゆっくりとした変化だったのに、今まで闇にしか包まれていなかった彼の眼は、その些細でありながら確かな変化を見て取れないほどには、衰えてはいなかった。


光がだんだんと強くなって、半球状の斜面に沿って、

夜空から、いくつもの光が降ってきた。


「…星だ」


あんなに微かで少しだけだった粒子が、ふわりと舞い降りてくるのが見える。


そして、一つひとつが星の断片だと思っていた光の粒子が

徐々に一か所、二か所に集合し始め、新たな形を作っていく。


今まで0だった空間に、ほんの0.00000001程度の粒子が無数に集まり、やがて1を形成していく。


それはやがて、人のような形をとり、一つは男性と、もう一つは女性らしい体の曲線を示した。


徐々にその粒子の集合体は、個の存在を確かなものとしていき、

今では確実にそれが「誰か」であることが認識できるほどに形成され、

そしてその時点で、彼はそれが「誰」なのか、ということに気づく。



「…俺、だ」


その姿は、確かに子どもの頃の自分、そのものだった。

そして、隣には。


「……シア」


彼が、乾いた唇を開いて口にしたその名前は、

確かにそれを「誰か」ということを知っているどころか、

そんな言葉では到底言い表すことのできないほどの、大切な存在だった。


そこに確かに、彼女がいた。

でもその姿は、こちらを向いていない。

今にも泣きだしそうな顔で、同じく向こう側を向く、自分の袖口を握っている。


やがて次に光の粒子が形成しだしたのは、

彼らがいる、さらに向こう側の景色。


そこには、青い空と、蒼い海。

そしてそれらを境にして、まっすぐ横に伸びる、水平線。

それは空と海を、生と死を永遠に分け隔てている。


そうだ、ここは―


「ツェレオン、グラッド」


彼が口にしたとある名前が、その光が見せる幻へと吸い込まれていく。

やがて光の粒子は色を変え、青から紫、紫からオレンジ、そして、赤色を作り出す。

"彼ら"はそこに立ったまま、徐々に色を変えられていくまわりの景色を、

ただ茫然として、下から見上げている。


そして、空が完全に赤色に染まった時、景色は上下に、地鳴りが起きているかのように、揺れ動き出す。

そして、それは黒となって、徐々にその空へと正体を現し始める。


ああ、確かに自分はこの景色を見たことがある。

遠い昔。まだ自分がその子達くらい小さかった頃。


それは確か、飛空艇



―じゃない。


瞬間。

空からいくつもの大きな黒い物体が降り注ぐ。

それらは黒い雨となって、勢いよく降り注いでくる。


透明な雨なら、地上にたどり着いたとき、はじけて、四方へ散っていく。

そしてその黒い雨も、地上にたどり着いたとき、はじけて、四方へ散っていく。


地面にぶつかったその瞬間、それは炎と強風を伴って爆散し、一瞬にして一帯を焼け野原にしていく。残風はとても熱く、そのまわりにいる生命体を一つ残らず焼け焦がしていく。

その炎から逃げようとした生命体さえも、別の空から降ってくる黒い雨は無情に、非情にその命を奪っていく。


泣き叫びながら母親を探して走り回る生命が見える。

もう、母親には二度と会えないと思って。

そしてその叫びが、どこにいるかのかも、生きているのかも分からない母親に届くか届かないかのうちに、その生命も、空から降ってくる黒い雨と、それが散ったときに発生する炎と風に、飲み込まれていく。



「雨」が 全てを変えていく。


誰かがこれまで築き上げた 変えられないはずの過去も。

誰かがこれから築いていく 変えられるはずの未来も。



やがて画面の向こうには空も海も見えなくなり、

ただ焼き尽くされていく世界の中で茫然と立ち尽くす、二人の姿が見える。


いつしか、その場にしゃがんで泣きだしてしまった子の手を、

もう一人の手が、ぎゅっと握りしめる。

離してしまわないように。

無くしてしまわないように。


「……やめろ」


映像を見ていた彼が、光の向こう側の景色へと、叫ぶ。

これから起こることを知っているから。

そしてそれが、決して変えられない過去であることを、知っているから。



姿姿



「………やめてくれ、お願いだ」



姿姿



「じゃないと、一人になっちまうだろ」





―なあ、シア。

―もし、決して時間が巻き戻せなくても。





―もし、変えられない過去があるとしても。

―もし、変えられるはずの未来がそこにあるとしても。





―たった一瞬のうちに過ぎてしまう「今」によって。

―過去も、未来も。そのすべてが変わってしまうことが。





―あるん、だよな。






























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