たんたんっ、とダンス

うんまい

たんたんっ、とダンスを。-ss-

 瞳はソファーに腰かけていた。腕のなかにいる彼の、三角の耳。その耳の先のふわふわを、じっくりと撫でていた。

彼のこと。

彼というのは、つまり犬。

 ベティーは、雄の犬で雑種。ヨークシャテリアと柴犬を、足して二でわったみたいな顔をしている。

 瞳がまだ実家にいたころ。家には、野良公、と呼ばれる犬がいた。彼もまた雑種で、いつも三角形の耳を垂らしていた。柴犬よりは大きく、秋田犬よりは小さく、細身で、たいへんに足の速い犬だった。なにより、彼は脱走の名手で、首輪は、なんどつけなおしても、いつのまにかどこかへ落としてきた。

 彼は呼び名のとおり、もとは野良犬だった。町内で田畑を荒らすと問題になった。捕まえると、こんどは保健所へ引き渡すか話しあわれた。ひとまず、行く末が決まるまで交代で面倒をみることになり、最初に選ばれたのが瞳の家だった。

 ご近所さんは、みすぼらしい犬だ、貧乏くじを引かされたと、騒がしかった。

 野良公は、最初こそ牙を剥いていたものの、餌に困らないとわかると、すっかり家に馴染んだ。

 そんな彼のいちばんの素晴らしさは、脱走をくわだてても、人に探しだされる前には、きちんとうちへ帰ってくるところだった。たいていは泥まみれになっているので、まずは庭の洗い場で水浴びをさせる。それは兄の役目だった。

 兄が、まったく、と文句を言いながらホースを向けるのを、瞳はいつも隣でみていた。野良公は興奮して跳ねまわり、かならず、ぶるぶる、をする。勢いよく身を震わせるので、兄と二人で、ぎゃあ! と悲鳴をあげた。

 彼が弾く水は、湿った獣の臭いがする。蛇口をしめるころには、二人と一匹はいつもすっかりびしょ濡れになった。

 ブラッシングは、瞳の役目だった。彼の毛は硬く、いつもボサボサだった。根気よく、丁寧にブラシをとおしていく。毛をかきわけると、ときどきくっつき虫をみつける。瞳はそれを人差し指と親指の先でつまんで、兄にみせる。兄は、しげみに首でも突っ込んだんだろ、と呆れた声を返した。

 そう言われるとき、その日の野良公の冒険譚が、ありありと迫ってきた。

 まずは古い板塀の、傷んだトコロをみつけだす。一心不乱に穴を掘る。そして尻尾をばしばしそこらじゅうにあてちらして、表へ這い出る。四本脚でスックと立って、ムネの毛をいっぱいにさかだてる。視界の先に畔道を認める。そして思い出したように走り出す。風をまく速度で駆けていく。畦みちを越え、土手おり、河川敷へ。そして草はらでふんふんと匂いを嗅ぎまわる。それから足元には、かぴかぴに乾いた土。水辺へいくに連れて、湿った土は徐々に泥へ。こうして彼の足の上の方までも汚していく。そして陽に干された雑草の間をまた嗅ぎまわる。


ざくざくざく

フンフンフン

ざくざくざく

フンフンッ


 こうして満足して、土手を戻ってくる。そしてまた走り出す。風を起こして、風をまいて、風と一体になって駆けていく。

 その、彼の毛を凪ぐ、風の温度。雑草と乾いた土の匂い。そうやって心身を駆け巡る景色は、いつの間にか瞳の、両の眼の外側にまで広がっていく。瞳はそうしてうっとりと彼の背骨をなでる。急に駆け出したい衝動にかられる。けれどすっかり手足をもてあまして、瞳は彼の首筋に顔をうずめる。乾いた毛とよく焼いたベーコンに似た臭いをかぎながら、瞳は絞り出すように、ノラ公ちゃん、と呟く。

 野良公は、ベタベタと触れられるのは好きではない犬だった。いつもじっと睨まれるので、瞳は眉をハノ字にして笑うと、そっと彼から体を離した。野良公はひとつ鼻息をもらすと、よく伸びをしてから、スックと立ちあがった。また庭を駆けまわる。ちゃぶ台に頬をはりつけながら、瞳はただただ、それを眺めていた。


カナぺちゃ。

カナぺちゃ。


と、音がする。

 ベティーが膝の上に乗っていないことに気がついて、辺りを見回す。空っぽの器を舐めているところだった。


 「お水ね、ちょっと待って」


 そんな野良公はおととしの夏。瞳がお盆で帰省している最中に、ついに息を引き取った。足が弱っていたらしく、よろよろと立ちあがっていた。ゆっくりと動いて、それでも、食事はたらふくとっているようにみえた。


 おじいちゃんになったでしょお。

 でもよく食べてるね。

 食い意地がはってるのよ。


 そういって笑った翌日だった。さいしょに見つけたのは祖母だった。呼ばれていってみると、いつもの定位置だった縁側の下のマットレスで横たわっていた。誰も、野良公の死に様はみていなかった。野良公はひとりで逝ったのだ。苦しんだ様子はなかった。もう、じきに動けなくなることを察して、庭へきたのかもしれない。庭は、野良公がほとんどのときを過ごした場所だった。

 このマンションに移り住んだころ、瞳のもとへ、ベティーがへやってきた。触られるのが好きらしく、ベティーはたいていのとき瞳の膝の上にいる。

 水を入れてやろうと、瞳は器を持ってシンクに立った。


 「あーちょっと」


 彼。

彼というのは、つまりボーイフレンド。

同棲して、もうすぐ一年になる。

 突然の大きな声に、瞳はまたたきをした。そうして、ゆっくりと振り返る。ボーイフレンドは、ソファーに腰掛けてサッカーを見ている。視線が、テレビの方へ向かっている。瞳はまたシンクに向かった。ハンドルを下げようとした。


 「だからあっちでやって」


 自分に、声をかけているのだと。今度こそ確信を持って、瞳は、へ、と、え、の間くらいの言葉を発音しながら振り返った。彼はやはりサッカーをみていたのだけれど、煩わしそうに瞳の手元を一瞥して、あっち! と脱衣所の方を指差した。脱衣所の洗面台とは違う、もう一方の水道を。そこは雑巾や、靴を、洗うところだった。瞳は一瞬、硬直してから、すぐに身を翻してその水道の方へ向かう。ベティーが足元へついてくる。尻尾と一緒にお尻までフリフリとさせながら。

 ハンドルを下げると、ザーっと水が流れはじめる。水が流れるのを見つめていると、瞳は視線を感じた。足元を見ると、小さなアーモンド型の眼が、こちらを見上げていた。

 その日、眠る時間になっても、瞳はベッドへ行かなかった。

ボーイフレンドと横たわるシーツ。

おやすみのキス。

全て曖昧に笑って、瞳はソファへ座りつづけた。

 ベティーの定位置は、寝室のドアの足元。専用のマットレスの上で眠る。

 瞳はただ、ぼんやりとソファに座って、シンクの横にある窓をみつめていた。車が通るたび、ヘッドライトの閃光が、顔の前を横切っていった。

 気がつくと、ベティーが尻尾を振ってこちらを見上げていた。暗闇の中には、アーモンド型の眼。車のライトが横切っていくたびに、ちらちらと光る。瞬く小さな黒い瞳は、小さな宇宙のようだった。

 瞳が、ぽふ、と自分の膝をうつとベティーは、ヘッヘエ! と興奮で息を荒げながら、がさがさと膝によじ登ってきた。瞳の膝に上半身をもたせたベティーは尻尾と一緒にお尻をふりふりする。ソファの背もたれを、タシタシタシと尻尾が打っている。

 ベティーの体を撫でる。毛並みは野良公よりも随分と柔らかく、くったりしている。瞳は急に、とても疲れているような気がして、体を横たえた。ベティーは少し鬱陶しそうに立ち上がったけれど、瞳の体が動かなくなると、腕の中に入って体を伸ばした。瞳はベティーの顔に鼻をすり寄せた。くっつき虫がつくような場所へは、散歩へいかない。それなのに、ベティーの体からは土の匂い。それから、よく焼いたベーコンに似た匂いがした。

 瞳は目を閉じた。


タシ、タシ、タシ、タン、タン、タン

タシ、タシ、タシ、タンタン


 尻尾がソファーを打つ音が、いつまでも鼓膜に響いた。







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