世界のあちこちで愛を語る

エビテン

第1話 ナポリの路地裏0815

「日本人に会ったら、謝ろうと思っていたんだ。」

 赤ら顔の中年男。イタリア南部、ナポリの路地裏で出会った彼の言葉が、僕の意識に突き刺さった。


 ナポリに到着した僕を迎えたのは、灼熱の太陽だった。からっからの風、しきつめられた石畳に照り返る光が異国を思わせる。見上げた空には、ひとつの雲もない。地中海沿岸の夏は、いつだってそうだった。

 がらがらとスーツケースを引っ張って、僕は宿に向かっていた。慣れた東京の道路と違って、少し油断するとスーツケースがガムや、犬のお土産(そう、イタリア語でフンは『カッカ』と発音する。閣下の怒りは何よりも怖い)で汚れることもある。舗装もそう綺麗なものではないし、キャスターが挟まってしまうなんてことも多々ある。

 そう。ナポリは決して綺麗な街ではない。しかし、僕が最高に好きな街だ。

 時は、8月15日。運よく休みを手に入れた僕は、日々の鬱憤を忘れるつもりで、日本から遠く離れたイタリアにやってきた。長くは滞在できないが、日本の湿気と一時的にでも別れる事ができる。それだけで大きな気分転換になるのだ。

 地図を見ながら、石畳と交差点の先、本日の宿『ボヴィオ・スイート』を探す。日本とは全く異なるホテル文化で、アパートだかマンションだかの集合住宅の隅、民家の一部に宿がある。僕は目的の建物入り口で、呼び出しボタンを押した。イタリア語はわからないが、英語なら使える。受付の女性が応対してくれ、僕は灼熱から解放された。スーツケースを部屋に預け、オーナーの女性に外出する旨を伝えると、忠告をくれた。路地裏には近寄らないように、と。

 そう、ナポリは治安が悪い。スリやひったくりといった犯罪が多いと聞く。そういう地域だと日本では聞いていたし、事前情報にもあった。ガイドブックにまで書かれている。

 ……だからこそ、僕はナポリという街を見据えたいと思っていた。社会の講師をして6年、自分の知識に肉をつけたいと思っているところなのだ。実際に見て歩き、語り、触れた知識が欲しいのだ。十分注意して進むと決めて、僕は忠告された路地裏に赴くことにした。持つ物は最低限。身軽に。よし、行こう。

 カッカが寝転がっていたり、何があったのか焦げている壁。幾何学模様や卑猥なイラストが描かれたビルのシャッター。たまにカメラのシャッターを切っていた僕に、ふと声がかけられた。路地の隅に安物のプラスチックのテーブルとイスを置き、真昼間から飲んだくれていた中年の男たち。スーパーマリオを不衛生にしたらこうなるのだろうか。張りだした太鼓腹と赤ら顔、胸毛が飛び出すくらい大きく胸元をあけたシャツ。笑顔が印象的だった。

「あんた、日本人か?」

 ワインのボトルを口に運んで、ひと飲みして彼は問いかけてきた。僕は生返事を返す。

「今日が何日か、知ってるよな。8月15日だ。」

「ええ。終戦記念日です。」

「俺は戦争に行ったわけじゃない。勉強も好きじゃない。だが、歴史の授業で習ったんだ。戦争の時、俺達と、ドイツと日本は仲間だった。だが、俺達が早々に裏切ってしまった。」

 酔っぱらいの男の目に、炎が宿ったのを、僕はしっかりと見た。

 そう。炎だ。光なんていう生易しい表現ではすまない、意思の力がそこにあった。ただの酔っぱらいには出せない炎。彼は赤ら顔を、心持ちもうすこし赤らめて、顔をゆがめてこう語った。

「すまなかった。日本は、最後まで頑張った。結果は間違っていたのかもしれないが、真面目だから曲がれなかったんだろう? 戦後も、真面目だから金持ちの国になったんだ。日本はすごい。すごいし、頑張った。今日は、日本のエンペラーが国民のために戦争をやめた日だ。反省して、復興に目を向けた日なんだろう?」

 日本人の知らない日本語とは言うが、日本人が考えていない歴史解釈が登場して、僕は目から鱗のような感覚を味わった。

「裏切ったことを、日本人に会ったら、謝ろうと思っていたんだ。」

 彼の言葉はどこまでも真摯だった。イタリアを代表して、日本人を代表した僕に、戦争のことを謝る。聞けば、彼は中学校でこの戦争を習ってから、いつか日本人に出会ったら、このことを――母国イタリアのしたことを謝ろうと決めていたのだという。なんという歴史観。なんという愛国心。戦前日本の愛国心とは異なり、いいところも良くないところもある自国を受け止めた上での愛国心だ。

「許してくれるか、日本人。」

 酒臭い言葉が、これほど僕の胸を打つとは。僕達日本人は、過去をどれだけ受け止めて、過去にどれだけ思いを馳せているだろうか。日々の仕事に追われて、日本人であるということすら忘れていたのではないか?

 遠いイタリアの地で、こんな基本的なことに気づかされるとは。

「日本はすごいんだ。自信を持っていいんだぜ。」

 彼は言う。僕は何度もうなずいて、覚えたてのイタリア語で「ありがとう」を繰り返す他なかった。

 そう。ナポリは決して綺麗な街ではない。しかし、僕が最高に好きな街だ。

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