風の標

 目を閉じる。

 風が髪を掬い、吹き抜けてゆく。


 目を開ける。

 空を見上げる。

 風が雲をゆったりと押し流す。


「風はどこから来てどこへ行くの?」

 小空の問いに東輝はさぁ? と答えた。

 確かに感じる。

 確かに在る。

 けれど、見ることは叶わない。

「あなたはどこから来てどこへ行くの?」

 その純粋な問いにも東輝は答えられなかった。


 最初は帰りたいと思っていた。

 一生ここから出られないと知った時の衝撃は大きかった。

 そして、箱館の存在を知った時には怒りさえ感じた。

 でも、途中で分からなくなった。

 紅柳に協力してもらって、焔として元老院に潜り込み、出口を探り始めた時はまだ良かった。


 だが、鬼流心の情報を盗んだことがバレ、犯人探しが始まると紅柳が処分される可能性が出て、ふと我に返った。

 その途端に自分を大切にしてくれる人が傷ついてまで、こんなことをする価値があるだろうかと自問した。

 バレてはいけない、と思うと、自分の中で何かが壊れた気がした。


「どこから来たのかは分からないけど、今から行くべき場所は分かったよ」


 そう。

 今から秘密を秘密のままに。

 誰も何も知らないままに。

 なんだ、簡単なことじゃないか。


 東輝は苦笑して、紅柳の机から紙を一枚探し出した。

「それは何?」

 小空が目ざとく見つけて問う。

 が、東輝はにこりと笑むだけで答えなかった。


***


 燃え盛る部屋の中。

 床には白日と玄月が人の姿を保てず、黒猫と化けガラスの姿で倒れている。

 蓮は苦しそうにしながらもデスクから紙とペンを取り、床で何かを描いていた。


「花流……さん……?」

 心が声をかけると、蓮は描き終えた紙の上に手を置き、

「昔とったキツネだ」

 と言って目を閉じた。

 杵柄きねづかと言いたかったのだろう。

 少し間を置いて、ゆっくり目を開けると、僅かに水が紙から溢れてきた。


「……やっぱ術師じゃないとうまくいかんか」

「術が……使えるんですか?」

「長くここにいるとな……多少は覚えるもんだ」

 そう言って苦しそうに咳き込んだ。

「諦めは……悪い方だが……万策尽きた……」

 そう言った蓮の足元に火が燃え移り、熱さと痛みに顔を歪め、悲鳴が上がりそうになるのを堪える。


 このままじわじわと死んでいくのか?

 いや、死ぬことはないのだ。

 なら、炎が全てを燃やし尽くすまで、ここで熱さと痛みに苦しみ続けなければならないのか。

 そして、目の前で二人が燃えて死んでいくのを見届けなければならないのか。

 それを考えるとゾッとした。


 嫌だ、失いたくない。

 

 目を閉じて、強くそう思った。

 と、その時。


 扉が吹き飛び、その衝撃波で部屋の炎はまるで蝋燭の炎を吹き消すように消えた。

 一瞬の出来事に心は目を開き、何が起こったのか確かめようと扉のあった場所を見た。

 そこには小空が立っていた。


「大丈夫?」

 とても優しい声が緊迫感もなく、きょとんとした顔で発せられた。


「燃えた?」

 そう言った視線は蓮の足に注がれている。

 驚きで言葉を失っている蓮に近づくと、その手を足に翳す。

 手を翳された場所が燃えている時とは違う熱を感じた。

 が、熱が引くと痛みはもうなかった。

 蓮がその足を確認していると、今度は白日と玄月にも同じように手を翳した。

 そして最後に心のところに来て、

「大丈夫?」

 と再び訊いた。

 心がうん、と驚いた表情のまま頷くと、よかった、と僅かに嬉しそうにした。


「ありがとう」

 礼を言うと小空の頬がほのかに赤くなった。

「わしからも礼を言う。お陰で助かった。治癒ヒーリングも助かった。だが、なぜここに?」

「焔が紙を持ってたから。それに助けてって言ったから」

「焔って? 元老院の補佐官とかいう奴か?」

「そう。ここ燃やしたの、焔」

「東輝じゃなくて?」

 蓮の問いに小空は僅かに首を傾げる。

「東輝は昔の名前、焔が今の名前。だから焔」

「今って……じゃあ元老院の協力者の焔は東輝のことだったのか」

 そう言って蓮は両腕を組んだ。


「なら、行方不明っていうのは自作自演だな。どうやったかは分からんが、元老院に自分の半身を送り込んで調べていたのか」

 納得したというように頷いてから、小空を見た。

「その焔が助けてって言ったのか? 自分で燃やしといて?」

「違う。ケースケが言ったの」

「ケースケ?」

「うん」

 頷く小空の視線は心に向けられている。

 それで蓮はああ、と思い出す。


染谷圭輔そめや けいすけだったな。生前知り合いだったのか?」

「うん。助けてくれたから、私が助けた。これでおあいこ」

「助けた?」

「うん。籠に入れられた。でも出してくれた」

「籠?」

「鳥籠……?」

 蓮の問いに心が思い出したように口を開いた。


***


 ビルの谷間。

 雨上がりの路地裏。

 水溜りの一つに白い小さな鳥がもがいていた。

「わぁ、キレイな鳥さん」

 小学校に上がりたてくらいだろうか。

 ランドセルを背負った小さな女の子が無邪気に鳥に手を伸ばす。

 鳥は暴れるも、子供の力に抗いきれずに捕まってしまった。

「大丈夫よ、鳥さん。私のペットにしてあげるね」

 そう優しく笑って鳥を手に連れて帰った。



「圭輔くんには特別に見せてあげるね」

 女の子は自慢気に少年に鳥籠を見せた。

『タスケテ』

 少年は鳥籠に手を伸ばし、籠の戸を開けた。

「あ……!」

 女の子が叫んだが、白い鳥はあっという間に籠を飛び出し、開いた窓から外へ出て行ってしまった。

「私のピィちゃん……ママぁー! 圭輔くんが私のピィちゃんを……」

 泣きながら女の子は部屋を飛び出した。

 少年はただ困惑した表情で鳥が出て行った窓と女の子が出て行ったドアを交互に見やって、その場から逃げ出した。



「あの時の白い鳥……?」

 それが小空だったのか。

 心はそう納得しかけたが、ふとまたさらに思い出す。



 そういえば。

 誰かを助けたつもりが、誰かを傷つける。

 誰かを笑顔にできても、誰かが泣いている。

 そんなことがあった気がする。


 笑顔が見れて、感謝もされて、とても嬉しかった。

 だけど、その一方で傷ついている人がいるのを知って、喜んだ自分がとても酷いことをしたのだと知って。

 罪悪感を覚えた。

 あれはいつだったか。

 感じた気持ちだけはこんなにもハッキリと思い出せるのに、出来事が思い出せない。


 籠の鳥が助けてと言った気がして、逃がしてあげた。

 でも、それは女の子からペットを奪うことだった。

 良かれと思ったことが、誰かを悲しませ傷つける。

 でもそのままだったらきっと、傷つくのが逆になるだけで、結局は同じことなんだ。



「どこか痛い?」

 小空に問われて心は思い出から現実へと我に返った。


「とりあえず、二人を移動させないとな。ここじゃ休めんからなぁ」

 蓮に言われて心は玄月に駆け寄った。

 小空のお陰で人の姿に戻り、怪我などもなさそうでひとまず安心する。

「……悪いがしばらく泊めてくれんか? 母屋があるんだが、白日が回復するまででいい。ここじゃちょっと具合が悪いんでな……」

 珍しく歯切れが悪い蓮を少し怪訝に思ったが、全然構いませんよ、と即答した。

 それに悪いな、と礼を言って、蓮は小空を振り返った。


「お前も一緒に来い。この件が片付くまでは一緒にいた方がいいだろ」

 蓮の申し出に小空は心のところに駆け寄る。

 その足取りにどことなく喜んでいる様子が感じられた。

 小空は感情が表にあまり出ないようだ。

 表情もあまり変わらない。

 鳥だからか? と思ったが、玄月も鳥だったな、と蓮は思い直した。


***


 白日が目を覚ますと、見慣れない天井が視界に広がった。

 ゆっくりと起き上がって周囲を見回す。

 なぜここにいるのか、記憶を辿る。

 そして、思い出す。

 炎に包まれて気を失った。

 生きている、ということは誰かに助けられたか、何かが起こったかのどちらかだ。


「目、覚めた」

 急に声がしたのに驚いて猫の姿になり、ベッドから飛び降りた。

 音もなくドアが開いていて、そこから小空が覗いていた。


「よかった」

 小空はそう言って部屋を出て行った。

 その開いたドアの向こうに蓮の姿を見つけ、ホッとした。

 その蓮も小空の肩越しに白日に気づき、安心したように笑った。

 ゆっくりと部屋を出て、どこにいるのか理解した。


 鬼流の家か。

 居間でテーブルを囲んで座る蓮、心、そして玄月を見て、全員の無事な様子に白日も笑顔になった。

 そこで白日は蓮からどうやって助かったのか知り、小空に礼を述べた。


 そして、話題は紅柳と東輝のことになった。

 東輝が今は元老院の補佐官、焔であることを白日と玄月に明かすと、二人は考え込むように少しの沈黙が流れた。


「……少し整理させてくださいね? 紅柳も東輝も当初は多分ここから半身を逃がしたいと思っていました。その計画の一環でまずは東輝をどうやったのか元老院の補佐官、焔として送り込み、情報収集を始めました。そこで箱の存在を知って……」

 その続きを蓮が繋ぐ。

「話の中心は常に『箱』だ。カッコウの例えで東輝はカッコウが何かだけは言えないと言っていた。それが多分『箱』に大きく関係している。乾も重要機密事項に『箱』があると漏らしたのだろう? 『記憶』と『箱』がキーワードだ」

 蓮の言葉に小空が小首を傾げる。

「『箱』って私が入ってる『箱』?」

「何か知ってるのか?」

 蓮の問いに小空はゆっくり首を上下して頷いた。


「ここに落ちたら『箱』に入れられるの。ここは死んだモノの世界だから、生きてはいられないから。だから、本当の私は『箱』の中にいる」

「……ちょっと待て。それなら今ここにいる俺は何だ?」

 玄月が理解できない、という風に小空を見ると、小空は説明のための言葉が見つからないといった風に、困った様子で心を見た。

「……『本当の私』ってどういうこと?」

 心もどう訊けばいいか分からなかったが、少し悩んでそう訊いてみた。


「半身は半分だけだから半身なの。魂しかここでは生きられないから、器は『箱』の中で眠ってる。でもケースケと私は同じ魂じゃない。死んでる魂と生きてる魂、守られてる魂と剥き出しの魂。だから、半分だけ死んだらもう半分も死ぬ」

「半身って相棒って意味だと思ってましたわ……それにしても落ちた時に『箱』に入れられた記憶はありませんけど?」

「落ちた、ちょっと違う。空の『箱』ができると呼ばれる。それで落ちる」

「『箱』の数は決まっているのか?」

 その蓮の問いに小空は小首を傾げ、分からないと答えた。

「……恐らく決まっているのでしょうね。あの戦の時(※番外編「黒の大地」参照)、魂を全て導かなかったでしょう?」

 白日の言葉に蓮はああ、と納得した。心は一人どういうこと? と納得している風の玄月に問う。


「人が一度に大量に死んだ時は、こっちも人手不足になるだろ? だから導くのが実質不可能になる。そういう時は例外として、弔われた順に導くんだ。血縁関係の者にきちんと遺体を埋葬されたって意味だ。ただ手を合わせてもらっただけじゃダメなんだ。だから今も弔われていない魂は現世にいる。全ての魂が死んだら即こっちって訳じゃない」

「いろいろと例外はあるものです。でも全てを導かないのは『箱』の数に限りがあるから、とも考えられませんか? 今のお話を聞く限り、半身の数は決められていて、それを超える魂がこちらに一度に来られると受け入れることができないから、とも取れますよね?」

「確かにな。半身は人より長く生きるが死ぬ。鬼籍が存在しないから、いつ死ぬかは誰にも分からない。恐らくバンシーにさえもな。だから、半身の数以上の魂は受け入れることができないって訳だ」

「ではカッコウは『箱』を管理する者、ということですね? 『箱』に呼ばれて落ちるから、落ちた時には既に半身の状態、ということで理解していいのですね?」

 小空は大きく頷いた。


「『箱』のことはだいたい分かった。だがそれがなぜ必要なのか、ということと『記憶』だな。わしは死神や術師の仕事をする上で、生前の『記憶』が邪魔になるからだと思っていた。例えば、自分の肉親が死んだ時、それをこちらに正しく導けるか問われると、難しいだろうなと思うからなぁ」

「俺も特にそこは疑問に思わなかったけどな。だけど一番強い感情だけ残すってシステムは昔からよく分からなかったな」

 玄月の言葉に白日も同意する。


「良い感情なら構いませんけど、大抵の人が死の『恐怖』や『憎しみ』などあまり良いとは言えない感情を残します。そんな感情を残しても不安定になるだけです」

「だから半身がいるって皇が言ってた」

「紅柳が? どういう意味だ?」

 小空に全員の視線が集まる。


「記憶も感情も消されて不安定になるから、支えるためにいる。死んだ魂は傷つきにくいけど不安定、生きてる魂は傷つきやすいけど安定してるから。名前を与えて二つを一つにする」

「だから半身は死神が変わればあざなが変わるのか」

 全員が納得した。


「本当は全てを消してリセットしたいけど、全てを消したらここに留まれないほどに不安定になるから、感情を残すんだって。でも記憶は本当は残っててもいいの。ただ、『箱』を知られないために、全部消しちゃうんだって」

「『箱』のためって……?」

「『箱』を知ったら絶対壊すでしょ?」

 小空の言葉に白日だけが悲痛な表情で納得した。

「カッコウ、なのですね……」

 そう言って、納得できていないという顔の三人に説明する。


「つまりこういうことです。巣はここ、カッコウが箱、カッコウの卵が半身、巣の親鳥が死神、捨てられる卵が記憶です。カッコウの雛は巣の親鳥が本当の親だと思って生きていて、巣の親鳥も自分の卵が捨てられたことを知らずにカッコウの雛を我が子と信じて育てます。でも、雛が全てに気づいてしまえば、本当の親を探し、自分の巣を探そうとするでしょう? だから、本当の親がいることを知られないために、巣の卵、つまり記憶を排除し、雛と親鳥が相互に信頼を寄せ合うようにしてあるんです。それを私達に置き換えてみてください。人のために半身が用意され、半身のために箱が用意され、箱のために記憶が排除され、記憶のために半身が、という風に循環しています。ですから、箱が壊されればこの世界は崩壊する、よくできたシステムです」

 よくできた、という言葉に皮肉が込められていた。


「……それなら、紅柳さんは……」

 心が言い淀む。


「すでに『箱』の場所を知っているならわしらで止めないとな。小空、紅柳は今どこにいる?」

 問われて小空は目を閉じる。

 半身は自分の術師がどこにいるかなんとなく分かるらしい。


「臥籠院」

 そう言って目を開けたが、不安そうに心の手を握った。


「行っちゃダメ」

「どうして?」

 心の問いに答えず、ただ握る手に力が込もった。

「……大丈夫。僕はもう死んでるし」

 ね? と安心させるように心は小空の頭を撫でた。

 多分、先程の火事を思い出して心配しているんだろう、そう思ったからだ。

「玄月と白日はここに残れ。わしと鬼流で行く」

 いつもなら一緒に行く、と言って譲らない白日も、さすがに先程の件があったので大人しく従った。

 心も優しく小空をなだめて手を解く。

「何かあれば三人で助けてくれるだろう?」

 蓮が冗談ぽく笑って、心と共に出て行った。

 その後姿を見送りながら、白日は不安そうに小空を見下ろした。


「……まだ何か知ってることがあるの?」

 白日の問いに小空は黙って俯いた。


***


 心は空を仰いだ。

 そこには見えない膜がある。薄い膜なのに破れることはない。

 高い空が見えるのに、この檻の中では空はとても低い。

 目に見える高さと触れられる高さはあまりにも違う。

 この空を見上げる度、心は玄月を思う。

 翼のある玄月がここから一生出られないのに、翼のない心はいずれここを出て行くことができる。


 ここには天国も地獄もなくて、ここは天国でも地獄でもない。

 だから、ここは完全に善悪だけの世界じゃない。

 生前の世界と同じ、理不尽なことも多い世界だ。

 ただここに落ちて来てしまっただけで、ここから出られなくなる。

 それほどの罪を犯したわけでもないのに。

 それは、誰かが気づかなきゃいけないことで、誰かが動き出さなきゃならないことだ。


 ここで生きていくからには。

 ここで誰かと生きていくからには。


 両手を握り締める。


 人は死んだらココに来て、記憶を失くし、一番強い感情だけが残されて。

 そして、死神か術師として再び『生きる』

 一度ほぼ全てをリセットされる人を支えるために、半身と呼ばれる人ではないモノと共に暮らす。

 彼らは人のためにココに落ちてきて、人のためにココで一生を終える。

 人と違って生きたままココに来る彼らは、ココで死ねば生まれ変わることはなく、それで本当に消えて終わる。

 人の魂は何度も生まれ変わる。

 でも人ではないココに落ちたモノの魂は、ココで消えて生まれ変わることはない。



 臥籠院。

 心と蓮が中に入ると怒声が聞こえた。

 そっと奥へと進み、書架の影から様子を伺う。

 部屋の中央、書架に囲まれてよく見えないが、どうやら紅柳と坤が話をしているらしかった。

 聞こえて来る話の内容から、東輝が姿を消したようだ。

 それでなぜ紅柳がここに来ているのか。


とぼけるなっ。勾と手を組んでいることは分かってる」

「勾とは誰のことか、分からんのぅ」

「そうやって、ずっとはぐらかすつもりか?」

「……腕が良すぎる術師というのも、場合によっては困りものだねぇ?」

 紅柳が若干ひるむ。

 二人には話の内容がいまいち理解できない。


「まずは資料を返してもらおうか。もう必要なかろう?」

「……やはり簡単に盗めたのはあなたが関わっていたからだったのだな。なぜ情報をくれた? なぜ……」

 言いながら紅柳は手に持っていた資料を坤に手渡した。


「当たり前だったことを無理矢理変えるには、代償が必要だ。乾を今遣いに出している」

「……元老院、か……」

「いずれこうなることは分かっていただろう? 東輝は邪魔をしてくれたが、天使の方は実によく働いてくれた」

 その言葉に心と蓮は顔を見合わせた。

 だから、小空はあんなにも詳しかったのか。紅柳や東輝からではなく、坤から得た情報だったのか、と。


「何が目的だ?」

「助けてやってるだけさ。立場上動けないものでね。ここに『記憶』のある人間が二人もいるのは初めてのことでねぇ。変革を望むなら今しかない。だが、犠牲は避けられないことだ。残念だよ」

「犠牲、とは?」


 紅柳の問いに、タイミング良く乾が戻って来た。

 その背後には黒いローブを羽織った男が数人いた。

 それは元老院の補佐官達だった。

 本来ならそこに焔もいるはずだが、姿はない。

 心と蓮は彼らに見つからぬよう、足音を立てずに場所を移動する。

 坤と紅柳の元へ辿り着くと、補佐官達は紅柳を真っ直ぐに見据えた。


「情報の不当入手、及び術の不当使用の罪で明日、最高評議会にて審議する。それまではこちらで拘束させてもらう」

 補佐官の一人がそう言うと、その隣にいた別の補佐官が一歩前に出た。

 と、同時に紅柳の両手は突如現れた草の蔓に巻きつかれ、抵抗する隙もなく一瞬で動きを封じられた。


「そこの二人も共犯ですか?」

 補佐官に問われて、紅柳と坤は補佐官の顔が向けられた書架に目をやる。

 が、誰の姿も見えなかった。

「そこの二人、出て来なさい」

 二人、とは心と蓮のことであることは明白だった。

 二人は顔を見合わせ、観念して書架から姿を現した。

 紅柳はやや驚いた表情で、坤は渋い表情で二人を見た。


「いつからそこにいたんだい?」

 坤の問いに蓮が口を開く。

「坤が勾と仲が良いってところから」

 その名に補佐官達が動揺する。


「坤、その話について言いたいことはあるか?」

 補佐官の質問に坤は蓮を睨むように一瞥した。

 その表情に乾にも動揺が走る。嫌な予感がしたからだ。


「……補佐官、あなた方は『箱』を知っているだろう? 私を見逃せば、あなた方の『箱』に手は出すまい」

「……我々を脅すおつもりか?」

「脅すなんてとんでもない。ただの交渉さ」

「焔もその交渉のせいですか?」

 補佐官の口から出た名前に紅柳が反応する。


「焔に何が……っ」

「眠っているだけだ。恐らく彼の『箱』に傷がついたのだろう。だが、このままでは『箱』が空になる」

「そんなっ」

「勾を拘束しろ。そこの二人もだ。全員、最高評議会で審議する」

 補佐官のうち二人が勾の元へ走り、心と蓮も紅柳と同じく両手を蔦によって拘束された。

 が、坤は笑んでただ一言呟いた。


「小空」


 その名を言い終わった瞬間、坤の周囲にあった書架が吹き飛び、まるでドミノのように書架が次々と轟音と共に倒れていく。

 全ての書架が倒れ、辺りが静かになると、坤の側に小空が無表情に立っていた。

 火事の時と似た光景だった。

 あの時も小空が部屋の扉を吹き飛ばして現れた。

 助けてくれたのは坤、だったのだろうか。


「あなた方もわしも『箱』に囚われの身であり、それを知っている数少ないモノだ。もし、人に『記憶』を残したままでいられたなら『箱』は必要じゃなくなるんじゃないかね? わしらを審議するのではなく、そこを審議するために最高評議会の長老を集めてはどうかね?」

「……審議の必要はない。変えられぬものもある」

「これは交渉だ、と言ったはずだがね?」

「……応じなければ?」

「決裂、と捉えるまでだね」

 坤はそう言って、小空を促した。


 小空は一瞬、躊躇うように心を見たが、表情を変えずに風を操って三人の拘束を解き、片手で大きく横に払うと風の刃が補佐官達のローブを切り裂いた。


「今のは警告だ。次はどうなるかね?」

 床に落ちた切り裂かれたローブを見、補佐官達は小空に敵わないと悟った。

 一対多数で術が使えるいえども、小空の力が異常なのはたったそれだけのことで理解した。


 見た目はか弱い天使のような女の子だが、あの蔦を一度に三人分切り、軽く手を払っただけで正確にローブだけを切り裂いた。それも補佐官全員のを、だ。

 それに、そもそも彼らはただの補佐官だ。

 ここで勝手な判断や決断をする権利は持っていない。

 どの道一度指示を仰ぎに戻る必要がある。

 仕方なく補佐官達は元老院へと戻って行った。

 その姿がすっかり見えなくなると、まず乾が坤に詰め寄った。


「今の何だったんだ? 何に関わってるんだよ?」

「お前は知らなくていいことだ。それより派手に散らかってしまった。片付けておくれ」

「話すまで片付けないからなっ」

「まずは大人の話をさせておくれ。お前にはその後でゆっくり話してやるから」

 そうやってまるで犬を追うように手を払い、坤は乾を遠ざけると、倒れた書架の一つに腰を下ろして三人を見上げた。


「やれやれ。事が大きくなりすぎるし、お前達はわしの思惑とはちょっとズレた動きをしてくれるし、元老院がわしにまで目をつけるし、散々だね」

 そう言って大きく溜息を吐いた。


「坤、どういうことか……何が起こってるのか説明してくれるか?」

 蓮の問いにそうだねぇ、と面倒そうに頷いた。


「紅柳が『箱館』を見つけたのがきっかけだね。わしも『箱』の仕組みにいい思いはしていなかったからね。元老院にいる半身達だって内心はなくなればいいと思ってるだろうよ。でもそれが当たり前の自然だと思っていた。昔からそうやって来てるんだ。仕方ないと諦めてきたが、紅柳はそれを変えようとした。だから手を貸してやることにしたんだ。わざと鬼流の情報を盗ませ、小空この子の件に関わるよう手を回させた」

「なるほどな。わしのとこに来た仕事だったが、新人研修に使えと言われたので妙だと思ったんだ」

 蓮が納得する。


「小空が紅柳の半身になるように手も回した。鬼流は『記憶』有りと記載があったが、注釈も付いててな。潜在的な『記憶』で表面には出にくいとあった。だから、生前関わったことのある半身がくれば思い出すかと思ってな。まあ、いろいろやったお陰で元老院の重い腰も少しは浮いてくれるだろうよ。例え変わることがなくとも、審議されることが重要だ」

「……焔はどうなる?」

 それまで黙って聞いていた紅柳が坤を睨みつける。


「審議が始まれば傷を消してやるよ。多少の犠牲は必要だ、と言ったろう? 脅しがなければ動かぬ連中だ。補佐官どもが間近で焔を見て、自分の主人を説得をするやもしれんだろう?」

「しない可能性もあるだろ?」

「するさ。それに焔はこの子達を殺そうとした罰も兼ねて、だ。まあ、東輝に戻れぬことも罰といえば罰になっているがねぇ」

 坤の言葉に紅柳は悲痛な表情を見せた。


「変えようとしたのは……間違いだったのか……?」

「いいや。それは違うね。自然だと受け入れて仕方ない、と諾々と過ごしたり疑問すら持たない方が間違っている。それにお前が間違いなら手助けしたわしも間違っている。だから、お前を間違いだなんてそもそも言えやしないんだよ」

 ここにいる全員がね、と坤は笑った。


***


 審議会は坤の予想通り開かれることとなった。

 ただし、『箱』のことだけでなく、紅柳、坤、勾、そして東輝の審議もされることになった。

 心と蓮は審議から除外はされたが、それでも参考人としての出廷は命じられた。

 大抵は長くても一週間で審議は終了し、処分が決定する。

 だが、今回は審議の内容が前代未聞であるため、いつ終了するかも分からなかった。

 終わるまで元老院の中にある牢での生活が強いられる。

 が、坤と勾は代理がいないため、囚われはしなかったが、常に監視されることとなった。



「……すまなかった。俺はとんだ道化だ」

 牢の中、紅柳は焔に詫びた。

「何のことです? あなたが謝ることなど何一つありません。詫びる必要があるのは僕の方です。勝手な行動でこんな結果に……」

「それをさせてしまったのは俺だ。自分を過信しすぎた。出口がない絶望感に焦りを感じて、バカなことをしたと思う」

「バカなことだなんて……僕の……半身のことを考えてのことでしょう? 誰もそんなことはしなかった。それは賢かったからじゃない。結局は仕方ないと目を背けていただけです。例え結果が伴わなくとも、行動を起こしてくれた、そのお気持ちだけで嬉しく思っています。だから、謝ったりなどしないでください」

 焔の言葉に紅柳は思わず片手を口に当て、俯き、苦笑した。

「猫のくせにまるで犬のようだ」

「猫じゃありません、これでも豹です」

 焔はそう言ってむくれたが、紅柳が涙を堪えてるのを知っていた。



 あの後、心の自宅に二人が戻ると、白日が蓮に駆け寄り安心した表情で出迎えた。

 急に小空が消え、とても不安になったのだと言う。

 事の経緯を白日と玄月にも伝えると、白日は頭が痛い、という表情をし、玄月は眉間に皺を寄せて頭をぐしゃぐしゃっとした。


「……もし評議会で『箱』の仕組みが変わって、ここから出られると決まったら、帰りたいか?」

 ふいに真面目な顔で蓮が問う。

 その視線は白日に向けられていた。

「……今更……私がこちらに来て何年経ったと思ってるんです? 戻ったところで居場所などもうありませんよ」

 笑った白日の顔に嘘はなさそうだった。


「クロは? 帰りたい?」

 心も玄月に問う。

「んー、俺もこっち来て長いし、今更だな」

「でも、このままこっちにいれば、いつかは消えてしまうんだよ?」

「戻って門くぐれたとしても……やっぱ今更かなぁ? 順調に生きれば俺は多分千とか余裕で生きるし、そんだけ生きれば満足だろ」

「そうですわね。私も戻るよりこちらにいる方が楽しそうですし。今は『箱』の仕組みも知っています。この世界をもっと深く知って生きる方が面白そうですもの」

 二人のそんな反応に、蓮も心も思わず笑顔になった。


***


 この世界に神様はいない。


 万能でもない。

 天国もなければ地獄もない。

 秩序ルールはあるけれど、それを決めるのも守るのも「人」だ。

 だから、「人」が変われば「秩序」も変えるべきだ。


「行雲流水」


 それがここのことわりだから、流れのままに、時の流れに合わせて、為すべきことを成すだけだ。


 流れのままに。

 雲が行くように、水が流れるように。

 だから、無理に流れを止めたり変えたりせずに。


「神、そらに知ろしめす

 すべて世は事もなし」※



(了)



※ロバート・ブラウニング【春の朝】より

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