「18話 『遺言の花』」

 サクリは二つに分かたれた。

 両膝をついて、今すぐにも倒れそう。

 湖の水面のように拡散していた影も、収縮していっている。

 ミライは安堵の表情を浮かべる。

「お、おわっ――」

 だけど、

「――らせてたまるかあああああああああああああああああっ!!」

 サクリが必死の形相で、影を四方に爆発させる。

「きゃあっ!!」

「くっ!」

 シュルシュルと千切れた無数の影を、サクリは自分の身体に取り込んでいく。

「こんなところで私は――終われない。終われるはずがないっっっ!」

 切断されたはずだったサクリの身体は影に包まれ、身体は合致する。

「影で切断面を縫って――」

 影を糸のようにして結合させている。

 まるで縫合糸のように細い影の糸で縫い合わせた身体は、ほとんど無傷のように見える。

 だけど、見ていて痛々しい。

 もういっそのこと、すぐさま倒れてしまった方がいいほどに疲弊している。

 この状態で、まともに『スペシャリテ』を使いこなせるとは思えない。

「私は仇をとらないといけないんですよ。死んだグレイスが笑顔になるように……」

 狂気。

 黒ずんだ希望を持つ今のサクリには、その言葉でしか語ることができない。

 心に巣食っている闇を照らすことができるとするならば、きっとまやかしの光では不可能。

 まやかしではない。

 彼女の闇を切り裂くのに必要なのは、本物の真実。

 墓場まで持っていくつもりだった。

 五年前の男同士の約束の内容を、今こそ開示する。


「俺は死に際にグレイスと約束したんだ。もう死んでしまう自分に代わって、サクリ宛てに花をおくってやれと」


 サクリのことは前から知っていた。

 顔は知らなかったが、グレイスから連絡先と大雑把な素性については昔から教えられていたのだ。

「…………なっ? まさか、いつも私が好きな花をいつも送ってくれていたのは……?」

「護送車の中で少ししかサクリの話を聴けなかったんだけど、好きなんだろ? その花?」

「………………」

 グレイスが死に際に一番考えたことは、自分の生死ではない。

 自分の死後。

 たった一人になってしまう、自分の妹についてだ。

「グイレスは言っていた。マリワヒの花は他のどんな花よりも背が高くて、そして真っ直ぐに育つ。大輪の花は、まるで笑っているみたいだって。そんな花を贈ってやって欲しい。そしたら、妹はきっと笑顔になれるからって……」

 それが、グレイスの、正真正銘最期の願い。

 それを叶えてやることこそが、彼の身分を偽る上での対価だった。

 それさえしてくれれば、偽名を使っていいと許可をもらったのだった。

「……好きですよ。でも、好きなのは花じゃなくて、兄が誕生日にくれた花だったから好きだったんです。だけど、兄はそんなこと気がつきもしませんでした。私が花を好きだからと思って、いつも、いつも、あの花を贈ってくれていたんです……。まったく、兄はいつだって鈍感でしたよ……」

 サクリの身体からまるで煙のように影が肉体から離脱して、それから中空へと溶けていく。

 影が霞んでいく。

 闇が霧散していく。

「私は今何をやっているんですかね……。そんな優しい兄を殺してしまったのは――私です……。どうして……こんなことになったんですかね……」

 散り散りになっていく『スペシャリテ』と同様に、サクリの身体もまた、蜃気楼のように消えていってみえる。

「な、んだ?」

 目の錯覚か。

 いいや、サクリは黙りながらこちらを見やる。

 まるで、自分の身体に起きている現象を当ててみろとでも言いたげな、挑むような表情。

 だが、そんな強気な態度をとるのはなぜだ。

 もしや、自分の口からはっきりと言えないようなことなのか。

「身体が……。もしかして、サクリ、お前は――」

 そうか。

 それはつまり、


「ええ、既に一度死んでいます」


 存在そのものの消滅。

 プリズンやフリシキの最期の再現。

 自らの『スペシャリテ』に呑みこまれている。

「五年前、私は兄に庇われましたが、プリズンによって殺されたんです。一度かすり傷でもつけられれば、あいつの『スペシャリテ』から逃れるすべはないですからね」

「グイレスはこのことを知っていたのか?」

「いいえ、知りませんでした。秘密にしていましたよ。彼自身を生き返らせたことも教えていません。奇跡的に助かったとだけ言っています。二人でずっと一緒にいたかった。だけど、家も金も身寄りもない私達は飢えて、兄は食べ物を盗んでしまった。そのせいで、つかまってしまった。私が二人で生きていたいって思ったから……そんな自分勝手な気持ちのせいで、兄は犯罪者になってしまった」

「そう、だったのか……」

 グレイスのような優しい奴が、どうして犯罪者となってしまったのかが分からなかった。

 だが、ようやくわかった。

 あいつは他人のために、自分の手を汚したのだ。

「兄が二度目の死を迎えてから、私は手段を選ばなかった。プリズンを脅して、憲兵団にはいりました。もちろん、私の正体を知られないために、憲兵団には私以外の人間も入れさせました。私の正体がばれれば、闇討ちされるかもしれませんでしたからね。だけど、そんなこと……兄が傍にいたら止められていたんでしょうね」

 もしもの話をしていればきりがない。

 だが、グイレスが存命していれば、彼女が復讐する動機もなくなるし、あったとしても止めていたのは事実だ。

「あれから、五年。死を偽りのものにしましたが、もう……私の身体は……本来あるべき姿になろうとしています……」

「魔力の枯渇が原因なんですか……?」

 ミライの推測通り、魔力の枯渇が存在消滅の原因ならば、その大本は戦闘。

 自分達と戦ったせいで、消え入りそうになっているということになる。

「そうじゃないですよ。人間は必ず死ぬ。それを覆す『スペシャリテ』にも限界があるってことです。それが今、ようやく来たんです……。でも、よかった。最期の最期に、兄の真意を知れたから……」

 足元から次第に消滅していっている。

 もう、時間の問題だ。

「すいません。キリアさん、ミライさん。あなた達には最低のことをしてしまった。本当なら、生きて罪を償いたかった……。だけど、最低な私には、生きて罪を償うことができないことこそが、罰なのかもしれないですね……」

 ミライが泣きながら一歩前に出る。

 消えてしまいそうなサクリの手を、ギュッと握りしめる。

「サクリさん。あなたのやったことは絶対に許すことなんてできません。……だけど、あなたの言葉で救われた時もありました。だから、あなたのこと、絶対に忘れません」

「…………っ」

 サクリは唇を強く噛みしめる。

「お前の墓には、俺が花を贈るよ。そして、グレイスの骨もお前と一緒の墓に入れる。悪かったな、今までずっとあいつ遺体を隠していて。だけど、これでようやく――」

 ミライが握りしめていた手が、消えてしまう。

 もう、顔しか残っていない。

 だけどその顔は、


「これで、ようやく私は兄と一緒になれるんですね」


 笑っていた。

 笑うことができていた。

「ありがとうございます……二人とも……。さようなら……」

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