「08話 『二人きりの風呂場』」
アツアツのお茶が冷えだした頃。
サクリがやおら立ち上がる。
「それじゃあ、私、そろそろ行きます」
「えっ、もうですか?」
ミライは驚いた声を上げるが、もうどっぷり夜になりかけている。
まだ生乾きだが、サクリも元の制服に着替え終わっているし、そろそろ帰路に着かないと女の人が夜道を一人で歩くのは危険な時間帯になる。
いくら憲兵団の一員だとしても、今、凶悪犯が外をうろついてる。
これ以上引き止めては危険だ。
「はい。まだ捜査は終わっていないんです。ちょっと抜け出してきちゃいましたから」
……と思ったら、これからまた事件の捜査をするのか。
だが、まあ、他の憲兵がいるのなら、大丈夫か。
「プリズンさんは、犯人を捕まえました。ですが、本当に大量殺人鬼が生きているのなら、結果的に取り逃がしてしまったことになります。だから、根を詰めて捜査していると思うんです。だけど――」
「分かっています。私が止めます。……って言ってもあの人は止まらないでしょうけど、少しぐらい休ませることぐらいは……」
そういって、外に出ようとするサクリだったが、フト何かを思い返したかのように振り返る。
「ミライさん」
「はい」
まるで、路傍の石ころが足元にあったから蹴りました。
……とでもいうかのように。軽く、投げやり気味に、
「私、実は――両親がいないんです」
サクリは言い放った。
「それは……」
ミライは言いよどむ。
軽く口の端を歪めているサクリは、どこか怖かった。
「昔、犯罪者に殺されたんです。とてもいい両親で、私によくしてくれました。兄が残っていたから、まだ私は大丈夫でしたけどね……。でも、だから、許せないんです。今回の犯人が」
「サクリさん……」
一瞬、何が言いたかったのか分からなかったが、どうやらミライを励ますための自分語りだったようだ。
「今日はありがとうございました。おかげで色々分かりました。先輩の近くでサポートをしようと思います。ミライさんも、辛いでしょうけど、何かあったらここに連絡してください」
懐から名刺を取り出すとミライに渡す。
「何か力になれることがあれば、私もなりますから」
「その時は――お願いします」
ミライとサクリが握手をする。
民衆の安全を守る憲兵団のはずだが、サクリが童顔のせいで、二人は同級生ぐらいに見える。
まるで、女の友情を育んでいるみたいで微笑ましい。
「それじゃあ、また」
そうやって別れの言葉を告げると、静かにドアを閉める。
あまり話せなかったが、彼女なりの熱意は伝わってきた。
「いい人でしたね……」
「ああ……」
余韻を噛みしめる。
が、いつまでもそうしているわけにもいかない。
とりあえず、ひと段落はした。
細かな書類仕事は明日に持ち越すとして、今は体と心を休ませる時だ。
「飯にする? それとも風呂にする?」
「えっ? 作れるんですか?」
「まあ、独り暮らしていたら、誰だって多少は作れるようになるよ」
「そ、そうなんですか。でも、今日はもういいです。お腹へってないんで」
「そうか……」
だったら、作らなくていいか。
食欲がなかったが、ミライが食べるなら後でこっそり吐いてでも食べるつもりだった。
なら、風呂にしよう。
男が先に入った湯船など浸かりたくないだろうから、先に入ってもらおうか。
「そ、その、お願いがあるんですけど……」
「ん? なに?」
「へ、変な子だと思わないでくださいね」
「大丈夫」
十分、変な子だとは思っているから。
だけど、そんな自分の考えは間違いだった。
そう思わせる一言を、ミライが言い放つ。
「私と一緒にお風呂に入ってもらえませんか?」
ガラスがバラバラに割れたみたいな衝撃が心で沸き起こる。
変な子どころの話じゃなかった。
「えっ?」
目の前の痴女が何を言っているのか、一瞬分からなくなった。
「じ、実は私、寂しくなったらこの歳でも誰かと一緒にお風呂に入ってもらわないとだめで……」
「そ、そうなんだ……でもさすがに――」
それは、まずい気がする。
あまり信用されても困る。
だけど、
「もう、私には誰もいないから――」
瞼を伏せながら、そんなことを呟かれたら、もうどうしようもない。
今にも泣きそうだ。
女が涙を流しそうになって、それを止めない努力をしないのは、きっとそれだけで罪だ。
「………………分かった。一緒に入ろう」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。ただお互いちゃんとタオル巻いて、あんまり身体を見ないようにしよう」
本当は嫌だが、こう答えるしかない。
「は、はいっ!」
――そうして、数分後。
お互いに裸になっていた。
あまり聴かないように背中合わせで、服を脱いだが、衣擦れの音が鼓膜にこびりついた。
見なかったせいで、想像力が増してしまって余計に変な気持になってしまう。
「やっぱりこれは……」
まずいんじゃないだろうか。
風呂場はかなり狭い。
ある程度の密着は覚悟しなければならない。
だが、一応、二人とも全身をバスタオルで覆っている。
「大丈夫です。見ていませんから」
鏡に、ミライが映りこんでいる。
両手で両目を覆っているが、パカッと開いている。
見ないように努力はしているようだが、指がいうことをきかないらしい。
というか、
「……なんでぴったり後ろに? そして、なんで今背中に手を当てているんですか?」
「お背中流します」
「いや、そういうのはいいから」
「お背中流します」
「聴いてる?」
「お背中流します」
「……わかった、わかりました。どうかお願いします」
鼻歌を歌いながら、背中をゴシゴシ洗い始めた。
全身に巻いているバスタオルを洗いやすいようにずらす。
身体を洗う用のタオルも持ってきているはずだが、どうやらミライは手で直に洗う派らしい。
しなやかな指が首の根元から、尻の手前をなんども行き来する。
洗われる感触が気持ちよくて、だからこそ声を上げないように気を付ける。
純粋に嬉しいのだが、妙な誤解をされたくない。
しかし、ずっと洗われているだけというのも悪い気がする。
こちらも洗いかえしてやらなければならないだろう。
その時は、ちゃんとタオルを使おう。
「……ミ、ミライさん」
緊張のあまり声が上擦る。
「どうしました?」
タオルで洗ってもいいよね、とかそんなどうでもいい質問をしようと思った。
「キリアって、どんな人だったんだ」
なのに、どうしてなのか。
今、一番訊いてはいけない質問をしてしまった。
「あっ」
ミライの手のひらから石鹸が滑り落ちる。
グシャッと石鹸が形を変える。
こうなったら、もう、元の形には戻らない。
「ごめん。訊くべきことじゃないとは思ったんですが、どうしても気になったんですよ。家族ぐるみの付き合いがあったのに、どうしてそんなことになったのか気になって……」
「……私にも分かりません。どうしてあの人が私の父親を殺したのか……」
声が小さすぎて、他の場所では聞き取れなくても、ここなら木霊する。
聞き逃すことはない。
「花に詳しくて、常連さんだったんです。そしたらお母さんと仲良くなって、それから父親と、私とだんだん話すようになって、家の食事に呼ぶぐらいになって……」
「そうだったんですね……」
「なんというか、話がうまかったんです。一緒にいるのが楽しくて、年が近いお兄さんみたいな感じでいつも遊んでもらっていました。……だけど、それはきっと全部演技だったんですね。きっと、私の父親から捜査状況の情報を盗み取るのが目的だったんです……」
「…………」
「私、信じたくなかった……。せめて、謝って欲しかった……。なのに、あの人は一度も自分の罪を認めなかった……。それが一番辛かった……。問い詰めようにも、裁判所でしかあの人とは会えなかった……」
加害者と被害者は引き合わせないよう、憲兵団が全力で阻止する。
加害者のプライバシー保護という名目もあるが、なにより、報復を未然に防ぐ意味合いもある。
自分の親の仇を眼にすれば、被害者が衝動的な行動をとっても、なんの不思議もない。
「もう、誰も信じたくなかった。お母さんだけが私の信じられる人だったのに……。おかあさんも、もう死んでしまった……。私はもう……一人ぼっちなんです……」
ミライには、もう家族がいない。
友人や恋人とか、これからたくさんの絆を築き上げることはあるかもしれない。
だけど。
やっぱり、家族は特別なものだ。
それを失った悲しみは本人にしかわからない。
他人が介在する余地などない。
開いた穴を補完することはきっとできない。
それでも――
「僕がいますよ」
どうしようもなくとも、きっとそれだけはできる。
ミライは一人ぼっちなんかじゃない。
彼女の痛みは分からないかもしれないけど、近くにいて、その傷口に手を当てることはできる。
痛みの断片ぐらいは拭い去ることができるかもしれない。
「お父さんかお母さんの代わりなんてつとまらないけど、ミライちゃんが立ち直って、一人でもちゃんと歩いて行けるようになるまで僕が傍にいるよ」
「そんな……でも……グレイスさんに迷惑が……」
「大丈夫。ミライちゃんにだったら、どれだけ迷惑かけられても嬉しいぐらいだから」
迷惑をかけるってことは、甘えるってことだ。
本心を晒してくれればくれるほど、それだけミライの傷の痛みはきっと軽くなる。
だから、甘えていい。
「うっ……ぐっ……」
それでもミライは我慢している。
瞳から、心の欠片がこぼれてしまわないように。
直視してしまったら、きっと心を閉ざしてしまうだろう。
だったら、見ない。
鏡に映ったとしても、ミライの顔を見ないように目蓋を瞑る。
前をできるだけ向いたまま、腰だけ捩じる。
そして、できるだけ優しい声で、
「今は二人きりだから、思いっきり泣いてもいいんですよ」
ただ素直になって欲しいための言葉を発する。
手はミライの頭に乗せて、ゆっくりと撫でる。
涙を流させないことも大切だ。
だけど、本当に辛い時は、泣くことだって必要なはずだ。
しゃがみこんだ方が、大きくジャンプできるのと同じように。
折れなきゃいけない時がある。
それを一人じゃできないのなら、きっかけづくりぐらいやってみせる。
泣いて。
泣いて。
大粒の涙の先には、綺麗な虹がかかることを願いながら撫でる。
そして。
――決壊した。
「ああああああああああああああああああああっ!」
心の叫びを、ずっと聴いていた。
泣き止むまで。
彼女の心が落ち着くまで、無言のままずっと。
決して、彼女を一人ぼっちになどしなかった。
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