塀のむこう.7

「さあさあ、あんたたちも一緒に食べよ。わし一人じゃ食いきれん」

 昨夜のお礼やら、この引き戸棚の感想やら、偶然見つけたことにしたこの散歩道、あるいは塀のむこうの話とか、座持ちの良さは抜群のひなことふたばが上手に盛り上げ、また勧められたサンドイッチやロールパンの美味しさも手伝い、私はもう何年もここでこうしているような気さえした。無理なく笑っている自分に驚きすら覚えたものである。

 主人も、この二人のお喋りに目を細めながら美味しそうにコーヒーを飲んでいる。ほんの一時間前、この部屋から足音を忍ばせて外に出たことは話さないでおこう。ましてや第二倉庫で誰かと話していた主のことも。


「で、あの部屋に入ったそうじゃの?」

 突然水を向けられて口に含んだコーヒーで思わずむせ返りそうになったのだが、当然といえば当然の質問である。昨夜の報告を受けて主は今朝早く来たに違いないのだから。

「ええ、とても気に入りました。で、どうでしょう? 昨夜最所先生と京念先生にもお話したんですけど、お店の方もあんな感じでレイアウトしたいと思いまして……」

「どこが気に入ったのかな?」

「そうですね――部屋の家具ももちろん気に入ったのですが……なんというか、あの部屋の品格みたいなものでしょうかね」

 この場は私に任すべきと思ったらしく、ひなことふたばは口を挟まない。

「品格かの?」

 ぽつりと呟いた逢摩堂の主人は目を閉じた。

「品格、かの……」

「はい、でも――ですから、あの部屋の物には手を付けたくないとも思ったんです。あの部屋はあのままにしておきたいというか――あそこから何も持ち出したくないと。それで、できればあそこにある物と似たような物をお持ちでしたら、と思いまして」

 主は口を閉じ、私は次の言葉を待った。

「絵が……あったじゃろ?」

「はい、とても綺麗な娘さんの絵――黒猫が膝にいて。彼女の赤いリボンと黒猫のリボンがとても印象的で」


 また沈黙の時が流れた。主人は言葉を探しているようだった。

「元気でいたかの? その絵の娘は」

 この会話をあまり奇異に感じなかったのは、私自身が色々なものを擬人化するところがあるからだ。

 猫や犬、鳥などはもちろんのこと、花や木、風や雨、雪などに対しても人と同じように話しかけてしまい、笑われたり呆れられたりをしょっちゅう経験しているからで、絵の中の少女が元気だったかという質問にも違和感を覚えず、ごく自然に私は答えた。

「ええ、お元気でした。まっすぐな視線の方、とても綺麗な方ですね」

 またしてもしばらく沈黙の時間が流れた。自分の呼吸の音すらやたら大きく聞こえる。

「そうか――元気でいたか。あんたたちには会ったんじゃの。わしは長いこと会えとらん。会ってくれん……」

 この言葉は独り言だったのか、心の中の思いが口に出てしまったのか。私にはわからなかった。

「わかった。ではそれでやってみなさい。あの部屋にあった家具と似たものを調達しよう。そうじゃ、真ん中に置くのは古い楽器――ピアノあたりはどうじゃろの?」

 願ったり叶ったりだった。私も同じことを考えていたからだ。

 真ん中には古いグランド・ピアノ。欲を言えば螺鈿か何かで装飾されたような、そんなピアノが欲しいと思っていたのだ。


「それでは早速準備にかかろう。なるべく早く用意しよう」

 主はそう言って立ち上がり、あとはよろしく、とドアを開けかけ、またこちらを振り返った。

「わし、時々こっちへ来てもいいかの?」

 主のその声に私たちは

「当然です!」

 と声を合わせて応えた。

 主人は無邪気なほどの笑顔を見せ、見送ろうと立ち上がった私たちに――そのまま、そのまま――と手で制して部屋から出て行った。

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