第2話
夜の森は秘密と罠の匂いがした。樹々は黒い切り絵のように連なり、月光は幾本もの鈍い銀色の帯となって、地表から夜空を覆う梢へと立ち昇っている。光と闇の合間を縫うようにしてアタランテは進んだ。恐怖は依然として背中にへばりついている。足許の
泣きたい気分で歩き続けながらも考えていたのは、やはり自分をここまで追いこんだ境遇についてだった。それは気弱になりがちな心を無理やり奮い立たせるためである。二年前に捨てた故郷の村の思い出は、今の彼女にはやるせない心の痛みしかもたらさなかった。捨子であった彼女は、大人たちにとっては厄介なお荷物であり、子供たちからは除け者にされていた。世界が敵意に満ちた場所であることに気づいた時、彼女は自らにひとつの選択を強いた。このまま時に押し流され、人と世界と運命に従属して一生を終えるのか、それともそれらに刃向かって生きるのか──そして彼女は後者を選んだのだ。一人暮しがどんなに危険で、心細くとも、それを望んだのは自分であるという誇りがある限り、耐えることができた。もうひとつの道を選んでいたら、つらさはこんなものではなかっただろう。
何かが自分を見張っているという感じは、今や単なる錯覚の域を越えていた。黒い影が枝から枝へ音もなく飛び移るのを、視野の隅で一度ならず捉えたし、小さなものが草叢を縫って走り抜ける音や、人間でない声がひそひそ話すのを確かに聞いたと思った。それらは彼女の歩みに合わせて移動しているらしかった。それとも彼女のほうが追い立てられていると言うべきか。少女の感覚は鋼鉄の弦のように張り詰め、指は油断なく腰に差した短剣の柄の上を這っていた。
あれは人だろうか? 視野を塗り潰した泥のような闇の奥に、ほんのりと白いものが立っている。覚悟を決めてそろそろと歩を進めながらも、
いきなり、頭上に懸かった太い技の蔭から、
黒いものたちはしだいに数を増してきているようで、今ではそれらが様々な形態のものたちの雑多な集まりであることにも、薄々感づいていた。梢の間を渡るもの、風に紛れて音もなく歩むもの、下生えの蔭を走り抜ける小さなもの、地の下をさらさらと流れるものなどである。ぬめりとした冷たいものが足指を砥めたこともあったし、生温かい吐息が首筋に掛かるのを感じたこともあったが、いずれの場合も相手の姿を確めることはできなかった。それはあたかも夜と風と静寂に意志が宿り、感触あるものとなったかのようだった。
彼らの意図は不明だったが、一向に襲いかかってくる様子のないのがアタランテを余計に苛立たせた。彼女を恐れている訳ではないのは明らかだった。たとえば黄金の髪飾りの放射している魔力が彼らをたじろがせているのだとしたら、そもそも髪に手を出すことなどできなかった筈である。かと言って彼女をからかって楽しんでいるだけにしては、この張り詰めた気配は尋常ではない。彼らは何かを待っているのだ──いったい何を?
いつの間にか地面は登り勾配となり、樹々も
寒々とした月明かりの下、岩山はのっぺりとした灰色で、どことなく病み衰えた老人の肌を連想させた。遠くからの観察では微のように見えた表面の起伏も、この距離では途方もなく拡大され、曲率を見極めることさえ難しい。巨大な翼を拡げ、夜空の半分を覆い隠してそそり立った影は、圧倒的な沈黙の中に強烈な悪意と冷たさを秘め、ちっぽけな人間の心にのしかかってくる。暖かみや優しさなど、ここでは存在することも許されない。深海の重圧にも似た忌わしさが全身を締めつけ、アタランテは思わず身慄いした。耳には何ひとつ聞こえないのに、見えないものがごうごうと渦巻いているのが、はっきりと感じられた。
岩山の頂が夜空に溶けこむあたりを茫然と見上げ、彼女は唇の端にこわばった薄笑いを浮かべた。なるほど、ここは妖しいものたちの巣窟にふさわしい。心を突き刺す恐怖はあまりに強烈すぎて、かえって無感覚になっていた。来るところまで来てしまったという絶望感が、捨て鉢な闘志を奮い起こさせた。おそらく勇気を試されているのだ。これからどんなことが起ころうとも、怯えて取り乱すような真似は絶対すまいと心に決めた。
永年の風雨によって少しずつ岩山の表面から削り取られた砕片が緩やかな角度で堆積した斜面を、アタランテは一歩ずつ慎重に登っていった。彼女を追い立ててきたものたちが、王の従者のように粛々と付き従ってくるのを背中に感じたが、振り返ろうとは思わなかった。何かが見えるのが恐ろしいのではなく、何も見えなかった時が恐ろしいのだ。狂気と紙一重の危険な均衡の上で、彼女の精神はきわどい網渡りを演じていた。
岩山に手で触れられる距離まで近付いてみても、眼に映るのは天に向けてどこまでも伸び拡がる乾いた岩肌ばかりで、何の手掛かりも得られなかった。もとより、お伽噺にあるように、岩が魔法でぽっかりと口を開けるのを期待していたわけではないが、早く何かが起こってくれないと、限界まで張り詰めた精神の糸が切れてしまう。とりあえず岩壁に沿って歩いてみることにした。少しでも行動を躊躇すると、今の自分の状況に気づいてしまいそうで、たまらなく不安だった。
周囲に渦巻く風でない風、地の底から轟く音でない音は、今や気配などという生易しいものではなく、ほとんど物理的な力に近い威圧感となって、少女の身の上に徐々に影響を及ぼしはじめていた。それが何なのかは想像する気も起こらなかったが、包囲の輪を狭めてくるのは確実で、手を伸ばせば触れることさえできそうに思えた。閉じこめられた気分がして、ひどく息苦しい。
岩山の内に潜む黒く巨大な意志は、その宇宙的な力のすべてを、哀れな犠牲者の上に集中していた。大気中に充満した邪悪な波動は、少女のあえかな肉体を貫き、血をかき乱し、魂に毒を注ぎこんだ。彼女の心の奥底にある邪悪なものが、黒い波動に共鳴して慄えた。血が熱くなるのを覚える。恐怖と緊張によって半ば朦朧となった彼女の意志は、知らず知らずのうちに忌わしいものに汚染されはじめていた。もはや自分を突き動かしている衝動が、自分自身から発したものなのか、外部から強制されたものなのかさえ、判別がつかなくなっている。背後には底無しの暗黒が口を開けていた。衝動に促されるまま機械的に手足を動かし続けていたが、夢の中で歩いているように、すべてが漠然としていた。
ふと、彼女は足を止めた。何かが意識の片隅に囁きかけたのだ。顔を上げると、すぐ眼の前の岩壁に巨大な亀裂があった。太った男が楽に通り抜けられるほどの幅があり、底部は土と岩の砕片で埋まっている。裂け目の上端はどうやら岩山の頂部にまで達しているらしい。奥の方は影になっていてよく見えなかったが、谷底の道は急な昇り勾配になっているらしく、ここを通って行けば岩山の上にまで登れそうだった。
だが彼女の興味を惹いたのはそんなことではなかった。亀裂の入り口のすぐ脇に、岩が不自然に突出した部分があるのだ。それは
果たしてそれは銘板だった──眼を凝らして見ると、摩滅し、ほとんど消えかけてはいるが、その表面には文字らしき幾可学的な刻み目の列が判別できた。石板の表面に対して浅い角度で降り注いでいる月光が、溝の陰影を強調しているため、かろうじて見ることができるのだ。この場所まで来た人間が何人いるかは知らないが、月や太陽が天空上の適当な位置にある時でなければ、この文字にはまず気付かなかっただろう。固い岩がここまで風化するには、いったい何千年、いや何万年の月日が必要だろうか。これが刻まれたのが人類文明発祥のはるか以前であることは明白だった。文字の意匠や配列にしても、人間の美的感覚を根本的に無視したものが感じられた。
この地方の公用語であるミュケーナイ文字をはじめとして、彼女にはどんな種類の文字も習った経験はない。ましてこれは人類のものではない言語である。にもかかわらず、彼女は何となくこの文字が読めるような気がした。
彼女は慄える指で、摺り切れた文字の跡をなぞった。幾度も、幾度も──古い文字は生命あるもののように指先にまとわりつき、危険な秘密の意味を呟いた。彼女は全神経を集中し、遠い過去からの
疲労と混沌の果てに、ようやく解読は終わりに近付いた。あとは最後の単語──すべての鍵となる言葉を読み取れば、謎は解けるのだ。不吉な予感に心を曇らせながらも、彼女は衰弱した知力を振り絞り、最後の文字を読み取った。その言葉は──その言葉は……。
“血”だ。
そこに含まれているすさまじい意味が、物理的な衝撃となって少女の肉体を打ちのめした。その強烈な殴打に耐えるだけの気力は、もう残っていなかった。アタランテのしなやかな肢体はゆっくりと後方に倒れ、緩やかな斜面に大の字に横たわった。黒い瞳からは知性の灯が消え、虚ろに月の光を映すばかりだった。
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