八月の猫は笑う
水上 遥
八月の猫は笑う
ひぐらしの鳴き声の中に、祭囃子が聞こえてくる。
それはまるで、此処とは別の世界から漏れて来たかのように、ぼんやりとした輪郭で漂っている。
日差しがじりじりと肌を焼いている。
石畳の坂道の端に、黒い猫が寝転がっている。
その猫に駆け寄る彼女の背中も、動きも、猫のようだった。
八月の江ノ島だった。
わざわざ藤沢で江ノ電に乗り換え、賑やかな浜辺を通り抜け、長い橋を渡り、鳥居を潜り、その山頂を目指して歩いている時だった。
時刻は昼時で、道の真ん中に居ると、頭の天辺から、木々に遮られること無く日差しが落ちてきていた。
既に別れることが決まっている彼女と、そこへ来ていた。
尤もらしい理由はお互い用意していた。
だから、僕らは何かに酔いながら、この小旅行を楽しんでいた。
この夏で、終わる。
いや、この日が、二人の記憶に残る最後のものになるだろう。
その阿呆な痛みは、若い僕らにとって、とても都合良く、気持ちの良いものだった。
「ねこ。ねこー」
彼女に腹を撫でられている猫の顔は、僕の方を向いていた。
どうにかしてくれ、とでも言いたげに。
どうにも出来ないんだよ、と心の中で返した。
その声が聞こえたのか、猫は目を閉じて、諦めたように、ごろんと腹を出して、なすがままにさせた。
人はめんどくさいな、とでも言いたげに。
そうなんだよ。めんどくさいんだよ、と僕は苦笑した。
「写真を撮って」
と、彼女が鞄から小さなカメラを取り出した。
そして、片手で猫の腹を押さえて、もう片方の手で帽子を押さえてポーズを取る。
その帽子に、ちょうど良い具合に木漏れ日が落ちてきて、不思議な模様を描いていた。
これは良い絵になるな、と思った。
その瞬間が逃げ出さないうちにシャッターをきった。
「どうだった?」
今の今まで、あれほどご執心だった猫を放り出して、彼女が駆け寄ってきた。
二人で小さなガラスの画面を見る。
「ああ、良く撮れている」
その写真を見て、彼女はご満悦だった。
一方、僕はがっかりしていた。
さっき、僕の目が捉えていた絵とは丸っきり違うものが、そこには映し出されていたからだ。
あんなに綺麗なカットだったのに、映し出されているのは、どこにでもある、ありきたりな写真だった。
特別に、この日を象徴する美しい物になると思ったものが、いざ蓋を開けてみれば、何の光も放っていないものだった。
「次は貴方の番」
と、彼女は僕を猫の方に押しやった。
猫は逃げもせず、かと言って愛想も無く、そこに腹を出して寝転んだままだった。
手を置いても、まったく物怖じもしない。
もう顔も向けては来なかった。
はいはい。さっさとしておくれ。と猫が言った。
慣れてるんだな。と返事をしておいた。
いくらでも居るんだ。あんたらみたいなのは。
彼女の持つカメラを睨んでいる時に、そう聞こえた。
ああ、そうだろうな。さっき分かったよ。それは。
でも、何も、今、気づくことはなかったなあ。
これから夕暮れまで此処に居て、その後、帰って抱き合うんだぜ。
多分、泣きながら、別れに酔いながら、激しく抱き合うんだぜ。
僕も、それで居れば、随分楽しめたはずなのになあ。
「撮れたよ。良い感じ」
そう言って見せてきた写真は、やっぱり、どうしようもないくらい惨めに思えるものだった。
特別な物など、何も無い。
ただ、目つきの悪い男が、猫を片手で押さえ込んでいるだけだ。
「ああ。良い思い出になるな」
なんとかそんな言葉を捻り出した。
彼女はまた猫をいじりながら、こちらを見ずに、
「そうだね」
と、呟いた。
俺と写真なんか撮るからさ。
と、猫は笑った。
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