第32話 士郎の過去3
茶封筒
何度か口に出そうとしては、上手く言葉に出来ず飲み込んだ。
「士郎(シロウ)」
名前ならこんなに簡単に呼べるのに、こんなに近くにいるのに。
俺が大学に進学する頃、士郎は就職に向けての活動が始まっていた。思えば、士郎と出会った頃もそんな風だった。
一人暮らしをする士郎の家に上がり込んで、エントリーシートだ情報だなんだと整理している士郎を眺める。最近切ったばかりの襟足が揺れて、それに触れたい衝動に駆られた。
俺も一人暮らしをしていたが、士郎自ら俺の部屋に来ることはほとんどなかった。連れて来るか、呼ぶか、最近は呼んでも忙しいからと断られる事の方が多かった。
だから勝手に合鍵を作り、勝手に入り込む。勝手にお茶を飲み、勝手にテレビを付けて、不意に、士郎の襟首を掴んだ。
部屋着でも綺麗な服だった。しみとかしわは付いていない。そんなところは軽く潔癖なんだろうと思った。
そのシャツの襟首を引っ張って、俺に寄りかからせる。無防備なうなじに噛み付いて、シャツを捲し上げた。
「っ、週末に面接があるから」
「もうそんなの始まってるんだ」
「エントリーシート、書かないと」
「そんなの書かなくていいよ」
机の上の紙切れに固執する士郎をソファーに押し倒す。士郎は冷めた目で俺を見た。
最近はいつもそうだった。少し前までは俺が手を出すと期待で満ちた目で見ていたはずなのに。
苛立ちを感じて、それを紛らわすために士郎の首に歯型を残した。面接なんか、就活なんか全部失敗してしまえばいい。俺は士郎の邪魔がしたかった。
士郎の視線が逸れる。酷くつまらなそうに、諦めたように。
その表情を、俺は理解した。飽きた、冷めた、士郎は変わった?いや、違う。
変わっていたのは俺だったのかもしれない。
士郎に触りたいと思った。ただ触りたかった。横にいて、体温を感じたい。
この、この感情が俺は嫌だった。それがどんなものかわかっていた。
そして士郎にはその感情がない事も、俺がそれを出したら最後、士郎はきっと俺から離れる事も。
だから飲み込んだんだ。もっと一緒に居たいから、「一緒に暮らそう」なんて、馬鹿げた言葉を。
「ハッ……ハッ……っぐ、あ、ああ、っ、ハッあ、あ、」
士郎は目端から涙をこぼした。瞳孔は開いて、空を仰いでいる。
腕は背中で縛り、口にはタオルを噛ませた。ソファーの上で潰れたカエルのような姿になり、時折背中をしならせる。
俺は士郎の尻穴に指を入れた。ワセリンを指にも中にも塗りつけて、じりじりと押しひらく。指は小指まで入って、それに慣らすために抜き差しした。
そこまでいくと、快楽はどこにもなかった。士郎の身体は緊張で強張っている。ゆっくりとはいえ、穴を開かれ、開き、体力の消耗は激しい。
あとは親指さえ入れば。
入ったところで、だ。
入ったところで、フィストファックしたところで、士郎が手に入るわけでもないのに。士郎が俺の手で壊れてしまえばと始めてかれこれ二時間。
「入んないよ、士郎。俺の腕、ちゃんと咥えこんで。士郎、なあ、士郎」
「ふううっううっ……っう、ぐうううっ」
すぼめた手に重ねて親指をねじ込もうとしても、なかなかうまく入らなかった。
士郎が精一杯頑張っているのはわかった。生理的な涙をぼたぼた零しながら、括約筋は限界まで開かされ、なんとか俺の手を受け入れようとしていた。
でも、入りはしない。士郎の限界はここまでだった。
「なんとかしろよっ……」
なんともならないところまで来てしまっていたんだと、俺はわかっていた。俺のわがままだ。ごねた。甘えて、縋ったんだ。
でも士郎は、なにも出来ないじゃないか。期待を裏切られた、そんな気持ちになった。
目を開けることすらも億劫なほど疲れ果てた士郎は、ソファーの上で子犬のように蹲っていた。意識が飛ぶか飛ばないかの間で、呼吸すら酷く辛そうだった。
俺は士郎に布団を被せた。そのまま押し潰したいと思った。それが俺の持つ、愛情の形だった。
でも士郎はそんなもの求めてはいない。士郎が欲しいのは、そんな余計なものを一切排した、イかれた情事だった。
俺はもう、それが出来なくなっていた。
そこらに落ちていた茶封筒に、勝手に作った合鍵を入れて机に置いた。
「……」
さよならの言葉も言えないで、俺はその部屋を後にする。バタンと閉まる扉はまるで境界線だった。
この扉の先に置いて来たものに後ろ髪を引かれながら、酷く殺風景に見える日常に俺は戻っていく。
その日を境に、士郎との連絡は途絶えた。
続く
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