第24話 夜のベンチにて
街灯
僕だけが
少し広い公園のベンチを、街灯が照らしていた。この明かりだけは僕を優しく包み込んでくれる気がした。
僕はポケットから本を取り出し、昨日読んだところの続きを開く。もらった花を押し花にして作ったしおり。
まだ匂いが残っている気がしてクンと匂いを嗅ぐ。でも、それが花の香りなのか、本の香りなのか、わからなくなってしまっていた。
僕が街灯の下で本を読んでいると、男の人が歩いてきた。その人は髪を金髪に染めていて、黒っぽいシャツにジーンズのズボンを穿いている。靴は革靴で、丁寧に手入れがされていた。
ガタ、男の人がベンチを揺らしながら座る。街灯よりに座る僕と男の人の間には、人が一人座るには狭いが隣り合うとは言い難い距離が空いていた。
僕は本に意識を戻した。僕の世界は本の中に戻っていく。
本を読むのが好きだった。今読んでいるのはファンタジーで、魔法の世界の話だった。
魔法が使えても、なんでも出来るわけではない。魔法を使うための勉強をしたり、学校に通って人と衝突したり。万能じゃない魔法の物語はリアルで、勉強をすれば魔法が使えるのでは、と考えることもある。
この本の中で一番好きなのは、主人公がペットにドラゴンを飼っているところだった。たまたま拾った卵がドラゴンの卵で、そこから産まれたドラゴンは主人公によく懐いた。
魔法の世界でもドラゴンは希少で、主人公はドラゴンを狙われ、住んでいたところを逃げ、隠れ、冒険していく。
「お前さ」
「えっ」
スッと現実が戻ってくる。辺りは薄暗く、魔法なんてない世界はいつも通りの表情をしていた。
「昨日もここにいただろ」
カチンカチン、男の人はタバコにライターで火をつけた。吐き出した煙がもうもうと、辺りを白くする。
「なにしてるんだ、ここで」
男の人は僕に聞いた。こちらは見ないで、空に浮かぶ月を消すみたいに、煙をもう一度吐き出す。
「……本を読んでます」
僕がそう言うと、男の人は僕を見た。タバコを咥えて、右手で僕の頭を撫でる。
「何の本?」
「……魔法の」
「そっか」
男の人はニコッと笑って、僕の頭を何度も撫でた。髪がくしゃくしゃになってしまったのを、撫で付けて直すと満足そうにまた空を見た。
「幽霊かと思った。ちゃんと触れてよかった」
「……そう、ですか」
どうやら男の人は僕を幽霊だと思っていたらしい。
それも、わからなくはないかもしれない。こんなところで本を読むなんて。
それから後もしばらく男の人はベンチに座っていた。僕に喋りかけるでもなく、携帯をいじったり、空をぼーっと眺めたり、時折僕をちらりと盗み見て、また空を見上げた。
「帰るとき、起こして」
「え」
魔法の世界に浸っていた僕はまた現実に戻される。男の人は少し距離を詰めて、僕の肩に肩を寄せ、こうべを垂れた。
そして男の人は寝息をたて始める。寝てしまったのだ。
「あ、え、あの、あのちょっと」
僕は本にしおりを挟んで閉じて、男の人の肩を揺さぶる。
「んん……もう帰んの?」
「帰らないけど……あの、あなたは、帰らないんですか」
あの一瞬で深い眠りに入ったらしい。そんなに眠いなら家に帰ってちゃんと眠ればいいのに。
男の人は目をしばしばさせて、僕を見つめた。少し長い前髪と、下まつげか揺れる。
「だって、お前はまだ帰らないんだろ」
「ぼ、僕は関係ないじゃないですか」
「そうかな」
男の人はそう言って、僕を見つめるだけだった。
僕が帰るまで、帰らないのだろうか。夜風は涼しいを通り越して寒くなってきている。こんなところで寝られて、風邪を引かれても困る。
いや、困りはしないか。でも、居心地が悪い。
「……わ、かりました、帰ります。もう、帰ります」
「そう?あ、待って、一服させて」
今度は立ち上がろうとする僕の腕を引いて、僕に座らせる。引っ張られたから、肩と肩が触れるくらい近い。
男の人の体温で、火傷しそうだ。
「よっ。またいた」
次の日、僕がまたベンチに座って本を読んでいると、男の人が現れた。男の人はどかっとベンチに座る。二人の間に距離はあったけれど、昨日より少し近い気がした。
男の人はまた喋るわけでもなく、タバコを吸って携帯をいじって、そしてまた僕の肩に頭を預けて眠り出す。
どうして、ここに座るのだろう。
なぜなにも聞かないのに、一緒にいるのだろう。
本のページをめくる速度は落ちて、昨日からほとんど進んでいなかった。
それから毎日、男の人は必ず僕の前に現れた。男の人は僕を幽霊かと思ったらしいけれど、僕からしたらこの人こそ、僕の作り出した幻影なのではないかと思った。
街灯が照らす金の髪が、暗闇で輝いて見えた。陽の光の下だったらどうなんだろう。いつも夜現れるけれど、普段はなにしてるんだろう。名前は、家は。
たくさんの事が少しずつ気になっていった。男の人が僕になにも聞かないから、僕も男の人になにも聞けなかった。
それでも興味は増していった。どうして、なんのために。
聞いたら、この奇妙な二人きりの時間が終わってしまう気がした。
「なあ」
「え、」
眠っている男の人を見つめていたら、パチッと目を覚ました。真っ直ぐ突き刺さる視線に、僕はドキッとした。
「寒くないか」
「ふ……」
男の人の手が僕の首を撫でた。男の人の手は少し冷たくて、僕は身体がぶるっと震えた。
「寒い」
男の人は言いながら僕の肩を抱いた。顔が耳の下、首元に寄せられる。すん、と鼻をすする音が聞こえた。
ドキドキドキドキとうるさい僕の心臓の音は聞こえているだろうか。
僕は街灯の灯りが差すベンチで、男の人に抱きしめられていた。読んでいた本は読めないどころか、内容が頭からすっ飛んでしまった。
硬直する僕の首に男の人の鼻息が当たる。くすぐったくて、変な気分になる。時折すん、と鼻をすすられるのが、僕のにおいを嗅がれてるようで恥ずかしくなった。
「甘い匂い、するな」
「あ……」
匂いを嗅がれていた。
どうしよう。どうしようもなく、僕は顔が熱くなっていた。
「お前、あったかいな」
男の人が耳元に囁く。僕は意識がふわっと飛んでいくのを感じた。
ハッと目を覚ますと、僕はベッドの上で眠っていた。病院でも自分の家でもない。目を覚まして一番に見えたのは、向こう側の壁に貼られたポスターだった。
どこか見覚えのある、青と黄色が織り成す不思議な絵だった。
「起きたか」
すっと視界に入ったのは男の人だった。僕の頭はまだあまりよく働いていないけれど、ここが男の人の部屋で、僕はそこで眠っていたと見当がついた。
「熱出てるんなら、そう言えって」
くしゃり、僕の髪を撫で付ける。頭に触れた少し冷たい手が心地良くて目をつぶると、男の人の手が頬を撫でる。顔を包み込むように触れて、コツンと額に額を当てられる。
「熱で寝ぼけてる?……まあ、いいか」
男の人はそう言いながら、僕の頭を撫でて離れた。じっと見つめてると、男の人はベッドの端に座った。頬に手の甲を当ててくれて、冷たくて気持ちいい。
「急に気を失うから、びっくりした。うちに連れてきたけど、もう少し寝るか?それとも家に帰る?」
家、という言葉に、僕は嫌悪した。思い出したくないことを思い出して、胃からなにかせり上げるような吐き気がした。
僕は男の人に甘えたくなった。冷たいその手に手を重ねる。
「もう少し、ここで眠りたい」
「わかった。じゃあ俺も眠るから、どっちか寄って」
男の人の手に押されて、僕はベッドの端に寄る。なにもない白い壁を見つめていると、カチンと電気が消えて後ろから男の人が僕を抱きしめた。
「お前、あったかいな」
首元に吐息を感じながら僕は目を閉じた。
名前も知らない男の人と、ベッドに二人で眠っている。こんなに心地良い夜は、初めてだった。
夢を見た。そこには男の子と、その兄らしい男の人がいた。男の子と男の人は公園のベンチに座っている。街灯の灯りが照らしていた。
男の子は寒そうにしていた。手に息をはーっと吹きかけて、暖をとっている。すると男の人は首に巻いていたマフラーを男の子に巻いてあげた。
「 」
男の人が男の子になにか言った。僕にはよく聞き取れない。男の子は泣きそうな顔をした。男の人はベンチから立ち上がる。行ってしまう。
「 」
男の子も立ち上がってなにか叫んだ。
僕には男の子の気持ちがよくわかるようだった。
胸が苦しい。鼻がツンとする。
「……かないで、……っ行かないで」
ハッと目が覚めると、僕は泣いていた。夢のことはもうおぼろげだったのに、後から後からポロポロと涙が止まらなかった。
「大丈夫か?」
僕が泣いていると、後ろからぎゅうっと抱きしめられる。男の人はそのまま、僕の頭を撫でた。
夢の中の男の子は、この人だ。この人は大切な人がどこかへいなくなってしまったんだ。
ただの夢だ。でも、僕には違った。側にいる人の悲しい思い出が、僕には夢になって見えた。
目覚めたのは夜中で、涙が止まったのは朝焼けの眩しい明け方だった。ぼーっとした頭で、窓からの明かりを見つめた。
「味噌汁出来たぞ」
男の人はそう言うと、茶碗を僕に差し出した。
ワンルームの狭い部屋で、小さいちゃぶ台の前に座り、二人で早めの朝食を食べた。食欲のない僕は味噌汁だけ飲んだ。
塩気と水分が身体に沁み入るようだった。
「夢を見るんだ」
僕の声は小さく掠れていた。他に音はないけど、聞こえているのか、少し不安になるくらい小さい声だった。でも、大きな声が出ないほど泣き疲れていた。
「悲しい夢を見るんだ」
どうしてこんな夢を見るんだろう。
僕の夢はいつも悲しかった。誰かを失くす夢ばかりで、いつも胸を締め付けられた。
初めて見たのは、僕のお父さんがいなくなった時だった。苦しくてたまらなくなる。涙が止まらなくなる。
どうしてこんなに悲しいのに、みんなは平気なんだろう。
こんな悲しい思いをするのに、どうしてみんな人といたいのだろう。
僕は誰といても別れの時を思ってしまった。いつか居なくなるんだ。みんな、誰も、いなくなるんだ。
夜が来ると悲しい夢を見る。だから僕は、眠りたくなかった。
あの街灯の下で、眠らないように物語を読み続ける。
「あのベンチだと、夢を見なくて済むんだ……悲しい夢は見ない」
悲しい夢は辛かった。特に、目覚めた瞬間僕は一人なんだと思い知らされるようだった。
世界に僕だけがたった一人になってしまったようで、夢のせいで悲しいのか、なんなのかわからなくなった。
「どうして貴方は平気なの」
僕は男の人に聞いた。男の人は静かに僕の言葉を聞いていた。
「大切な人を失ったんでしょう?どうして、平気なの」
どれくらい昔のことなのかはわからない。でも、この人は昔、大切な人を失ったんだ。あんなにも苦しい、夢だった。とても大切な人だった、はずだ。
男の人は優しく微笑んで、僕の頭を撫でた。
「昔、俺の兄貴が。お前が座ってるあのベンチで、いつも悲しんでた」
ゆっくりと話し出した、それは僕が夢で見た、話だった。
「もう冬になるくらいだったか。ベンチで悲しんでる兄貴が心配で、俺はいつも一緒にいたんだ。その日はすごく寒くて。兄貴は俺にマフラーを巻いてくれた。暖かかったんだ」
男の人は思い出すみたいに、首に手を当てる。少し悲しそうに、続きを口にした。
「兄貴は、俺にお別れを言ったんだ。もう戻らない、お前のことは好きだったよってな」
男の人はひとつため息を吐いた。それから僕を見つめた。
「自殺する人って、死ぬ前に、身近な人に愛してるよとか、好きだとか、言うそうだ。兄貴もそうだった」
困ったように笑って、悲しそうに「そんなん、ないよな」と呟いた。
「はあ、それで、最初あのベンチでお前を見かけた時、兄貴かと思った。それで、違うってわかってからも……お前も兄貴みたいに行っちゃうのかと思ったら嫌だなって。勝手に思って、だからお前にちょっかいかけてた」
うざったかっただろう、と笑う、男の人の笑顔が痛かった。
「……もし、もし僕がお兄さんみたいになったら、また悲しくなるだけなのに、どうして」
僕はたくさんの別れの時を見てきた。辛くて苦しくて悲しい。それだけしかない。
だから僕は人を避けてきた。いつかいなくなってしまうくらないなら、最初から関わらないように。
「……いつか別れが来るかもしれない。人間だから、いつか死ぬ。でもその前に、うんと楽しい思い出を作って生きてれば、また新しい出会いが待ってるんだよ」
男の人はそう言って、僕の頭を撫でた。
僕は新しい出会いだったのだろうか。
「兄貴が居なくなったのは悲しいけど、楽しい思い出もちゃんと俺は持ってるから、悲しいだけじゃないんだ」
僕はそこで気付いた。僕が見た夢で僕だけが悲しいのは、悲しいところだけを切り取って見ていたからだ。それまでの全部が、悲しかったわけじゃない。
だからこの人は今だって、笑ってる。
「楽しい思い出、うんと作ろう」
僕は頷いた。
僕の悲しい思い出も、それだけじゃない事を思い出したから。
終わり
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