第20話 上司×部下←先輩

ドライブ


「橋田(ハシダ)、ドライブ行こう」

 佐江(サエ)さんはそう言うと、俺の手を強く引っ張った。

  俺はと言えば酷い姿だった。スーツはよれて、ネクタイは解けかけ、カバンはどこで無くしたのやら。一番酷いのは顔だった。頬に涙の跡が残り、目は腫れぼったい。

 そんなみっともない姿だったからこそ、俺は佐江さんの手を握り返し、彼の向かうままに従った。

 手を引かれているから、顔を上げなくてもいい。顔を上げなくてもいいから、周りの興味本位な視線も気にしないでいい。

 このままどこかに連れ出して、なんて物語のような台詞が頭に浮かんで、少し笑えた。笑う余裕さえなかった俺は、さっきまでよりも少しだけ落ち着いたようだった。


 助手席の扉を佐江さんが開けた。車種もメーカーも詳しくないけれど、誰かが佐江さんは高級車に乗っていると言っていた。手入れの行き届いたその車には傷も汚れもない。きっと、大事にしているんだろう。

「頭気をつけて」

「あ、はい」

 枠に頭をぶつけないよう身体を屈めて助手席に座る。硬すぎず、柔らかすぎない背もたれに寄りかかり、爽やかな車内の空気がスッと鼻に届く。

「狭くない?」

「だ、大丈夫です」

 佐江さんは俺の手を握ったまましゃがんで、まるでお姫様にキスをする王子様のようだった。

 かっこいい人だ。持ってるものだけじゃない、その仕草や気遣いまで、かっこいい。

「シートベルトしめるから」

「あ……」

 自分で出来たのに、佐江さんが俺にシートベルトをかけてくれる。その時身体が近付いた。佐江さんの右耳が目の前にある。ああ、大丈夫かしら、俺の心臓はいつしかドキドキしていて、荒くなった息が当たってはいないだろうか。

「ちょっと待っててね」

 シートベルトが装着されると、佐江さんはそう言ってドアをバタンと閉めた。どこかに走って行き、直ぐに戻ってくる。

 バタンと運転席が開いて、佐江さんが乗り込むと車体が少し揺れた。

「はい、甘いのしかなかったんだけど」

「あ、ありがとうございます」

 佐江さんから缶のあたたかいミルクティーを渡された。

「あ、開けてあげる」

 両手で缶を受け取った俺の手の、上から缶を掴み、カコンとプルタブが開けられた。

 恥ずかしくなるくらい優しい佐江さんに、俺がありがとうと言うと、佐江さんは俺の頭を撫でた。

「それじゃあ、出発」

 佐江さんはそう言うと、静かに車を発進させた。心地よい振動とミルクティーの甘さに、俺は眠くなっていった。



 最初に上司から関係を迫られたのは、飲み会の後だった。

 直属の上司で、入社の時から世話になっている。仕事に厳しい人で、怒ると怖いけれど、尊敬する上司だった。

 酒に弱かった俺はいつもより飲みすぎてしまい、酔い潰れた。上司はその日、近くにホテルを取っていて、俺の面倒を見てくれることになった。

 ビジネスホテルの安っぽいベッドに寝転がり、ふわふわとした気持ちでいた俺は、上司に抱きついて言ったそうだ。

「部長、大好きです、いつも本当に尊敬してるんです。部長の部下になれて、俺、よかったです」

 部下として、純粋に尊敬していた。

 上司は妻子持ちだったが、その頃関係が冷めていた時期だったらしい。

 不倫だ、でも酒の勢いを借りて、俺たちは身体を重ねた。一晩の過ちは、いずれ取り返しのつかないものになるとも知らずに。


 目覚めた時、まず感じたのは罪悪感だった。それから、上司の腕枕に気付き、慌てて退こうとしたのを抱きとめられる。

「まだ早い……もう少し寝ていよう」

 耳がくすぐったかった。胸がチリチリと焦げ付くようだった。上司の匂いに頭はくらっとして、俺は眠れないまま目をつぶった。

 その後も何度も身体を重ねたが、今でも初めて抱かれたその時のことを鮮明に覚えていた。忘れられなかった。

 不倫を止めようと思うたびに思い出しては、胸がドキドキと高鳴るのを感じていた。


 身体の関係を続けて2年が経った頃、二人の関係に歪みが生まれていた。

 不倫という事実に、俺の良心が耐えきれなくなっていたのだ。

 毎週のように身体を重ね、出張に同行してはセックスをした。

 時には上司の家族がいないのを見計らって、上司の家でセックスに興じる。上司と奥さんの使うベッドの上でした時は、数日眠れなかった。

 同僚たちとホームパーティに呼ばれた時は針のむしろに座っているようだった。奥さんと対面した時はまともに目を見ることも出来なかった。

 奥さんの横で愛妻家のように微笑み、彼女に手を回す。そんな上司に不信感が生まれた。

 この爛れた関係に、俺は終止符を打ちたかった。


 それから少しずつ、身体の関係を拒み始めるようになる。従わない俺に、上司は苛立ち始めていた。

 その時期、人事異動があった。多部署から佐江さんがやってきたのだ。

 仕事の引き継ぎでよく話したり、歳が近いこともあって、俺と佐江さんはすぐに意気投合した。

 上司との関係で精神的に疲れていたが、佐江さんといると癒されたし、心が救われるようだった。俺は佐江さんと行動を共にすることが多くなっていた。

 上司は俺たちの関係を疑っていた。上司の監視するような目が怖い。俺はますます上司から距離を取った。

 誰にも話せない悩みに苛まれ、体調は悪くなっていく。妙に熱っぽくて身体は怠く、腹はずっと下していた。

 それでも会社では悟られないよう、佐江さんの前では元気に振る舞った。身体と心はますます蝕まれていく。

 そんな俺に、上司が追い打ちをかけた。


 用事で資料室にいた時、上司がそこに現れた。気付かなかった俺は、突然真後ろに現れた上司に、心臓が止まるかと思うほどびっくりした。

 上司はもはや、気が狂っていたのだ。

 壁際にいた俺をじりじりと追い詰めていく。行き場がなくなった俺を壁に押し付けて、上司は襲ってきた。

 それからは暴言の濁流に飲み込まれた。

 もうおれに飽きたのか、次はあの男か、誰にでも股を開くのか、この売女め、お前の穴は気持ちよかった、お前の価値なんて所詮穴だけだよ、仕事の才能はない、どうせ身体で仕事を取ったんだろう、金ならやるから、さあ、脚を開け。

 突然の事態と言葉の暴力に、俺は頭が真っ白になった。上司は無理やり服を脱がせようとした。俺はそこでようやく上司を押しのけ逃げ出した。

 襲われたんだ。その事実が酷く怖かった。

 資料室を飛び出して、俺は前も後ろもわからず走り出した。上司が追ってきて、なにか叫んでいる。きっと俺を罵る言葉に違いない。

 どこに逃げたらいいかもわからない俺の手を、佐江さんが握った。

『橋田、ドライブ行こう』



「橋田、起きられるか?」

「んん……」

「まだ寝ててもいいけど」

 そこでハッと目を覚ました俺を、佐江さんがクスクスと笑った。

「おはよう」

 佐江さんの向こう、窓の外で間も無く夕日になる太陽の光で、佐江さんが眩しく輝いていた。目を細めて見えるのは、やっぱりかっこいい佐江さんだった。

「起きられそうなら、そこ行かないか?」

 佐江さんの指が俺の前髪を払った。

 そこ、と視線で教えてくれたのは、海岸添いに立つ丸いドーム。プラネタリウムだった。


 バタンとドアを閉めた。車の外に出て、俺はうんと伸びをする。こんなによく眠れたのはいつ振りだろうか。泣いたのもあって、少し頭痛はしたがどこかスッキリした気分だった。

「俺、どのくらい眠っていましたか?」

「二時間くらいかな。ぐっすり眠って、全然起きなかったぞ」

「そんなに……すみません」

 二時間くらい寝たということは、佐江さんは二時間くらい運転していたということだ。申し訳なくなって謝ると、佐江さんが頭を撫でた。

「オレ、プラネタリウムなんて小学校の社会科見学以来だなあ」

「あ、俺もです」

 二人でチケットを買い、ドームの中に入る。間も無く上映だったが、平日のせいか他に客はいなかった。

「スーツの男二人で来たから、受付のお姉さん、少し驚いてたな」

「あ、そうですね、ああ、そうだ、そうだった」

 自分達の格好も、男二人でという事実も忘れていた俺は急に恥ずかしくなって顔が熱くなった。

 けれど、間も無く会場は暗くなり、ナレーションといっぱいの星が空に浮かび上がった。



 上映が終わってしばらくしてからも、俺は惚けて席を立てないでいた。

 都会じゃ見れないような満天の星に心奪われていた。プロジェクターが映し出した偽物の星空だけれど、今でも頭の中でキラキラと瞬いている。

「……」

「……っ、な、なんですか」

 はあ、と感嘆のため息を吐いてると、横から熱視線を感じた。そっとそちらに目を向けると、佐江さんがまじまじと俺を見ている。気付いて声をかけると、佐江さんは笑った。

「プラネタリウム、良かったなあって思って」

「大人になってから見ると、なんか、色々違いますね」

 うまく言えなかったけれど、なんとなく通じてくれたようで、俺にはそれだけで十分だった。

 一時間弱の上映時間で、途中で飽きることもなく、映し出される星空を夢中で見つめていた。

 明るい街中では星が見えないのもそうだが、顔を上げて空を見ることすら忘れていた。

「じゃあそろそろ出ようか」

「そうですね」

 促されて出口に向かう。そっと手が握られて、導かれる。

 佐江さんのこの手の意味は、なんなんだろう。どうしてまた、手を握ってくれるんだろう。

 俯いて佐江さんの手をまじまじと見つめていた俺を、佐江さんが呼んだ。

「橋田」

 顔を上げて、俺は息を飲む。


  いつの間にか太陽は沈み、空は夜の装い。

 満天の星が瞬いて、空中に宝石を零したようだった。

 この瞬きは何億光年も先の、今はない星の瞬きかもしれない。

 途方に暮れるほど壮大な宇宙の瞬きの中で、俺たちは刹那に輝いて燃え尽きる。


「好きだ」


 佐江さんの声が優しく言った。

 無意識に頬を流れた涙は、二時間前に流したそれよりも、ずっと温かい。

「俺もです」

 唇が重ねられる。

 この瞬間はキラキラと輝いて、俺はきっといつまでも忘れられない。



 それから俺は仕事を辞めて、新しい職場で新しい仕事に就いた。前とは違う環境で慣れるまでが大変だが、俺には佐江さんという支えがいた。

 佐江さんはあいも変わらずかっこよかった。一緒に暮らし始めて、少し抜けたところも見つけたけれど、それすら愛おしいくらいだった。

 上司と不倫をして、身体の関係を持ってしまったことは拭えない事実だった。けれど佐江さんは俺を愛で優しく包んでくれる。

 傷付いた俺の心を、身体を、優しく癒してくれる。



「橋田、ドライブ行こう」

 佐江さんがそう言うから、俺は佐江さんの手を握った。

「今日はどこに行きますか?」

 そう聞く俺は、満面の笑顔だった。


終わり

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