第11話 カフェ店主×客
休日の朝
鮮やかなキャンバスだった。赤、黄色、オレンジ、明るい色ばかりが画面いっぱいを塗りつぶす。それがなにを描いているのか、おれにはわからなかった。
休日の朝。珍しく早く目覚めたおれは、人気の少ない涼しい街を一人歩いていた。散歩なんて柄にもないことだった。
けれど、なにかが起こる時というのはたいていそういうものだった。いつもと少し違う、1日は些細な違いから始まる。
朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、なにかが起きる予感にわくわくしていた。
そんな時、ふと電柱の張り紙が目に入った。丁寧な字で書かれた広告だった。
『カフェ colornote この先5分』
広告の端には手描きの地図が描かれていた。住宅地の一角に位置するそこは、毎朝通り抜けている場所だった。けれども、そんな店があることすらおれは知らなかった。
開店時間にはまだ早かったが、おれはその店に向かうことにした。
徒歩5分にも満たない短い距離。そこにあったのは、丸っこいという印象の、なんだか可愛らしいカフェだった。まるでカップケーキのような店で、大きい窓ガラスから開店前の店内が覗けた。
なかなかよさそうな店だった。そもそも、カフェなんてほとんど入ったことがなかった。食事はいつも牛丼屋やファストフード店、行ってファミレスや居酒屋だった。
おしゃれな雰囲気の店には、なんとなく男一人では入りにくい気がしていた。
けれどもその店は、まるで懐かしい気持ちにさせる落ち着いた雰囲気だった。例えるなら、幼少の頃に行ったきりの、田舎の祖父母の家のよう。
店が開く頃にまた来ようか……そう思っていると、中で人影が動くのが見えた。その人は不意にこちらを向き、目が合うとおれに微笑んだ。
そして、closeの看板が出ている扉を開けた。
「おはようございます」
「お、おはようございます。こんなところに、カフェがあったんですね」
「ええ、最近できたばかりなんですよ」
男は目を細めて笑った。その仕草に、なんとなく胸がきゅっとなった。柔らかそうな茶色い髪に中性的な顔、耳に響く優しい声、それらがきっと、居心地がいいのだろう。
「よかったら中で休んでいかれますか?開店にはまだ早いですけど」
「でも……じゃあ」
「どうぞ」
断ろうかと思ったが、男の厚意に甘えることにした。招かれるまま中に入ると、ほのかに爽やかな潮風の匂いがした。
「お好きな席にどうぞ。僕は少し、用意がありますので」
「どうも」
店内は木の作りだった。日差しは少し強くなっていたが、ひんやりとした空気がちょうど良い。
男はカウンターの中でカチャカチャコポコポと開店の準備を進めていた。
おれはどこに座ろうかと周りを見渡して、鮮やかな青に心が奪われた。
店の半分は大きな窓で開放的な空間だった。もう半分は壁にいくつかの絵が飾ってある。青い、深海のような、あるいは高い空のような、そんな絵だった。
その絵の前に立って静かに絵を眺めた。それは不思議な感覚だった。えのなかに吸い込まれるようなーー吸い込まれてしまいそうな、そんな気分になる。
ひんやりとした空気がそうさせるのだろうか。
おれの口から、身体から、コポコポと空気が溢れる。泡が浮き立って、ここは深海で、ああ、溺れそうなくらいーー。
「コーヒーが」
ぽん、と肩を叩かれておれはハッとした。
「はいりましたよ」
「あ、どうも」
男に言われて、まるで酸素を取り戻したように心臓がバクバクと痛いくらいに脈打つ。近くの席に置かれたコーヒーの、芳ばしい匂いがした。
おれは席に座り、コーヒーを一口啜った。どんなブレンドなのかわからなかったが、こんなに美味しいコーヒーは初めて飲んだ気がした。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
おれの率直な感想に、男は微笑んだ。
支度は済んだのか、店内にはコポコポという音だけが響く。眠たくなりそうなほど、穏やかで居心地の良い空気だった。
「あの絵は」
「ああ、これですか」
絵に視線を飛ばしながら男に話しかけると、男は絵の前に立った。
「僕が描いたんです。絵師の真似事ですが」
「とてもお上手ですね」
「ありがとうございます」
おれが褒めると、男は絵に指でそっと触れた。おれはなぜか息を飲んで見守った。
男がその青に、青の深海に、身体を浸すように思えた。
「まるで、飲み込まれそうな、絵ですね」
「僕もそう思います」
おれは男の隣に立った。男は奇妙な返事をした。どういう意味だろう。おれが男を見ると、男は絵を見ながら話し始める。
「この絵は、夢の絵なんです」
「夢……将来の、とかですか」
「ああ、いえ、眠って見る、夢の絵なんです」
男は想いを馳せるように、目を細めて絵を見つめた。
いったいどんな夢だったのだろう。魚になって泳ぐ夢だろうか。それとも、深海で苦しくてもがく夢だろうか。おれがもう一度じっくりと見つめると、身体が浮いて、深海に浮かぶ海藻のような、そんなふわふわとした気持ちになった。
「夢と言っても、僕の見た夢ではないんですがね」
「そうなんですか」
男の声で意識が戻るようだった。
絵の中はとても心地良い気がした。
「青い絵ばかりですが、どれも夢の絵なんですか?」
「そうですね、これだけは別ですが」
男が一番奥にある絵を指して言った。
その絵も青が基調とされた絵だったが、眠るような男が描かれていた。
「この男の人が、これらの夢の、主なんです」
「はあ……」
絵の中の男は、青い、空とも海とも見える世界で、とても心地良さそうに眠っていた。
「とても、気持ち良さそうに眠っていますね」
「ええ……」
男が絵の中の男を指で撫でた。
その仕草に、おれはなんとなくゾワッと鳥肌が立った。どうしてだかわからなかった。
その指の動き、視線、声、それらが、なんだかとても……得体の知れないものを感じた。
おれはそれからもう一杯コーヒーを飲んで、店を後にした。
とても心地良い店だった。また行きたいと思う。きっと常連になってしまう。それは確信に近い予感だった。
外はすっかり夏の日差しで、太陽からの光が眩しい。
その夜、おれは不思議な夢を見る。
赤、黄色、オレンジの眩しい世界で、ふわふわと漂う夢だった。とても心地良い夢だった。
次の休日の朝。その日もやはり、おれは早くに目覚める。
いつもと違う、でも、この前の休みとどこか似た、そんな朝だった。
おれはまた散歩に出て、あのカフェの前まで歩いていた。ちょうど、男が店の「close」を「Open」に替えているところだった。
「おはようございます」
男の声に、おれの脳はホッと落ち着くようだった。
店に入ると、どこからかほのかに、柑橘系のすっきりとした匂いがした。
「あれ、絵が……」
店の奥にいくと、青い絵のかかっていた場所はガラッと色を変えていた。
壁にかかっているのは、夏を思わせる明るい色の絵ばかりだった。
「ええ、」
後ろからそっと、指が頬を撫でられる。
「新しい、夢の絵を描いているんですよ」
その仕草に、声に、おれは覚えがあった。それに気付いた瞬間、ゾワッと、鳥肌が立った。
終わり
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