第3話 893×いじめられっ子

この渇きを癒して

近付く靴音

倒錯


 近所に893が住んでいる。

 おれはいじめに遭っていて、ナイフを渡され命令された。

 それで893を刺してこいよ、そしたらお前のこと認めてやる。もういじめない。


 放課後の帰り道、いつも入口のところで強面の893たちにお勤めご苦労様ですと出迎えられている男がいた。

 そいつはスーツを着ていたがオールバックで、服の上からでもわかるほど鍛えられた肉体をしていた。

 こんなナイフじゃ傷一つつかなそうな強靭な身体。おれはごくりとつばを飲んで、その瞬間を待った。

「若頭、お勤めご苦労様です」

 黒塗りの車からあの男が出てきた。おれは息がハアハアと上がっていて、その男だけをめがけて走り出した。

「ああああああああ!!!」

「なんだ」

「鉄砲玉か」

「やめろ馬鹿」

 飛び交う怒声と、たった一つの大きな衝撃。目の前がグルンと回り、おれは気を失った。


 冷たい床が心地よい。

 脳みそがぐわぐわと揺れて、気持ち悪い。

 身体の自由はきかなくて、手足がねじ曲がっているようだった。

 カツカツと近付く靴音がする。そちらに目を向けようと顔を向けると、頭を踏みつけられおれは床にキスをした。

「名前を言え」

 頭は踏みつけられたまま、男に聞かれた。

 あの怒声の中、やめろと言っていた声だった。

「……イヅキ」

 舌が痺れるようだった。顎を殴られたらしく、口を開くと震えるようでうまくしゃべられない。

「名字か?名前は」

「……」

 汐見イヅキ、それがおれの名前だった。けれど名字を言えば家族に危害が及ぶかもしれない。そう思って口を閉ざした。

「汐見イヅキ、どうして素直に答えない」

 パサリと目の前に手帳が落とされる。それはおれの生徒手帳だった。おれの小さな抵抗なんて杞憂に終わった。

「誰に命令された」

「……クラスメイト」

「クラスメイト?」

 足がどけられ、男がしゃがむ。

 そこでようやく、おれの頭を踏んでいたのは若頭と呼ばれていた、おれが刺そうとしていた、その男だと気付いた。

「嘘を吐くな」

「く、クラスメイトです……」

 男の目はおれの心を全て暴いてしまいそうに、まっすぐにおれの瞳を覗き込んだ。

 恐ろしくて目をそらすと、胸ぐらを掴まれ身体を起こされる。

 おれは両手を背中でくくられ、膝立ちになった。

 ブチブチとボタンが弾けて、ワイシャツの前を開かれる。

「イヅキ、お前の身体傷だらけだな。これもクラスメイトにやられたのか」

 男が、汚いおれの身体を見つめた。アザやタバコを押し付けられた跡が消えずに残っていた。

 胸に近い傷跡に、男の指が触れる。

「これは刺し傷か」

 その傷に触れられると、身体がびくんと震えた。もう塞がってはいるのに、その傷に触られるのは心臓をなぞられたように、嫌な気分だった。

「嘘は吐くな。どうして俺を刺そうとした?」

「クラスメイトに、893を刺してこいって、命令されて」

「いじめか」

「……」

 その言葉を口にするのは嫌で、おれは頷いた。

「俺を刺す勇気があるんなら、そいつらを刺す方がよっぽど簡単だと思うけどな」

 男はいいながら、少しだけ口角を上げて笑った。

 たしかにそうだった。けれど、おれにはそんな考え、とても思いつかなかった。

「……たしかに、あはは……はは、はははは……」

 そうと気付くと、なんて馬鹿馬鹿しいことをしたんだと思った。

 それがおかしくて、おれは笑い出していた。笑って、泣き出していた。

「うえ、ひっ……うう、うっ……」

「この傷もいじめか」

 男の指が身体の傷をなぞっていった。

 半分はそうだった。でも、半分は違った。

「違うのか」

 答えないおれを見て男が気付いたようだ。なぞる指が、一つ一つを丁寧に辿っていく。

 新しい傷、古い傷。古い傷、古い傷、古い傷。胸の、切り傷。

「虐待」

 男の言葉に身体がびくっと反応した。

「……お前って、不憫なやつだな」

 憐れみ、慰み、男がそんな気持ちでおれの頭を撫でたのがわかった。

 それから男はおれの拘束を解いた。それからおれの手にあのナイフを握らせる。

「次は誰を狙うか、よく考えろ」


 893の家から放り出された次の日。おれナイフを持って学校に行った。

 人目の少ない体育倉庫の裏で、いつものように殴られて、それからおれはナイフを取り出した。

 手の中の柔らかい感覚に、身体が震えるようだった。

 ナイフがおれをいじめるそいつに突き刺さると、あいつは泣いて叫んだ。

 おれにはそれがセックスに思えた。泣いて喘いで、無理やり突き刺して、おれはあいつをレイプしている。

 何度も、何度も、内臓をかき混ぜて。


「本当に出来るなんて思ってなかったよ。見くびってた」

 拘置所に迎えに来たのは、あの893の男だった。


 父親、おれを虐待していた人間はしばらく前に死んでいた。それから親族の家を転々として、最後には適当な家をあてがわれ、一人で暮らしていた。

 おれをそそのかした事と、遠い遠い親戚関係にあったあの893がおれを引き取りに来たと、迎えの黒塗りの車の中で教えてもらった。


 おれはおれの手を見つめていた。まだ感触が残っているようだった。

「イヅキが刺した相手の少年、一命を取り留めたそうだ」

「ねえ、人を殺したこと、ある?」

 おれが聞くと男は眉を顰めた。

「なんだ、殺人未遂して一丁前気取りか。敬語を使え、馬鹿」

「人を殺したこと、ありますか」

 丁寧にたしなめられ、それに従うと男は、見覚えのある笑みを浮かべた。口角を上げて、小さく笑う。

「ないよ」

 肩をすくめて言う。

「セックスは?したこと、ありますか」

 おれの問いに、男はまた肩をすくめた。

「おれは、セックスした事がないけど、でも、あれは、あれはセックスだった……すごいんだ、何度も、刺すたびに喘いで、おかしいけど、あの瞬間からあいつがすごい可愛くて、おれ、止まらなくて、何度も、何度も、何度も、」

 思い出すと身体が熱くなって興奮した。

「ねえ、おれ、あなたともセックスしたいよ」

「……倒錯してんなあ」

 男は苦笑して、おれの頭を撫でた。やっぱりそこには、憐れみや慰めの意味が込められていた。

「ねえ、足りないんだ、お願い、お願いします」

 まるで喉が渇いたように、欲していた。

 初めてのセックスで、あの感覚が忘れられなかった。

 この渇きを癒して欲しくて男に縋り付く。

 車の中に置かれたフルーツバスケットに、キラリと銀に輝くフォークを、おれは目の端に見つけた。

 欲しくてたまらないんだ、今すぐにでも……。


終わり

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