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「そ、れじゃあ。三田が待ってるんで」
「うん。アイス溶けない内にね」
「……がとうございます」
真っ赤な顔をする矢島君を見送った後、職員室のドアが無遠慮な音を立てて開くのが見えた。ようやく不破君は職員室から出てきたのね。メガネが少し曇っていて顔が赤いのは、冷房の効いている職員室と冷房とは無縁の廊下の温度差と言う訳でもなさそう。顔が赤いのだって矢島君とは理由が全然違うんだろうし。生徒は既に大分はけていたけれど、それでも廊下に残っている子達が不破君にちらちらと視線を送りつつも目を合わせようとしないのは、どう考えてもキャラが変わる位怒っている不破君と関わりたくないせいね。生真面目な子ほど、怒ると周りが不安になる位に空気を変えてしまうもの。
人がしばらく来ないのを確認してから、私は再び財布からお金を取り出すと、それを金庫に入れておく。普段不破君が文具以外でよく買いに来るのは、無糖コーヒーだ。
「あら、今日はどうかした? ご機嫌斜めね」
私が声をかけた途端、不破君はばっと顔を腕で押さえてしまった。さっきまで不機嫌さをちっとも隠そうとしなかったのに、その仕草は随分と高校生らしくて、思わず私は自然とくすりと笑う。自分だとそこまで顔に出てるって自覚はないのかもしれないね。まあ自分の顔なんて自分だと見られないからしょうがないかもしれないけれど。ほいと冷蔵庫から無糖コーヒーを取り出すと、それを不破君に差し出す。不破君はほんの少しうろんげな顔だ。
「……何です?」
「ちょっと余りそうだから。夏休みになったらしばらく購買部も休みなのにね」
生真面目が過ぎる子だから、おごりなんて言ったら断っちゃうだろうなと思って逃げ道を潰しておくと、不破君は困った顔でそれを受け取ってくれた。まだプルに手をかけず、火照った身体を冷ますように両手で握るのを眺めながら、私はただのほほんと笑う。
「随分と怒ってたみたいだね」
「見えてました?」
「うん。すごい勢いだったから、何があったんだろうって」
「すみません……人に当たりたい訳では……」
「いや、私は別にいいんだけどね。当たられてもいないし。でもどうしたの?」
「……知り合いが、カンニング容疑かかっているんで。本人は全然気にしてないんですけど。してないものをしてるって言い張られるのはあまり気分がよくありません」
「うん、そうだねえ」
「……先生方と話しましたけど、調査中の一点張りだったんで相手にしてもらえず」
「うーん、不破君は」
「はい?」
私もあまり偉そうな事は言えないけど。
ほうれんそうって大事だと思うし、それがちゃんとできてない人って社会だと全然相手にされないのよね。最近はSNSが発展しちゃってるから平気でそれを無視する傾向ができちゃってるけど、それってあんまりよくないと思うんだ。あくまで私の個人的な意見なんだけどね。
「大人との喧嘩の仕方がまだまだ下手ね」
「……すみません、血が昇ってたので」
「いやいや、怒っている訳じゃなくってね。素直な感想。ほうれんそう分かる?」
「……報告・連絡・相談です?」
「そうそう。まずは生徒会顧問なりに相談がよかったんじゃないかな。そもそも容疑かかってる生徒さんは全く無視してるんでしょう? 愉快犯だったのなら、君が逆上するのを面白がっているのかもしれないしね」
「そんな悠長な事……!」
「だから落ち着きなさいって。そもそもまだ表に出てない事を下手に騒いだ方が、容疑かかっている子には迷惑だからね。君が自分の替わりに怒ってくれているって、それだけで充分本人にとってはありがたい話だと思うから。だからちょっと落ち着きなさい」
普段はどんなに落ち着きはらっていても、やっぱり高校生。若いわねって思ってしまう。名東先生も顔に出る位には怒っていたけれど、場所を変えて話をする程度にはTPOを弁えていたもの。不破君はほんの少しひるんだような顔をした後、視線を床に落としてしまう。
「……すみませんでした」
「いや、私。本当に怒ってないのよ? だからちょっとは落ち着きなさい。でも犯人当てをして、相手を追い詰めるような事もしちゃだめよ?」
「なら……どうしたらいいんですか」
「外部には外部のやり方って言うのがあるのよ」
私はにこっと笑った。不破君はメガネを少しずらしつつ、コーヒーのプルタブにようやく手を伸ばした。
うん。明日になったら教えてもらえた……内出さん。彼女に会えるといいんだけど。こればかりは名東先生よりも先に話をつけないとまずそうね。カンニング騒動がこれ以上校内で広まったら、彼女も生徒会長さんも潰されてしまう。学校って普段生活してる場合は問題ないけれど、一度問題発生した場合は逃げ場が全然ないもんねえ。そう思いながら私は店先につけた風鈴のちりんと言う音を聞いていた。
****
次の日は久しぶりに蝉の鳴かない日だった。うだるような暑さ、体感気温を底上げしてくれる蝉の鳴き声が聞こえない替わりに、生温い風が湿気をたっぷりと含んで吹く音を耳にする。今日は午後から雨って言っていたけれど、最近は天気予報があまりあてにならないから分からないわねと思いながら私はいつも通りに出勤していた。
学校はカンニング騒動で一瞬だけ騒がしくなったものの、今の所は何もないみたい。不破君が怒って職員室に入ったのは見たけど、それ以外は大した騒ぎにはなっていない。私は店の準備をしつつ、問題の子はいつ学校に来ているんだろうと廊下を眺めていた。別に怒りたい訳じゃなく話をしたいだけだから、なるべく二人で話をしたい。私は湿気のせいで汗ばむ肌にハンカチを当てつつ、ちらちらとその子を探す。朝の通学ラッシュになったら廊下も混雑するけれど、それも一瞬だ。時折うちに消しゴムを買いに来る子がいる位で、大きな買い物をする子は現れなかった。
私がちらちらと廊下を見ている時、一瞬だけ目を引く夏場のカーディガンの子をようやく見つけた。やっぱり顔はつるんとしていて、悪い部分も見当たらないけれど、すごくいい部分も見当たらない子。ただ真っ黒な子と言うのだけはよく分かる子だった。
さあ、どうやって声をかけよう。私はちらちらと時計を見た。まだホームルームまで時間はあるし、朝一番の通学ラッシュは既にピークを過ぎている。職員室は既に朝の会議が始まっていてしばらくは先生方は出られないはず。今が一番いいタイミングなんだけど。私はしばらく考えていたら。何かがパッと金庫の前に飛び乗ったのに気が付いた。
「あっ」
「ニーッッ」
「ちょっ、ちょっと……何で今このタイミングで……」
黒い悪魔がバッと廊下から飛んできたのだ。ちょっと……三ケ島君は今いないし、そもそも朝にこいつが現れる事なんて滅多にないのに。黒い悪魔は私が計算用に出していた小銭ケースを前足でタシタシと開いてしまうと、その上にベチャッと飛び乗ったのだ。たちまち小銭が床に散らばり、中には机を大きく弾いて店の外まで飛んで行ってしまうものもある。
「ギャァァァァァァァァ!!」
店の奥の大騒音と私の悲鳴で、廊下を歩いていた子達は一斉に購買部の方に視線を集中させるけれど、私は今それどころではない。
だから! 私は! あんたに! 何も悪い事なんてしてないでしょう!!??
私は慌てて金庫を乱暴に閉めてお札が盗まれるのを阻止すると、床に散らばった小銭を手で集め始めた。信じられない。わざわざ小銭ケース開けてまで私で遊ぶなんて、本当に信じられない……! しかも黒い悪魔は逃げもせずに床に寝そべって耳を後ろ足で引っかいてるし。
私の悲鳴にびっくりしたのか、店の外まで飛び散ってしまった小銭を店の外を歩いている子達も拾ってくれる。
「あの、すみません。飛んできましたよ」
「ああ……っ、ごめんね。ありがとう」
「ニー」
「こらっ、あんたもちゃんと謝りなさい」
「ニー」
黒い悪魔はと言うと、生徒さん達がわらわらやってこようが小銭の返却が行われようが、我関せずと言う顔でぷいっとそっぽを向いて後ろ足でガリガリと背中をかいているのが腹が立つ。皆猫のする事だからとクスクス笑いながら去って行く中。
「あの……飛んできましたけど」
「ごめんね、ありがとう」
……って、あらま。私は思わず目を瞬かせる。内出さんもまた、黒い悪魔のばら撒いた小銭を拾って届けに来てくれたのだ。おろおろとした心配しているような態度。それに私は思わず驚いて、そして彼女を見た。
怖がらせちゃいけない。でも話を聞かないといけない。私は目を瞬かせつつ、落ち着いてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「昨日はテスト中教室から出てたみたいだけど、大丈夫?」
「あ……」
途端に人がよさそうにおろおろしていた瞳に、ゆらゆらと不安げな潤みが見え隠れして、私は思わずほっとする。大丈夫だ。この子もまた、ちゃんと幸塚高校の子だ。ちゃんと理由があるのなら、話ができる。
大事になってしまう前に、ちゃんと話をしないとね。
「大丈夫だった?」
「あ、の……見てたんですか?」
「そりゃ私、ずっとここで働いているもの」
「……っ」
唇を噛んでうつむくのに、私は「あーあーあーあー……」と手を振る。
「別に怒ってるとかじゃないのよ。私、別に学校の先生じゃないし」
「じゃあどうしてそんな事、聞くんです……?」
「単純に知りたいから?」
「……っ」
「うーんとさ」
私はつくづく人が良すぎるような気がする。別にお人よしでもないし、子供に説教ができる程年食った大人でもないと思う。でも。
子供や学校の関係者だったら、必要以上に追い詰めちゃう気がするのよね。難しい話だとは思うけどさ。私は笑って、内出さんをじっと見た。
芙美さんみたいにきれいと言う訳でも、生徒会長さんみたいにはっきりした顔立ちでもないほわんほわんとした印象だけれど、地味なりに整った顔をしているなと今更ながら思った。
「人に勘違いされちゃうのって、多分損だと思うから。理由があって、それを先生や友達に言えないって言うんだったら、話を聞くよ? そういうのは保険医さんの仕事かもしれないけどさ」
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