蝉時雨はけたたましく、学校内の緊張感と随分と噛み合ってないように思える。開けっ放しの窓から通る風は生温く、時折どこかで鳴る風鈴の音だけがかろうじて涼を感じさせてくれるようだった。

 学校の先生方に見つかったらどうしようと、こそこそと足を忍ばせてできる限り足音を殺しながら歩く。瓜田君が生徒会長さんをテスト中に見たのだったら、二階の廊下をそのまま渡ったのだろうけれど。そもそもどういう事なのかしらん。職員トイレの前を通って一番奥の階段を使って一年生の階に辿り着いた私は、トイレを探してうろうろしていた所。

 ちらりと教室を窓から覗いてみたら、皆真剣に答案用紙と向き合っているみたいで、とてもじゃないけどカンニング騒動に発展するような気配なんてない。先生方も生徒の様子を見回っているみたいで、その人達に見つからないように私は足を自然と速めていた。

 しばらく歩いた先でようやくトイレを見つけたけれど、それを見て私は思わず「えっ」と声を上げていた。そこは【現在トイレ清掃中。他のトイレをご使用下さい】のプレートをつけて閉鎖され、そこをホースの水を流しつつ、モップで清掃している用務員さんがいたのだ。


「あれ、トイレ使えません?」


 私が思わずゴム手袋にエプロン、帽子の完全防備で掃除をしている用務員さんにそう声をかけた所、モップで丁寧にタイルを掃除していた用務員さんが振り返った。


「あら……購買部さんです? 職員トイレ使えませんでした?」


 人のよさそうなおばさんと言う印象で、前の女子高のパートさんみたいにせかせかしている雰囲気ではあるけれど、対応はよっぽど柔軟な感じだ。……私、よっぽどおばさん達が嫌だったんだなと今更ながらに思いつつ、私は軽く首を振る。


「いえ。プレートついてたんで、てっきり清掃中なのかなと」


 咄嗟にそう言って誤魔化して、思わず私は「ん?」と思った。

 もしかして生徒会長さん、トイレのプレートがついていたからわざわざ一年生のトイレに行ったんじゃないの? でもそうなったらあの女子生徒も手の込んだ事するのね。わざわざ二年生、三年生のトイレを封鎖されたのなら、そのまま三年生の階から一年生のトイレに行くって言うのは確かに自然だ。後は、どうして女子が職員室で見つからなかったかを証明すればいいんだ。

 私が自然と頭がくるくると回るのを感じていたら、用務員さんは「あらあら」と言いながらトイレを磨く道具を持ってトイレを磨く。


「あらぁ……つけた覚えはないんですけどねえ。ごめんなさいね、後で確認しておきますから」

「いえ、私の勘違いかも分かりませんから! ……ところで、トイレの清掃っててっきり生徒さんがやっているものだとばかり思ってましたが……」

「ああ、平日はもちろんトイレ掃除はしてないんですよ? ですけど掃除当番のない時は放置してたら、下手したら大掃除の時まで放置されてしまいますから、用務員で掃除して回ってるんです」

「あー……なるほど。時間とかは決まってるんです?」


 言っていて私は内心ヒヤヒヤしてしまう。どう考えても外部業者がそんな事聞くなんて不自然だ。私がたらたらと冷や汗をかいているけれど、用務員さんは私を不審人物扱いしないでくれた。


「そうですねえ……テスト期間中は生徒さんがテストしている間に終わらせないと、休み時間にトイレ使えないでしょう? トイレ掃除するのは私だけだから、一年生の階から順番ね。一年生、三年生、二年生、職員トイレの順番かしらん。大体移動の時間もあるし休み時間が間に入ったら掃除できないから、一年生と三年生のトイレが終わったら休み時間終わるのを待って、二年生と職員トイレで終了ね」

「つまり……プレートがL字の片方がつきっぱなしって言うのは」

「ありえないですねえ。誰か悪戯してたら別ですけど。前にもほら、職員トイレに生徒さんがゴミ入れるから、大騒ぎになっちゃって」


 用務員さんは随分と重要な情報を放り投げてくれた気がする。つまり、生徒会長がトイレが使えなかったのは、二年生か三年生のトイレのどちらかにプレートがしてあったからだ。どちらかは本当に用務員さんがトイレ掃除していたからなら、生徒会長さんが一年生の所までトイレに行くしかなくなるんだ。だとしたら……。

 あの子がどこにいてどこから帰ってきたのかも説明がつく気がする。

 用務員さんは「トイレは職員トイレの掃除はまだですよ?」と言ってくれるのに、私は慌てて「もう大丈夫です!」と返して帰る事にする。

 私は自然と気分が高揚しているけれど、同時にぷるぷると震えると言う矛盾を抱えてしまっていた。

 パズルの一つ一つがかっちりと合いそうなのは気持ちいいし、世の中どうして推理小説が人気なのかが分かった気がした。でも、同時にどう考えても首突っ込み過ぎと言う感は否めない。でも。

 あの女子生徒の子にも事情がある気がするから、あまり責めたくないなと思ってしまうのだ。でもまずは生徒会長さんが無実だと言う事を説明しないと駄目ね。私が購買部に戻って「留守にしてます」のプレートを下げた途端にチャイムが鳴った。

 テストも折り返し地点だ。


****


 今日のテストも終わり。確か一日四教科で、一週間だったかな? 選択授業によってはテストの免除もあるらしいけれど、大体はそんな感じと教えてくれたのは世間話とコイバナを一緒に持ってきてくれる芙美さんだったけれど。あの問題の女子生徒の子を探したいけれど、どうしたもんかなあ。私は人が引くのを待ちつつ考える。外部業者が外部業者らしく接触って言うのはどうしてこうも縛りが多いのか。そりゃ下手したら不審者だもの。仕方ないじゃない。分かってはいるけどもどかしい。

 私がうだうだ考えていると、朝の遅刻セーフかアウトかの時以来の大きな足音に、私は思わずキョトンと視線を送る。そして思わず目を点にしてしまった。

 メガネ越しでも分かる位に吊り上がった目に、顔が熱中症以外で赤いのは血が昇ってるせいか。不破君があからさまに機嫌悪い顔をして走っていたのだ。職員室の方まで走って、あの生真面目な子らしからぬ音を立ててドアを閉めるのに、私以外にも残っていた生徒達が見守っていた。

 ……これは、本当に急いで生徒会長さんの潔白を証明しないと駄目ね。どういう経路を辿っているのかは分からないけれど、少なくとももう生徒会長さんにカンニングの容疑はかかっているし、不破君もそれを知ってるっぽい。でもどうしよう。本当。私が眉を潜めていると、「すみません、パンありますか?」と言う声に私ははっとさせる。


「いらっしゃい。……あら、珍しいね」

「ちわっす」


 普段は芙美さんが買いに来るのに、珍しく来ていたのは矢島君だった。矢島君もまたちらちらと職員室の方を見ていると言う事は、彼もまた不破君がすごい剣幕で職員室に殴り込んだのは見ていたのだろう。


「今日は三田さんは一緒じゃないの?」

「な……あいつだって用事はありますよ」

「あらら。機嫌悪い?」

「お姉さん、性格悪いっす」

「あはは……ごめんごめん」


 何と言うか。矢島君が随分と拗ねてるなと思った。不破君があからさまに怒っているんだから、幼馴染みの芙美さんが心配しない方がおかしいし、他の男子心配してたら矢島君にしてみれば面白くないのは仕方がないかもしれないね。ザリザリとしていたのが一転、甘酸っぱいものが拝めてちょっとだけ元気が出たから、私はパンをぽんぽんと並べていた。相変わらずテスト期間中の売上はそこまでよろしくないものだから、パンの種類も平日より随分と少ない。


「何食べる? 今日はあんまり種類ないけどね」

「チョコデニッシュは?」

「夏場はあんまり溶けるもの置いてないよー。そこの冷凍庫だったらチョコアイス売れるけどね」

「あー……ならメロンパン2つで」

「はいはい」


 チョコデニッシュ……こりゃ芙美さんにあげる気だったって事は、拗ねてるだけで怒ってはいないんだなと、やっぱり微笑ましいものを見る目になってしまうので、矢島君はほんの少しだけ耳を赤くして俯いてしまっていた。そしてやっぱりちらちらと職員室を見ている。


「今日は随分と生徒会の子が怒ってたね。どうかしたの?」


 さらりと聞くと、矢島君は少しだけ驚いた顔をするのに私は肩を竦める。


「仕事上、買い物に来てくれたお客さんの顔や好みは大体把握してるのよ」

「あ、ああー……何か、揉めてるっす」

「あら……そうなんだ」

「カンニングがあったって。でも試験の採点自体はまだ終わってないのに。それで副会長随分怒ってるみたいで」

「生徒会長さんじゃないんだね、怒ってるのは」

「あの人は剛胆っす。疑われても「採点してみりゃ分かる」だけで何言われても相手にしませんから……あ」


 さらっと生徒会長がカンニング容疑抱えている事を言ってしまった矢島君は、気まずそうに肩を竦めてしまう。それに私は思わず笑った。


「別に私だって生徒会長さんがやったとかなんて思ってないよ」

「……お姉さん、どうしてそれ……」

「私にもいろいろ情報入ってくるからねえ。あ、そう言えば君は知ってる?」

「何がです?」


 私もちらちらと職員室に乗り込んでいって出てこない不破君を気にする。もし不破君にこの話を聞かれてしまったら、警戒心を余計にこじらせるかもしれない。だとしたら今言ってしまった方が吉だ。

 軽く息を吸うと、一気に吐き出す。


「授業中にトイレに出た人。女子。生徒会長さん以外でさ」

「……変な質問っすね?」

「そうかもしれないね。でもそれが生徒会長さんの無実を証明できるかもしれないから」

「……お姉さんまた首突っ込むんです?」

「あはははは……君らにもついつい口出ししちゃったしねえ。で、どうなの?」

「んーんー……いましたけど、一人」


 おっ。私は思わず身を乗り出す。矢島君が渋ったような声を出すのは、クラスメイトが疑われていると言うのが面白くないからみたいだし、だからと言ってこのまま見て見ぬふりもできないと言う葛藤のせいだろう。そしてそもそも、不破君がどうにかならない事には芙美さんがずっと不破君にかかりっきりだから面白くないんだろうな。

 私はできるだけやんわりとした声で続ける。


「別に私は、誰も悪くないと思うのよ。単に話をしたいだけだし、この話は学校の先生方にも言う気はないわよ?」

「……最近お姉さん名東先生とよくしゃべってません?」


 うろんげな顔をして言う矢島君に私は思わず「あはは」と笑う。そりゃ名東先生が生徒のカンニングの事で頭を悩ませてるのは知ってるけど、先生は生徒を諭す事と怒る事はできても、悪くないなんて言ってあげられないじゃない。


「言う気はないわよ」

「んー……ん。うちの内出って奴です。地味っつうか大人しいっつうか、そんな人です」

「カーディガン着てる?」

「あいつ過度の冷え性なんで、夏場も長袖着てないと駄目だし、冬もジャージ虫です」

「なるほど……」


 本当に特徴の見つからない子の唯一見つかった特徴は、季節外れの全身黒なカーディガン姿だ。私は冷凍庫を開けると、一本を半分に割って食べるタイプのアイスキャンディーを取り出し、小銭入れに私の財布からお金を入れておく。


「ありがとうね。これ。三田さんと食べておいで」

「なっ……こ、これ……!」

「流石にお節介が過ぎるかしらん?」


 矢島君が顔を真っ赤にさせて、アイスを受け取ったまま完全に固まってしまった。今時の高校生がここまで純情で大丈夫なのかしらん。他人事ながらついついそう思ってしまった。

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