会社に金庫の返却をしてから少し時間が経ち。

 駅まで歩いた先には、昼間は静かだけれど日が落ちてからが騒がしくなる場所がある。この辺りは飲み屋がそこそこ立ち並んでいて、うちの会社も年末年始の忘年会や新年会で利用する事も多い。興味はあっても女性だけだと入り辛いようなちょっと焦げ付いてて延々と炭と脂のにおいのする焼き鳥屋も、そんな飲み会でなければ入れない。だから私は名東先生と一緒に入れた時はわくわくそわそわしていた。私の反応に名東先生は苦笑している。


「意外ですね、若い女性でしたらイタリアンとかの方が入りやすいのかと思いましたが」

「いえ、イタリアンでしたら一人でも入れますけど、流石に焼き鳥屋は一人だと入り辛いですし」


 一人カラオケとか一人牛丼とかだったら、おひとり様でも案外人目を気にしないけれど、流石にカウンターの席でおじさんに囲まれて焼き鳥を食べてビールを飲むと言うのはしづらい。それにイタリアンの店だったらビールは飲みづらいし、ワインだったら一杯ですぐ酔いが回ってしまうから、あんまりお酒を飲んで羽目を外したりはしにくいと思うの。あ、一人焼肉だったら網が一つの席につき一つだから返ってそっちの方が入りやすいとは思ってるけど。

 店に入ってみると、5時から営業開始の割には人がぞろぞろと入っているのが見える。大学生は試験前の頃だからいないみたいだけれど、会社から帰って電車に乗る前に一杯と言う人が多いみたい。店の人に案内されてカウンターに座り、ビールと一緒にネギまやとりみを頼む。店員さんが冷えたビールをジョッキで持って来たのを見ながら、二人でガチャリとジョッキを合わせた。


「でも先生も意外ですよね。明日もテストですよね?」

「そんな明日に残る様な飲み方はしませんよ」

「まあ、そうですよねえ」


 多分名東先生も私と同じ程度のはお酒に強いんだろうな。私も二日酔いした事なんて今まで一度もないし。ずっと冷房とは無縁だった扇風機だけが頑張る店に座っていたのだ。ジョッキが汗かいているビールがまずい訳なんてなく、喉を鳴らして飲んでしまった。口元についた泡をぺろりと舌で舐め取っていた所で名東先生を見ると、名東先生は首のネクタイをほんの少しだけ緩めながらビールを仰いでいる所だった。喉仏が動く様はどことなく色っぽい。

 アルコールが程よく回った所で香ばしい匂いを放って焼き鳥が私達の所にも届く。ネギまに手を伸ばしつつ、私は名東先生を見た。


「でも先生、どうかされました?」

「あー……昼間の、見てましたか?」

「随分と怒ってたみたいでしたし」

「あー、生徒に見られてないといいんですけど」


 多分天然なのか頭がいいのか分からない三ケ島君以外は知らないはずです、なんて言うのはあまりフォローにはならないような気がして、私は「そうですね」とだけ言ってお茶を濁した。

 まあ、学校の先生って大変よね。どこに行っても学校の先生って言う肩書が付きまとうんだから。だからサラリーマンみたいに飲みに行っても見つかったらどうのこうのって言われてしまう。悪い事をしていなくっても、公務員は大変だわ。

 さて。私は香ばしいネギをかじってから、串を引き抜いた。


「私でよかったら話を聞きますよ?」

「ありがとうございます……この事は生徒には」

「言いませんよ、流石に」


 名東先生も相当渋っていたみたいだし、尚更学校の他の先生方には言い辛かったんだろうなと察しつつ、先生がちびちびととりみを咀嚼しているのを眺めていたら、ポツン、と先生が言う。


「……どうもカンニングがあったみたいで」

「え……?」

「職員トイレで用務員さんが見つけてしまったみたいで。カンニングペーパーを」

「それはまた」


 そんな古典的な、とは思うけれど、そもそもネット検索をかけられたら誰だってテストの平均点を上げられてしまうから、携帯やスマホなんてテスト期間中は回収されてしまうに決まっている。それだったら古典的なカンニングの方がよっぽど効果があるだろう……と思って違う違う、と私は思う。そもそもカンニングって。


「うちの学校のやり方も賛否両論ですからね。このままカンニングの事を公表してしまったら、保護者達から意見も来るでしょうから」


 先生は隣にいる私位にしか聞こえない程度のボリュームでそう言う。カウンター越しの厨房はどんどん入ってくるお客さんの注文や調理でてんやわんやになって、こちらの話は多分聞いている暇がない。体育祭と言い、テストと言い、やる気を出せばご褒美が。やる気にならないならそれなりと言うのは、今の「全員が一等賞」みたいな風習が残っているような世代には馴染みにくいものね。私は小首を傾げつつ名東先生を見る。


「その生徒さんとは話を?」

「まだしていませんね。ただ、既に犯人扱いされている生徒がいますが、自分だと考えられないので……」

「……あの、私がその話を聞いて大丈夫です?」

「今その話を校内でして、生徒に何かあったらと思うと何も言えませんしね……」


 そりゃそうか。生徒は子供だからと馬鹿にはできない。むしろ大人より子供の方がよっぽど感情には敏感だから、そんな疑いの目で見られている子に気が付いたら、最悪いじめ問題にも発展してしまう。カンニングだけだったら後で生徒を呼び出せばいいだろうけれど、いじめ問題にまで発展したら、その後はなかなか対処がしづらいものね……。

 私が黙って聞きつつ串をまたもう一本手にした所で、名東先生もビールを仰いだ。今度はさっきみたいに勢いよくなく、ちびりちびりとした印象。


「……女子生徒に容疑がかかってるんですよ」

「え……」


 私はとっさに頭に浮かんだのは、あの購買部の前で見かけた名前も知らない女子生徒の子だった。確かにあの子がわざわざ行った方角は職員室のトイレだったけれど、そんなわざわざ見つかるような場所にカンニングペーパーなんて捨てる? 自分から犯人だって言っているようなものじゃない。それとも……。

 これは一番考えたくない事なんだけれど。

 誰かをハメようとしているんじゃないの……?

 私は自分の気持ちを誤魔化すように手にした串にかじりつき、トリミのほんのりとした焦げ付きを舌で舐めて楽しんだ。名東先生は緩く笑う。


「ええ、疑うって言うのは一番しちゃいけない事なんですが……だとしたらカンニングペーパーの説明が付かないんですよ。まさか警察を呼ぶなんて事もできませんし」

「そりゃそうですよね。別に盗難騒ぎがあった訳でもないんですから」

「女子生徒の事は、心配ですけれどね」

「そうですね……名前は聞かないでおきますね。生徒さんの名前を全員は知っている訳じゃありませんけど」

「お願いします。それと……」

「はい?」

「ありがとうございます。飲みに行くのに付き合ってくれて。流石に今から飲みに行くって言う話をすぐにはできませんから。皆家庭がありますしね」

「あー、そうですねえ」


 本当に、教師って仕事は大変だ。私なんて人の話を聞くだけしかできないけれど、せめて名東先生がそれで楽になってくれたらいいのに。

 それと。緊急職員会議。これ、生徒の子達に何も降りかからなかったらいいんだけれど。


「すみません、酒を飲みながらする話でもありませんでしたね」

「いえいえ。学校で言いにくい話はいつでも聞きますから。私もこういう店、一人でだったら入れませんしね」

「あれ、山城さんお付き合いは」

「あはははは……そんないい人なんていませんよ」


 思わず口が滑ったのに私は内心「しまった」と思いつつ、それを誤魔化すように立てかけているメニューを広げた。


「ビールと串、追加注文しますか? あんまり明日に残らない程度に、ですけど」


****


 私は自転車を押しながら夜風に髪をなぶられていた。夏の夜風は湿気を含んで重いけれど、昼間よりは心地よい温度まで冷えてくれて酔って火照った身体にはちょうどいい。

 先生とは店で別れた。車じゃないから電車で帰られるそうだ。友達が家庭があるって事は、名東先生にはお付き合いしている人も、遅く帰ると困る相手もいないんだなと知れて、それにはちょっとだけ安心する。

 私、本当にちょろい奴だな。お酒飲んで気分がいいからなんて言うのは、いくら何でもアレ過ぎる。

 それにしても。私は酔った勢いで鼻歌を歌いたくなるのを堪えつつ、さっきまで焼き鳥屋で話をしていた事を頭の中で繰り返しリピートさせる。安心した。それが鼻歌を歌いたくなる理由だ。少なくとも名東先生は生徒を信じているからあれだけ怒っていたんだ。生徒を疑われて怒らない先生って言うのはやっぱり素敵だ。でも……女子生徒って言うのはあの子でいいのかしらん。

 私も名前を知っている子達は芙美さん以外にも何人かいるけれど、その子達は私と何度かしゃべっているから、私に見られているのにカンニングをするとは考えられないし。

 そもそも勘違いだった場合は、試験の答案からはカンニングの証拠も出てこないはず。

 なら、あんまり気にする事はないのかな。

 でも……。その場合出て来たカンニングペーパーはどう処理するべきかって話だ。この話は生徒の子にはできないし……。あれ、一人話しても大丈夫な子はいるか。学年が違うし。多分明日もまた来るだろうから、当たり障りのない事を言えば完全に巻き込まなくっても大丈夫だと思うし。

 うう……私はビールで酔いが回り、くるくるふわふわとする頭をかろうじて回転させつつ、三ケ島君が黒い悪魔を抱えながら首を傾げつつ言っていた事が頭に浮かんでいた。


『でもお姉さん、また首突っ込むの?』


 出過ぎた真似は今の所そこまでしてないとは思う。でも、完全に学校の問題の場合はもう外部業者がどこまで口出しすればいいのか全然分からない。三ケ島君が私にそう言ったのは、お節介し過ぎって言う意味の警告だったのか、単純に興味本位で聞いたのかまでは分からないけれど。でも。

 多分、首を突っ込んでしまうんだと思います。はい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る